第4章 逃げない勇気 その2
俊介は、ベッドに寝そべって天井を見つめていた。
さすがにゲームをする気分にもなれず、昨日病院で起きた諸々を思い返している。
俊介は、哲郎に殴られた事はない。多分洋介もそうだろう。だから昨日の哲郎には、驚かされた。そして明の想いの発露にも。
親子の間で、どのような確執があったのか、俊介に知る由はなかったが、それでも長年積み重なってきた不満が爆発した結果である事は察せた。
今頃、明はどうしているのだろうか。思いを巡らせていると、玄関チャイムの音が鳴り響いた。
今日は、家に誰もいない。
哲郎は、指の骨折を押して仕事しているし、香もその手伝いだ。
洋介も今日はバイトがあるらしく、家に居ない。
階段を下りて玄関に行くのは、今の足では中々の重労働なのだが、無視するのも気が引けて渋々玄関に向かった。
玄関の扉を開けると、そこには――。
「海藤……」
昨日とは打って変わって精悍な面持ちの明が立っている。
一見すると、陰気さが失せていて別人のようだが、手や足の僅かな震えから虚勢である事を悟れた。
「大会、出るよ」
声も震えている。
しかし俊介は、そこには一切触れなかった。
彼女の覚悟を嘲笑うような真似だけはしたくない。
「うん」
俊介が頷くと、明は震えたままの声で続けた。
「八月二十三日、予選ブロックPに参加する」
「うん。俺も同じブロックに参加するよ」
明は、俊介から視線を数瞬逸らしてからまた戻し、大きな唾を一つ飲み込んで口を開いた。
「……おじさんは? 今会える?」
「一階の店に居るけど、今は仕事してるから難しいな。伝えたい事あるなら俺から伝えとく」
「そっか……」
明の表情に昨日殴られた相手に会わなくて済む安堵はなく、会えない事を心底残念がっているようだった。
「怪我をさせてごめんなさい。助けてくれてありがとうございますって。あと、また自分で改めて伝えに来ますって」
今までの明とは印象がまるで違う。強さを作っているのは分かるが、自分の望む自分になろうとしているようだった。
「分かった。伝えとく」
「それじゃあね」
「海藤。また、あっちの世界でな」
「うん、また」
きっと明は、逃げずに向かってくる。
気弱な少女でなくなったわけではないが、変わろうとしている。
だからこそ今の明は以前よりも強いはずだ。
彼女の操るヴァルサスと全力で戦ってみたい。
俊介の肌が闘争本能に撫でられ、粟立った。
大島家全員がリビングダイニングのテーブルに集まり、今日明が尋ねて来た事と彼女の言葉を俊介が伝えていた。
哲郎は、ほっこりとした笑みを浮かべ、頷きながら言った。
「そうか。あの子が出るなら俺も出ないとな。特訓の為にも店はしばらく休みにするか。指もこの状態だし」
哲郎の決意表明に、真っ先に意を唱えたのは洋介だった。
「でも父さん。言う通り指がさ」
「大丈夫だよ。動かせないってわけじゃない。ゲームぐらい出来るさ!」
決心が揺らぐ気配を見せない哲郎だったが、洋介も引き下がらなかった。
「医者も無理しちゃダメだって言ってるだろ。ただでさえ仕事で無理してるんだから、休みの日ぐらい指を休めてくれよ」
「大丈夫だって――」
「たかがゲームだろ!?」
洋介が声を荒げて、テーブルを叩きながら立ち上がった。
初めて見る激昂した洋介に、俊介は怯んだが、哲郎は涼しい顔をしている。
「ゲームばっかりしてるお前がそれ言うかね?」
「これからの事考えてるのか? ここで無理して指に後遺症でも残ったら料理人なんて続けられないぞ!」
「万が一そうなっても指一本ぐらいなら何とかなるさ。母さんには悪いが、これからもちょこちょこと厨房の方を手伝ってもらうよ」
「母さんと父さんの料理じゃレベルが違うだろ!!」
洋介の怒声に、哲郎は鋭い視線を差しこんだ。
「失礼な事を言うな。母さんに謝るんだ」
「お金を取れる料理じゃないのは事実だろ!! ミシュランガイドの評判で来るお客様を満足させられる味じゃない。料理屋は義理では通えない。味が全てだろ!! 失礼なのは分かってるけど、母さんの舌は父さんほど繊細じゃない!」
洋介の追撃に、哲郎は暫し口を噤んでいた。
だが、それは引き下がったからではない事を、俊介は感じ取っていた。
「洋介。お前は、いつもそうやって逃げるんだな」
哲郎の一声に、洋介は口を開いた。しかし声が喉に引きこもり、何も言えなかった。
「洋介」
哲郎は、愛おしそうに名前を呼んでから続けた。
「母さんがダメだというなら、お前が母さんを手伝えばいいじゃないか。お前の味覚は、俺以上だろう。それに調理師の免許だって持ってる」
洋介は、押し黙って哲郎の言葉を聞いている。
「洋介。俺はな。俊介やお前と一緒に何かをやれるのが、楽しくてしょうがないんだ。俺は、運動苦手だから俊介のかけっこの相手をしてやれなかった。一緒に何かスポーツをしたって言う記憶がないんだよ」
俊介にも、哲郎と一緒にスポーツをしたという記憶はない。
小中学生の頃、スポーツクラブへの送り迎え等はしてくれていたし、俊介が陸上をする上で惜しみないサポートをしてくれた。
しかし哲郎と一緒に走った記憶は、存在していない。
「俺は子供の頃、野球選手になりたかった。でも運動神経が悪くて中学上がる前に諦めた。だから俊介の足が速いのが嬉しかったんだ。俺が諦めた運動の世界でこいつは俺の代わりに夢を叶えてくれるんじゃないかって」
――ああ、そうか。
「でもな。それは、俺の勝手な夢を俊介に押し付けていただけなんだ」
だから哲郎は、俊介が走れなくなった時、誰よりも悲しんでいたし、誰よりも苦しんだ。
「逃げて押し付けて……そんな俺の背中を見て育ったから、洋介、お前もそうなったのかもしれん。本当にすまない」
俊介の夢は、哲郎にとっても掛け替えのない夢だった。
自分の好きな仕事に付けなかった、自分の夢を叶えられなかった哲郎にとって、俊介が夢を叶える事が夢だったのだ。
「でもな。もう逃げられないんだ。もう逃げ場所は探しても見つからない。俺もお前もここが踏ん張りどころなんだ」
俊介の足が壊れて哲郎は、二度も自分の夢が破れてしまった。
「俺は、俊介がもう一度持てた夢と一緒に歩いて行きたい。同じ場所を並んで歩ける機会をeスポーツに与えてもらったんだ」
けれど三度目でようやく哲郎は、俊介と一緒に夢を見られる世界を手に入れた。
哲郎にとっても、ゲームの世界は救いだったのだ。
「洋介。舌が繊細だからこそ、お前が逃げたくなったのは分かってる」
洋介が自身の卒業祝いの料理を作り、家族でパーティをした時、その味付けは少々粗のあるものだった。
哲郎や香がやんわりとアドバイスしたのだが、洋介はすっかりへそを曲げてそれ以来料理を止めてしまった。
「自分の理想の味と、自分の料理の腕のギャップが苦しかったんだろう? 俺も同じ料理人だから痛みはよく分かるよ。なのにパーティで料理を作ってくれた時、酷い事を言って悪かった」
兄が誰よりも料理が好きだった事を俊介もよく覚えている。
一度だけ俊介は、洋介に対して「また料理をしたらどうか?」と尋ねたが、適当にはぐらかされてからは、二度と同じ事を聞かなかった。
あの時の俊介は洋介と向き合う事から逃げ、哲郎と香も俊介と同じように逃げたのだ。
何気ない言葉が洋介を深く傷付けたトラウマで、それ以上踏み込めなくなってしまった。
あの時の後悔を繰り返さないために、哲郎は問い掛ける。
「だからこそ俺の怪我をチャンスだと思って、もう一度チャレンジしてみないか? 仮に指の怪我が長引いても俺が店に立てなくなるわけじゃない。俺も母さんも手伝うよ」
「でも俺は……」
煮え切らない洋介に、これまで黙っていた香が微笑を送った。
「洋ちゃん。あんたが料理するのが大嫌いなら哲郎さんだって、こんな風には言わないよ。でもあんたは料理するの大好きだったじゃない。哲郎さんと私が忙しかった時、洋ちゃんが焼いてくれた目玉焼き覚えてる?」
俊介の知らない記憶だが、洋介は聞かされた途端、気恥ずかしそうに俯いた。
「あんなの誰でも作れるじゃん」
「目玉焼きは、難しい料理よ。シンプルだからこそ、美味しいものを作るのは難しいの。あの目玉焼きは、本当に美味しかった。私と哲郎さんが褒めた時に見せた洋ちゃんの笑顔、お母さん大好きだったの」
「父さんも洋介のあの笑顔が一番好きなんだ。お前があの時みたいな笑顔をしたの、いつが最後か覚えてるか?」
「……調理師免許を取った時だ」
「洋介。我が大島家は、夢から逃げる事を止めようじゃないか」
「でも、母さんの負担だって」
「私なら大丈夫よ」
香は、呆れ果てたかのように、からからと笑っている。
「何年あんたたちの母親とか妻とかやってると思ってんの。それに後遺症が残るなんて決まったわけじゃないでしょ?」
いざという時、いつも香は、大島家の中で一番の心の強さを見せてくれる。
彼女が落ち込んでいる姿を俊介は知らない。
ひょっとしたら見せないようにしているだけかもしれない。
けれど香の大丈夫は、本当にどんな事でも大丈夫に思えてしまう魔法の言葉だ。
「お父さんは、頑丈なんだから案外大丈夫よ。まぁどっちみち店の手伝いが居た方がいいに決まってるけどね。洋ちゃん、お父さんが怪我をしている間は一緒にがんばろ?」
洋介は、観念したかのように一息吐き、破顔して俊介を一瞥した。
「分かったよ……もう何も言わないし、俺も逃げない。次男坊。どうせなら全国まで行って優勝するぞ」
家族と一緒だったらどんな苦難でも乗り越えられる。
足の怪我で全てを失ったつもりになっていた俊介は、新しい目標を得る事が出来た。
「ありがとう。みんな」
あの頃のように、一人で何かをやっている気になる間違いは犯さない。
今度こそ家族全員で目標へ突き進む。
鋼鉄のような決意が、俊介の内でたぎっていた。
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