第10話 離宮の珍客1

 静かな夜の風に乗って、池の周りで鳴く虫の声が聞こえてくる。

 ようやく目尻の涙を拭って呼吸も落ち着いた肖子偉を前に、凛風は再度妓楼案件で口を開いていいものかと遠慮が過ぎった。

 しかし、それ以上考える前にハッと目を瞠ると咄嗟に険しいものに表情を変え、この東屋から続く桟橋の池のほとり側へ視線を振り向けた。


「灯りが……」


 警戒した少女の呟きにハッと息を呑み肖子偉も目を向ける。

 二人の視線の先では、桟橋を伝ってこちらに近付く何者かの手持ち提灯ちょうちんの灯りが揺れていた。東屋に吊り下げられている物は蛇腹仕様だったが、あちらは支柱に紙か布を張った小さな角灯のようだった。

 離宮の建物以外庭も池も真っ暗だ。

 それは桟橋も例外ではない。

 左右両方向に落下防止も兼ねた手摺りはあるが、それでもやはり夜の足元には灯りが必要だ。

 地の利にも似てそれは接近者にこちらが気付けるという点では有利に働く。


(父さん……にしては歩くのが速い。誰……?)


 雷浩然ならば別にいい。しかし今夜も離宮内で残業している彼は余程の用事でもない限り東屋には来ないだろう。実際にここへの出前を始めて一度も来ていない。なので余程の用事があって急ぎ来たのだとしてもその内容にいい予感はしないが、相手が彼でないならもっと悪かった。

 一時的に金兎雲で離れようとも思ったが、それはそれで肖子偉だけに責任を負わせる事になるので思い止まった。

 こちらから向こうの灯りが見えているという事は、つまりこちらの灯りも見えているはずで、人数も知られただろう。今更隠れるのは無意味だ。


「どうしましょう。無許可で入ったのを知られるわけですし」


 それは彼と父親の弱みになりかねない。

 本来油断している暇のない皇宮という場所での警戒を怠った自分の失態だと、凛風はほぞを噛んだ。


「子偉殿下、ここに来るような人物に心当たりは?」

「……少しだけ。事前の連絡もなく、時々来る」

「あ、そうなんですか……。もしその人なら問題はないですね」


 彼の事情に踏み込む良し悪しに四の五の言ってはいられず思い切って問えば、彼はそんな事を言った。

 連絡なしに訪れるなど、相当気の置けない相手なのではないだろうか。少なくとも皇子の身は安全だ。むしろ不法侵入者の凛風の方が危うい。


(父さんに是非とも一言文句を言いたいわ。教えておいて欲しかった。第三者に目撃される可能性が低くなかったなら、一緒に食べたり過ごしたりしなかったのに)


 緊張に固唾を呑んでいると、肖子偉が前へ出た。

 凛風はちょっと慌てた。知り合いかも知れなくともまだ相手の正体はわからないのだ、不用意に高貴な身を危険に晒すわけにはいかないと彼の盾になろうとして、けれど逆に彼の上げた腕に遮られてしまった。


「殿下、相手が刺客だったらどうするんですか。御身の安全を優先して下さい」


 ちょっと怒り口調になってしまえば、振り返った彼は割と近い距離で目が合ったからかどこかいつも以上に恥ずかしそうに瞳を揺らしながらも、きっぱりと言った。


「あ、相手が誰であれ、私に用があるはずだ。そなたを巻き込むのは本意ではない」


 正論は正論だが、やはり彼を危険には晒せない。

 前に出ようとかわしていこうとすれば、彼も同じ方向に動いて立ち塞がった。

 今度は反対側に足を踏み込めばその方向に移動してきて動きを封じられる。


(できる……!)


 二人の間に見えない火花が散る……事はなかったが、凛風は心中で唸った。


(でも、譲れない)


 そうして二人が右に左に行ったり来たりを繰り返しているうちに、招かれざる客人は桟橋の板を踏む靴音が聞こえる距離にまで迫っていた。





 板の軋みを聞き付け動きを止めた凛風は、馬鹿をやっていた痛烈な自覚とともに近付く灯りを凝視した。

 その前ではまたもや肖子偉が凛風を護るように体をズラした。

 果たして何者がこちらにやって来たのか。

 程なくしてそれは明らかになった。


「――よっ子偉、愛しの我が弟よ!」

「あ、兄上……?」


 まだ薄らとした輪郭だけで姿は見えないが、暗闇の向こうから飛んできた声は男声で、しかも何気に陽気だった。

 害意がないと感じて一瞬安堵しそうになったものの、その内容は決して看過できるものではない。


(え、愛しの我が弟に兄上呼びってことは……第一皇子? よりにもよって!?)


「こ、今夜はどうしてここに?」

「ああ、久々に帰って来て一番にお前の顔が見たくなったんだよ」


 全くの予期せぬ相手に凛風が動揺していると、相手がようやく東屋の提灯灯りが及ぶ範囲まで近付いてきた。

 兄相手だというのに肖子偉の横顔はどこか居心地が悪そうだ。


(たぶん、よく来るって人は第一皇子じゃあないんだわ)


「寄ったらここに灯りがあっただろ、だから風流に夜の池を愛でてんのかと思って、俺も一緒に~って来てみたが、来客中らしいし途中で引き返そうとしたんだぞ。だがその相手が小風だったから思い直した。俺も交ぜろよな~!」


(えっ、私を知ってる?)


 わけがわからず肖子偉の陰から相手の姿を見た凛風はしかし、ポカンと口を開けた。

 椅子に置いたままにしていた布を取るべきか迷っていたのか、肩越しに後ろを見た肖子偉が凛風の表情に気付いてちょっと目を瞠る。

 凛風はまじまじと第一皇子の顔を見つめていた。


「……え!? は!? 子豪兄さん!?」


 思わず素っ頓狂な声を上げれば、声にびっくりしたのか肖子偉がビクッと肩を揺らした。

 第一皇子は驚嘆した様子の凛風を見やって、次に卓上に広げられている蒸籠や岡持ちを見やって状況を理解し、合点したようだった。


「なるほど、出前でここに来てたのか」

「そうだけど、ええと実は第一皇子殿下と名前が同じ肖子豪だから招かれて、同姓同名会議でもしにここに……?」


 凛風は動転を落ち着けようと努め、何とか驚きを押しやった。

 実弟である第二皇子が「兄上」と呼び掛けたのだし、そんなわけはないと自分で理解はしつつも下らない質問をぶつければ、武人としての体格に恵まれた青年は胸を張って呵々かかと笑った。


「いやいや、何を隠そうこの俺が第一皇子――肖子豪だ!」

「…………」


 押し付けがましい宣言に微妙にウザくなりつつも、凛風はさっと頭を下げ拱手きょうしゅの姿勢を取った。

 ゴロツキ扱いしたり諸々の非礼を思い出すだに、ゴイーンと頭の上で大きな釣り鐘が鳴るような気さえする。


「知らぬとは言え今までの礼を失した態度の数々をお赦し下さい」

「おいおい身分を知ったからって態度を変えるなって。寂しいだろ。公の場ではともかくここは私的な場なんだ、今まで通りに俺の弟分として接してくれよ、小風」


 大きな溜息をつかれ、凛風はおずおずと顔を上げる。


「……いいんですか?」

「いいに決まってるだろ、水臭いな~。敬語もやめろよな」


 快活に笑って軽く手を払うような仕種をする彼に、凛風はふうと安堵の息をついて苦笑した。自分としても彼に今更畏まるのは無理とか半分本気で思っていたので助かった。


「わかった。じゃあ仰せのままにってね」

「おいおい……。まあ小風らしいふんぎりの良さだ」

「それにしても、何度も会ってるのに子豪兄さんが皇子だなんて一度たりとも思わなかったよ。ただの同姓同名だとばかり。素性を隠してたのは護身の観点から妥当だけど、皇城を出て各地をほっつき歩いてるだなんて不良皇子もいいところだよ」

「ハハハよく言われる」

「でしょう!」


 蚊帳かやの外に置かれた肖子偉が、先程から恥ずかしがるのも失念したように心底不思議そうな顔をしていたが、二人はそれには気付かずにハハハと豪快に笑い合っている。


「あのー兄上、雷凛風とは知り合いなのですか……?」

「まあちょっとした縁で。それよりお前も白家の包子を知ってたんだな。美味いよなそれ」

「はい。以前、山太師からもらった事があったのです」


(山太師……太師って三公の役職の一つだよね? じい様の知り合いだったりして)


 太師、太傅たいふ太保たいほと文字通り三つの役職がある三公だが、そのうちのどの役職の人物が祖父の知り合いなのかは聞いていないので、機会があれば訊いてみようと思っていると、いつも底抜けに明るい肖子豪が不機嫌そうな顔になった。


「山太師、ね。へえええ~」

「兄上?」

「いや。ところで小風と見た感じ親しそうだが、もしかして出前は今日が初めてじゃないのか?」

「はい。四日ないし五日置きに届けてもらってそろそろ二月くらいになるかと」

「それは羨ましいな! 俺はわざわざ食いに行かないと食えないってのによー!」


 肖子豪が子供のように拗ねたので凛風は苦笑を浮かべた。兄弟だから味覚も似るのか、実家の一押しを揃って気に入ってくれているのは素直に嬉しい。


「子豪兄さんがお望みなら、ここへの出前の日に一緒に運ぶけど?」

「それはありがたいが、ここ空けてる方が多いからなあ~……。折角だが自分の足で食いに行くわ」

「そっか。でもいい加減ぶらつくのやめなよ」

「ハハハだよな~」


 とか笑いつつ、きっとその必要性に駆られなければやめないのだろうと、何となく凛風は思った。

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