プレゼンス
孔雀 凌
第一章/憂い
STORIA 1
未だ薄暗い明け方の空に寝床から閑かに眼を覚ます。
画材を抱えた腕で室外を目指し、僕は自宅の廊下に音もなく歩を運んだ。
肌を刺す様な冷たい空気が足骨まで染み入って来る。
仄かに明かりの灯されたリビング奥の洋室にいつもの母の姿を見ると、彼女は僕の影にも気付かずに衣服を夢中で繕っていた。
洋室には不釣り合いな馨り。
白檀香がリビングを伝って僕の処まで届く。
彼女の指先には細い一本の針、心を乱さずただ黙って膝を折り座っている。
絵になる光景だった。
これだけの美しい容姿を持つこの人が何かに手を取られ懸命でいることは。
心一つ動かさなければ、あなたは僕の中で描く憧れで最高の母親だと自信を持って言えるのに。
僕はあなたが大嫌いだった。
自宅を離れると僕は愁いを余所に心を入れ替える。
目覚めて間もない光が草木を滑る朝露に微かに滲む。
早朝のこんな僅かな間が好きだ。
待ち望んでいた白駒に、地に降りていた闇の世界を一変させていく光がもたらす幻の現象にはいつも惹かれる何かを想う。
自宅そばの秋田空港から更に西へ、鉄道等を経由し海岸沿いを目指し進む。
潮の香りを誘い込む風が肌寒さをより酷な物へと極めていく。
目近く迫る水平線に僕は持参していたイーゼルを組み起こすとパネルを載せた。
どうやらこの心を揺るがす対象物に出逢えたみたいだ。
何処かぼんやりと微睡む瞳が遥か彼方に冷たく透き通った気体が海面を揺らし起こす姿を見る。
肌に降り注ぐ明け始めの陽射しを自分の物にでもするかの様に、僕は最初の光にそっと手を翳してみた。
冬ながらも今日もまた一夜を明かし、蒼穹へと返り来る広大な姿を鮮やかな彩光として身近な物に感じていたんだ。
この指先は迷う事なく、時を移さずに筆を染め始める。
朝陽を受ける背は微かに暖かく吐く息だけが白く用紙を取り巻いていた。
僕は色を生み出す、ゆっくりと。
風の囁く音を揺さつく呼吸から感じている。
秘める叫びを伝えたいと、描く目的から片時も離れずに黙視しながら。
僕の中で僕の色に形が変わるまで。
この心は決して純粋ではない。
だけど誰にも負けない想いで眼に映る物を焼き付けていた。
軈て自然の吐息を土台に僕の心に新しい世界が生まれ来る。
それは火の塊さえも唸らせる鮮やかな原色だったり、消えてしまいそうなくらい淡く儚い色だったり、時にはセピアだったり。
幾つかの色を折り混ぜ僕は用紙を染めていく。
何度でも描く対象物と向き合い納得のいくまで。
未だ乾き切らず、水分を微かに含む用紙が風に揺らぎパネルの背を打つ煽ちと共に僕の呼吸に拍を調えながら閑かに重なり合っていた。
刻を打つ針の音も忘れ掛けた頃、玉響が呼び起こす、ならいが悪戯にパネルに添えられた用紙を攫う。
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