第15話 レッツ妓楼!4

(あーびっくりした。笑い声か。一瞬乱闘騒ぎでも起きたかと思った)


 そんな凛風の耳に、不可抗力にも会話までが飛び込んで来る。


「ハハハハ! もう気にせずとも良いと言っているだろうに。こちらで目撃者たちには十分な額を渡しておいたので蒸し返すこともないだろう。だがまあこれに懲りたらもう酒に呑まれて妓女に無体を働くなどという愚行は控えるのだぞ。今回はたまたま私が居合わせて揉み消してやれたのだからな。ハハハハハ!」

「はい、肝に銘じます」


 酒を静かにたしなむという言葉を知らないのかと、眉をひそめてしまった。


「だがなぁに、お主のおかげでちょうどよい――下衆げすい噂が出来た、ハハハハ」


(下衆い、噂……?)


 さっさとその場を立ち去るのが賢明だと踵を浮かせるも、言葉に引っ掛かりを覚え足を戻した。

 噂と聞いて真っ先に思い浮かんだのは肖子偉の顔だ。

 それでも自分が追っている物事とはまだ結び付きはしない。

 笑声の主は声の掠れ具合から父親よりは歳上そうな男性だ。酒が進んで上機嫌なのか同席者の目下めしたらしき男性との会話中も笑い声の方が多い印象だった。


「しかし大人だいじん、真面目な話揉み消しなどして大丈夫なのですか? 刑部の役人が動いたりは……?」

「ハハハなぁに心配はいらない。揉み消しとは言っても男が酔って暴れた事実はそのままに、お主の仕業ではないとしたまでの事」

「……ま、まさか」

「そうだ。犯人は別いるというわけだ。元々関わりがない故、その者がやったという明確な物的証拠が出ないので刑部でも手は出せない。その上刑部も暇ではない。殺人のような重犯罪でもなしで、腰を据えては動かんだろう。仮に関係者をあたったところで関係者は得た金銭を失いたくないと口を噤むさ。お主も金でどうにかなる相手で幸いだったな」


(――これは……いやでも、まさかね……)


 一瞬疑ったものの、どこにでもこの手の他者を陥れる悪企みはあるものだと思い直した。それでも詳細が気になり引き続き耳をそばだてる。


「そのように不安げにするな。こう見えて今まで何度も巧く操作してきた。お主も色々と聞き及んでおるだろう? あの方の噂の数々を」

「あの方……?」


 いぶかる声の後に考えるような間があったが、あの方が誰だかを理解したのだろう、男がハッと息を呑んだ。


「でっではまさか今までの噂は全部あなたが!?」

「ハハハそのまさかだ」

「し、しかしあなたは殿下の……」

「ハハハ、――余計な詮索は感心せんな」


 上機嫌から一転しての冷ややかな声音だった。

 ただ、発言者が慌てて謝罪すれば寛容に応じる笑い声が上がり、そのうち同席していたのか酌をする妓女の声もして別の話題へと転じていった。


(…………)


 凛風はしばし慄いたような顔付きでその場に留まっていたが、幸いにも最後まで中の人間たちに気付かれる事はなかった。


(確かに殿下って言葉が聞こえた。それに会話相手の言葉も気になる。彼は今までの噂全部って言ったよね)


 当代の皇帝には殿下と呼ばれるべき彼の子女が複数いるが、その中で下衆い噂の多い殿下なんて一人しか思い当たらない。


(まさか、この中の人が彼に罪を……?)


 姑息さに純然たる怒りが込み上げてくる。すぐさま目の前の扉を蹴り開けて男の顔を拝んでやろうとさえ思った。

 しかし、今夜自分には同行者がいる。

 まさに殿下と呼ばれる人物が。

 自分が騒ぎを起こし、万一彼らの存在がこの向こうに居る相手にバレれば、少なからずまずい状況になるに違いなかった。相手が皇子の顔を知っている確率が高いためだ。

 やはり早々にこの妓楼を出るのが良さそうだ。


(でも、詳しい部分をハッキリさせたいし、この向こうの相手が誰なのか突き止めたい……!)


 厠に行かず部屋に戻ると、すぐさま曹依依を廊下に連れ出した。

 中の誰からも聞かれないように声を小さくして頼み事をする。

 彼女は一瞬酷く驚き躊躇ためらうようにしたが、真剣な眼差しで言葉を重ねきっちり頭を下げる凛風のつむじをしばしじっと見つめてから、終いには根負け同然に了承の溜息をついた。

 彼女と廊下から戻って間もなく、酒席はお開きとした。

 妓女の中にはもっと滞在して欲しそうにしている者も少なくなかったが、十分楽しめてためになったと凛風が自覚なしの爽やかスマイルを送れば、しつこくしてくる者はいなかった。

 幸い肖兄弟からも異論はなかった。





「今夜は本当にどうもありがとうございました」


 妓楼の前でしかと一礼をすれば、肖子豪はやや苦笑染みた笑みを浮かべた。


「何か別にお前一人でも全然平気そうだったがな」

「そうでもないよ。二人が一緒に入ってくれたから心強くて、落ち着いていられたんだよ。まあ途中じい様も来たから多少要らない緊張はあったけど」

「ハハハ、小風の祖父さんは堅物だな。だが仙人はああでないとって思うぞ」

「ああでない仙人っているの?」

「あーまあな。仙人にだって個性はあるからそれぞれだ」

「ふうん?」


 肖子豪の知る仙人の話も気にはなるがその前に彼女は肖子偉へと目を向けた。


「乙兄さんもありがとうございました。甲兄さんと気を付けて帰って下さいね」


 恥ずかしがりにはやはり人の多い場所が堪えているのか、今は通行人から奇異の目に晒されて一回り小さく丸まっている。

 微笑んで手を振り見送るつもりの凛風に「じゃあな」と背を向け兄の肖子豪が歩き出す。続いて弟も……と当然思っていたが、何故か彼は自分の前から動かない。

 彼は彼のタイミングがあるのだろうとしばし待ってみたが、一向に踵を返す気配がなかった。

 訝しく思っていた凛風はしかしハッとした。


「ああそうかっ、物足りなかったですよね! ええとごめんなさい私の都合で出て来てしまって。そりゃ男ですし綺麗な女性ともっと居たかったに決まってますよね」


 文句は出なかったので気にしていなかった。

 どこか申し訳なく思っていると、布だるまがふるふると首を振る。


「断じて、違う」


 その声は布越しでくぐもってはいたが、珍しく不満というか憮然とした響きを有していた。

 弟が追い付いて来ないのに気付いてか、先を行っていた肖子豪が引き返して来る。


「子偉、折角のお出掛けで離れ難いのはわかるが、そろそろ遅いし小風も帰らないとまずいだろ。何なら俺たちが見送ってやるか? 小風、こっちに気を遣わなくていいから先に帰れ」


 弟の肩に腕を乗せ体重を掛けて、訳知り顔で提案する彼は凛風を促した。


「え、でも……」

「いいからいいから」


 軽く手首を振って追い払うような仕種をされては、これ以上見送りに留まっているのもかえって失礼だ。仕方がないかと潔く踵を返す。

 と――……、


「え、あの?」


 肖子偉に腕を掴まれ引き留められた。


「おい、子偉?」

「……雷凛風、そなたは金兎雲で、まっすぐ帰るのだろう……?」

「へ? あー、そう、ですね~……」


 危うく目が泳ぎそうになるのを何とか堪えた。

 実はこの後用事が出来たので、すぐには帰らないつもりだったのだ。


(あ、はは、この人勘が良いな~)


 布の奥からじっと視線を注がれているのがわかる。内心ぎくりとしつつも平静を装った。


「なら、いい……」


 しかしそれも束の間で、すんなり手を離してくれたのでほっとした。今は邪魔になるので関わられるのはまずいのだ。


「じゃあ、お言葉に甘えて私はこれで」


 回れ右をして数歩歩けば、背中に肖子豪の不思議そうな問いが投げられた。


「ここで雲に乗らないのか?」

「目立たない場所でと思って。知らない人は驚いちゃうでしょう?」

「ハハ、確かに」


 納得の声を背に彼女は今度こそ颯爽と通りを歩いていく。

 その間ずっと背中に二人の視線を感じていたが、後ろめたさもあって振り返らずに適当な四つ辻を曲がった。


(よし、これで大丈夫)


 意気込みも新たに両脚に力を入れると急いで駆けた。

 この街は初心者にも方向がわかりやすい碁盤の目状になっていて良かったと素直に思う。


 そして戻る、一路――妓楼へと。


 店の裏口から入れば、待っていてくれた曹依依が心得たように寄って来て、奥へと案内してくれた。





「なあ子偉。小風のやつ絶対何か隠してたよな」

「そう思います」

「ああ、だから引き留めてたのか?」

「……はい」


 凛風が肖子偉の問いに明らかに不自然になったのはさすがに肖子豪にもわかった。

 彼女は器用に嘘をつけないタイプだろうと二人はとうに気付いている。

 肖子豪は傍に建つ妓楼の軒に下がる赤提灯を見上げた。


「十中八九、ここだろうな」


 同意見なのか、弟は否定しない。


「はー、何する気なんだかなー。まさか綺麗どころを沢山目にして、その方面に目覚めたとかじゃないだろうしな」

「えっ……」

「いや冗談だって。真に受けるなよ。小風は一見そこらの男より男前だが依依と違ってノン気だろ。試しに壁ドンとかしてみたらどうだ? うっかりときめくかもしれないぞ?」

「い、いえそれはちょっと……」

「何だ何だ弱気だな。お前も男だし、本音では小風を押し倒したいと思ってるだろ」

「あ、兄上! 道端で話す事ではありませんし、そのように無理強いはしません」

「ははっどうせ誰も聞いてないって。照れるな照れるな~」

「……」


 肘でぐいぐい押されて黙り込んだ弟から、ふっと不機嫌オーラが漂って、肖子豪は肘を離した。


「ま、まあ無理強いは駄目だよな、うんうん。楊仙人も妓楼で何かあったら許さんって感じの事を言ってたし、もしもあいつがここで危ない橋を渡ろうとしてるなら止めないとな」

「はい」

「だってなあ、あの御仁にぶち殺されたくないし」

「そ、それは私もです。不興を買わず、出来れば仲良くしたいです」

「まあ外堀からっつーか外堀も無難に埋めたいよな?」


 肖子豪は率直過ぎる物言いと共に、引っ込めたばかりのにやにや笑いを再び貼り付けた。


「それは……っ、楊仙人は今夜の宴席での話だけでも各種物事に造詣が深く博識でしたし、もっと話を聞いてみたいという意味で、決してそういう意味では……」

「照れるな照れるな~。お兄ちゃんはわかってるぞ~。お前って実はわかりやすいもんな。布被ってるおかげだよなバレてねえの」

「……」

「ああいや違うか、小風が鈍いからバレずに済んでるのか? ってどっちもか。でもなあ気持ちに気付いてもらって意識して欲しい気もするよな~? なあ子偉? どうするよ? なあなあ~? お兄ちゃんは全面協力するぞ~?」

「……」


 テシテシとふざけるように軽く背を叩いて来るしつこい兄へと、弟はぼそりと言った。


「……兄上のそういうところが、――嫌いです」


 瞬間、肖子豪は思考停止に陥った。

 耳朶に反響する往来の喧騒が無意味に大きくなった、気がした。

 無言の二人の間に髪を靡かせる夏の温~い風が吹いたが、少なくとも凍り付いていた肖子豪は温さを感じていなかった。

 むしろ寒風だった。


「――――えッ!?」


 大きなタイムラグの後、路上に一人のブラコンの絶望に満ちた声が上がった。

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