第28話 皇太后の生誕宴4
勝敗は決した。
「雷凛風――」
「――来るな!」
そう思われたのだが、駆けてくる肖子偉を凛風は鋭く制した。
「……っててて」
(この人何て頑丈なの!)
見るからに普段から荒事に慣れていそうな体の耐久性なのか、黒蛇はすぐに意識を取り戻したのだ。
咽元を押さえて呻き、かつ咳き込みながら半身を起こそうする。
彼の手にあった武器を遠くまで蹴り飛ばした直後だった凛風もこれには危機感を募らせ、まだ本覚醒していない黒蛇の肩を即座に靴裏で踏み付け再び仰向けに倒した。
油断大敵だと感じていたので容赦はしなかった。
そもそも、大事な友人の命を狙った相手に加減してやる義理もない。
「でっ……! いってえよ何す――」
「もう一度言うからよく聞け、下郎」
怒りを腹に溜めたまま、地を這う低い声を響かせれば、後頭部を打った痛みで涙目の彼は口を噤んだ。
「わざと罪を被った子偉殿下が一つも悪くないとは言わない。けど少なくともあなたの恋人を奪った男は全く別の人間だ。だからこれは立派な人違い。わかる?」
苛立たしげに凄まれて何故かあっさり圧倒された黒蛇は、目を見開いたまま肯定にコクコクと何とか首だけを動かした。
「け、けどよ、悪党連中を擁護したってことは、肖子偉って奴は自分のために財や権力に迎合する、庶民の苦しみを理解しねえ奴ってこったろ」
「それは違う」
「断言する根拠は?」
「そう信じられる相手だから」
「……根拠の欠片もねえ」
「彼を知ればわかる。だからこれ以上彼を狙うつもりなら、本当の本気で、――容赦しない」
地獄の獄吏もかくやな目をした少女の冷たい言葉に、黒蛇は一体どうしたのか「容赦、されない……?」とどこか陶然として呟くと、次には暴れ出した。
暫しの後、彼は凛風からフルボッコにされ大人しくまた踏みつけられていた。
(……解せない。ボロ雑巾状態なのに、まるで究極の真理を得たみたいに生き生きと目を輝かせてるんだけど。ほとんど抵抗する気がなかったようにも思えるし)
「これだけタコ殴られて全然
反省しているのとも違うようで、変だとは思うが何が変なのかはわからない。
(にしても、この人ボーッとしてどうしたんだろ? ……殴りすぎた?)
怪訝に思うも顔には出さず無感動に見下ろしていると、
「おおおぉ……」
黒蛇が今度は何かに感極まったような奇声を発し始めた。
更には、がしっと音が聞こえそうなくらい両手でしかと足を掴まれて、反射的にそれを振り払うようにしたら見事に
「だっ……!」
痛みに声は上げたが、薄ら嬉しそうなのはどうしてなのか。
(な、何だろう鳥肌が立ってるんだけど……!)
男性相手に組み手をした事は普通にあるし、掴まれるのだって平気だが、何かが告げるのだ。
こいつはやべえ、と。
三歩分だけ離れて臨戦態勢のまま慎重に様子を探っていると、顎を押さえて
ぎょっとして飛び退くも繋ぎ紐でも付いているようにしつこく追ってきて、またもや拒絶に飛び退くと、それすら嬉しそうにした。
「ちょっと何なの?」
凛風が
「おおおおっ、俺の天女っ――結婚してくれ……っ!」
一気に場の緊張感が砕け散った。
意識を取り戻した黒蛇は、痛みの余韻からみて気絶していたのは本当に少しの間だけだろうとすぐさま察した。
小さく呻きながら、彼は久しく忘れていた敗北感を齎した相手を見ようとして、しかし肩を押さえられ地面に縫い付けられてしまった。
手にしていたはずの短刀は見当たらず、おそらくどこか離れた場所へと飛ばされたのだろう。そもそも彼女のような優れた者が相手では、体勢的にも最早反撃の糸口は思い付かない。
頭を打って痛かったので抗議を込めた声を上げたものの、黒蛇は首筋に切っ先を当てられたようなヒヤリとした心地になって言葉を途切れさせた。
少女は剣一本とて有していないのにだ。
青空を背景にやや逆光になっていたが、怒りのせいで随分と冷ややかに見える表情や有無を言わせない凍えた眼差しは、暗さには慣れている黒蛇の視覚には鮮やかに映っている。
(冬の冴えた銀月よりもなお冷厳……)
彼は容色に長けた女性は散々見て来たが、そのどんな官能的で甘やかな色香とも質の異なる、いわばその美の対極にある芯の硬い清廉な美がそこには存在していた。
得難い、と思った。
自分よりもおそらく十は年下だろう少女相手に何を血迷った事を……と思いつつ、そんな少女に虐げられているというのに、可笑しな話だが心が解放されしかも心の底がうち震えるような歓喜が湧き上がってきた。
だからその感覚をもう一度確かめたくて、容赦なく叩きのめされてみた。
そして彼は、秘められていた自己を大確信したのだ。
思わず抑えられなくてこの上なく感激した声が出たのは致し方ないだろう。
足蹴をやめて欲しくないという衝動が込み上げて、我に返った時には両手でしっかりと彼女の足を掴んでいた。
格闘中までとは別種の警戒心を露わにする少女を見上げれば、最早神々しさしか見えない。
「おおおおっ俺の天女っ――結婚してくれ……っ!」
こんな時だと言うのに、彼は思っていた。
この少女が自分の唯一無二だと。最高の女だと。
彼女の心身共の強さはもちろん魅力の一つだが、彼女から与えられるものは苦痛でも喜んで受け入れられる、いやむしろ虐げてくれ、と。
彼女にはそれを求め欲してしまう抗えない引力があった。
「は……?」
という声しか出てこなかった。
しかしながらその一音に自身の現在の感情が全て内包濃縮されていると凛風は断じられる。
自分が満身
(睨まれて悪態をつかれるのならまだしも、何でこうなる……)
「マジであんたは理想の女だ! 心底惚れたぜ! 是非俺と
「…………」
凛風はウザさに眉根を寄せるも、どう反応していいのかすぐには判断が付かない。
視界の端では凛風の言う事をきちんと聞いて足を止めていた肖子偉が、絶句しよろけたのが見えた。
(ええとまあ、こんなわけのわからない掌返し見たら、頭痛もするかも)
何せ、相手は今の今まで凛風とやり合っていた悪漢なのだ。
「雷凛風」
拳を握る肖子偉はやや俯いて前に進み出た。
「あ、殿下待って下さい! これ以上近付くのは危ないですよ!」
「止めないでくれ」
肖子偉の声は平素のものだったが、滑舌はしっかりしていたので何となく止めあぐねてしまった。
彼は凛風よりも近付いてそのまま黒蛇の真ん前に仁王立ち、口元を引き結ぶ。
「お、何だやる気か? いいぜ掛かって来いよ」
座り込んだままでも挑発的な黒蛇を見下ろす肖子偉は、無言で自らの懐に手を入れるや何かを引っ張り出した。
――布、だった。
宴時に使っていた布は庭のどこかへ落ちてしまったがために、彼はいつも予備に携帯している別の布を取り出したのだ。
そして、手にしたそれを大きく広げた。
「あ……? ――っておい何すんだ!」
肖子偉は黒蛇の頭から布を被せるや手早く転がしその布の端と端を縛り、見る間に泥棒の背荷物のような大きな包みを作ってみせた。
目を点にし、わずかに残っていた緊張感すらすっかり無くなった凛風の前で、黒蛇が明らかな怒声を上げる。
「くそーッ出せ! 露台でさっさと
激しく動いたところできっちりきつく口を縛ってあるようなので緩みもしない。武器は取り上げているから他の隠し武器でもない限り中から裂くのは難しいだろう。
珍しくもフンと鼻息を荒くし、これでどうだと言わんばかりに胸を張る肖子偉の横に立ち、凛風は暴れる布袋を見下ろした。
(すっごく手際が良かった。そう言えば私の布だるま二号の時もあっと言う間だったっけ)
布だるまになってそこそこ長いという彼は、自然と布の扱いが巧みになったに違いない。贈り物を多く扱う商家などで重宝されそうな能力だ。
「ええと、逃げないようにしてくれたんですね。ありがとうございます。本当なら私が早く縛ればよかったんですけど……」
「いや、そなたが縛ってもむしろ喜ばせるだけなので良くない、うん」
「ええと……?」
「あ、いやとにかくそなたはこの男になど触れなくて良いのだ。今後も同じような事があれば私がする」
彼はそう豪語しつつも何故か急に不安そうにこちらを見つめて来た。
「子偉殿下?」
「そ、そなたは……その……」
「私? 私が何か?」
自分の話題になるとは思いもよらずキョトンとして見つめ返していると、彼は恥ずかしそうに少し頬を赤くする。
その様子を微笑ましく思った凛風だったが、これでは子供扱いも同然で、故に彼女は完全に意表を突かれた。
「――私だって、そなたと結婚したい」
(え――……)
すぐには言葉が意識に浸透しなかった。
「わ、私と結婚してほしい」
全く以て予想外な申し出に凛風はこの上なく大きく両目を見開いた。
声だけは聞こえている黒蛇が袋の中で「あってめえ便乗すんなこら!」と五月蠅く喚いた。
瞬きさえ忘れたように呆ける凛風の様子に、肖子偉は唐突過ぎて引かれたと思ったのかもしれない。
「いやその、い、今すぐというわけではなくて、その……結婚を前提に交際して、それからが理想的なのだが…………どうだろう、雷凛風?」
しどろもどろになりつつも、それでも撤回はせず顎を上げ、意を決した顔で真っ直ぐ見つめてくる。
凛風は何だか現実味がなくて、しかし現実なのだと思い出してようやく二度三度瞬きを繰り返した。
(この人とお付き合いする? 私が……?)
結婚はともかく置いておくとして、男女交際というものが初めてな凛風はとりあえず脳内で肖子偉と手繋ぎしたり、抱き上げたりする図を想像してみた。どうしても男役は自分になってしまったが、頑張ってそっち方面では乏しい想像力を総動員した。
(……げ、現状と変わらない気がする)
口付けもしているのだと思い返せば、男女交際って何だろう……と果てしない深淵に呑まれそうになった。頭がぐるぐるしてくる。
(ど、どうしよう……)
凛風は完全に思考が停滞した。
……と、
「――ハックショオオオーイ!」
刹那、近くの茂みから親父臭いくしゃみが聞こえて、凛風と肖子偉はびっくりしてそちらを振り返った。
「あ、兄上?」
「その声、子豪兄さんでしょ」
「あ、ああ~……邪魔してスマン。俺に気にせず続けてくれ!」
見つかったからには仕方がないという顔付きで茂みの中から渋々立ち上がり、超絶気まずそうに目を泳がせるのは、まごう事なき第一皇子、肖子豪だった。
彼も先の水流の被害者なのだろう、全身が濡れている。
片手に剣を携えたそんな偉丈夫は、無理に大きく口を横に引き伸ばして見るからにわざとらしい半笑いを浮かべた。
きっかけは何であれ、勇気を出しての一世一代の告白という、出来る事なら親兄弟には見られたくないような場面をまたもや見られてしまった肖子偉は、絶望的な顔色になった。
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