第17話 噂と真実1

「失礼致します。大人だいじん方、依依にございます」


 凛風を後ろに伴い、この妓楼一、二の人気を誇る曹依依は部屋の中へと声を掛けた。幾何学模様が繰り返す独特の格子戸の向こうから応じる声が聞こえるや、白魚のような手を伸ばしてゆっくりと戸を押し開いた。


「今宵は突然のご無礼を承知で参りました。実は新人の凛凛をご紹介したく思いまして」


 曹依依は謝罪を口に、左右の手を胸の前で重ねて軽く腰を折ってみせた。

 背後に控える凛風は酒肴しゅこうの盆を持っているので頭を下げるに留めた。

 室内にいた客は男性二人で、ドジョウ髭の中年男性と山羊髭の老年男性だった。

 年齢的な観点からも醸し出す雰囲気からも、一見しただけでどちらの地位が上かわかる。


「突然の訪ないで何かと思えば、新人とな、依依?」

「はい。この娘ですわ。中々の器量良しでございましょう?」

「ほうほう、確かにな。二人共早くこちらへ来い。それにしても久しぶりにお主から酌をしてもらえるとは嬉しい限りだ。最近では他の客の相手中で時が悪く、中々席を共にできる機会がなかったからな、ハハハハ」


 年嵩の男性が鷹揚おうように手招いた。

 凛風たちの訪れに、先に居た妓女たちもきっと驚いたはずだが、心得ているのか一言断りを入れて退室していった。


「して、その新人とやら、名は?」

「ご挨拶を」


 曹依依から促され、新米妓女凛凛こと凛風は卓に酒肴を置くと改めて恭しく身を屈めた。


「凛凛にございます。よろしくお願い致します」





 曹依依からは大まかに妓女としての振る舞いを教えてもらった。

 付け焼き刃なのは重々承知だがそこはどうにもならない。なればこそ、ここからが正念場、ぶっつけ本番だと心の中で意気込んだ凛風だった……が、


(この人、酒臭いし馴れ馴れしい……っ)


 始まってみれば肩を抱かれて酌をさせられ時に腰にまで手を回されて、正直何度殴りたくなったか知れない。不快な無遠慮に憤慨を抱きつつも殴らなかったのは、偏に協力者である曹依依の面目と情報収集のためだ。


(説教を垂れてやりたい。練兵場で鍛えてやりたい)


 凛風は笑みが引き攣っていないかと気掛かりだったが、不審がられなかったので幸い変な表情にはなっていなかったようだ。

 彼女が憤っている相手は、立ち聞き時に反省の言葉を口にしていた方だろうドジョウ髭の男性だ。しかしながら今の状況からするに、彼は全く反省していないのが見て取れて、凛風は心底呆れ果てていた。


(このやに下がった助平そうな目元がまたムカつくわ)


 凛風と曹依依を両脇に従えた彼が饒舌に関係ない話ばかりを続けるので、探りを入れる暇もない。

 話をしたいのは、円卓の向かいに座る立派な山羊髭を蓄えた方だというのに。

 山羊髭の男性は折角の妓女を二人共取られているが、その不公平を気にしていない辺り、口で言う程そこまで妓女に興味はないのだろう。

 しかも何と彼は、先程から酔いが深まったせいか眠そうだった。


(顔は拝んだけど、まだ素性も知らないのにこのままだと帰られちゃう)


 彼は官吏ではあるらしいが、曹依依も詳しい素性は知らないらしい。


(もう賭けに出るしかない)


 凛風は一向に実のない会話の中、隣の男性に酒を注ぎつつふと憂えてみせた。


「ところで、最近恐ろしい話を聞いたのですが、どこかの妓楼で妓女が乱暴されたと。そのような輩がいるなんて怖いです」


 瞬間、密着しているも同然なので相手が硬直するのがよくわかった。しかしそれには気付かないふりをして演技を続ける。


「犯人が捕まったかどうか、お二人はご存知ですか?」


 向かいの男性が一つ息をついて緩やかに笑んだ。


「確かに酷い話だ。私の方でもその話は聞き及んでいる。だがお主らが必要以上に怯えずとも平気だ」

「と、言いますと?」


 曹依依がタイミングよく話を促すように興味を示せば、男性は満足そうに頷いた。


「何でも、犯人は第二皇子と言われているからな」


(なっ……!)


 凛風は咽から出かかった抗議を寸での所で呑み込んだ。傍からは驚きに息を詰まらせたとでも思われているだろう。


「皇子殿下だなんて、まさかそんな。余り怖がらせないで下さいませ。凛凛もこんなに不安がっておりますし」


 曹依依が言うように凛風は表情も強張り、顔からは血の気が引いている。

 ただしこれは猛烈な怒りに起因しているものだった。

 そこは曹依依もわかっていて、彼らに不審に思われないように先に不安からの表情と思わせたのはさすがだ。


(まさか目の前で子偉皇子への新たなでっち上げを語られるとは思ってなかった。でも何でこの人が? 恨みでもあるの?)


 男性は山羊髭をしごいた。


「ハハハハそう怖がらずとも良い。ここでは狼藉を働かぬよう私から殿下にお願いしておこう」

「まあ、うふふ今夜は凄く光栄ですわ。皇族のお顔を拝見できるような官吏の方にお酌をさせて頂けてたなんて。ねえ凛凛? こちらの大人だいじん方に気に入ってもらえるよう、この機によくよく学ばせて頂きなさいね」

「……はい、依依姉さん」


 曹依依から手を伸ばされそっと触れられて、もう少しで爆発しそうだった怒りの波が辛うじて引いていった。


(あー、本気で胸倉を掴みそうで危なかった)


 自らでこの絶好の機会を打ち壊さなくて済んだと心の中で曹依依に感謝していると、ドジョウ髭の男性が凛風の肩を撫で撫でやに下がった顔を近づけてきた。顎を上げさせられ酒臭い息が掛かる距離で覗き込まれる。


「私はこの方ほどの上級官吏ではないが、よしよし、今後は凛凛を一番の贔屓ひいきにしよう」

「あ、ありがとうございます~……」


 嫌過ぎて声が変に裏返らなかった自分を褒めたいと思った凛風だ。


「へへへ凛凛、じゃあその感謝を言葉ではなく行動で一つ示してはくれまいか~?」


 更に顔を近づけて来られて、ぞわりと鳥肌が立った。


(ちょっ、これってまさか――……)


 男性の口元がタコのように伸びてくる。


(わーッ気持ち悪いっ、気持ち悪いけどッッ! ここで拒んだら台無しになる。もうこうなったら犬相手と思うしかない)


 口吸いくらいなら情報料として安いもんだと、凛風は耐える決意をして拳を握った。

 さすがにやり過ぎだと焦った曹依依が止めようと身を乗り出した時だった。

 バーン、と勢いよく部屋の戸が開かれた。

 音の激しさと蝶番ちょうつがいが壊れたのではないかと言うような開き方に、一同は驚きを禁じえず、振り向いた。

 そんな四人全員の目がある一点に集中する。


「「「「――――は?」」」」


 そして皆の声が見事にハモッた。


 押し開かれた入口中央、そこにいたのは何と世にも奇妙な布だるまだった。


 ドジョウ髭の男性が「何だアレは!?」と素っ頓狂な声を上げ、曹依依と山羊髭の男性は絶句したように目を見開いている。


(え……何で……?)


 凛風は即座にその正体に気付いたが、どうして彼がこの場にいるのかは謎だった。


(あ、子豪兄さんもいた! っていうか兄さんが戸を蹴り開けたのね)


 布だるまのインパクトが強過ぎて、その傍らで微妙な顔付きで片足を戻した肖子豪に気付くのが遅れたが、唖然としていると思いがけず素早く動いた布だるまもとい肖子偉から腕を引かれ椅子から立たされる。


 次の瞬間、凛風の真正面で彼は自らの布を取り去った。


 眉根が寄せられていても秀麗なその顔にはどこか思い詰めたような気配がある。


 しかし一体どうしたのかと疑問を抱く暇もなく、視界が暗くなった。


 肖子偉によって頭から布を被せられたのだ。

 ……見事に布だるま二号の出来上がりだった。

 珍妙な出し物を見ているかの如く、誰も声を発せずにいた。


「え? ……え!?」


 そんな外の状況が見えない凛風は、いきなり視界が塞がれわけがわからず困惑の声を上げるしかない。


 すると、布の上から抱きしめられた。


 十中八九、肖子偉に。


「よかった……」


 布越しの耳の傍、聞こえた細い安堵の声がそれを証明した。





 肖子偉はやはり別れ際の凛風を引き留めてきちんと問い質すべきだったと悔いていた。

 兄と妓楼に戻って凛風を捜したが、元の部屋には見当たらなかったし、曹依依もどこかの部屋に赴いているのか姿がなかった。

 広い妓楼の中で手当たり次第妓女を捕まえて訊ねて回ってようやく事情を知る妓女を見つけた。そこに至るまで案外時間が掛かってしまったのは痛い。

 焦り廊下を駆ける中、肖子偉は苦々しい思いで一杯だった。

 本音を言えば、彼は妓楼と言うものが好きではなかった。

 着飾った女性の姿を見ると、どうしても思い出すのだ。


 後宮の女性たちを。


 実母を。


 肖子偉の生母は精神が弱く、そしてまた食の細い女性だった。

 食べる行為自体にさして執着もなさそうで、後宮で出されるから義務で摂っていたに過ぎないように見えた。美味しい物を美味しそうに食べている姿は記憶の中には見当たらなかったが、度々「美味しいか」と訊ねてくれたのは覚えている。


 是、と答えれば微笑みを浮かべてくれたし、「美味しいよ」と言って半分差し出せば食べてくれたから、嫌いな物であっても自分はそう言ってよく母親と分け合った。


 少しでも食べてほしかったのだ。


 それ以外では招かれた師に付いて学問をし、母親の違う兄や弟妹とはよく後宮の庭で遊び、皇子らしいといえば皇子らしい生活を送っていた。

 小さな不安は積もっていたが、充実した日々だった。

 そんな平穏な生活が続くだけで良かった。


 そう思っていたのに……現実は時に残酷だと、肖子偉は思ったものだ。


 あの頃から何年も経った今も、兄は兄で自分を気に掛けてくれている。それが嬉しくもあり申し訳なくもあった。


 彼は知らないのだ。


 肖子偉の母親が彼に何をしようとしたのかを。


 それが救いでもあり、屈託でもあった。


 そんな日々の中知り合った凛風は、見た事がないくらいに元気溌剌はつらつで頼もしい。不思議な雲に乗っているし兄が勧誘するくらいには武芸にも秀でているらしく、彼女は母親と違って沢山食べるようだった。

 それでも、後宮でのある騒動を境に姿を見る度に細くなっていった母親と重なる部分はないはずなのに、自分はふとした瞬間に不安に駆られる事があった。

 そのせいか出前の包子を一緒に食べると安心した。

 それは身を案じるというものでもあったが、今はそれとは似ているようで異なる、心の底が焦げ付くような感情も孕んでいるのを自覚している。


 そして、ようやく彼女を見つけた時、見知らぬ男が彼女に触れようとしていた。


 ただ部屋から連れ出すだけで良かったのに、思わず彼女の全身を布で隠してしまったのもそのせいだ。

 ハッキリ言って少女の美しい変貌には目を瞠るものがあったし、見た瞬間は動けなかった。


 兄にも誰にも彼女を見せたくないと思ってしまったのだ。


 布で包めば誰も触れないとも思ったのだ。


 決して布だるま仲間を欲したわけではな……いや一割は欲した。


 部屋に入る直前は、漏れ聞こえる声から凛風の同席者が誰かわかって愕然としたが、躊躇を振り切るように戸を開けようと一歩踏み出せたのは、間違いだらけの自分でも、大事な人を護る、これだけは間違いたくなかったからだ。

 戸は自分同様に中を察した兄が蹴り開けてくれたので助かった。


 自分を見て、奥に居た男が言葉を失くしたのがわかった。


 彼と自分は――……。


 ともかく雷凛風を護れたのだ。

 ここでもしも兄に自分の愚かしさを知られても、後悔はない。

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