第29話 皇太后の生誕宴5

「その、雷凛風、この話はまた改めてしたいのだが、いいだろうか……」

「あ、はい、それは別に構いませんけども」


 肖子偉がどんよりとした顔をしている理由は、鈍い凛風と言えど一般的な見地から察する事ができた。


(でも、何か助かったかも……。恋だの愛だのなんて、私の身の上には程遠い事と思ってたから、これで一度落ち着いて考えられる)


「ところで、いつから覗き見していたんですか、兄上?」


 弟からジト目を向けられた兄は狼狽うろたえ必死に弁解した。


「わっわざとじゃないんだからね」

「兄上……」

「子豪兄さん……」


 二人から残念な人を見る目を向けられて肖子豪は軽く咳払いした。


「いやさあ、濡れて少し寒かったんだよ。くしゃみは生理的なもんだ。不審人物を捕まえようとしてこっち来たらなんかお前ら青春って感じの空気になってて、出るに出られなかったんだって。断じて邪魔するつもりはなかった」


 凛風は「なるほど……」と理解を示し、肖子偉は青春という言葉に「うう……」と小さく呻くと肩を落とした。


「その……私も場を弁えなかったのがいけなかったのですし、兄上が悪いとかそういう話ではありませんから、もう気になさらないで下さい。ところで寒いのは大丈夫ですか?」

「ああ、まあ、日も照ってるからそこまでってわけじゃない。お兄ちゃんは平気だ!」


 最愛の弟に心配されたからだろう、肖子豪は無駄にテンションを上げた。


「ハハハでもそうか、お前のうっかり告白それは仕方がないよな。遅い初恋だったから必死になったんだよな!」

「……え」

「わかるぞわかるぞ~、彼女欲しいよな! 女体に興味あるのは俺だって同じだ。積極的にどんどん行け」

「……あの」

「お前だって早く捨てたいだろうしな、童て――」

「――兄上もう黙って下さい」


 最愛の弟から冷ややかどころではない、ブラコン人生史上最高値を更新した超高圧のアルカイックスマイルを向けられて、肖子豪は「ハイすいませんお兄ちゃん調子乗りました」と素直に謝罪し口を噤んだ。

 弟の、口元と違って笑っていない本気の目が「兄弟の縁切ってもいいですか兄上?」とハッキリ語りかけて来たからだ。


(この二人って時々上下逆転するホント面白い兄弟仲だよねえ……)


 そんな呑気な感想を抱く凛風は、優先すべき現実を置き去りにしていたと思い出す。


(とりあえず、黒蛇をどうしようか。義賊だって言うし、刑部に突き出すにしてもその前に詳しい話を聞いてみたい)


 大きな布包みと化した黒蛇は無駄な抵抗は諦めたのか、もう激しくもがく様子はない。


「子偉殿下、黒蛇の顔だけ出してもいいですか? 彼と話をしたいんです」


 黒蛇の名を出せば、兄皇子は知っているのか片眉を上げ、弟皇子は目に見えて狼狽を浮かべた。


「ま、まさか彼からの求婚についての?」

「え? 違いますよ。嫌ですねえ、あんな冗談真に受けませんよ。襲撃についてのです」

「な、何だそうか。それは私も同じだ。と、ところで、そなたは私のも冗談だと思っているのだろうか……?」

「まさか。殿下はこういう事で冗談は言わないでしょう? え、それとも冗談だったんですか?」

「い、いや――本気だ!」


 彼にしてはちょっとびっくりするくらいの強い気迫で返されて、凛風は瞬いた。彼は自分でも気勢が過ぎたと感じたのか急に恥ずかしそうに下を向く。


「だ、だから前向きに考えてくれると、その……すごく嬉しい」

「……わ、わかりました。きちんと考えます」


 後回しにするはずが少しだけ戻してしまった求婚の話題。

 肖子偉の見せた素直な気持ちが妙に意地らしくて、凛風は何気ない素振りで口元を押さえ、何故だか変ににやけそうになるのを苦労して隠した。

 ともかく気持ちを切り替え、縛った本人の了解も得たので近づこうとすれば、横に伸ばされた腕に止められた。


「子偉殿下?」

「私がする。それとその前に……」


 前置いた肖子偉は自分の上着を脱ぐと、凛風の肩に掛けてくれた。


「え、これは……?」

「濡れているのでも無いよりはマシだと思う。頑丈な兄上もくしゃみをしていたくらいだから、そなたも体を冷やさない方がいい」


 濡れたままは少しだけ寒いなと感じていたので凛風はお礼を言って有難く前を合わせた。


 肖子偉の意思に素直に従い黒蛇袋の口を開けてもらう事にした凛風の横では、いつでも応戦できるよう剣を構える肖子豪の姿がある。

 肖子偉が袋の口を解き掛けたところで凛風は声を上げた。


「あっ、やっぱりちょっと待って下さい」


 意外な制止に戸惑う肖兄弟を前に、真剣な顔をする凛風は先程から密かにずっと大真面目に立てていたとある仮説を実行してみた。


「黒蛇、今から隙間開けるから頭だけ出して。もしも暴れたら…………今後一切足蹴にしてあげないから」

「なにーーーー!?」


 袋の中から布越しとは思えないような黒蛇の絶叫がほとばしった。

 そして一呼吸置いて中から「チッわかった暴れねえよ」と一転して拗ねた声が聞こえてきた。


「……すげー小風、手懐けてる」


 感心する兄皇子の横では、弟皇子が複雑な面持ちで袋に隙間を作った。


「ぷはっ、新鮮な空気はいいぜ!」

「何言ってるんだか」


 スポンと首だけ出した黒蛇の台詞に凛風がやや呆れると、彼は肖子偉でもしたことのない持ち運びの便利そうな布だるまという新形態で、「そういう気分なんだよ」とニッと白い歯を見せる。

 危機感の欠片もない様子は、窮地だというのに余裕すら窺わせる。


「これでもう懲りたでしょ、誤解なんだからもう子偉殿下を狙わないでよ」

「さっきも言ったけどな、そこの皇子様は民の敵だ。だから成敗してやろうって気持ちは消えねえよ」


 黒蛇から向けられた眼光同様の鋭い糾弾に甘んじる事しかできないのか、肖子偉は耐えるように目を伏せる……かと思えば顔を上げて彼へと訴えた。


「黒蛇とやら、私の話を聞いてほしい」

「話だあ~?」

「そうだ。私は愚かだった。民たちにも済まなかったと思っている。だからこそそなたにはこうなってしまった経緯を説明させてほしい。そなたは人々のために動く事の出来る男だと思うのだ」


 それは否定できない見解でもあった。私怨もあったものの、決して恣意的なだけではない理由でこの男は決意した。義賊を名乗るだけあって、民のためという行動原理にブレはないようだった。

 肖子偉と関わるようになって、そして黒蛇と遭遇してから、凛風も少し皇都の事情を調べてみたのだ。

 国の中央の華やかさの裏では、見えない所で弱き者たちへの官吏の横柄な悪事が横行していた。

 このまま放置しておけばきっといつか国の根幹にも影響が出てくるに違いなく、義賊黒蛇という存在の出現は必然とも言えた。


「不甲斐ない私が何を言っても言い訳にしか聞こえないかもしれないが……」


 黒蛇はじっと観察するように憎き相手と思っている第二皇子を見上げ目を眇めた。


「ハッいいだろう、それじゃ是非とも御託を並べ立ててもらおうじゃねえか」

「――そんな必要はない」


 それまで黙って聞いていた肖子豪が、抜き身の剣の腹で自分の肩を軽く叩きながら反対意見を差し挟んだ。


「兄上、必要ないとは……?」

「俺がここでこいつを斬るからだ」

「兄上!?」

「どうして驚く? こいつは皇城への放火およびお前の――この国の皇子の命を狙ったんだ。刑部に突き出してもどうせ死罪になる」

「それは……」

「なら俺が今ここで斬っても同じだ」


 いつにない強引な論理に凛風は察するものがあった。


「子豪兄さん、もしかして相当キレてる?」

「ダハハ当たり前だろ! いわば我が家に火を付けられて可愛い弟を殺されそうになったんだぞ。この俺が赦すと思ってるのか? 黒蛇とか言ったな、お前も拷問の末に苦しみ抜いて死ぬのと、今ここで一息に俺に殺されるのとどっちがマシか考えろ」

「ハッどちらにしろ俺は死ぬしかねえってか?」


 黒蛇は腹の底から可笑しそうに笑った。


「ククッハハハ、今までいつ死んでもいいと思ってたが、どうやら欲が出たみてえなんだよな」


 言うや彼は凛風に視線を合わせて愉快そうに両目を細めると、何と一人で袋を脱したではないか。

 中から勢いよく布を裂くと素早く立ち上がって距離を取った。彼が使っていた短刀よりも小さな刃物が手に握られている。やはり服の中に他の武器を隠し持っていたらしい。

 余裕たっぷりだったのは逃げる公算があったからに他ならない。身体検査でもして隠し武器の有無を調べるべきだったと凛風は自身の甘さに歯噛みした。


「おい逃げる気か?」

「剣が得手のあんたに斬られるのは御免だからな、第一皇子様」


 会話の端端から的確に相手の素性を導いていたのだろう。加えて武芸に関する評判も知っているようだ。


「簡単に逃がすと思うか?」

「逃げさせてもらうぜ」


 黒蛇は肖子豪の力量を的確に見極め、警戒を強める。それは肖子豪の方も同様だった。

 出方を探り合う強者と強者。

 今やピリピリとした空気が流れていた。


「兄上、おやめ下さい」

「本気で言ってるのか? お前の命を狙ったんだぞ。俺が敢えて剣を引いてやる義理もない」

「あっあります!」


 肖子偉の断言に対峙する男たちは互いから視線を外さないまま、揃って怪訝に眉を寄せる。


「彼は……彼は、その…………――私のっ、友なのですっ!」


「「はあああああっ!?」」


 肖子偉の考えがわかり思わず小さく笑んだ凛風とは違い、思い切り素っ頓狂な声を上げたのは肖子豪と友人扱いされた黒蛇本人だ。

 嘘八百なのは誰が聞いても明らかだった。

 ハモッた二人は互いに不愉快そうに目を合わせると、すぐに逸らした。


「全ては私のためです。彼は私に皇子としての危機感をきちんと持つように抜き打ち訓練をしてくれたのです。火を放ったのは少々やり過ぎでしたけれど、幸い雪露宮の火は早々に消えました。他の場所についてはまだハッキリと現状はわかりませんが。しかしともかく彼にはそれらの点のみを償わせて下さい」


 兄皇子へと必死な様子で弁明を行う肖子偉を、庇われている黒蛇本人は老眼が進んだ老人のようにものすごく両目を細め凝視している。


「馬ッ鹿じゃねえのかあんた? 何企んでんだよ? これじゃあ単なるお人好しじゃねえか」


 彼は固定していた視線を解くと、心底呆れたようにそう言って、溜息と共に額を押さえた。

 肖子偉という人間への先入観が揺らいだのだろう。

 皇子の命を狙った犯人として裁かれれば死罪は免れない。

 しかし放火云々の件だけならば、被害の程度によっては死罪にならない可能性が高かった。

 既に雪露宮の火は消えており、他三か所の煙を見ればもう当初よりは細く、色も白いので消火は順調だったのだとわかる。


(子偉皇子が黒蛇を庇うのは、自分に関わった誰にも死んでほしくないって願いの表れなんだろうな。しかも黒蛇の勘違いを招いた原因は自分にもあるってわかってもいるだけに、その気持ちもひとしおなのかも。本当に、馬鹿みたいに困った人……。ふふっ、褒めていいのか貶していいのかわからない)


 ついつい目元を和ませた凛風の傍では、対照的に肖子豪が眉間に幾筋ものしわを作ってより渋面を深くした。


「子偉、お前はまた懲りずに悪人を庇うのか?」

「ち、違います。少なくとも彼は悪人と一言で断じられるだけの人物ではないと思います」

「噂を鵜呑みにして暴挙に走った奴がか? 冗談も程々にしとけ。ともかく二人共離れてろ」

「駄目です兄上っ! 刑部に引き渡します。突き詰めれば彼にだけ非があるのではないのです。だからどうか落ち着いて下さい!」


 それは正しい主張だった。

 加えて、ここで殺生を行えば確実に肖子偉の心の傷になる。

 故に凛風は彼に加勢した。


「そうだよ子豪兄さん、ここは剣を引いて。私情で動けばそれこそ黒蛇と同じでしょ」

「くっ……だが……っ」


 頭ではわかっているのか、剣の柄を握り締めた指先が白くなるのが見えた。肖子豪がそれ程に忍耐を要しているのだと凛風は気付いて、ブラコン度……いや兄弟の情の深さを知った。

 肖子偉の兄がこの人で良かったと心から思えた。


「今はとにかく黒蛇を逃亡させない事が先決!」

「ハハッ俺の天女が俺をどう捕まえてくれるんだ?」

「誰が天女だ!」


 イラッと来た凛風は黒蛇へと剣呑な視線を突き刺したが、次には意識を切り替え彼を確実に捕まえるための冷徹な策を講じた。


「――思い切り足蹴にしてあげるから大人しく捕縛されて」


「――いいぜっ! 早く縄を掛けろ!!」


「「「…………」」」


 わかってはいたが、唇を噛みしめる凛風は予想以上の自己嫌悪に心で血を吐いた。


「そう自分を責めるな、小風……。殺生に走ろうとした俺が悪かった。短気はいかんよな」


 項垂れる凛風を慰めるように、肖子豪が反省した声で肩にそっと手を置いてくる。 


「黒蛇、皇城の者たちが迷惑を被った罪だけはきちんと償ってほしい」


 二人の傍らでは、真面目な肖子偉が私情を抜きにした真摯な眼差しで黒蛇に訴えかけた。

 黒蛇も感じるものがあったのか神妙な顔付きになる。


「……あんたは本当に噂の数々とは違うようだな。まあ注意を逸らすためとは言え、燃やした件は俺が悪い。あんたが憎くて躍起になってた部分もあったんだ。もう頭は冷えたぜ。――まあ俺の天女に出会って別の熱は最高潮になったがなハハハハハ!」


 やっぱり兄に斬ってもらおうか、と肖子偉は意見を覆したくなった。


「でも悪いが俺は捕まる気はねえよ。仮に死罪を免れたとして、償うっつってもどうせ長々と投獄されるんだろ。んな悠長な事してられるか。義賊は忙しいんだ。俺の天女も魅力的な足蹴はまた今度な」


 最後は凛風に向けて言って黒蛇は膝を沈め跳躍の気配を見せた。


「待って!」


 金兎雲で追うのも辞さない気概で凛風は前に出る。

 その時だ。


「――逃げる必要はないよ」


 扇子を閃かせて生じる微風のように、涼やかな声が降ってきたのは。

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