第22話 噂と真実6
「わざわざありがとうございます」
妓楼前の通りに出た凛風は、ここまで一緒に来てくれた肖子偉を振り返って浅く頭を下げた。
「礼は要らない。兄上に言われるまでもなく、わ、私が見送りたかったのだ」
「ホント優しいんですから」
何だか頬が緩んで、微笑みに近い表情で肖子偉を――布だるまを見上げる。
今はどうやって視界を確保しているのか、ピッチリと目元まで隠されているので、たぶんきっとそこが目だろうなという辺りを。
やはり人目の多い場所ではこれが定番なのか、部屋を出る際に布の携帯を忘れなかった徹底ぶりには密かに拍手さえ送ったものだった。
「……優しいのは、そなたの方だ。改めて、色々と本当に済まなかった。そなたは赦してくれたが、最低な事もして、心から済まない」
「あー……あれ。まあ私だったから良かったですけどね。他の人にしたら絶対駄目ですよ?」
「う、うん、他の誰かには絶対にしないと誓う。もっ勿論そなたにももう無理矢理したりはしないのだ」
「ならいいです。そんなわけですし、お互い気にしないで行きましょう」
「いや、その、さすがに気にはするというか……」
「ええー? じゃあ気に病まないで……ならどうです?」
「わかった。気に病まないことにする」
凛風が満足げに微笑むと、照れているのか布だるまがゆらゆらと揺れた。
布の中には何がいるのかと通行人からはチラチラと好奇の目が向けられているが、凛風は特にもう気にならない。これも慣れだ。
「今日は色んな事がびっくりしましたけど、ちゃーんと気持ちを理解し合えて良かったですね」
「うん、そなたのおかげだ。本当にありがとう」
肖子偉は布の中から感情の籠った声を返してきた。
「え? 私は特に何もしてませんよ? むしろ迷惑を掛けたんじゃないかと……」
「迷惑だなんてとんでもない。そなたが私のために動いてくれていなかったら、祖父と顔を合わせる状況にもならず兄上の気持ちも知らず、私は未だ勝手に大きな負い目を抱えたまま憂いの中に取り残されていた。きっかけはそなただ。だから心から感謝している」
ここまで謝意を示されてしまっては謙遜するのもかえって失礼だ。
「わかりました、その感謝有難く貰い受けます。ではそろそろ失礼しますね」
もう一度軽く一礼し
「はい、何でしょう?」
半歩足を引いて斜めに振り返れば、彼はしばし言い淀んでからどこか沈んだ声を出した。
「言い忘れていた。急で申し訳ないが、出前を当分休ませてほしい」
ちょっと驚いて瞬くと、やや沈黙が続いた。
彼の態度は単に申し訳なく思っているが故だろうと思った。これも商売の常、そんな必要はないのだがそうやって気にするのが肖子偉だろう、と。
「……これから、たぶん余り時間が取れなくなると思うのだ。勝手を言って本当に済まない」
「謝らないで下さい。それは全然構いませんけど、ゆっくり夕食を食べられないくらい、そんなに忙しいんですか?」
「……祖母の、皇太后の生誕の宴が控えているから」
「ああ、そういえばちらっと子豪兄さんも言ってましたっけ。皇子だとやっぱり色々と準備しないといけない諸々があるんですよね。わかりました。でも忙殺されて倒れないよう食事はきちんと栄養あるものを摂って下さいよ?」
「善処する」
声には強さがあり、積極的にきちんと食事を摂取するだろうと察することができ凛風は少し安心した。
「出前の再開、いつでも待ってますからね」
「うん、再開する時は雷浩然を通して頼むようにする」
「はい。あの、子偉殿下」
「ん?」
「さっきは来てくれてありがとうございました。何か、上手く言えませんけど、嬉しかったです」
そう言えば改めてお礼を言っていなかったと思い出し、言うべきだとも思って素直な気持ちを伝えれば、言葉が浮かばないのか布だるまは小さくもじもじした。
(ええと、これはこれで感謝を受けてくれたってことだよね?)
一人でそう結論付け、ではそのうちまたと軽く会釈をして背を向ければ、
「雷凛風!」
もう一度呼ばれて、片手を掴まれた。
どこか先刻別れた時のデジャブのような気もしたが、掴まれたと言ってもより正確に言えば両手で包み込むようにされた。思わず足は止めてしまったが強引さはなく、いつでも手を引き抜く事が出来そうだった。
その唐突な動きの弾みで彼の頭の布が滑り、さらりとした髪が彼の頬を掠めて肩口に流れた。露わになった
「子偉殿下?」
「雷凛風、そなたとはまだ会ってそんなに経ってはいないが、そなたは私にとって大切な人だ」
凛風は大きく目を瞠った。
まさかそんな嬉しい言葉をもらえるとは予想もしていなかった。
周囲の視線を気にするそんな余裕もないのか、彼は恥ずかしがる素振りもなく真っ直ぐにこちらを見ている。
大事な友人と認識していたのが自分だけではなかったのだと知って心が弾む。
自分も同じだと言おうとして、しかしそれより先に向こうが言葉を続けた。
「だから私は、絶対にそなたの包子をもう一度食べたい。いや、食べる」
「へ? 包子、ですか?」
どうしてここで包子なのか、そしてここまで必死なのか、まるで唯一の神宝に願掛けでもするように、肖子偉の両手に少し力が込められる。
「殿下……?」
そして離された。
「おやすみ、雷凛風」
少しの違和感があって目を上げたものの、しかしちょっと照れ臭そうにはにかむいつもの肖子偉の顔があって、何かを訊ねるのは迷った末にやめた。
後ろ髪を引かれる思いがあったのは否めないが、自分でも何がどう違和感なのかよくわからず内心で首を捻りつつも「おやすみなさい」と挨拶を返し、今度こそ帰路に就く。
もう肖子偉は大人しくこちらを見送るだけだった。
金兎雲を呼び緑安にある実家に戻って裏口から店内に入ると、後片付けだろう洗い物をしていた手を軽く拭って、母親の白紫華が傍に来た。
「お帰り凛風。やっと帰ってきたわね。少し心配してたのよ」
「ただいま。ごめんなさい遅くなって。ちょっと色々やる事ができちゃって」
「色々って……今夜の出前先ってあの人の所じゃなかったの?」
「えっ」
ぎくりとして足を止めそうになった。そうだった自分は父親の所に出前に出掛けた事になっていた。
行き先が遠方の皇都という点では同じだが、嘘は嘘。
悪意がないとは言え皇子たちと知り合ってから、何かと母親を誤魔化しているのは正直申し訳ないと思っていた。
母親らしい心配を向けられれば余計に後ろめたさを感じて、話せる所だけでも話してしまおうかと思っていると、白紫華が鼻先を近付けてきた。
「……あら良い匂い」
「え?」
「あなたから微かに花みたいな香りがするわよ。なあに~? やっぱり本当にお父さんの所じゃなかったのね」
母親から指摘され自分のにおいを嗅げば、髪の毛や服に肖子偉の香りが移っていたのだと悟った。
抱き締められたり布に包まれたりもしながら、ずっと近くにいたからだろう。
「ごめんなさい。でも大事な友人の所だよ。皇都に住んでるんだ。まだ詳しくは言えないんだけども……」
改めて、肖子偉の嗜む香りを意識すれば、頬が自然と緩んだ。
「……いい香り、だよね」
「あらまあ。ふふっまあいいわ。今夜の事は詮索しないでいてあげる」
寛容な母親に感謝だ。
(ふふっ、いつかあの愉快な皇子殿下たちを母さんに紹介できたらいいな)
凛風はそんな日を想像し、そうすればいつも以上に心地よい鼓動を刻む自らの胸にそっと触れて目を閉じた。
時は戻って、凛風たちが妓楼に滞在していたのと同じ刻。
「……はあ? あの第二皇子が、今この妓楼に?」
それは着衣をだらしなく着崩し、自棄酒と色事に明け暮れていた若い男の苦々しい声だった。
先程、廊下まで騒がしい物音が聞こえ、何事かと同席していた妓女がこっそり見に行って教えてくれたのだ。
彼は数日前に恋人と別れたばかりで自暴自棄になっていた。
しかも周囲からその恋人は第二皇子肖子偉に傾倒したのだろうと、何故なら皇子は見境なく気に入った女を寝取るから……と言われ、その単なる噂に乗じた憶測を鵜呑みにして肖子偉を逆恨んでいた。
恋は盲目と言うが、失恋の恨みは盲目的な先入観を生むのかもしれない。
元々女に関してはだらしないこの若者だったが、それは別として数々の肖子偉の噂には前々から眉をひそめてもいた。
そんな彼は偶然にも騒動の近くの部屋に滞在中だったのだ。
「ええ。あ、ほら今来るあの方がたおそらくは第二皇子ですわ」
騒ぎを聞き付けてからこっち、近くまで見に行き戻ってからも扉を薄く開け隙間からずっと野次馬根性丸出しで覗いていた妓女に強く促され、渋々と顔を歪めて覗き見れば、布の塊を抱えた一人の青年が目の前の廊下を横切っていく。
布の下からひらひらした衣装の端っこが見えていた事から、妓女を抱きかかえているのだとわかった。
見知らぬ青年は確かに蓮か何かの化身のように綺麗な顔をしていて、元恋人が好きそうな面だと心で唾を吐きかける。
「けっ、ここで得意気に女漁りか? 俺の恋人だけじゃ飽き足らねーってのかよ」
今まで顔も知らなかった皇子の実物を目にすれば憎悪が倍増する。
彼はとある盗賊団の首領で、巷では黒蛇と呼ばれている男だった。
黒は異国出身の褐色の肌の色と黒々とした髪の色から、蛇は執念深さと嫉妬深さ、長くてうねる様な頭髪からそれぞれ付けられた。
本名は別にあったが、この国の一般的な名とは響きが異なるので黒蛇で通している。
因みに恋人から振られたのはその性格のせいだったが、彼は無自覚に責任転嫁することで自らの矜持を保っていた。
長身で手足は長く、荒事が日常のために体躯は筋肉が程良く付いて恐ろしく均整が取れている。
その肉体美故に絆される妓女は少なくない。
しかし思い込みが激しい荒くれ男のせいで、妓女たちも扱いには時に手を焼いていた。
荒く身を翻し寝台にどっかと腰を下ろした彼は、妓女を手招きやや強引に抱き寄せると波立つ感情の捌け口のようにその瑞々しい唇を散々貪った。
手慣れた手つきでお気に入りの妓女の腰をまさぐりいい声で喘がせながら、義賊とも言われる彼は、この国では不思議と言われる緑色の瞳を細め、凄惨な笑みを浮かべる。
「――決めた。世の害悪にしかならん第二皇子を排除する」
息を乱し彼にしなだれかかっていた妓女は「何をご冗談を」と本気にはしていなかったが、彼は至って本気だった。
「おい、あの
「ええとあれを? 本当に宜しいの?」
「ああ、俺は普通の酒じゃ中々酔えねえしな。今夜は酔わねえとやってらんねえんだよ」
恋人と別れて間もないという話を聞かされていた妓女は、少し心配しつつも仕方がないかと了承した。
結局のところ彼が深酒をしようと売り上げに繋がればいいのだ。
酒を取りに妓女が部屋を出て行くのを見るでもなく、黒蛇はある意味得意気とも言える薄暗い眼差しで自身の唇をぺろりと嘗める。
「今からだと……――好機は皇城での宴だな」
その宴とは、皇帝の生母である皇太后の生誕の宴に他ならない。
その話は皇都の者なら周知だった。
細かい情報などは黒蛇の生業と裏稼業で培った伝手からどうにか仕入れられる。
生誕宴間近になれば、一般業者の出入りが頻繁になるだろう。無論許可の降りた業者だけだが、搬入業者側の人間として潜り込むのは容易だ。
「ハッ、人の恋路を邪魔したからにゃ、目に物見せてくれるぜ」
凛風も、肖子偉本人さえ知らない所で、愚直なまでの自己犠牲の代償が最悪の形で表れようとしていた。
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