episode 2 クレア

 空気を斬る音を立てて飛んできたそれを、かわせば済むと思っていたら甘かった。

 紙一重で私の耳のそばをかすめ、髪を数本切っていったその円盤状の刃物は、後ろを数メートル通過した後ブゥンとうなりを上げて、円弧を描いて戻ってきたのだ。

「ウソッ」

 背中にも目があるような私だからよかった。もし気付かなければ、今頃敵の武器は私の背中に突き刺さっていたに違いない。すんでのところで、身をよじって第二撃を避けた。



「ほう、私のリーパー(切り裂き刃)に狙われて助かるとは」

 それが、私を狙う何者かの声を聞いた最初だった。

「クレア、私の勘に間違いなければ、コイツ昨日私の跡をつけてきた黒いやつだ」

「ええっ」

 アスファルトの道路に倒れ込むのを避けようと、体を一回転させて何とか両足でしゃがみ込むことに成功した。次の交戦に備えて両足の筋肉をバネにいつでも飛び出せるようにしながらも、私は絢音が言ったその一言に戸惑いを隠せなかった。



 さっきまでは、実にのどかな時間だったのだ。

 また絢音の女子バレー部の部活に付き合って、体育館でいい汗を流してきたところだ。その帰り道に得体のしれない何者かの襲撃を受けた。

 私も絢音も運動神経だけは互角によかったため、並んで歩く私たちめがけて何の前触れもなく飛んできた物体を、お互いが反対側に跳ぶことで避けることができた。正体不明の敵のさっきの言葉によると、初めて見る相手の武器は「リーパー」とか言うらしい。それはブーメランのような性質を持っていて、一度よけてもまた後ろで回って相手の背中を攻撃できるようだ。攻撃後は持ち主の手に戻り、何度でも使えるもののようだった。



「ふんっ」

 また、敵の手からリーパーが放たれた。

 声からするに、敵は男性だと分かる。一体どうやったらそんなことができるのか分からないが、夕方とはいえまだ周囲は明るいのに、敵の体は黒い霧状の気体をまるで衣服のように纏っていて、顔も体もぼうっとしか見えない。まさに文字通りの「影の暗殺者」だった。

 ただ相手のシルエットから分かるのは、相手の肉体は格闘技のプロのようにムダな肉がなく、鋼のように鍛えられているということ。

 前から、後ろからの二度の攻撃を倒れ込むようにして何とかよけたが、次に襲われたら同じことができるかどうか分からない。体がパターンを熟知している普段のスポーツとは違い、まったく未知の動きをするものに襲われているのだから、体力の消耗も早い。注意力も、そう長くは続かない。



「……なぜ、力を使わぬ」

 リーパーを手にした影男(そう呼ぶことにした)は、ものすごく低い、冷たい声でそう言った。相手は息ひとつ乱していない。それに引き換え、こちらはただ必死に避けるだけ。

 おまけに、この未知の敵に対して女性の筋力で殴ったり蹴ったりが通用するとは思えない。相手が格闘のプロなら、学校のクラブで武道をかじった程度の私に何ができるだろうか?

「力って、何よ。何のことか逆に教えてほしいくらいだわ」

 私は、このまま負けるかもしれない。つまり、死ぬかもしれない。それは同時に、リリスにも田中ママやパパ、クラスのみんなや中畑先生にももう会えない、ということを意味する。

 事実としてはとんでもないことなんだけど、それを恐れたり絶望したりするには、ちと時間がなさすぎた。恐れるより先に疑問のほうが湧いてくるのだから、相手がたとえ命を奪ってくる相手であっても、質門せずにはいられなかった。



「……いいだろう。これだけ追い詰めて力を使わないということは、お前たちは別に力を隠して誤魔化そうとしているわけではないようだ。そんなやつらを倒しても、なんの名誉にもならん。お前らが覚醒した頃、また首を取りに来てやる」

 驚いたことに、影男はそこで帰ろうとした。無力な私たちには助かる絶好のチャンスなはずなのに。相手を放っておけば助かるのに。私はどうしても確認したくて、余計な一言を言ってしまった。

「何カッコつけてるのよ! この前、犬に襲わせて私を殺そうとしたの、どうせアンタなんでしょ? 卑怯な手を使うクセに、弱いヤツに勝ってもうれしくないなんて、言ってることが矛盾してない?」

「……ちょっと待て。今何と言った?」

 背を向けて帰りかけた影男の背中がビクッと震え、こちらに向き直った。

「二日前にも襲われたけど、あれアンタの仕業でしょ? って」

「バカな! それは私ではないぞ……」

 明らかに、影男は動揺していた。コイツがもしウソを言ってないとしたら、犬の一件はまた別の敵がやったということだ。最悪な事実だが、私らを狙っている者はこの影男だけではなく、複数いるということだ。



 優位な立場にいるのは明らかに相手なのだが、むこうが頭を抱えて悩み、こちらがそれを問い詰めるという実に奇妙な状況になっていた。

「こないだは双子の妹と一緒にいるところを、野犬の集団に襲われた。その間中、首謀者は姿をまったく現さなかった。で、今日は私と、そこにいる私の友達があなたに襲われた。

 一体、あなた達の目的は何? もし、友達は関係なくてただ巻き添えを食っただけなら、今後絶対手出しをしないで。お願いだから」

「と、友達だと? ということは、この者はお前の妹ではないのか?」

 絢音を指差してそう言った影男の顔は、おぼろげにしか見えないが怒りにワナワナ震えていた。事情は良く分からないが、どうも相手が聞いてきた話と現実が色々食い違っているらしい。

「いやはや、これはなんということだ……」

 その言葉を最後に、影男は恐るべき跳躍力で民家の屋根を飛び越え、一瞬でどこかに見えなくなった。



 影男がその場から消えて、私たちは緊張が一気に解けたせいか、脱力してその場にヘナヘナと座り崩れた。

 十分ほどして、やっと立ち上がることができるようになったけれど、戦闘のせいで土だらけになった制服の汚れを払う気力も余裕もなかった。

 絢音と私は肩を並べてまた歩きだしたけど、絢音の雰囲気が何かおかしかった。あんな体験をしたのだから当たり前と言えばそうだが、何だかそのせいだけではない気がした。

 当たってほしくはないが、まるでもう私を友達だと思っていないような……勘違いでないならそういう「よそよそしさ」だ。

 リリスのことでイヤというほど体験済みなので、多分私の読みは当たっている。



「クレア。本当にもう、何も隠していることはない? さっきあなたとリリスが襲われたって言ってたけど、そんな話は初めて聞いた。なんで言ってくれなかったの?」

 ヨロヨロと立ち上がった絢音は、静かにそう問いかけてきた。

 一瞬で色々なことが起こりすぎて頭がパンク状態だった私は、どう答えるのが一番良いのかなど熟考するヒマもないまま、こう言った。

「……昨日リリスと二人で下校した時に、実は野犬の群れに襲われたんだ。どう考えても普通あり得ない異常な状況だったから、裏で糸を引いている何かがいるんじゃないか、とは思ってた。そのことは、絢音にはまだ言ってなかったね……」

 ただこの時、私が不思議な力で反撃して犬たちをやっつけたこと、「メギド・フレイム」という言葉のこと、そして私の目が赤色に変わったことなどは反射的に伏せてしまった。



 実は、さっき影男に襲われるまで、私は下校しながら絢音からの相談を受けていたのだ。彼女は昨日私と分かれた後、黒い影に跡をつけられていたようだ、と。

 絢音は、現実離れした体験だから「信じてもらえなくても仕方がないけど」と恐縮していたが、こちらもそれに劣らない、輪をかけて「あり得ない」体験をしていたので、まったく不思議だとは思わなかった。

 絢音は、人に言えないような体験でもすぐに打ち明け、相談してくれた。その点では、私は絢音に自分に起きたことを正直に言えなかったのだから、彼女と同レベルでは「相手を信頼できなかった」ということになるのだろうか。

 私は、絢音の信頼に答えることができなかったのか。裏切ったのか……



「さようなら」

 絢音はそう言って突然、私を置いてスタスタ歩き始めた。

 私はドキッとした。

 下校中なんだから言葉としてはおかしくはないが、私にはなぜかそれが「もう会わない」というニュアンスを込めた、冷たい「さようなら」のように聞こえたから。

 次の彼女の一言で、それは決定的となった。

「こんな大事なことで、隠し事はしないでほしかった。残念。すごく、残念——」

 呼び止めたものかどうか決めあぐねていると、ピタッと立ち止まった絢音は、背中を見せたままこちらを振り向かずに、こう言った。

「長い付き合いだから、分かるのよ。私に隠しごとなんかしてもムダよ」



 この瞬間、私は長年の友からの信頼が崩れ去ったと知った。

「……もう、しばらく私に話しかけないで」

 その後、幼馴染み・あるいはクラスメイトという今までの関係性において絢音と会うことは二度となかった。

 次に絢音と顔を合わせた時には、私の立場も絢音の立場も、今からは想像もできないものに変化していたのだった。




  ~episode 3へ続く~

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