STORIA 2
"少し休憩するか"、独り心で呟き僕は地に落ちた作品を拾い上げ土埃を払った。
中途段階ながらも描いた物に満足を抱き筆を降ろす。
耳際が優しい空気の息吹を感じ取り、急に物音が明確に伝わる様に届き始めていた。
風の音、遠く建物の影に埋もれる人と成る者の声。
閑けさの中にそっと耳を遊ばせる。
紛れる様に砂利道を歩く誰かの足音……。
その音は次第に僕の元へ。
心行くまで浸り切っていた創造の至福の時から現実へと僕の身は引き戻されていく。
"誰か近付いて来る、珍しいな。ここは余り人気のない所で有名な場所でもあるのに……"
そう想い、僕は再び筆を手に僅かに狼狽える視線で華馨る狭隘の奥に影の行方を探していた。
僕の心が絵筆を持つ指先を伝って用紙へと移る頃、近付く足音がパネルと僕の背に藍色の影を落とす。
この背後に佇むもの、音をなくした気配にすぐに気が付いた。
誰……?
僕の膝の辺りで折り返す斜影に地に掌を着き静かに肢体を後屈させる。
目を正面に射る陽が眩しい。
傍らの樹の奥に線の細く黒い影が映り、光に慣れた目がその姿を男性だと捉えていた。
輪郭は明瞭で樹々の間から彼の口、肩から下と身に纏った黒い衣服だけが僕の視界へと届いて来る。
ただ葉で覆い隠された目元は正体を潜めたまま露になる事はなかった。
「綺麗な絵を描くね」
幾重にも広がる葉身の隙間から覗く口角を動かし彼は言った。
「あなたは……」
僕はパネルから心を外したまま不思議なくらい、彼に見入っていた。
彼の口元が真っ直ぐという程に僕の絵画を見つめている。
その存在は再び僕の躰に訪れた朝陽の光と引き替えに去ってしまった。
"綺麗な絵を描くね"、その言葉に時が僅かに立ち止まる。
あの人は誰だろう。
沿海に立ち籠めた馨りなのか、彼のものなのか、そっと風に誘われ木の香りが辺りを包む様に残されていた。
僕の学校は三日間の連休に入っていた。
そして初日の今日はバイトもなく一日フリーだ。
そんな日は画材一式を片手にいつもここへやって来る。
折角の休み、自宅の居室で体を落ち着かせるというのもありだと思うけれど。
僕はあの家が嫌いだった。
あんな狭い建物に押し込められている位なら大好きな絵筆を握って潰す時間の方がずっといい。
僕は今朝、姿を現した陽に長い間飽きもせずに付き合っていた。
僕に最初に声を掛けて来たあの人の後に一体どれ程の人影が行き交っただろう。
描き始めているとどれだけ時間があっても足りない位なのに、辺りは忙しく流れて行く。
だけど加速する時に気付かない位の方が都合が良かった。
僕は夜を待っていた。
夕食の支度の香りに、街灯が少しずつ明かりを放ち始める。
僕はその灯が付く瞬間を目で追いながら宵の口に深まりゆく色を体で感じ始めていた。
待ち遠しい夜が近付いて来る。
時刻が午後八時を指した。
僕は一気に画材を片付け海岸沿いから東へと戻る。
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