第21話 噂と真実5
大真面目に説教を垂れた凛風は最後にくるりと礼部侍郎黎国望を振り向いた。
少女の気の強さを目の当たりにしていた彼は、反射的にビクッと肩を揺らしてしまった。この歳になってまさか一介の少女に気圧されるとは彼自身思いもしなかった。
歴戦の武将のように鋭い眼光は、先程までの可愛らしい笑みを浮かべていた新人妓女とは別人のようだ。その覇気は万里をも淘汰し天をも揺るがす……わけもないが、彼の脳裏にはそんな幻が過ぎった。
そもそも妓女ではないのだろう。
じっと自分を見つめ何を言い放つのか、いい歳をこいて半分の好奇心と半分の慄きに心を震わせる黎国望だったが、
「とりあえず、そういうわけですから」
軽く咳払いをした男前少女は、彼をちょっと牽制にも似た目で注視しただけで済ませた。
まるで道端でちょっと関係性の薄いご近所さんから「どうも」と会釈された気分が黎国望を襲う。
何だこれは、自分だけこれでいいのか、と内心で百回は繰り返し自問した。
自分の判断が老人の予想(ちょっと期待)を遥かに裏切っていたとも知らずに、凛風は胸中で溜息をつく。
(礼部侍郎ってことは、父さんの上司だよね。何か根っからの悪人でもないみたいだし今日はいきなり噛み付くのはやめておこう。……もう二人に噛み付いちゃったし。それにこのおじさんの正体がわかったから、質問は後でも出来るものね)
今夜は時間も時間だった。
凛風はフンと息を吐き出すと腰に両手を当てて、皇子二人をどこか試すように眺めやる。
「殿下方、お互いに何か言いたい事は?」
ここまでして駄目なら今日はもう保留にしようと凛風が考えていると、兄弟は緊張感に満ちた様子で背筋を伸ばした。
ややバツが悪そうに肖子豪が弟皇子へと視線を動かす。
「小風の言う通りだ」
「え、本当に兄上は常時三迷惑……?」
「そこじゃねえよ!」
肖子豪はボケるだけじゃなかったと黎国望の胸には称賛が去来する。
そんな第一皇子殿下は、次にはどこか吹っ切れたように表情から緊張の文字を抜いて口元を緩めた。
「子偉、お前が争いを好まないのはわかっている。俺だって同じだ。とは言え、あの一件以降基本的にお前とは喧嘩なんてしなくなったが」
まともに本音で語り合う機会さえほとんどなくなっていた。
事情を知っていた彼は弟が自分を避ける気持ちがよくわかっていたから、時間に任せようと思った。だがそれも任せ過ぎて、後宮を出て外宮の雪露宮に一人で暮らすようになった弟は妖怪布だるまになっていたし悪い噂は定着しているしで、気付けば散々に絡まった糸のように自分でもどう
それでも大事と思う弟だ。今日こそはと意気込んで、機会あるごとに顔を見に行っていた。
「子供の頃は喧嘩したらその都度謝って仲直りしてきただろ。兄弟のあり様は昔からずっと変わらないと俺は思っている。だから一人で抱え込んで苦しむな。意見があればぶつかってこい、子偉」
「兄上……」
伸ばした手を弟の頭に乗せ、わしゃわしゃと盛大に髪を乱すと、肖子豪は大きな苦笑いを浮かべて締めとばかりにポンポンと叩いた。
「もう変に無理すんな。あの当時は山太師が各派閥を宥めてくれた。だからもう本当に終わった事だ」
「そうだったのですか……。山太師が朝廷に居てくれて良かったです。この先も彼がいてくれれば安心ですね」
当時
ただ、毒の件は投じられた単なる最初の火に過ぎなかった。
現皇帝には多くの妃がいるために、蓋を開けてみれば火種は実はそこかしこにあったのだ。
有力な第一第二皇子の派閥のみならず、その他派閥も我が皇子こそ太子に相応しいと白熱しかけた朝議もあったし、果ては折角隠匿した黎貴妃の所業が白日の下に晒されそうにもなり、誰かが一つ下手を打てば流血沙汰の大きな争いに発展しかねなかった。
それを各所を訪ね丸く収めたのが、当時既に三公の一人だった山太師こと山憂炎なのだ。
彼の温厚な人柄と多くを見てきた客観的な目、そして直接的に現在の大官たちの血筋とは関わりのない仙人たる彼の言だったからこそ、周囲も容れたのかもしれない。
「快癒してから、子偉はしばらく後宮に引き籠って人を避けていたし、その後は布だるま状態で人との交流も薄かったからな。知らなかったのも無理はない。どうせ城の外に出てもろくに誰とも話をしなかったクチだろ?」
「……はい、もう少し広い視野を持つべきでした」
肖子偉はしおしおと項垂れた。
山憂炎への称賛にどこか面白くなさそうにしていた肖子豪だったが、決して弟をしょげさせたかったわけではなく、バツの悪そうな咳払い一つで気を取り直すと真剣な顔になる。
「ところで子偉。お前は本当に俺に太子になって欲しいのか?」
「はい。将来的に私は兄上の補佐が出来ればこれ以上はないと思っています」
「本当に? 自分が太子になりたいとは思わないのか?」
「思いません」
迷いなく、きっぱり彼は断じた。
「……そうか」
ならば、と兄は弟を真っ直ぐ見据えた。
「安心しろ。俺はお前が心配せずとも、――必ず太子になる」
宣言したその堂々たる威風は、既に一国の太子そのものに見えた。
「はい、兄上」
あたかも、降り続いていた長雨が止み清々しい晴れ間が広がるような心地で、肖子偉は瞳に明るい光を宿し深く笑んだ。
「よお~し。もう要らん罪悪感なんぞ抱いて俺の前から隠れたり逃げたりするなよ? これでも結構心にグサグサ来てたんだからな?」
「すみません」
照れ臭そうに弟に宣言する兄と、ようやく胸のつっかえが取れたように兄の前で本来の笑みが戻った弟。
「……布には包まるかもしれませんが」
「何でだよっ!」
「その……人目に対する条件反射と言いますか、恥ずかしがりはもう身に染みついてしまったものでどうにもならないのです……」
「へー、はー、わかったよ……特技とでも思っとく」
「そうしてもらえると助かります」
こうして布だるまに理解を示した懐の広い肖子豪が、兄命と
以前のようだが以前よりも強く絆を深めた兄弟へ、我が事のように嬉しくなった凛風は温かい眼差しを向けていた。
孫の肖子偉の笑顔に胸が痛くなるような安堵と感動すら覚えながら、黎国望は思い出していた。
――え……? 母上、が?
――はい。宮女が見つけた時にはもう……。
在りし日、一人の優しい少年が黎国望の沈痛な言葉に、これ以上ないほど絶望した目をしたのを。
毒杯の一件以降、精神が参り加速するように痩せ細った黎貴妃はそう長くはないと目下囁かれていた。
しかし天命を待たずして自らで首を括ったという悲報を聞くや、まだ十三歳にも満たなかった少年は、自分の前で崩れ落ちるように床に膝を落とした。
脱力するままに両手も床に突き、そうして四つの支えで辛うじて意識を保っていられるようだった。
偶然にも自分が一番初めに彼に告げたのは、一体何の因果だったのか。もしかしたら死者の想いが導いたのかもしれないと、今となっては思ってしまう。
色白の母親に似た花のような面からみるみるうちに血の気が引いていく様を、彼は最も近くで見ていた。
「全て、私のせいです……。母上……あなたは自死を止める事すら私に許して下さらなかったのですね……ッ」
少年皇子は胸に何かが刺さったように苦しそうに声を震わせる。
「礼部侍郎、いえお祖父様……私は、皇位など、要りません。大好きな兄弟と、争いなど、したく、ありません……っ」
とうとう座り込み項垂れた少年の
「殿下……、子偉……」
実の孫だろうと皇子は皇子、外祖父であれ臣下の礼儀は必要だが、この時ばかりは立場も礼儀も忘れて傍に寄って、実母を失ったばかりか自分のせいだと責め萎縮する孫を抱きしめた。
この少年は聡い。
だが、母親譲りで脆い。
目的のためには善悪には目を瞑るところもあった母親のどこか盲目的な純粋さとは異なり、善良に過ぎた。
泣き崩れているその様をまさに今目の前にしていて、彼が宮中のどこかの池に身を投げてしまっても不思議ではないように思えた。
彼、黎国望もまた、もう失いたくはなかった。
だから肖子偉の望むまま、当時既に礼部侍郎だった彼があと一歩で礼部尚書になる道を捨て、後には肖子偉の望んだ通り噂を利用したのだ。
第二皇子がどこの勢力からも推されないように、確実に彼を貶めるために。
しかしそんな愚かな画策はもう必要ない。
自棄酒に逃げていた生活ももう終わりそうだと、彼はようやくこの上ない重責から解放された心地で涙を拭った。
ただ、やはりけじめは付けるべきだと、本来は生真面目だった彼は思う。
本人の意向であれ皇子殿下の名誉を害したのも、世間を欺いたのも、悪人を利用していたのも、立派な罪だ。
既に状況は変わった。
彼は刑部の役人には自分も含め、野放しにしていた悪人たちを纏めて取り締まってもらう所存であった。
(時にゴロツキにも見えた子豪兄さんも、何だかんだできちんと兄貴業も皇子業もやってやれない事はないのね)
噂がすぐに消える事はないだろう。新たに便乗する者もすぐにはいなくならない。
よって、今後凛風の方針は決まったも同然だ。
そう言う不埒者を見つけて成敗……は役人に任せるとして、取っ捕まえる事だ。
ただ、今夜はそろそろ本当に帰宅しないと本気で母親が心配する……ということで現在彼女は男衆に部屋から出てもらって着替えていた。
この国広しと言えど、皇子二人と高官一人を臆する事もなく妓楼の廊下におん出せる女子は彼女くらいのものだろう。
(うっかり偉そうに説教をしちゃったけど、どうしてあんなに腹が立ったんだろう)
袖に腕を通しながら、反省も伴った気分で凛風は我知らず嘆息を漏らした。
(大体、肖子偉って人は本当にどうしてああも……)
誰かのために自分を犠牲にする事を厭わない。
話を聞いたこちらが切なくなる程に愚かしい。
ひたむきと言えばそうかもしれないがこれは決して褒めているわけではない。
(言うなれば、お人好し。自分の物は躊躇いなく他の人と分かち合うのに……)
初めて会った夜、彼は自分の包子を分けてくれたのだ。
とても楽しみにしていた物だろうに、会って間もない相手に惜しまずに。
あの事があったから自分は肖子偉という相手を無意識のうちに心の中に入れていたのかもしれない。
だから護りたいと思ったし、こちらまで陽だまりに居るような気持ちになる柔らかな笑みが曇るのが嫌だと思うようになったのだろう。
今夜はそんな青年の思いもしない心の傷を知った。
黙って話を聞いていれば、弟は兄のためと必要以上に卑屈になって愚行を続け、兄は兄で弟への変な遠慮から事態を今日の今日までずるずると引き伸ばしてきたらしいではないか。
(私が怒るのはお門違いだってわかってるけど、口を挟まずにはいられなかったのよねー……あはは)
兄弟のことは凛風には解決できない。
できるとしたらやはり当人同士だけだ。
だからこそ、頭ではわかっていても何もできない自分に苛立った。
(まあ、理不尽な八つ当たりも入っていたけども)
それにもう兄弟仲は修復されたので、今更彼らの過去を自分が憂えても仕方がない。
それでも声に出して言いたい。
自分をもっと大事にしてほしかったと。
傍観せず、見放さず、かの青年を理解してやれる誰かが一人でも増えればいい。
(だってきっと彼は放っておくと、この先も辛いことだけ一人で全部引き受けようとする。そういう人だから。きっと子豪兄さんは、そこを見越して私をこの場に居させたんだ)
凛風なら弟の味方になってくれる、と。
(大正解だよ。私はもう彼を放ってはおけないもの)
冷静になると見えてくるもので、先程は説教なんてしたが、当時口で言って心の重荷が払拭されるようなら、とっくに誰かがやっていた。それこそ肖子豪あたりが。
きっと今日の今日まで回り道をする必要があったのだろう。
凛風は時に魔窟とも
市井に生きる自分にはその気苦労は到底わからないのかもしれないが、それでも一つだけわかる事がある。
(人って難しいなあ)
それは誰しもが抱く変わらない真理なのかもしれない。
髪も三つ編みに結び直し男装への着替えを終えた凛風は、廊下で待たせていた男性陣に入室を促すために扉を開けた。
廊下では、しばし中から聞こえる衣擦れに微妙な沈黙が続いていたが、凛風が姿を見せれば三者三様にホッとしてぞろぞろと促しに従った。
凛風は湯をもらってくると部屋に用意されていた茶器で四人分のお茶を淹れた。
それくらいの時間の消費はまだ許されよう。
静かな室内に、円卓を囲む四人が黙って茶を啜るどこか長閑とも言える音だけが響いた。
そうは言っても本格的にのんびりとはいかず、凛風はいの一番に飲み干すと卓に湯呑みを置いて立ち上がった。
「それじゃあ私はそろそろ失礼します。あとは任せて大丈夫でしょ、子豪兄さん」
「ああ、構わない。そういやもう時間も遅いんだったな。子偉、小風を下まで送ってやれ」
「わかりました」
部屋に残る二人に挨拶をして退室したが、その際、黎国望が真剣な目でじっとこちらを見ていたのは、騙したなと恨み言の一つでも言いたかったからだろうか。
自分が彼らの酒席に潜入しなければ、皇子二人が来る事もなかった。
(でもこうなって良かったって顔してるから、恨み言は違うかな)
肖子偉が酒席から彼女を連れ出した時と、今も嬉しそうに彼女を送りに出て行く様とを考慮しても、孫の気持ちがどこに在るかは明白だったが故に彼女を見定めていたのだが、眼差しに含有されたそんな意味に気付くはずもない。
凛風は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます