物語から逃れる
宝珠の
その世の空を飛ぶは背中に翼をもつ龍の群れ。
亜衣と和音がその世界で一介の冒険者として転生を果たすまでには、彼岸の役人にステータスなるものを割り振られるなどお決まりのやりとりがあったことにしておくが、私が語ろうとしている物語にとっては不要である。よって語ることはしない。
大切なことは、剣と魔法の世界でも亜衣と和音は私の存在に気付くや否や、ともに魔王なるものを退治するという目的を放棄して即座に逃走を図ったことである。まだ亜衣と和音は私の本質が何であるのか気づいていないのだ。
その為、とある迷宮には異なる世界に旅立てるという泉があると知って、その攻略に挑み、目的地にたどり着くとや否や、二人手に手を取って泉に身を投げたのである。今度こそ誰からも見られない安住が約束された世界にたどり着くと信じて。
哀れなる二人だ、彼女らは私が語り手であることを知らない。
語り手は語る意志を失くさないかぎり、どこまでも二人を追跡できるのである。今度の二人がいる世界は、剣と魔法からは打って変わってきらめく摩天楼が立ち並ぶ大都会の塵芥で汚れた裏路地だ。
この世界で亜衣は治安を護る側にいる少女型の異能者で、和音はとある組織から脱走した改造人間の少女に生まれ変わっていた。敵同士として巡り合った二人だが、因縁により何度も巡り合いそして世界の全容をしるうちに手を取り合う機会が増えていくという筋書きの物語だ。私が彼女らに追いついた時は、寒風吹きすさぶ廃ビルの中で互いに銃を向き合っている。
乾いた詩情がそこにある。こういう趣向も悪くない。
しかしここでも、亜衣と和音は落ち着かなさそうにあたりの気配を伺うのだ。
「A‐01ったっけ? さすがだよ、虫をも殺さぬ顔をしてってやつだ」
「K‐zn、貴女が何を言わんとしているか分からない。罠なんて――」
「とぼけないでよ、仲間は呼ばないって約束を無視したっていうんじゃないなら、この気配は何なんなのさ?」
「嘘なんてついていないわ、私、仲間なんて呼ばない。疑うのならあなたの能力で確かめればいいでしょう?」
困惑した表情の亜衣が言い終わった後、二人は同時に顔色を変える。私の存在に思いいたったのだ。
「畜生、あいつだ! あたしたち二人になると姿をちらつかせるあの助平野郎」
この物語世界においても和音は私を助平野郎呼ばわりするのは不服だが、なんの合図も無しに背中合わせになって武器を構え、攻撃に備える二人を見たのはただ眼福だ。罵られた甲斐もあるというものだ。
拳銃を構えた亜衣も、ソプラノの声で警告する。
「あなたの目的はなんなのですか! いい加減姿をお見せなさい、卑怯もの!」
姿を見せない共通の敵のために、自然と背中合わせになる二人。それに加えて罵倒というボーナスがついている。どうして二人は語り手である私に気付くのか、それに関しては不思議ではある。語られる存在から私が認知されるなど本来あり得ないのだ。そのことは存在しない筈である私の身を震わせた。
それを直接問いただしたくもあったが、悲しいかな、私は二人と直接やりとりをすることは叶わないのである。なぜなら私は語り手であるからして。
――などとやっている間にも事態は進行する。
この世界ではA‐01と呼ばれる亜衣が、「卑怯者」と私を罵ったと同時に物陰から一人の人物が姿を現す。それは亜衣の保護者にあたる人物で、彼女からも親のように慕われていたのだが、だがそれは貴重な改造人間であるK‐znことこの世界の和音を捉える為に仕組んだ計略であり、和音がいれば旧型の亜衣は処分する決まりになっている――等とペラペラと語りだす。要は、二人の絆を強める為に不可欠なこの世界で真の敵が現れたわけだ。いわゆるラスボスと称されるであろうその登場人物は、当然無数の部下を連れている。卑怯者と罵られるに十分な貫禄をみせつけてくれた。
ショックを受ける亜衣、ぬかりなく戦闘準備を始める和音。おお、これは二人の華麗なる立ち回りが見られる筈――。
と、期待する私の前であろうことか和音は亜衣の手を握り、廃ビルの窓べりへ向けて駆けだした。それはそれで私好みの光景ではあるが――いわせていただこう、それじゃ、思ってたのと違う。
「待って、どこいくのK‐zn!?」
「決まってるだろ! 変な助平野郎にジロジロ見られないとこにだよっ」
かくして二人は再び手を取って、廃ビルから飛び降りたのであった。
主役二人が遁走し、語りてたる私が語る気を失した物語はここで虚しく崩壊を始める。摩天楼も夜空も薄汚れた裏路地といった登場人物も、そして二人を追い詰めんとした真の敵も、なにもかも音を立てて崩れてゆく。私がここでこのように語ってしまった以上、この世界の崩壊は止められない。
よって私も二人の後を追う。
二人が現れた場所は、一見すると19世紀後半の欧州の街に見える都会だ。
排ガスで汚染された曇天のせいでわかりづらいが、時刻は夕暮れ時の模様。上等な仕立ての洋服を着た令嬢風装いの亜衣が、メイドの装いの和音を引き連れて、街娼が立ち酔っ払いが寝ころぶ治安のよく無さそうな通りを歩いているのだ。
私は語り手であるので、どうして二人がこのような場所を歩いているのかをたちどころに知ることができる。
この物語世界ではアイリーンと呼ばれる亜衣は好奇心旺盛で怪事件が起きると状況証拠から犯人を見つけ出す、推理力の秀でた変わり者として社交界で名を馳せる貴族令嬢。和音はその侍女で名前はゾーイ、
令嬢である亜衣は、街頭に立つしかない女たちを切り裂くという巷で噂の恐るべき通り魔の正体を突き止めに来たのだが、その半歩あとを護衛も兼ねたメイドの和音がついてゆく。
「アイリーンお嬢様、あたしはあなたの決断には驚かされてばかりですが、今回ばかりは呆れてものも言えませんよ。ここが一体どういう場所か、分からないお年でもないでしょうに」
「ねえゾーイ、あそこにいるレディは私と同じくらいのお
「――ここは変人侯爵令嬢が社会勉強感覚でウロウロしていい場所じゃないって言ってんだよ! わかんないお嬢様だね」
「分からず屋はどちらです? 事なかれの主義の警察に任せていれば切り裂き魔は今後犠牲者を出さずにいてくれるとでも?」
口論を始めながら二人は石畳の上を歩く。この物語の世界の二人は活発に論戦しあえる仲であるようだ。それもまたよき哉。
語り手である私は、ここで物陰から飛び出した件の通り魔に突然襲われそうになった亜衣を庇い、和音が大けがをする展開になることを知っている。血まみれの和音の体にすがって取り乱しながら、亜衣は自分の傲りと無鉄砲さを思い知らされるという、やや苦い展開になるのだ――。
私が待ち構えていた通り、こつこつと編み上げ靴を鳴らして歩いていた足を止めた。まるで何かに気付いたように。そうだ、ここで犯人につながる手がかりに思い至るのだ。急に立ち止まる亜衣に気づくのに遅れた和音は、さっきまで怒っていたというのにもういつも通りの表情になって尋ねる。
「どうなさいました? お嬢様」
「――わかったの、犯人が……」
「へぇ、切り裂き魔の? じゃあとっとと警察に通報しなきゃあですね」
機嫌を損ねている和音がこう言った瞬間、物陰からひそんでいた通り魔が躍りかかり、幾人もの無辜の女性の命を吸いつくしたナイフを閃かせる――そういうストーリーになっている。その筈だったのに、だ。
この物語の中ではアイスブルーに変わっている瞳をこちらに向けて、亜衣は呆然とつぶやくのだ。――よもや、まさか。
「違うのゾーイ、私たちを追いかけてくるあの目の正体よ。――ほら、あそこにいる!」
目を見開いた亜衣は、何もない筈のこちら側を指さした。その怯え切った声に、家を持たぬ者たちの注目が集まった。私は焦る。なぜなら亜衣はしっかり私の視点を指さしている。この世界ではただのうらぶれた通りがあるしかない空間を。
私は止むを得ず語り手の特権を用いる。人相の悪い小悪党に舌打ちをさせながら二人の前に現わしたのだ。この世界ではアイリーンという名の侯爵令嬢の亜衣が身に着けた高価な衣類や装飾品に目を付けた泥棒という設定だ。亜衣の護衛でもある和音は、自分の務めをはたすためにこの男を退治せねばならなくなる。大の男を組み伏せる過程で先ほどの亜衣の発言を、この男の気配を何かと勘違いしたのだと思い込ませたのちに通り魔を出現させる。そうすることで、ストーリーを元の筋に戻す。そういう算段を組み立てる。
下町で荒っぽく育ったという設定から見た目に反する腕っぷしを有する和音は、私の予測通り乱入させた小悪党を建物の隙間へ蹴り飛ばす。そこからすぐに前のめりに倒れた男の背後から現れたのは、黒づくめに黒い帽子を深々とかぶり、二人の前にちらりと血濡れた牛刀を見せつけた通り魔だ。私が用意した小悪党はとっくにこと切れて、血だまりに倒れている。路傍の端役たちが悲鳴をあげた。
「畜生、大通りまで逃げなお嬢様っ!」
勝ち目はないのに和音は通り魔に向かい合う。ここで和音は傷を負い、通り魔は姿を消し、亜衣は己の傲慢と短慮を大いに悔いるという本筋に戻る筈である。
やれやれ、と息を抜いた瞬間だ。今度は亜衣が和音の手を引くなり通り魔に背を向け走り出したのだ。当然私は焦る。なぜまた気づかれた! と地団駄踏みたくなるのをこらえながら二人を見ると、私とは違う理由で慌てる和音の姿が目に入った。
「ば、バカっ! 逃げるなら一人で――!」
「まだ分からないのゾーイ! あれよ、私たちを結び付けて追いかけまわすあれの存在を感じたの!」
決して早くはない脚で、亜衣は一生懸命に語る。
「私たちを元の世界にいづらくさせたあれが、ここにいるのよ。和音! 思い出して」
「!」
和音は走りながらこちらを振り返る。令嬢探偵の助手兼メイドのゾーイではなく、聖ルチアの乙女だった嶋利和音だった時の記憶を思い出したのか、こちらを見る目が悔し気に歪む。
「思い出したよ亜衣、――またあの助平野郎か! せっかくこの世界でずっと楽しく幸せに過ごせそうだったのに!」
「とにかくまた別の場所へ逃げましょう! ――そうね、あれが近寄る気も催さないような、惨くて恐ろしい世界がいいわ? 和音は耐えられる?」
「当然のことを訊かないでよ! 亜衣の隣があたしのいるべき世界なんだから!」
顔を見合わせて走る二人は実に楽し気に笑いあい、そのまま大通りに飛び出した。私は語り手であるがゆえにそこで起きた事実について語らねばならない。令嬢とメイドの二人連れはさる紳士の乗った馬車の下敷きになったことを。二人の亡骸の詳細は語らなくても結構だろう。
かくしてこの物語世界も主役の二人を失ったことでストーリーも瓦解、語り手の私もすぐさまここから旅立ったのでこの世界もがらがらと崩壊してゆく。
亜衣も風音も、今度こそ無事逃げおおせたと安堵していたことだろう。可哀そうに。
私は語り手である。二人がどんな世界に隠れようとたちどころに見つけ出すことができるというのに。
惨くて汚い世界を亜衣は所望していた、私を近寄らせないために。
その願いがかなったのだろう。今度の二人は、一見何かの工場のように見えるレンガ造りの建物の中にいた。一見清潔そうなその建物の中は不潔極まりなく、酷い匂いが立ち込めている。寝台と呼ぶのもはばかられるような三段の棚に、骨と皮にやせ細った女たちが不衛生な囚人服姿で詰め込まれ、寝ころんでいる。時刻は夜だ。汗や垢に尿のすえた匂いが十万四、虱や南京虫といった害虫が昼間の重労働に疲れ果てた囚人たちを責め苛んでいる。
何棟も建ち並んだ似たような建物はサーチライトで照らされ、一帯をぐるりと高圧電流を流した鉄条網が取り囲んでいた。時間は夜だ、外は犬を連れ銃をもった見張りが歩き、囚人が脱走しないかを厳しく監視していた。
亜衣と和音はその寝台の片隅に抱き合って寝ている。二人とも髪を短く切られ、皮膚病にかかり、見るも無残な有様だ。ほかの囚人に下敷きにされたり汚れた足で蹴り飛ばされたりしないよう、一層華奢になった亜衣を風音が抱きしめている。その分、風音は隣で大いびきをかいている中年女の囚人と背中をくっつけあうことになってしまっていた。
ああ、なんたること。私は語り手として二人をこのような世界においてはいけない。また、このような世界はあってはいけない。少なくとも私の二人がいるべき世界ではない。
だというのに二人はどこか幸せそうにクスクスと忍び笑いをもらし、小声でささやきあうのだ。
「ねえ、ゾーエ。ここじゃきっとあれも追ってこられないわ。まともな神経があればこんな所一秒だっていたくないもの」
「そうだね、アイーダ。もっともここを早く出たいのはあたし達だって同じだ」
この世界ではゾーエと呼ばれているらしい和音の冗談に、アイーダという名になった亜衣はひと際愛らしくクスクス笑う。二人とは違う言語で、囚人のうち誰かが怒鳴る。うるさい、と言ったのだ。そこで二人は一層声を潜ませた。
「大丈夫よゾーエ、もう少し頑張ればここは解放される筈なの。そうなったら私たちの勝ち。平和になったこの世界で、誰からも見られることなく二人で静かにくらしましょう」
「そうだね、その時のことを考えるだけでこの酷い環境も耐えられる」
蚕の棚を思わせる寝台の上で、二人は他愛ない会話を始める。ここを出たらどうしたいか。まずは熱い湯につかっていい匂いの石鹸で体を洗う。チョコレートにジェラートにクリームのたっぷり乗ったパイ……とにかく甘くておいしいものを本物のコーヒーと一緒におなか一杯食べる。そのあとはお洒落をして、映画を見て、新しい小説だって読みたい。それから――。
この世の地獄を絵に描いたような環境で、この建物の中に閉じ込められている罪なき囚人たちには許されなかった細やかな楽しみを一つ一つあげて語るいじらしさ。それは私をほどほどに切なくさせた。悪くない心地ではあったが、しかしここまでだ。これ以上、私の二人をこんな場所に置くわけにはいかない。
二人が寝息を立てたころ、語り手たる私は強権を発動する。今度は二人を私の用意した世界に閉じ込める為だ。目が覚めれば新しい世界にいるという寸法だ。
今度の世界はとある王宮の姫君の間だ。
天蓋のついたフワフワのベッドで抱き合って目を覚ました二人は、しばらくこれが夢ではないのかと目をしばたたかせる。それもそうだろう。目覚めたのを待ち受けるように、ドアが開いてお盆に熱いチョコレートの入ったポットを乗せたメイドが歌いながら現れたのだから。
それに続いて現れたメイドたちも、歌い踊りながら、まだ覚醒しきってない二人の髪を梳かして結い上げて、顔を洗ってカラフルなドレスを着せてゆく。一見ロココ調のようでもあるが、それにしてはデザインが現代風なそのドレスは、実在した欧州文化の名残というよりもメルヘンを元にしたミュージカル映画を連想させた。どうやら二人のプリンセスが、童話の世界で悪事を為す魔女やその手下たちと戦うといった娯楽色の強い物語の世界のようだ。
――この世界、私の趣味からは程遠い。どうやら、あの悲惨な世界から二人を助け出すために、うんと幸せな物語世界を用意しようとしたところ、イメージのすりあわせが足りなくてこのような不本意な世界になってしまった模様。様子を変えたいが仕方がない。このまま続行することにする。
最初、これはあの寝台の上でとびきり能天気な夢を見ているのだろうとボンヤリ思い込んでいた二人も、飲まされたホットチョコレートの確かな味わいですべてを悟ったらしい。ドレスの裾を持ち上げ、歌い踊るメイドたちを突き飛ばして部屋の外に出る。
城の尖塔目指して二人は駆けあがる。やってくるカードの衛兵たちも蹴倒して、螺旋階段を上ってゆく。
「童話の世界ならもっとゴシックなのが好みなのに、いくらなんでもこれは無いわ」
「全くだよ。これじゃあどこかの遊園地だ。あの助平野郎の趣味を疑うね」
――ああ、二人の趣味に合わぬ世界で良かった――と、まず自分に悪趣味疑惑がかかったことを嘆くよりも亜衣と和音の趣味の良さを寿ぐ私の控えめな性質をどうかご評価いただきたい。
ともかく尖塔から飛び降りた二人が今度たどり着いた世界は、粉雪ちらつく瓦礫の影で狙撃銃を構えてにらみ合う敵国の軍人同士に分かれた二人だ。互いにトリガーを引きあったタイミングで私は世界をがらりと変える。十二単の姫君と文才ある女官となって互いに慕情を傾けあうもやはり私の存在に気付くと二人で滝つぼに身を投げる。そして次なる世界は核兵器による灼熱の炎に焼かれた大地の上を消息を絶った亜衣を求めて和音がさまよう。こんな物語世界に居てはならぬと私は二人を二十世紀末のとある高校の教室に二人を押し込める。少女の相場が高かったこの時代で大人たちを翻弄してくれと願って放置するものの、うっかりしていたことにこの時代は少女の集団自殺をある種の憧憬をもって語られた時代でもあった。かくしてふたりは、遠い未来が舞台の物語世界まで逃亡し、人類文明の遺跡に残された人工知能と現行人類にとってはある種の概念として語るほかない生命体としてファーストコンタクトを果たしてしまう。こういう世界になってしまうと、悔しいが語り手としての能力不足を痛感させられるハメになってしまう。躍起になり私は二人を読書好きだが好きな本の傾向が違う女子二人として二十一世紀初頭の地方都市に住まわせる。すると二人はベランダから飛び降りるなり、敵対するマフィアのヒットマン同士になっている――。
亜衣と和音、そして語り手である私、その攻防が何度も何度も繰り返された。
私はいつしか疲労を覚えていた。
頑なに私から語られることを拒んでは逃げ出す亜衣と和音の神経が理解できず、また二人を見ていたいという気持ちが受け入れられないことに悲しみをおぼえていたのである。
「当たり前じゃない。亜衣と和音の二人にしてみればあんたのしてることはただの窃視だよ? 人間だったら普通つかまるレベルの。あんた、語り手って位置に安住しすぎ」
――語り手は本来疲労など感じない筈である。なのにこうして机に突っ伏すような疲れを覚えるということは、よほどの疲れがこの身に蓄積されているのだろう。なにせ、亜衣でも風音でもないものが私に直接かたりかけてくるのだから。空耳を感知する語り手など私が史上初の存在なのではないか?
「う~ん、ちょっとまず考えてみよっか。作中人物の肉体を借りでもしないかぎり、語り手は本来疲労を感じない。机に突っ伏したりもしない。空耳を感知するわけがない。じゃあ、今、どっと疲れて机に伏せるような不自由な体を持ち、睦月亜衣でも嶋利和音でもない三番目の人物の声を聞いてるあんたはずばり、語り手ではない。そういうことにならない?」
――やかましい空耳だ。私が語り手じゃないというならなんだというのだ?
「んー、だからまぁ、疲労する肉体と都合の悪い真実を空耳だと処理するような小狡さを発揮する思考や感情を生み出す脳みそを兼ね備えた存在ってことになるよね? ま、人間が近いんじゃない?」
「異なことを言う。誰が人間だ? 私は語り手だ。亜衣と和音の物語を語って読み手に届けるためのみに存在している」
「ちょっと冷静になってみよう? あんた今何を使ってあたしと意思の疎通を図ってる?」
「……」
ここにきてようやく気が付いた。
今の私には疲労を感じる肉体がある。こうして思考する脳がる。目がある。突っ伏している机や制服のものらしき布地を感じる皮膚がある。あえて言わないが臓器や骨といった各種器官も備わっている模様。
そして、何より、喉や舌、口腔といった言葉を発する器官が私に備わっている。
天地が逆さになるような衝撃に襲われて、私は顔を持ち上げた。目の前には見知らぬ顔の女子生徒がいて、驚愕する私に向かって飄々と手を挙げて見せる。
「お、やっと起きたな。助平野郎」
「うるさいっ、誰だお前は――!?」
発声に必要な器官を動員して問う私に目の前の新顔ははやり飄々と答えるのだ。
「誰だと訊かれても、自分はうまれたばかりで名前がまだない」
語り手の世界では神に等しい存在の御言葉を冒とくするような台詞を、
「語り手と対になる意味で読み手とでも呼ぶと良いんじゃない? 実際、あんたのやらかしを読んでかなり呆れている所なんだから」
しかし私はそれどころではない。急に人間の肉体を与えられ、恥ずかしい話だが戸惑うしかなかったのだ。しかもこの空間は私にとっては見慣れた場所で、見慣れた衣装をまとっていたのだから。
絶句する私の前で、
「あんた、平安朝じみた世界に二人を移動させたのは失敗だったね。睦月亜衣が転じた姫君に献身的に仕えながらも慕情を募らせる嶋利和音が転じた女官にすぐれた物語作者だという設定を与えたでしょ。そこから二人は感づいたんだ。あんたの正体と封じる方法を」
今しがた生まれたばかりの耳で
そんな私を無視するかのように、あくまでも飄々と憎らしい
「今の亜衣は作家で和音はその秘書だよ。公私にわたるパートナーってやつ。作家になった亜衣は、自分たちの秘め事を読み手なる別次元の第三者に吹聴する語り手なる存在に気付き、そんな身分から逃げ去る二人の少女の物語を書いた。激闘の果て、少女たちは作家になり、自分たちを苦しめた存在を『自分は語り手である』という妄想に憑りつかれた少女として書いた。そしてあんたは亜衣の書いた物語の引力に閉じ込められ、今、亜衣の生み出した
そのタイミングで鐘が鳴る。授業の開始を告げる鐘の音だ。私はその音をよく知っている。語り手として生まれた時からよく聞いていた鐘だ。荘厳だが、近在の人々から時々苦情も頂くことで有名な鐘楼からの鐘の音だ。
休憩時間を思い思いに楽しんでいた聖ルチアの乙女たちは、それぞれの席につく。私の前にいた
「はっきり言って、亜衣があんたを封じるために生み出した物語はかなりお粗末だけど、ま、許してやってよ。あくまで私的な作品だしさ。それに読み手はあたししかいないんだから」
亜衣と和音、愛する二人の少女から語り手という立場と力を剥奪され、ただの登場人物に貶められた私の記憶はそこでいったん途切れた。
肉体を得て早々、気を失ったためである。
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