邪魔をしないで、わたし達これからいい所
ピクルズジンジャー
学び舎から逃れる
未だ近在では娘を通わせるとある種の箔がつくとされる清く正しく美しいこの学び舎から二人の女生徒が学園を去ったという噂は、今朝から生徒たちを騒がせていた。
高等部二年、ともにまだ十六歳の睦月亜衣、嶋利
そのあと二人は生徒指導担当の教師の目を盗んで駅前の喫茶店で寄り道をしたのか、図書館へ立ち寄ったのかそれとも最近興味をもっているという骨董屋とは名ばかりの古道具屋を覗きにいったのか。二人が最後に目撃されたのはいつものように微笑み交わしながら、外へ出た校門までだ。
亜衣と和音の二人は互いの家にも帰らなかったのだという。
戦前から名の知れた近在の名士でもある睦月家、娘の学費の為に早くに亡くなった父君の分も身を粉にして働く嶋利家のご母堂など大人たちがいつまでも帰ってこない娘たちのことを当然のように気にかけ、警察に届を出したのが昨晩の夜中。そして夜空が明るくなっても亜衣と和音はそれぞれの家に連絡一つ寄こさなかった。それぞれの携帯端末に着信を入れても、当然返信はない。校則で禁止されているにも関わらず、ルチアの乙女たちもこっそり楽しんでいる端末内の交流サービスからも二人の
そのことは今朝、緊急の朝礼で困惑と心配を隠さない学園長に講堂で明かされるより先に、ルチアの乙女たちは皆そのことを把握済みであった。乙女たちの噂の速度は時に光より早い。
乙女たちは囁きあう。亜衣と和音はどこへ行ったのか。手に手をとってどこへ消えたのか。
ルチアの乙女像を体現したような麗しい黒髪の乙女の亜衣と、口さがないものから不良の証だと揶揄されたこともある亜麻色の髪を持つ少女の和音。
血統のよい名家の令嬢の亜衣と、父親の顔を知らずに育った娘の和音。
窮屈ながらも恵まれた家庭で育ったが故の穏和で優しい春のような気質に育った亜衣、逆境に負けぬと痛いほど気を張った為か厳しく凛々しい冬を思わせるような誇り高さを持つ和音。
それぞれの個性は異なれど、ともに人目をひく美しい娘であったこと以外に共通点の無い二人であった。
であればこそ、必然のように惹かれあい、いくつかの対立と葛藤を経たあとに聖ルチアの目のお呼ばぬ場所で互いの秘めた想いを確認しあう仲になる。
教室のカーテンの陰で。
試験勉強中の図書館で。
夕日指す廊下の片隅で。
二人は何度も互いに触れあい、気持ちを高めていた。その気配と様子はルチアの乙女たちならば知ることである。それをよからぬことと教職員たちが苦々しく感じていたことも。
元来乙女という生き物は一致団結には向いていない。
ある者たちは二人に純粋に憧れ、大人たちの手から逃げきってほしいと純粋に祈る。しかしある者は、駆け落ちなどという古めかしい行為に及んだ二人を冷笑する。校内であいびきを繰り返していたという二人の感情の発露を知って嫌悪感をむき出しにするものもいた。
であるにもかかわらず、乙女たちの意見はある点でのみ奇跡的に一致していたのである。
亜衣と和音は逃げ出したのだ。
この学び舎を卒業すれば、気品と貞淑さという嫁入りに有利な付加価値が身に着くという信仰が未だ根強い、戦前欧風文化が未だ濃厚なリリシズムあふれる我らの愛しい鳥かごから逃げ出したのだ。品のいいいセーラー服、賛美歌に天使に聖人、聖女たちの名飛び交う、蔦の絡まったレンガの校舎にステンドグラスも美しい礼拝堂、そういった乙女をときめかす雰囲気で飾られた居心地のいい牢獄に等しい学び舎から、看守の目を欺き脱獄を図ったのだ。
リリカルな監獄に残された少女囚人たちは、自然とその点だけは疑いはしなかったのである。
しかし、私は知っていた。
亜衣と和音の逃げ出した理由は、聖ルチアという聊か古めかしいこの名門女学園というこの檻から逃げ出したのではない。
私から逃げ出したのである。
入学式で互いの存在を知り、以降なぜか自然に視線をぶつけ合うことに戸惑いを感じていた四月のおりから、公共機関の化粧室で前もって準備していた私服に着替え、電車に乗ってこの街をあとにしたことまで私は知っている。気を隠すには森の中の謂いにに倣い、とりあえず人間の多い都会を目指すことにしていたことも。
その街でとある人気芸能人のライブが行われることをクラスメイトの会話から知った和音が、全てが予約済みになる前に早々にビジネスホテルの部屋を押えたことも知っている。こうすれば二人は芸能人のライブを目当てに全国を行脚することもいとわない、少女の一群にすんなりと紛れる。
そして和音のとっさの行動に及ぶきっかけが、その数日前から様子のおかしかった亜衣がせつせつと訴えた内容――家格の維持のために意に染まぬ相手と婚約せねばならぬという、非常に古典的ながら強制力の強いもの――に因ることも私は知っている。
それら全てを言い訳に利用し、本当は私から逃れたがっていたことも私は知っている。
退路をを断って脱獄を決行した二人は、清潔なことだけが救いの無個性なホテルのベッドの上で抱きあい、感情のままに睦みあったこと、そして今はその直後であることも知っている。
なぜなら私は、灯のない部屋の褥の中で、離れまいと固く抱き合っているその瞬間もまだ見ているからだ。
友愛の芽生えから性愛への発展へと至る、二人の感情の経路が芽生えて育ちゆくさまをつぶさに見ていたのは私である。
大人たちから逃げ出すことはできても、二人は私から逃れることは出来ないのだ。
そのことを二人は知る由もない。
「――ねえ、睦月」
「なあに? 和音」
私の耳に、未だに亜衣を名字で呼んでしまう和音の掠れたアルトの声や亜衣の優しいソプラノが、街の灯が差し込む一室にひびく。これを聴くのは私だけの特権だ。
亜衣のつややかな黒髪を梳きつつ顔から払ってから、和音は睦月に接吻する。そのあと、なめらかな亜衣の頬にひやりとした指をあてながら、少し不安げに和音は苦笑しながら囁く。
「気が……昂ってるせいなのかな? さっきから変な感じがするんだよね」
「あなたもそう? 実は私もなの……」
涙を見せるのを良しとしない和音を幾度か抱き留め、セーラー服のスカーフが濡れさせてきた亜衣が、今はお化けに怯える幼い妹のように和音の胸に身を摺り寄せる。ああ、普段と様子が正反対の二人を見るのも私だけの役得だ。
しかし亜衣は布団の上から顔を覗かせ、心配そうに部屋中を見回す。
「また誰かに見られてるような、そんな気がしてならないの。――おかしいわね、貴女が言う通り、興奮してそんな気がしてるだけね。だって学校から逃げ出したのに」
亜衣は苦笑して、和音の細い体に身を摺り寄せて甘える。この夜を気のせいで台無しにしたくないと、態度で語る。
そうするとややシニカルな気質の和音は、ありもしない怪談話をきかせて亜衣を軽く怯えさせる等といった手法で素直な恋人を揶揄うはずである。
私はそう予測している。そしてそれを待ち構える。
「ううん、違うよ。――間違いない」
あろうことか、私の予測は外れた。ああ、またか。またなのか。また私は気づかれた。
どんな虚偽も見抜けそうなほど、強い輝きをやどした和音のまっすぐなまなざしが、この私をまっすぐに射抜いている。和音が私を見抜いたのを察した亜衣も、怯えた目でこちらを見る。まるで幽霊でも見るように。
「あいつだ、学校にもあの町にもいたあいつがここにもいる! ついて来たんだ!」
やだ! と悲鳴をあげる亜衣に対し、私の存在に気付いた風音の行動は早かった。するりと床におりたつと手早く脱ぎ捨てた衣類をまといだす。もちろんこちらには背を向けている。
ベッドの上でシーツにくるまり、私に対して怯えた目を向ける亜衣へも衣類を渡して着替えるように促す。
「残念だけど、もうチェックアウトだ。あいつに見つかった以上のんびりしてはいられない。――逃げるよ!」
「そうね、そうするしかない……。でも、あれってなんなのかしら?」
私の視線から少しでも逃れるためにだろう、シーツにくるまりながら下着から身に着ける亜衣は怯えた声をあげる。
「学校からついてくるなんて、お化けじゃなくて呪いかなにかなのかしら?」
「おそらくそんなものなんかよりもっとタチの悪いモノだよ。こんなところまで図々しくついてきては邪魔するんだから! とにかくとんだ助平野郎ってことには違いがないね」
悔しいが和音の謂いに反論したくても私にはそれができない。
私は彼女らと同じ次元に居る者ではないがゆえに、直接の会話は叶わないのだ。その代償に、いそいでホテルを後にして終電間際の駅ビルに飛び込む二人を追いかけることも可能なのだ。
私は一体何者か、それではそろそろ皆さまに明かそうと思う。
私は語り手だ。
いつのまにか聖ルチアの学び舎にその意識だけが生まれ落ちた語り手なる者だ。
亜衣と和音が二人の存在に気付く直前に生まれ、二人の行く先を語るためだけに生まれた存在である。
で、あるため、人通りもまばらな駅ビルをかけぬけ、改札を潜り抜けたのも、発車する間際の終電に飛び乗ろうとしたわけでないことも知っている。
「ねえ、どこへ行くの和音! この調子だとあれはどこまでもついてくるわ」
「ああ、だからどこへでも逃げるしかない! あいつの来られない所まで!」
泥酔した客がベンチで寝転がるホーム(ああ、二人にこのようなものは見せたくないのに)をパタパタと走りながら、二人がこのように言葉を交わしあったことも知っている。
そしてターミナルでもあるこの駅に滑り込む上り電車が停車するホームがあるのをつきとめ、そこを目指していることも。
「ちょっと痛い思いをすると思う! でもガマンして」
「そんなことくらい平気よ。とっくに覚悟の上だもの」
目当てのホーム目指して陸橋を渡りつつ、このような泣けるやり取りをしたあとに互いにつないだ手を握り合い、顔を見合わせたことも。そしてライトを光らせた終電車が十分ホームに近づいたところで息をそろえて線路に飛び降りたことも。
私は全て知っている。
何故なら語り手としてつぶさに目撃しているからだ。でなければ語り手としてこの世に生まれた理由が消失していしまう。
私が生まれたのは、亜衣と和音、二人の少女の物語を読み手に語らねばならぬためである。
さて、二つの肉体を轢きつぶす音や振動が耳を覆いたくなるようなブレーキの音ですら隠し切れず、終電車の乗客の肝をつぶしている筈だ。
だがここで語り手の特権を活かして、二つの轢死体の存在を語らぬことにする。それによって乗客や乗務員、ホームで電車を待つ人々は無理心中を図った少女に出くわすことなくいつもの日常を終えることができよう。ただしこれは彼らの安寧を目的とした行為ではない。二人の無残な姿を見たくないという私の我儘だ。
私は語り手である。
そしてまだ二人の物語を続ける意志と意欲を大いに抱いている。こんなことで二人の物語を終えてなるものかと、語り手としての本能が叫ぶ。いまのまま終われば、二人の少女の物語は将来を絶望した少女の美しくも儚い凡百の物語として消費されるだけだ。
私の亜衣と和音がそのような存在で終わって良い理由がない。
であるからこそ亜衣と和音が私から逃亡を図ってもついてゆく。二人の行く先を、物語を語り続ける。たとえそれが荒唐無稽なものになったとしても。
亜衣と和音の物語は、語り手と読み手がいる限りはいつまでも続けられるのだ。
私は語り手、二人の少女を物語るために生まれた存在である。
亜衣と和音がこの世界の外からの逃亡を図っても、二人が存在する限りはどこにだって現れることは可能なのだ。
たとえ二人が逃れ着いた先の世界が、あちこちに怪物が跋扈する所謂「剣と魔法の世界」だったとしても大きな杖を抱えて不可思議な魔法を使えるようになった亜衣と、それこそ物語めいた巨大な長剣をかついだ和音が煉瓦で敷かれた街道を歩きながら、冒険の合間の日常のひと時をたのしんでいたとしても。
「――ねぇアイ、あたしたちまた何かに見られてるんじゃない?」
「不思議ねカズネ。私もそう感じるの。魔力の気配はしないのに」
――ああ、この世界でも二人は私に気付いたようだ。
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