第18話 噂と真実2
よかった、と囁かれた肖子偉の言葉。
どういうことなのか訊きたかったが、訊ねる前に客の男性の呆然としたような声が聞こえた。
「で、殿下方……」
どちらの言葉だったか、或いはどちらもの言葉だったのか。
(ああそうよどうしよう皇子だってバレた! 子豪兄さんはいつもわざわざ偽名使ってるのにこれじゃあ元も子もない。私を捜してたみたいだし、不真面目な皇子たちだって思われたら私のせいだ)
何か弁解を、と布を引っぺがそうと中でもがけば、
「……彼女は連れて行く」
予想外にも体が浮いてびっくりした。
「うわ!? え!?」
きっと布ごと肖子偉から抱き上げられたのだ。
「え、あのちょっと? 自分で歩けますから! それに私まだ客人に用事が」
「小風、大人しくしてろ。でないとたぶんこいつ本気で怒るぞ」
「えっ」
肖子豪はそんな事を言ったが、自分としてはこの布だるま皇子が怒る所なんて想像できない。そもそもこの状況がよくわからない。
「し、子偉殿下……どうしてここに?」
やや掠れてはいたがこれは山羊髭の男性の声だ。
姑息な謀略の主犯と思しき彼は動転しているのかどもるように言った。
「彼女をこれ以上ここには居させられないからだ」
「は、はあ……」
肖子偉の言わんとする旨をいまいち理解出来ないのか、彼は間抜けな返事をしただけで後は黙ってしまった。しかし黙っていなかったのがもう片方だった。
歩き出した肖子偉を引き留めるかのように声高に激する。
「殿下方が妓楼に通うのはまあ、私も男として理解は致します。口外は致しませんよ。ですが殿下、凛凛をどこに連れていくおつもりですか? 突然横から来て掻っ攫おうなどとは感心致しませんな」
酒が進み女性が絡むと冷静な判断が鈍るのか、ドジョウ髭の官吏は唾を飛ばす勢いで捲し立て皇子相手に一歩も引かない。先程からの物音や声の大きさに何事かと近くの部屋から他の客や妓女が顔を覗かせている。中にはわざわざ近くまで様子を見に来る者もいた。
「……彼女はここの妓女ではない」
「蝶のようなひらひらした衣装で飾り付けて薄布を纏い、肩を抱かれても嬉しそうに酌をしてくれる女なんて、ここの妓女でないなら何なのです?」
(は!? 嬉しそうになんてしてないっ。この男~っ)
内心憤る凛風は、しかし次には少し気分が落ち込んだ。
(でもこの状況下だし、そう思われてがっかりされたかも)
本音がどうであれ傍から見れば喜んで
何故自分は落ち込んでしまうのかを深く考えないまま、彼女の耳はよさないかと窘める老年の男声と、まだ不満を口にする中年官吏がこちらに近付く荒い足音を捉えた。
「――触るな」
いつにない肖子偉の鋭い声と共に避けるように動いたのがわかった。
相手はいきり立ったが、ここで第三者が割って入った。
「子偉、この場は俺が引き受けるから早く小風を連れてけ。依依ももう出ろ」
成り行きを黙って見ていた肖子豪だ。
「……はい。よろしくお願いします兄上」
「甲様の仰せに従いますわ」
二人の声を最後に騒がしさが遠ざかる。
目論みが中途半端になってしまったのは残念だが、凛風にはこの状況下ではもう無理をして戻る気はなくなっていた。肖兄弟が自分のために動いてくれたのを無下にしたくなかった。
男性たちの素性は彼らが知っていそうだったので、後で訊けばいい。
「子豪兄さんは一人で大丈夫でしょうか?」
「兄上なら大丈夫だと思う」
「凛凛の服はさっき皆で使った部屋まで持って行きますわね、乙様」
「た、頼む」
さっきの勢いはどこに行ったのか、彼は小さな声で曹依依に応じる。
凛風は、曹依依も一緒に退室できて良かったと心から安堵し、そう指示してくれた肖子豪に感謝した。
「依依さん、今夜はありがとうございました。あと、面倒な事に巻き込んでしまってすみませんでした」
「あらあらいいのよ、気にしないで。たまには適度な刺激も必要だから」
「そういうものですか?」
「うふふ、そういうものよ」
失礼なのはわかっていたが何となく布を剥げないままに謝意を伝えれば、微笑みを含んだような声を最後に曹依依の衣擦れが遠ざかった。
大人しく運ばれながら感じるのは、伝わる歩行の振動と体の片側にだけ伝わる布越しの温もり。少し体温が高い気がするのは、彼が懸命に駆け回って捜してくれたからだろうか。
「どうして私がここにいるってわかったんですか?」
「帰り際のそなたの様子が不自然だったので、もしやと思ったのだ。違うなら違うでよかったが、案の定ここにいた」
(あー、そんなに不自然だったんだ~私)
「実はここで調べものがあったもので……。でも予想外にもあのおじさんからちゅーされそうだったので正直助かりました。ありがとうございます」
「いや……」
明るい声で感謝すれば、相手は短く返事をしたきり後は無言だった。
顔が見えないので怒っているのか呆れているのか姿をさらす羞恥に耐え忍んでいるのかはわからない。
ややあって部屋に着いたようで戸が開かれる音がした。
大事な荷物のように丁寧に扱われ、靴裏が床につくと布を解かれてようやくきちんと肖子偉の姿が目に入る。
「ありがとうございます」
「いや……」
見つめると、彼は平素のように少し恥ずかしそうにした。
見回せば確かに皆で使った部屋のようだ。
と、肖子偉が両の眉を下げた。
「そなた、お酒臭い……飲んだのか?」
「私は飲んでいませんけど、密着してたので相手の臭いが移ったんですねきっと」
指摘されくんくんと袖を嗅いでみれば確かにそうで、これは移ったというより気付かないうちに少量零されていたのかもしれないと思えば、凛風は不快な表情で顔を離した。
肖子偉が「密着……」とごく小さく呟いて唇をわななかせ、腕を伸ばしてくる。
怒られるかと思いきや、
「もうこのようなことはしないでくれ」
袖を広げた彼からすっぽりと抱きしめられた。
酒臭さとは別の花のような香りに包まれる。
布を被せられた時にも香ったものだが、それよりも強いのは香が彼の纏う衣服に直接焚き染められたものだからだろう。
故に彼が包まっていた布にも移っていたのだ。
(この人らしい優しい匂い……)
でもどうしてまたもや抱きしめられているのか、凛風にはよくわからない。もしかしてそこまで心配する程に心労を掛けていたのかと思い至れば、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「色々とすみませんでした。だけどいざという時は何とかできますからそんなに心配しないで下さい」
抱きしめてくる腕の力が少しだけ増した。
「状況によってはそうもいかなかったかもしれない。そなたは自分を過信すべきではない。相手は男性で、そなたは女性なのだ。何事もなかったから良かったに過ぎない」
「ええー? そこらの男には負けませんよ私。だから本当に大じょ、ぅ……!?」
力瘤を見せようと一歩離れた弾みに、近くの椅子に足を取られ思わず体勢を崩せば、慣れない長さの裾を踏ん付け、あまつさえひらひらが邪魔をして上手く平衡を保てずに体が傾いだ。
「雷凛風!」
肖子偉が焦ったように手を伸ばしてきて、自分も思わず手を伸ばしたが、その後はついつい目を閉じなるべく全身に力を入れて衝撃に備えた。
「……そなた、大事はないか?」
すぐ傍で気遣う声にようやく目を開ければ、一緒に床に転がっていた肖子偉が隣からこちらを見ている。自分は彼の腕を下敷きにしていた。
(庇ってくれたんだ)
「お陰さまで大丈夫です。あははすみません慣れない服だったので……。殿下こそ大丈夫ですか?」
「平気だ」
「それなら良かったです」
安堵の息を吐く彼は起き上がろうとその両腕で自らの体重を支えた。
しかし次の瞬間、彼はハタと自分の状況に気付いたように固まった。
すぐそばの椅子や卓の脚が邪魔で空間の余裕がなかったせいで、彼はうっかり凛風を真下に床に両腕を突いていたのだ。
つまり、形だけは床ドン体勢だった。
「……ッ」
彼は急に平静を失するように目を見開いて、着飾った少女を眺め下ろした。
(あ、何かすごく焦ってる)
こちらも状況に気付いた凛風が真っ直ぐ見上げれば、目が合った肖子偉は輪を掛けてドギマギしたようにその目を逸らした。いつものような姿に思わずくすりとする。
「因みにどうです? この馬子にも衣装……って言っても私やっぱりこういう露出の高い薄い服って性に合いませんけどね。あのおじさんからべたべたされた時は正直困りましたし」
「…………」
気楽な感じで笑い飛ばせば、何を思ったか上から退けようとしていた肖子偉は、体勢を戻しこちらの着物の裾をわざわざ膝や手で下敷きにした。
「え、あの?」
自分も起き上がろうとした凛風だが、床に縫いつけられたように身動きが取れなくなる。
「過信するなと言ったのは、慣れない服のせいでこんな風なことだってされたかもしれないからだ」
服が突っ張るせいで自由が利かないのは事実だった。
肖子偉の眼差しはいつになく真剣で、凛風は我知らず息を詰めた。
「そなたの調べ物は、こうまでする必要があったのか?」
「今夜は何分急なことだったので……」
「何を調べているのだ?」
「それは……」
まさか「あなたの噂の調査をしていました」とは言いにくい。
「――話してくれるまで、退かない」
黙っていたらそんな事を言われた。
「ええとその~、子偉殿下には関係ないことですよ~?」
「――嘘だ」
「何でですか」
「そなたは自覚がないようだが、嘘が下手すぎる。……そうか、私に関係ある事なのか」
「えっ!」
凛風はとうとう動揺に声を上げた。それがまた肯定を意味しているとわかって墓穴を掘った自分に呆れ、彼に対しては気まずくてだらだらと汗が滲む。
「私に関するそなたの調べものとは何なのだ? 妓楼で何を知ろうと?」
向こうはもう確信しているようで、今更の否定も無意味だ。
決して誤魔化しを許してくれない空気が流れている。
彼の眼差しからは頑固にも揺るぎない意思を感じた。これは渋々でも白状するしかなさそうだった。
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