前編第二章『前兆』

episode 1 クレア

 エヘン、と咳ばらいをして、私はドアをノックした。

「先生、朝霧ですが」

「……入りなさい」

 奥でそう声がしたので、私は「失礼します」と言って中へ入った。

 放課後6時の校舎内は、人気ひとけが少なくてひっそりしている。今残っているのは、熱心な部活の部員と職員室で仕事している先生くらいなものだ。

 理科室や調理実習室など、そういう特別な科目のための設備のある『別棟』は、もう誰も用事がないので下手なお化け屋敷よりも薄気味が悪い。

 私が用事があって来たのは、理科室の横にある「準備室」で、そこには理科の先生が授業の準備のためにいることが多い。そして私が用のある先生は、職員室にいるよりもここにいることの方が断然多い。

 なぜ? って聞いたら、「他の先生方と群れるのはイヤ」なんだって。独特の人間関係が耐えられないそうだ。これは他の先生にはゼッタイ言うなよ、ってクギを刺されている。

 まだ、理科室にある人体模型やガイコツのほうが付き合うのにはいいそうだ。これはちょっと分からない感覚だけど、でもこの変わり者の中畑先生を私は好きだ。



「先生、読み終わりましたよ」

 私の声に、デスクで書物に没頭していた頭をこっちに向けた先生は、授業中の仏頂面からは想像もできないほどにっこりした。

「おお、君か」

 私が大事に抱えてきた本を差し出すと、先生はまるで我が子でも戻ってきたかのような目で本を受け取った。

 中畑武志なかはたたけし先生は、私のクラスの物理の授業を受け持っている。担任はもっておらず、先生に言わせるとそんなの「とんでもない」ことなんだそうだ。

 もともと先生が目指していたのは、大学の物理学の教授である。小中高の先生を選ばなかった理由は驚くほど単純で、「子どもは面倒くさい」というもの。大学生なら、まだ多少はガキでも距離感を保ったままクールに付き合えるのがいい、と考えたそうだ。

 教師物の学園ドラマのようなものに感銘して教師になる者も多いが、中畑先生いわく「そんな暑苦しいものはゴメンこうむる」ということらしい。あ、「いわく」ってのは今日国語の漢文で習ったからさっそく使ってみた。

 だったら、そもそもなぜ先生になんかなるの? って思うが、そこまで立ち入ったことを目上の人に聞く勇気はない。



 勉強そのものは超優秀だった中畑先生の望みはかない、まずは助教授から始めてゆくゆくは……という話だったらしいが、そこには先生が想像してなかった「誤算」があった。

 大人の世界も、子どもの面倒さに劣らず我慢ならないものだった——

 学内の派閥争いのようなものに嫌気がさし、純粋な研究以外の雑務や人付き合い・目上の教授への忖度そんたくに耐えられなくなった先生は、正教授への道を諦めてこの高校へやってきた。

 私が「子どもは面倒くさかったんじゃないの?」と聞くと、返事は「やっぱり大人よりはましだと気付いた」んだって。それを聞いた時私は、笑っていいのか神妙な顔をしていたらいいのか、リアクションに迷ったなぁ。



 高校生の私が、大人である先生のことをどうこう評価するのはよくないかもしれないが、先生は「少年が大人になった」ような人なんだと思う。天才的な頭脳をもち、学術面では本当に優秀でも、ただ人付き合いが苦手というその一点で、実力を本当に発揮できる場所を得られていない。世の中って、ムツカシイ。

 でも私は、そんな先生がなぜか好きだ。先生も、他の生徒からは人気がないが(先生自身も望むところ、という感じ)、なぜか私とだけはこうして「本の貸し借り」をするほどに個人的に仲が良い。

 先生いわく(この言い方、クセになりそう)「朝霧君は人間とは思えない」のだそうだ。最初それを聞いた時は噴き出したが、先生と付き合いが長くなると意味が分かった。

 先生は理系のくせに児童文学が三度のメシより好きで(これも最近知った日本語の言いまわし)、特に剣と魔法のファンタジー小説が大好き。

 そういうのってエルフとかドワーフとか、人間じゃない種族も出てくるし、フェアリー(妖精)とかドラゴンとか、空想上の生き物も沢山出て来るんだけど……先生が冗談めかして言うには、私はどうもそういう「ニオイ」がするらしい。

 コラ。どう考えてもわたしゃフツーの人間だぞ?

 誰からもそんなこと言われたことがないし、先生があまりにもその世界に入り込み過ぎているので、仲の良くなった私がそういう風に見えるだけかも?

 でも後に、先生のその観察眼が誰よりも鋭かったことが明らかになるのだが、この時の私には知る由もなかった。



「どうだ、『ナルニア国物語』、ハマったか?」

 先生はうれしそうに聞いてくる。先生は物理よりも実は文学を愛していらっしゃるんではないですか? と思わず言いたくなる。

「ええ、これどんどん先が読みたくなりますね」

「そうだろう、そうだろう」

 ナルニア国物語とは、7つの作品からなる壮大な児童向け小説のこと。存在はなんとなく知っていたが、子ども時代に読む機会がなかった……というのは言い訳で、読む気がなかった。

 でも、先生はそんな私の「食わず嫌い」を直してくれ、今では先生の薦めてくる本を読むのが楽しみになった。リリスからは、「それくらい熱心に勉強もやれば?」と皮肉を言われたが、それができるくらいなら苦労はないわけで。

「朝霧くんは、『銀のいす』まで読んだわけだから、次は『馬と少年』だね。このシリーズは順番に読むと物語の時系列が前後するけど、混乱してない?」

「平気平気。私の読解力をバカにしないでください!」

 こないだの現代文の中間テストの点数だけは、聞かれませんように。



 理科準備室で、先生と談笑したのは20分くらいだろうか。

 先生の、ナルニア国物語に関するウンチクを沢山聞いて終わった。私も興味あることだったので、別段苦痛ではなかった。

 著者のC・S・ルイスはキリスト教伝道者で、この物語もそもそもは「キリスト教伝道のため」というコンセプトがあったということ。これと並んで有名な『指輪物語』の作者J・R・R・トールキンには酷評されたことなど、「へぇ~」と思う話も聞けた。

 そうだ。次読むなら「指輪物語」だ。先生には見栄張ったけど、登場人物多すぎて話も長いと、把握しきる自信がない。映画の『ロードオブザリング』でも見て、予習しておこうか……



 その帰り道。

 中畑先生から借りたナルニア国物語の続きの巻にワクワクする気持ちの一方で、「私が人間じゃない」という先生の冗談が思い出され、冗談のはずなのにいつまでも心に残り、くすぶり続けていた。




 ~episode 2へ続く~

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