第30話 山憂炎のはかりごと1

 その人は、文人墨客が目にすればまさに名作が生まれそうな様で扇子を手にし、優雅に背に流した長髪をなびかせ、さや細工も繊細な一振りの剣の上にたたずんでいた。


「――若様!?」

「やあ、阿風」


 驚きに目を剥く凛風を見下ろして、上空の山憂炎は柔らかく目を細め眉尻を下げた。


(わあ~すごい飛んでる。この人って仙人してても風流人だわ。貴重な仙剣も初めて見たし。これって身一つで飛べるじい様とはまた違った才能よね)


 祖父の楊叡は飛翔に仙剣は必要ないので、彼の家にある剣も至って普通の剣だ。

 飛行の仙術には適する剣とそうでない剣があるそうで、巷に出回るどんな剣でも良いというわけではないらしいとは前に祖父から聞いた事があった。


(へえ、でも仙剣って、見た目は普通の剣と変わらないんだ)


 現実をうっかりちょっと忘れて物珍しそうに見ていると、山憂炎は仙剣をゆっくりと降下させ地面に爪先を下ろした。鞘に入ったままの仙剣は彼が扇子をひらりと動かすと奇術のように消え去った。武器収納の仙術だろう。


「とととところで阿風大丈夫だったかい!?」

「はい?」


 次の瞬間、山憂炎は飛び付くようにして凛風の様子をあちこちから検分してきた。


(ああこの慌てぶり、ちゃんと若様だ。黒蛇との攻防を上から見ていたのかも)


「すすす擦り剥いたり切れたり打ったりした所はないかい? あああそれに早く着替えないと風邪を引いてしまうよ! 風邪は万病の元なんだよーーーーっ!」

「ど、どこも何ともありませんから大丈夫です。寒くもないですし、本当に大丈夫です。だから落ち着いて下さい若様」

「ほ、本当に?」

「はい」

「本当の本当の本当に?」

「ええ」

「そうか、良かった~」


 凛風が内心の辟易を顔に出さずに冷静に宥めて、ようやくいつものきらきらしい貴公子が戻ってきた。


「ところで、いくら私がじい様の孫だからって、そんなに過保護にしなくても大丈夫ですよ?」

「うん? そんな風にしてるつもりはないけれど……僕って過保護なのかな……?」

「あー……自覚、なかったんですか」


(きっと仙人故に感覚がズレて……いやいや深~い心の持ち主なんだわ)


 凛風は自分でもよくわからない納得をした。


「ええと、山太師なのですよね……?」

「えー、山太師どうしてここにいるんですかー」


 人格崩壊もかくやな山憂炎を目の当たりにして、すっかり呆気に取られていた肖兄弟だったが、我に返るや揃って問いを投げた。因みに肖子豪は棒読みだ。


「あなたがこの場に、という事は、もしかして先の水塊はあなたが?」

「ああ、あれはー……まあ半分はね」

「半分?」


 珍しくちょっと目を泳がせた山憂炎のよくわからない説明に、問うた肖子偉同様、凛風も小首を傾げた。


「ああそうだ小風、今日は包子をどうもありがとう。けれど駄目にしてしまったね。それだけは本当にごめんね? 厨房の方でもっと早くに出してくれたら良かったんだけど……」


 出火騒動で肖子偉のように食す前に避難した者もいたのだ。自身が依頼したものであり、尚且つ気に入ってもいる料理だけに、心から残念で申し訳なく思っているのが伝わってきた。配膳の順番までは山憂炎も口を出せなかったのだろう。


「ええとそれは仕方のない状況でしたし別にいいんですけど、逃げる必要はないって言うのは一体……?」

「そうだぜ仙人さんよ~、逃げる必要はねえってどういうこったよ?」


 凛風に呼応するようにして苛立たしげに口を挟んだのは黒蛇だ。

 粗野な自分と正反対の優雅な美形は嫌いなのか、完全に不機嫌丸出しイチャモン上等な態度だ。

 メンチを切る黒蛇に味方したいわけではないが、今この場の若者たちの心に浮かぶ疑問は同じだった。


「言葉通りだよ。君は少々きゅうを据える程度の罪状になるだろうから、ここで逃げて罪を重くするのは得策ではないってこと」

「どういう事だ、山太師?」


 真っ先に肖子豪が詰問した。憤怒に据わった眼差し同様に声音も険呑だ。

 弟が庇ったとは言え、第三者からあろう事か微罪などと言われては、到底納得できるものではないのだろう。

 その感情は共感でき、凛風も純粋な困惑と僅かな非難を込めて山憂炎を見つめた。

 命を狙われた当人は兄が山憂炎に詰め寄るのをおろおろとしながらも、また、狙った当人は疑問を抱いた顔をしながらも、双方どこかまだ仙人の出方を窺っているように口を開かない。


「そうだね。きちんと説明するよ。けれどまず一つはっきり言っておくと――」


 そんな若者たちそれぞれの心境を理解しているのか、仄かに目元を和らげた山憂炎は、片手で器用に閉じたり開いたりを繰り返していた扇子をパチリと閉じ、その先を黒蛇へと向けた。


「――僕はそこの彼が、どうしても欲しかったんだよ」


 一時、妙な沈黙が流れた。





「急にだんまりになって、皆一体どうしたんだい?」


 全く予期しない凍結が生じ、発言した当人は多少のいぶかりを孕んで一同を見回した。

 黒蛇が嫌そうに顔を歪める。


「悪いが俺、女しか興味ねえぜ」

「女しか?」


 黒蛇の台詞を受け、山憂炎は僅かな苦笑を漏らす。


「いやいや済まないね、誤解を招く言い方をして。正直今はどっちでも行けるけれど、そもそも君は好みではないし、そう言う話でもないしね」


 さらりと両刀発言をかまされたが、凛風は聞き流すと決めた。今は本当にそう言う話をしている場合ではないのだ。


「君が大人しくしていてくれれば、悪いようにはしない。まあ二日三日、長くても十日程度牢に入って反省してもらうって形にはなると思うけれど」


 言外に秘められた意図を掴めず、黒蛇は眉を顰める。

 凛風たち三人も似たような表情を作っている。


「実を言うと、彼はこの件では仕掛け人扱いなんだよ」


 広げていた扇子を片手で閉じてまた開き、山憂炎はそんな事をのたまった。


「はあ? 仕掛け人だと? こいつは子偉を殺そうとした極悪人だろ」

「俺も仕掛け人になった覚えはねえぜ。第二皇子の件を抜きにしても、俺はこの宮だけじゃなく城を何か所も燃やした主犯だぜ、微罪っつーわけにいくかよ。それとも何か? 皇帝陛下が恩赦でもくれるってのか?」

「まさか」


 見た目通りではなく長命な仙人の彼はゆるく首を振ると、扇子を左手に持ち替え空いた右手の指を三本立てた。


「理由は三つ。一つは、皇帝陛下は皇城内からの出火を前もって御存知だったからさ。どうしても必要な訓練だと説得してあったからね。最初は渋られてどうしようかと悩んだけれど最終的に承諾を頂けて良かったよ。今頃は訓練だったと一緒に避難した皆にもきちんと説明してくれているだろうね」


 彼の話には皆絶句した。

 警護を担っていた肖子豪は大事な情報が秘匿されていた事実に難しい顔つきになったし、計画が漏れていたと言われたも同然の黒蛇は愕然としている。仲間に裏切り者がいたとでも思ったのかもしれない。


「心配しなくとも君の計画が誰かから漏れたわけではないよ。僕には僕の情報網があるとでも言っておこうか」


 心中を察したように山憂炎から言われ、ついつい安堵の表情を浮かべてしまった黒蛇はそんな自分に気付いて苦々しそうに舌打ちした。

 一つ目で一本指を折っていた山憂炎が二本目の指を折る。


「二つ目は、子偉殿下の命の保証はされていたからかな。本来僕が彼を護るつもりだったんだけど、小風が来てくれたからお役御免になってしまったよ。因みにこれはさすがに皇帝陛下も知らないよ。息子の命を囮に使われるなんて気が気ではないだろうから、僕も敢えて話していない。この事を告げるか否かは君たちの自由にするといい」


 つまりは独断専行。

 さらりととんでもない事を述べる山憂炎の底の知れない微笑に、その場の空気が些か冷えた。


「山太師、三つ目は何ですか?」


 肖子偉がややぎこちない声で最後の指を問えば、雅やかな仙人は雪露宮の入口のある方へとふと視線をやった。


「ああ、ちょうど良かった。来た来た」


(来たって、誰が?)


 山憂炎に倣い同じ方へ目を向けていると、回廊を通り庭を歩いて来る複数の人影が目に入った。

 近付いて来るその影のうちの一人が誰かわかった途端、凛風は大きく目を瞠った。


「えっ!? 父さん!?」


 先頭を歩いてきたのは何と父親の雷浩然だった。

 声が裏返ってしまったが、それほどに意外だった。


「お、お前ら!? 逃げてなかったのか!?」


 ほとんど時間差なく黒蛇も大きく仰天の声を上げた。


(え、何? まさかあの人たちって――)


 雷浩然の後ろに見える男たちは揃いも揃って手首をしっかりと縛られ、その全員が更に同じ縄で繋がれている。雷浩然はあたかも導き手のようにその始まり部分を握っていた。この皇城内で縛られるということはそれすなわち罪人という意味だ。


「お頭~」

「親分~」

「兄貴~」


 男たちは黒蛇を見て泣き言でも言うような声を上げた。

 彼らは紛れもなく黒蛇が二人もしくは三人一組で火付けを任せた手下たちだった。

 ぞろぞろと歩かされる仲間たちに、彼は酷く狼狽うろたえた様子を見せている。

 そんな様子を目の当たりにすれば、根はいい奴……とはいかないまでも、黒蛇という人間全部で悪人というわけではないのだろうと凛風は改めて思ってしまった。


(見る側面が違えばその相手の像も違って見えるんだろうけど、でもやっぱり子偉皇子を狙ったんだし、簡単には赦せない)


 それでも鬱屈したものを押し込めて、凛風は努めて冷静にと何度も自分に言い聞かせた。


「父さん、これはどういう事?」


 かなり真剣にそっくりさんかと疑ったものの、やはりどこからどう見ても父親の雷浩然だ。

 だがしかし文官の父親が、顔に傷があったりいかつい面立ちだったりと、この見るからに荒くれ者どもと渡り合って捕まえたというのだろうか。


(ううん天地が引っくり返ってもそんなわけないよ。だって父さん武芸はからっきしだもの)


 娘の戸惑いを見て取って、雷浩然は察し良く苦笑した。


「実は、一緒にいたお義父さんが彼らを捕まえてくれたんだよ。だけど首領を泳がせる必要があるとかで、彼らの計画に乗っかったというわけだ。今は、頃合いだとお義父さんに呼ばれたから彼らを連れて来た」

「へ!? じゃあじい様もここにいるってこと?」

「――左様」


 声のした方を見上げれば楊叡が空からゆっくりと下りて来たところだった。

 本当に来ていた祖父の姿を視認すれば、内心気が抜けた。

 武芸事の師事もしている祖父は、凛風にとって小さい頃から無敵の象徴なのだ。

 彼がいればどんな怖い事も大丈夫。

 密かに今も昔もそんな風に思っているし、彼の姿に憧れて自分も誰かにとってそう頼ってもらえる存在でありたいと思うようになった。


「何だ……じい様に若様、仙人が二人もいて余裕だったんだ。さっき若様が池の水を動かしたのは、自分は半分って言ってたけど、じゃあもう半分はじい様なんだね」


 池の水と耳にして何故か楊叡がキッと山憂炎を睨み、山憂炎は気まずそうに横を向いてその突き刺さる眼差しを避けた。

 謎のやり取りを怪訝けげんには思ったが、それよりも他の出火場所の事が気になりその方向を見つめて顔を曇らせれば、気付いた雷浩然も同じ方向を眺めた。


「凛風、大丈夫だ。雪露宮以外に関しては、燃えたのは庭先で大鍋に入れて火に掛けた油だったり城で出たゴミだよ。だから人や建物に実害はない」

「え、それって……?」

「はあ!? おいどういうこったよ?」


 凛風は完全に意表を突かれた心地だった。

 それは黒蛇も同様なのだろう、急かすように真相を求める。


「つまりは、そう――偽の火事だ。煙さえ上げれば良かったからな。実はそこの彼らは宴の前にはもう潜んでいた所を捕縛し終えていたんだ」

「そうなの? じゃあ、本当に大丈夫なんだ……?」


 放心気味に確かめれば、父親は大きく頷いてくれた。

 これで山憂炎の立てた三つ目の指の内容がわかった。


 雪露宮外においては、黒蛇の計画は端から実行されていなかったのだから、罰しようがないという理屈だろう。


「くそっ、俺はまんまと踊らされてたってわけか」


 頭を掻きむしりたいような顔をして悪態をつく黒蛇を前に、彼の手下たちは悄然とはしつつも、その様子からどこかこれで良かったと思っている節がある。

 縛られているとは言え彼らが暴れないのは、黒蛇の死罪を免じる旨の話をされていたからに違いない。

 彼は殺しも厭わない残忍な部分もある一方では、頭として慕われるだけの度量も持ち合わせているのだろう。


「知ってたんなら教えてくれればよかったのに」


 種明かしと言わんばかりの暴露に、安心した反面恨めしくも思って凛風は身内たちを睨んだ。

 肖子偉だけで手一杯だったが、姿の見えない父親の事も何も知らずに本気で心配していたのだ。


「すまぬの、阿風」

「悪かったよ、凛風」

「阿風、そう二人を怒らないでやって。これは全て僕が考えた策なんだ。浩然くんはこの国の臣下としてそれに従ってくれただけだし、太……ああいや楊仙人は万一があるといけないからって協力してくれただけなんだ。だから怒るなら全面的に責任がある僕に怒って? ねえ?」


 取り成す意味もあるのだろう、山憂炎からそんな風に言われてしまっては怒るに怒れない凛風は、仕方がなく眉間を緩めた。


「ですけど、雪露宮には被害が出たんですよ。この茶番には一体何の意図があったんです?」


 まだ若干口を尖らせ凛風が問えば、肖兄弟も同じ疑問を抱いていたようで、山憂炎へと答えを促すような目を向ける。

 山憂炎は扇子を手で弄びながら困ったような顔をして、その扇子の先をトンと自身のこめかみに小さく当てた。


「さっきも言ったように、僕には彼が必要だからだよ。そのための布石さ」


 常から典雅な仙人は、ぱらりと扇子を開くとその麗しの面に微笑を宿し黒蛇を見据えた。


「ねえ君、僕の下で働かないかい?」


 そんな台詞を口にして。

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