第26話



 精神的に追い詰められている姫華は、どうなったのか。

 彼女は尊と一緒に登下校しているとはいえ、その顔は愁いを帯びたままだった。


「今日の体育は、大変だね。僕は走るのは嫌いではないけど、一人で走っている方が好きなんだ。姫華さんはどう? 走るのは好き?」


「え? えっと。ご、ごめん。ボーっとしていて聞いてなかった。ごめん。もう一回話してくれる?」


「今日の体育のマラソン、大変だねっていう話をしていたんだけど。大丈夫? 最近、顔色悪いよ。誰かに何かをされたとか……それなら、僕が力になるけど」


 話しかけていた尊も、話をきちんと聞いていない様子に、さすがに変だと思い始める。

 そして、様子のおかしい彼女の顔を覗き込んだ。


「きっと僕と一緒にいるから、何か嫌なことをされたんだよね。それなら君の代わりに、僕がやった人達に話をするから。教えてくれないかな? 誰に何をされたのか」


 その真剣な眼差しは、彼女ことを心の底から心配しているようだった。

 だから見つめられた姫華は、じっと目を見つめてそっと囁いた。


「た、助けて」


 たったそれだけを言うのに、どれほどの労力を使ったのか。

 囁いた途端、足に力が入らなくなって彼女はしゃがみ込んでしまった。


「大丈夫? 立てる? 救急車を呼ぼうか」


「……大丈夫。ちょっと休めば、良くなると思うから。学校に遅れちゃうから、先に行っていても良いよ」


「そんなこと、出来るわけないだろ。先生には、僕が後から言っておくから。しばらく落ち着くまで、ここに一緒にいるよ」


 そのまま動けない彼女の背中をさすりながら、彼は隣に座る。

 そして手の動きは止めずに、優しく話しかけた。


「気分が悪かったのなら、今日は学校を休んだ方がよかったんじゃないかな。大丈夫? 吐きたかったら、遠慮なく言って。水は飲む? 近くの自動販売機で買ってくるけど」


「だ、大丈夫だから。このまま背中をさすってくれるだけで、良くなってくると思う」


 少し顔色は悪かったが、救急車を呼ぶレベルでは無かったみたいだ。

 尊に心配はかけたくないと、彼女ははかなげな微笑みを見せた。


 そして彼の手を、ゆっくりと握った。


「ごめんなさい。迷惑かけて、ごめんなさい。面倒だと思っているよね。本音を言って。こんなウザイ私、嫌でしょ」


 気持ち悪さを感じて、口を抑える姫華。

 尊がいなくなるのを怖いと思いながらも、それでも自分からその言葉を言ってしまった。


 これで本当に彼がいなくなったら、彼女の精神はぐちゃぐちゃに壊れてしまうだろう。

 死刑宣告を待って、彼女は小さく震えた。

 涙もにじみ、瞳から零れ落ちそうになった。


「そんなこと、思っていないよ。僕は好きで、姫華さんと一緒にいるんだから。だから、そんなに自分に卑屈にならないで」


 だからこそ、尊の言葉は彼女にとって救いに聞こえた。

 彼女は涙をぬぐって、尊の顔を見る。


「本当に? 本当に、私のことを嫌に思っていない? これからも一緒にいても良いの。私、そんなに優しくされたら、尊君にもっと頼っちゃうよ」


「良いよ。どんどん頼って。僕は全く、嫌じゃないから」


 抱きしめるまではいかなかったが、二人はまるで恋人のように見つめ合っていた。

 そして姫華は、ふんわりと微笑んだ。


「ありがとう、尊君。本当にありがとう。私、私ね。尊君がそう言ってくれるなら、頼ろうと思う。き、聞いてくれる?」


 微笑んだ彼女は握った手を、自分の頬にあてた。

 そのまま頬ずりをして目を閉じる。


「私、とある人にいじめられていてね。それは、尊君のよく知っている人なの。尊君は、すぐに信じてくれないかもしれない。もしかしたら私が、嘘を言っていると思うのかも。でも本当なんだよ。だから私の言っていること、信じて欲しい」


「いいよ。信じるから、言って。怖がらないで」


 姫華は、閉じていた目を開けた。

 そしてことさらゆっくりと、その名前を口に出す。


「……尊君の妹さん。美朝ちゃんが、私に対して酷いことをするの」


「嘘……み、美朝が……」


 名前を耳にした尊は、驚きから固まった。

 撫でていた手と一緒に、頬に当てていた手からも力が抜けた。


 しかし彼女がしっかりと握っているから、それは下には落ちなかった。


「やっぱり信じられないよね。私も、最初は信じられなかったから。でも絶対にそうなの。ずっとずっと、隠れてしてくるの。我慢しようと思っていたけど、もう耐えきれなくて」


 姫華はまた涙を流して、懸命に説明をし始める。

 そしてそれを聞いた尊は、固まっていた顔を徐々に引き締めた。


「しょ、証拠だってあるの。……これ見て。この前、上から鉢植えが落ちてきた時に、一緒にふって来たの。このハンカチ、前に美朝ちゃんが使っているのを、私見ちゃったから。それに、美朝ちゃんが逃げていく後ろ姿も」


「そうなんだ。まさか美朝が……」


「み、尊君。怖い顔している。怒らないで。わわわ私の見間違いだったのかもしれない」


「……いや、信じるよ」


 話を聞く顔が尊らしくなくて、姫華は怯えてしまう。

 そして自分の考えは間違っていたのではないかと、引いた姿勢を見せる。


 しかし彼女が考えを変える前に、尊は怖い顔をして握っていた手の力を込めた。


「尊君……?」


 ただならぬ様子に、彼女はその手を外そうとしたけど力が強くて無理だった。

 彼女が話しかけても、尊は返事をしない。

 その無言が怖くて、彼女は彼に対して怯え始めた。


「尊君ってば……どうしたの?」


 それでも声を出そうとはせず、尊は怖い顔をしていた。

 そして、どこか遠くを睨んでいる。


「へ、返事をして。尊君。こ、怖いよ」


 また涙が彼女の目からにじんできて、ついには口をつぐんだ。

 それに気が付かず、尊はボソリと不穏な言葉を出す。


「それは、許せないな。邪魔をする気なら、それなりの対応をしなくちゃね」


 小さな音だったのに、その場にとてもよく響いた。

 聞こえてしまった姫華は、自分に向けられたのではないと分かっていても肩を揺らす。


「姫華ちゃん、勇気をもって教えてくれてありがとう。心配しないで。僕が何とかするから」


 尊は彼女の両手を握り、ゆったりと微笑んだ。

 その目は全く笑っていなくて、彼女の恐怖心をさらにあおった。


 しかし、自分を守ってくれるものだと感じていたので、無理やり笑顔を作る。


「ありがとう、尊君。あなたを信じて待っているね」


「うん、待っていて」


 このやり取りをしている間に、姫華の気分も落ち着いてきた。

 二人はようやく立ち上がり、裾についた汚れを叩いてはらった。


「あ、あのさ。尊君。信じて待っているけど、何をするつもりなのかな? そ、そんなに酷いことをするの……?」


「ん?」


 話は終わったので学校に行こうとしていたのだが、それだけは尋ねておこうと姫華は恐る恐る聞く。

 そのまま歩こうとしていた尊は、振り返り何てことないように言った。


「僕の大事なものに害をなそうとする者はね、絶対に許さないんだ。どんな手段を使ってもね、存在自体を消し去ってもいいぐらい。この世から消しても、きっと誰も気づかないだろうからね。安心してよ。塵すらも残さないようにする」


「そ、そっか。ほ、ほどほどにね」


 彼女は尊のターゲットになった美朝に対して、自分で言っておきながらも同情の気持ちを抱いた。

 少し怯えながらも、内心で上手くいったとほっと息を吐く。


 先ほどまでの、姫華の話は嘘だった。

 確かに不幸なことは続いているが、それは事故が重なっているだけだし犯人も見ていない、ふってきたハンカチも彼女が事前に調べて用意したものだった。


 どうしてこんな嘘を言おうと思ったのか、答えは一つ。

 自分が不幸になっているから、気に食わない美朝も尊に嫌われてしまえという、自己中心的な理由だった。


 それで一芝居を打ったわけなのだが、彼女の計画通りに上手くいった。

 尊は、彼女の不調を美朝にいじめられたのだと誤解してくれた。


 いつもの穏やかな雰囲気はどこにも無くて、下手に刺激すれば殺さてしまうのではないかというぐらい怖かった。

 その雰囲気に気圧されて、姫華は嘘をついたことに今更ながら後悔してしまいそうになる。


 しかしここまでやってしまったのだから、もう後に引くことは絶対に出来なかった。

 彼にバレないように、彼女はめまぐるしく頭を回転させて、今後の行動を確認していく。


「ほどほどに、ね。僕の大事なものを傷つけたのだから、それは約束できないな。ごめんね」


「そ、そっかあ」


 今度こそ学校に行くために、二人は歩きだす。

 姫華は深呼吸をして、前を見据えた。

 ここしばらく彼女に付きまとっていた嫌な感じが、尊に相談したおかげで消えた気がしていた。

 服越しに彼がくれたチャームを握りしめれば、更に呼吸が楽になった。


 そして、学校へと向かった二人は知らない。

 彼等の少し後ろにある電柱に隠れて、美朝が様子をうかがっていたのを。


「これは……絶体絶命のピンチかしら?」


 口に手を当ててそう言っているが、その表情は別に何の感情も映し出してはいなかった。


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