第20話 噂と真実4

(ど、どういうこと……?)


 凛風は必死に思考を巡らせた。

 常識的に考えて、自分の悪い噂を自分で流すなんて馬鹿げているにも程がある。


「え、アハハ子豪兄さん何を冗談言って……冗談にしても質が悪いよ」


 言いながら、我ながら乾いた声の響きだと思った。笑い飛ばそうとして無様に歪んだ表情は、結局上辺すら取り繕えていない。


「子偉本人なんだよ」


 こちらの顔付きを見てか、にこりともしないで肖子豪はもう一度端的に言い直した。

 ようやく冷静に理解が追い付いた凛風はそれでもまだ半信半疑だったが、振り返って肖子偉の細いかんばせを見上げれば、自分の中の半疑を覆さざるを得なかった。

 俯きがちに背を丸め顔色も悪く、口を閉ざし否定もしない。


 かげった彼の表情が全てその通りだと物語っていたからだ。


 もう一つ、先程の彼との言い合いの中での態度も、この事実を前提とすれば合点がいく部分もあった。


(どうして……)


 この事実を受け入れ難く思う。

 自分の知る肖子偉からは到底かけ離れているのだ。


「子偉、全部話せよ」

「兄上……」


 凛風は先刻、自己評価の物凄く低い彼の内面を知った。

 その原因となる何かがあるのだろうが、生憎自分にはわからない。そしてそんな卑下が今回の噂の件とも繋がっているのだろう。

 彼の事を実はまだほとんど何も知らないのだと、改めて痛感した。


(何か悔しい……)


 知らないから現状以上の肖子偉という人物像が見えてこない。

 我知らず奥歯を噛んでいた。


「理由は何だ?」

「……」

「黙り込まれてもわからないぞ」


 何も言わない様子に業を煮やしたのか、肖子豪は溜息を吐き一度部屋を出ていくと、すぐに誰かを伴って戻って来た。どうやら部屋の外で待たせていたらしい。

 肖子偉は兄が引っ張って来た相手を視認すると、僅かに目を瞠って諦観のようなものを浮かべた。

 その人物がついさっき酒席を共にした年配の高官だと気付いた凛風は「あ、山羊髭の」と短く声を上げたが、この場で詰問するような軽挙は控えた。

 豊かな髭のその男性官吏は悪事がバレて苦虫を噛み潰したような顔をしているかと思いきや、そうは見えなかったからというのも一つの判断理由だった。


 男性の浮かない面持ちには誰かを案じるような色がある。


 因みにドジョウ髭の官吏の方は、密かに妓楼の外に待機させていた肖子豪の配下が然るべき場所へ連れて行ったと後で聞いた。

 やはりお忍びとは言え護衛はいたのだ。


「これでも言わない気か? なら俺から言ってやる。お前の生母、黎貴妃が全ての発端だろう?」


 息を呑んだような間があった。

 ややあって細く長い吐息と共に肖子偉は口元に力ない笑みを浮かべた。


「兄上はどこまでご存知なのですか……?」

「事のあらましだけなら大体は。だがそこに介在しているお前の気持ちを俺は知らない。だからこそ話してくれ。そこにいるお前の祖父――礼部侍郎とどうして愚かな真似をしたのかを」


(祖父!? この人子偉皇子の身内!?)


 驚く凛風は、複雑な関係の三人の男たちを見つめる。

 その一人の肖子豪は表情や声に気遣いを乗せるが、一方では有無を言わせない雰囲気を醸していた。

 現在、この場を支配しているのは間違いなく第一皇子の彼だ。


「……わかりました」


 とうとう応じる肖子偉は静かに瞑目すると、許しを乞うようにゆっくりひざまずいた。


「子偉?」


 肖子豪は怪訝な声を出しながらも目を丸くする。

 跪くなど余程の事だ。

 そして案の定彼は赦しを乞うた。


「兄上、初めにどうか礼部侍郎こと我が祖父――黎国望をお赦し下さい。全ては私の発案であり独断で、彼は私のために動いてくれていたに過ぎません」


 肖子偉が訴えれば礼部侍郎が顔色を変えた。彼は孫に倣って拝跪はいきし、低頭した。


「ち、違うのです殿下。子偉殿下には一片の罪もございません! 噂を実際に流布させたのはこの老いぼれめです。よって全ての罪はこの愚官の上にございます!」

「いいえ兄上、彼は私のわがままを聞いてくれただけなのです。全責任は私の上にあります」


 祖父と孫の互いに譲らない様子に、肖子豪はふう、と溜息にも似たものを吐き出した。


「庇い合いは不要だ。そもそも俺はお前たちを弾劾するつもりはないからな。ただしこれ以上噂は流すなよ。しつこいようだが俺が知りたいのは動機だ。二人共もう立て」


 肖子豪の言葉を受けて、礼部侍郎がどこかホッとしたように顔を上げる。ただ、その顔には一気に十は老けたような疲れが滲んでいた。


「子偉、俺は黎貴妃が俺の杯に毒を盛ったことが、どうして今回の件に繋がったのか、お前の口からきちんと聞きたい」


(ど、毒!?)


 三人の傍らに大人しく佇む凛風は息を呑み、緊迫を手に握り締めた。


「……今まで、お前に昔の騒動を思い出させるのに気が引けて、この件に踏み込めなかった。不甲斐ない兄貴で悪いな」

「あっ兄上が謝る事など一つも……! 全ては私と母の罪です」

「お前は悪くないだろ。罪があったとしても黎貴妃が用意したその毒杯をお前が代わりに飲み干した時点で帳消しだ」

「え!? 毒を飲んだ!? 大丈夫なんですか!?」


 思わず焦燥の声を上げ肖子偉を支えるように手を添えた凛風に、二人を見ていた肖子豪は微笑ましいものを見るような目で眉尻を下げた。


「心配しなくとも、子偉はピンピンしてここにいるだろ」

「あ……そうか、そうですよね」


 過去の話でもあり、今ここで元気なのだから大丈夫だったのだと気付いてちょっと赤くなったが、添えた手に手を重ねてきた肖子偉が小さく笑んだ。


「心配してくれてありがとう。雷凛風」

「いえその、勝手に一人で騒いですみません」

「いや、そ、その……ぅ……」


 嬉しい、という言葉は小さ過ぎて傍にいた凛風の耳にも届かなかった。まあ唯一彼の兄だけは察してにやにやしていたが。

 少女の名前を聞き、礼部侍郎が「雷?」と一人首を傾げた。





 兄弟それぞれの母親はそろって貴妃の位にあった。

 貴妃双方の実家の大きさも同程度。

 故に、太子に冊立されるなら二人の皇子のうちのどちらかだろうと目されていた。

 だが、古来から玉座において双龍は昇らない。

 兄か弟か、どちらかは臣下としてかしずく運命にあった。或いは皇位争いの常として将来的な害となり得る相手を早々に葬るのも、珍しくもない展開だった。

 ただし、肖子偉はそんな風に考えた事はない。

 大好きな兄に仕え、精一杯尽力するつもりだった。


 しかし子供がそうでも親がそうとは限らない。


 最愛の息子が全てだった黎貴妃は、皇子たちが成長し太子擁立の論争が激化する前に禍いの芽を摘んでおこうとしたのだ。

 その頃は共に同じ宮で暮らしていた肖子偉が、母親の行動に気付かないわけがなかった。計画を突き止め、そして実行日に密かに妨害した。

 ここに一つ、彼の罪がある。

 兄を招いての会食中、皆の前で毒杯を飲むなと言ってしまえば母親の悪事が明るみに出る。

 彼は母親が皆から断罪されるのを恐れ、隠匿しようとしたのだ。

 故に誰に気付かれる事なく兄と自分の杯を入れ替え、何食わぬ顔をして飲み干した。

 それが概要だ。


「でもどうやって助かったんですか? 死なないような毒だったって事ですか?」


 毒と言っても軽い毒で、肖子豪への警告的なものだったのだろうかと凛風が率直な疑問を呈せば、当人の兄皇子は首を横に振る。


「毒は致死量だったって話だ。子偉は解毒薬を事前に腹に入れてたんだよ。だから死ななかった。だが五日……いや十日だったか? 床から離れられなかったって聞いたな」

「寝込んだ……? でも今解毒薬を飲んだって……」

「飲む時間が早過ぎて解毒の効能が半分損なわれていたらしい。因みに俺はその日は何も知らずに呑気に帰った。子偉は不調を我慢して寝所に戻ってから倒れたと聞いた」


 淡々と語った肖子豪は、弟へとどこか困ったような優しい苦笑を向ける。


「子偉、お前は俺に気付かせまいとしてくれたんだろう?」

「そ、そのような高尚な考えからではありません。私は母に目を覚ましてもらいたかったのです。そして後宮のゴタゴタは決して望まなかった。その自己中心的な思いからしただけです」


 謙遜というより自嘲を浮かべる弟に、兄はやや渋い面持ちで顎を撫でる。


「あのな、子偉……」

「しかしそこまでも知られていたのですね、感冒を拗らせた事にしておくよう宮の者には言い含めたのですが……。私はずっとあの会食では何もなかった事にできたと思っていました」

「あーそこはまあ、医官の行き来やら宮女たちの様子、あとは黎貴妃の狼狽うろたえようから秘匿は難しかった。何しろ後宮って所は自分で思うより狭い所だからな。人の口に戸は立てられないってやつだ」


 自身の考えの甘さを悔いてか、肖子偉は足元に目を落としどこかほろ苦い顔付きになった。


「それにな、お前が床から起き上がれるようになった頃だったか、後宮は勿論、皇城内に限ってはその件には厳しく緘口令かんこうれいが敷かれたんだよ」

「緘口令……」

「お前の一歩間違えれば命すら危うかった苦労が水の泡になるからと、うちの母貴妃おばさんが根回しした。ま、一番体張って頑張った奴が不幸になるのは見過ごせなかったんだろ。世間に露見すれば連座で罪に問われる可能性もあったからな。だから表面上は塀の中も平穏だったし、お前の耳に入らなかったんだろうな」


 肖子偉は第二の母とも仰ぐもう一人の貴妃を思い、感謝を抱いて一度瞑目した。


「……私は知らず、護られていたのですね」

「ああ、そうだぞ。父皇もおばさんの説得で今後明確な証言や証拠を提出する者がいなければっつー条件で、見て見ぬふりを約束したようだしな」

「そんなことまで……」


 視線を上げた肖子偉は、真っ直ぐに兄を見やった。

 兄はもう無理に話せとは言わない。

 肖子偉自らが話すのを待っているのだ。彼はぐっと口元を引き締めた。


「私はただ、大禍なく兄上に太子になって頂きたかったのです。私に良くない噂が立てば私を太子に立てようなどと誰も思わない、そう考えました」


 実際その目論見は上手くいっている。


「噂はしばらくはそのままでしょう。それがせめてもの救いです」

「お前な……。救いとか言うな」

「兄上には多大なご迷惑をお掛けして申し訳ありません」


 話すには話してくれたが、自分へと深々頭を下げる弟を見ながら、未だ心は閉ざされたままだと肖子豪は感じた。

 呻くように言ってガシガシと頭を掻く彼の仕種には、互いに知る真実を明かし合ったのに、心の距離は埋まらない事へのどうにもできないもどかしさと、そこから来る苛立ちとそして、一抹の寂しさのようなものが滲んでいた。


「――頑な、ですね」


 唐突に、少女の厳しい声が放たれた。

 兄弟と礼部侍郎が振り返ると、凛風が胡乱な目で肖子偉を見ている。

 彼女から向けられた事のない類の眼差しに、肖子偉はたじろいだ。


「子偉殿下、噂を放置するのは、駄目です。それにその遠慮っていうんですか、それ子豪兄さんは喜びませんよ」

「ら、雷凛風……?」

「そもそも、他人の罪を被るなんて、究極の馬鹿でしょう、あなた」


 究極の馬鹿。そんな呼ばわりをされた経験のない皇子様はポカンとしたし、もう一人の実はされた経験のある上の皇子様は唖然としている。礼部侍郎は賛同できる部分があったからか不敬な表現を咎める事もせず、覇気すら感じる少女の威容に感心したように顎髭あごひげしごいた。


「そんなもの悪人を助長させかねない。殿下に罪を被ってもらった人たちが全員感謝感激して改心したとでも?」

「それは……」

「それに他者が負うべき責任や償うべき罪科を中途半端に肩代わりして利用するとは言語道断。子豪兄さんに対しても不誠実ですよ」

「それは、悪事は自分で全部やれ……と」

「はあ? 違いますよ。馬鹿ですか」


 肖子偉は二度目の馬鹿と正論に閉口している。

 実際これ幸いと同じ事を繰り返して、肖子偉のせいにしている者もいるのだ。

 自分の自己犠牲の精神、負の噂を踏み台に太子になったところで、この兄の性格からして心は晴れないだろうと、今更ながら彼は悟った。

 いや、ようやくそういう方向からこの件を見られるようになったと言うべきか。

 次に、凛風は兄皇子の方も睥睨へいげいした。


「子豪兄さんも、しつこくて迷惑・ブラコンで迷惑・どっか空気読まず迷惑、の常時三迷惑が全然発揮されてないよ。わかってたなら遠慮は二の次で、弟愛のままに相手の都合なんて気にせず何度も食い下がって理由聞いて、お前早くこんな事はやめろって兄としてハッキリ叱るべきだったでしょ、え? 一歩引いてていい事とそうでない事があるんだよ、わかってる?」

「そ、それはごもっともです……」


 たじたじとなって首肯しながら、「常時三迷惑って……」と自分への認識にそこはかとなく悲しくなった肖子豪だ。

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