第9話 動き出す決意

「ねえじい様、相談があるんだけど」


 出前に来た孫娘からそう切り出された楊叡は、そのいつにない深刻な面持ちに何かざわつくものを感じた。

 今日も愛妻は元々の予定通りのお出掛け中で、だから前もって出前を頼んだのだが、やってくるなり愛孫は手早く木の円卓に料理を広げると楊叡を席に促し、自分はその正面に座して真っ直ぐ背筋を伸ばしたのだ。

 建付けの悪い雨戸から射し込む陽光が少女の滑らかな頬を白くなぞる。


「何事かのっぴきならない事情があるのか?」

「のっぴきならなくはないけど、じい様の知恵を借りられればと思って」

「わしで役に立つ事ならばよいが。まあとりあえずは話を聞こう」


 そういうわけで、凛風は雪露宮に出前に行ってからこっちの出来事を話して聞かせた。

 大人しく聞いていた楊叡はと言うと、


「ほう、そんなことがの~」


 口元では笑いながら、こめかみには青筋を浮かせていた。

 人間から仙人になって久しい彼は人間としての常識的な寿命などとうに超している。仙人の能力で青年姿にもなれるのだが、孫の前では極力枯れ姿、つまりは白髪白髭をしたしわしわのジジイ姿でいる。

 老人姿でいると何かと労わってくれるので、孫に構われたいという健気な願望の表れだ。


「じい様の朝廷嫌いって筋金入りよね。子偉殿下以外には会わないよう用心してるから心配しなくても大丈夫よ。騒動には巻き込まれないって」


 気遣いと呆れが混ざった顔付きで凛風が両手で頬杖をつけば、楊叡は上昇していた怒りを下げた。ふー、とやや長い息を吐き出して気持ちを落ち着けると包子をやけ食いよろしくバクバクと口に入れた。三口で一つを平らげた大口の割に気品漂う食べ方なのには毎度感心する凛風だ。

 酒での気晴らしよろしく手元に置いてあった湯呑みを呷って飲み下すと、楊叡は存外真面目な顔をして告げた。


「噂云々でもう既に、能動的にではあるが内部事情に巻き込まれておるよ、阿風は」

「あー……だよねえ……」


 否定できずに小さく呻く凛風は、しかしこの件から手を引くつもりはない。


「どんな正義や温情が理由であれ、わしは身内に朝廷に関わってほしくないのだ」


 楊叡の至って静かな口調には彼の本気の心が見えて、聞いていた凛風は少しだけ疑問を眉に乗せた。


「前から思ってたけど、父さんが官吏なのはいいの?」

「そこはまあ……大きな譲歩と大きな妥協だの」

「ああそうなんだ……」


 雷浩然の話を出したからか「だが」と楊叡は熾き火のような怒気を腹の底に燃え立たせ拳を握る。


「出前とは言え、そなたを皇宮に向かわせるとは、雷浩然め。あまつさえそなたは定期的に皇子と顔を合わせているだと? しかも遅めの時間に? わしの朝廷嫌いを知っていながら阿風にそのような事をさせていたとは、雷浩然め。今度会ったら説教を垂れてくれるわ、雷浩然め!」

「定期的な出前は私が直接殿下本人と話して了解したんだし、殿下は変わってるけどいい子だよ」

「いい子……。確か第二皇子とやらは歳は十八だか九ではなかったか?」

「うん、十八よ。それが何か?」


 キョトンとした面持ちで凛風は瞬いた。

 楊叡は急激に怒りが凋むのを感じた。夜に年頃の男女がと心配している自分が何となく馬鹿らしくなった。


「まあともかく、阿風はその皇子の噂をどうにかしたいのだな?」

「うんそう」

「だが余り首を突っ込まんでも良いのではないか? 朝廷内の事は朝廷内でどうにかするだろうに」

「んーでも子偉殿下ってあんなでしょ、何か護ってあげたくなるんだよね」

「あんな、とは?」

「布だるま」


 楊叡はこめかみを揉んだ。彼は孫との会話がきちんと成立しているのか心配になったのだ。


「ああごめんごめん、説明が足りなかった。恥ずかしがって頭から布を被って姿を隠してるから、布だるまなの」

「……なるほど」


 納得しつつも依然としてこめかみを揉む手は外れない。

 今度はその事実に頭痛がしていた。

 妖怪みたいな皇子でいいのか、と朝廷の誰かに問いたかった。


「話を聞くに、おそらくは噂を利用して皇子を貶めようとする誰かがいるのだろう。その妓楼ぎろうでの話というのが興味深いが、不特定多数が出入りするという点からその相手を見つけるのは少々難しいの。加えてその者も又聞きだった可能性もある。首謀者を突き止めるのも流布している噂を防ぐのも無理難題だの。気の毒だが、わしらにはどうすることも出来んだろう」


 この国ではまだ次期皇帝たる太子が決まっていない。

 故にこの件は、皇位争いに関わる陰謀の一部なのではないかと楊叡は思う。

 推測通りならば、大胆にも皇子に手を出すあたり、朝廷内部の何者かが大きく関係しているのは間違いない。


「本当にどうにもできない? 言い忘れてたけど、装具店の話と同じように損失を補償されてた件が他にもあるみたいで、余計に何をしたいのかわからないんだよね」

「ふむ……」


 最終的には庶民に実害が出ないように仕向け、噂だけを抽出するようなやり方が、楊叡にとってはまさに第二皇子の評判を落とすための画策に思えた。

 補償を放置している件とそうでない件があるのは、便乗している者たちまでは把握し切れないからではなかろうか。

 一般庶民の実害を望まないとすれば、首謀者は根っからの悪人ではないのかもしれないとも考えた。

 しかしそれは早計に過ぎる見方でもある。

 まあ何が真実にせよ、彼は大事な孫娘を関わらせたくはなかった。


「残念だが、やはりどう考えてもわしら部外者に解決出来る事ではないようだの」

「ホントのホントにどうにもできない?」

「無理だの。阿風が気に病むでないよ。こればかりは仕方あるまい」

「そっか……」


 凛風は目に見えてがっかりしたが、楊叡はふっと微笑んだ。

 孫娘の優しさが好ましかったのだ。

 打つ手なしとは言えすんなりとは踏ん切りのつかない凛風は、それでも帰る頃には自分なりに整理を付けたのか表情は平素のものに戻っていた。


「気を付けて帰るのだぞ」

「うん、じい様も体に気を付けて。風邪引かないようにね」


 飛び乗った金兎雲の上で岡持ちを片手に、凛風は祖父を見やって破顔した。

 仙人なのでそんな気遣いは本来必要ないのだが、楊叡はほっこりとした気持ちになった。

 彼はやはり孫の前ではこの姿に限ると思った。


「今日はありがとう。おかげで決心できたよ。私、躊躇を止める!」


 凛風はすっきりとした面持ちで凛然と宣言した。


「躊躇……とは?」


 怪訝にする楊叡はしかし嫌な予感がした。


「片っ端から皇都にある妓楼に行って、手当たり次第聞き込み調査してみるよ。数撃ちゃ当たるって言うしね!」

「は!? い、いやちーっと待て阿風」

「もう決めたの。だって現状のままじゃどうもならないなら蹴り破ってでも打開しないと。女だから正直妓楼は無理かなって思ってたけど、そうも言ってられないし男装して行ってくるよ。初めてだから心もとないけど何とかなるよねきっと!」


 にっと悟ったような男前な笑みを浮かべる少女、雷凛風。

 孫娘のこの選択は楊叡にとって完全に想定外だった。


「じゃあまたねじい様! ばあ様にも宜しく~、私頑張るよ~!」

「そっそれは反則だの阿風! 阿風やーーーーっ!」


 バビュンと風を切る音を立ててあっと言う間に帰って行く孫娘。

 金兎雲がどこか同情的な目をしていた。

 飛仙の楊叡だが、自分で飛んで追いかけ思い止まらせるという方法を失念するくらいに唖然としながらも、頭の片隅では時に突っ走るところは揺るぎなく愛妻の血筋と、そしてあの娘婿の雷浩然の血だ、と感心してもいた。

 愛妻の白蘭は老人姿の楊叡に惚れこんだ究極の枯れ専で、仙人になって久しい楊叡がただ一人きりで暮らしていたこの険しく高い深山まで押し掛けて来たつわものだった。


 凛風が去った高山のあばら家の前で、楊叡は一人引き止める形で手を前に伸ばしたまま、季節でもないのに何故か木枯らしに吹かれていた。





 祖父への出前を済ませて戻った凛風は、時間が許す限り店を手伝ってから今度は皇都へと向かった。

 今日も池の東屋には仄かな灯りと人影が二つ。

 凛風が岡持ちから出した蒸籠を開け湯気と香気が広がれば、肖子偉は幸せそうな顔をして包子を頬張った。

 向かいに腰かけその姿に和みながら、凛風は昼間の決意を強くする。


(この人が恨まれるとは思えない。だからきっと首謀者を突き止めてみせるよ)


 でも、と自分だけではわからないことがあるので、そこは他者からの意見を仰ごうと考えた。自分よりも歳上だし男性の肖子偉の方がきっと物事を知っているだろう。


「参考までに殿下に一つお訊きしたいんですけど、妓楼で女性と遊んだ経験ってあります?」


 ぶほっと肖子偉が盛大に咳き込んだ。

 苦しさのせいか羞恥のせいか顔を真っ赤にしている。


「あ、すみません失言でした。そこは秘密でいいです。知りたかったのは妓楼とかで女性を気分よくさせるには普通まず何をするかってことで」


 彼は更に大きく咳き込んだ。その目には大きな困惑が見える。


「だ、大丈夫ですか? 背中摩ります?」

「大、丈夫。何、とか」


(うーん訊き方がまずかった? 妓女たちは酒席で色んな話を聞いてるはずだから彼女たちから聞ければと思ってるんだけど。男装して行くにしろ、話を聞くにはまず打ち解けることが肝要でしょ? 私は女だからいまいち男性が女性と打ち解ける方法ってわからないのよね)


 彼女を知っている人間が聞けば「いやむしろそのままで全然大丈夫」と言うに違いない無駄な悩みを抱え、凛風は肖子偉が落ち着くのを待ってからもう一度質問しようと機会を窺った。

 向かいでは更なる答えにくい質問が飛んでくる予感でもしたか、彼は耳まで赤くして慄いたように瞳を震わせる。


(あ、涙目も可愛いな)


 幾つかの点で、この夜はいつもと少しだけ違っていた。

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