第4章 逃げない勇気
第4章 逃げない勇気 その1
川端区立病院の廊下でワインカラーのスカートスーツを着た海藤絵里は、大島香の前で土下座し、ベージュ色のリノリウムの床に額を擦りつけている。
「本当は素直でいい子なんです。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
土下座する母親を見下ろして立ち尽くす明の瞳は、鈍い灰色の光を放っていた。
香は、侮蔑の表情で絵里と明を交互に見ている。
俊介と洋介は、香の迫力に何も言えなかったが、
「お子さんが無事で何よりですよ」
哲郎は、朗らかな笑顔を浮かべていた。
「怪我もなくてよかった。こっちも大した事ないし」
哲郎の右人差指には、包帯とギプスが厳重に巻かれている。
明がトラックに飛び込もうとした時、寸でのところで駆け付けた哲郎が歩道へ引き戻したのだが、その際トラックのミラーに哲郎の右手が接触してしまった。
症状は、右人差し指の末節骨骨折と爪の剥離。
キャミーこと田辺貴美が救急車に同乗し、応急処置をしてくれた甲斐もあって手術こそせずにすんだが、全治一ヶ月の重傷であると診断された。
貴美は、絵里が来るまで明に付き添い、哲郎と香に謝罪していたが、勤務先の病院から緊急の呼び出しを受け、絵里の到着と同時に帰ってしまった。
「本当にすいません。悪い子じゃないんです。いつもは、本当に素直で優しい子で……」
絵里は到着直後から、ひたすら土下座を続けて許しを乞うている。
しかし彼女の内心を明は見透かしていた。
「何が素直だよ……」
明の一声に絵里は顔を上げ、困惑を露わにする。
そんなに意外なのだろうか?
我が子の反乱が。
なら言えるだけ言ってしまえばいい。
丁度いい機会だ。
大島家の二人を怪我させてしまったのだ。
もう人生は、終わっている。どうせ終わっているのなら、言いたい事を言えるだけ言ってしまえ。
「こんな子供に育って恥ずかしいって毎日言ってるじゃん」
今更いい母親を気取るな。
いつものように罵声を浴びせればいいじゃないか。
「わたしがこんな風に育ったのは、母親のせいじゃありませんって看板を首から下げろって口癖みたいに言うじゃん!」
「何言ってるの!? 今はやめなさい!」
絵里が立ち上がり、明を蛇のような瞳で睨めつける。
いつもなら竦んで言いくるめられるが、今日は退くつもりはない。
「今はやめろ? 今ここで!! いつもみたいに!! 罵ればいいじゃんか!!」
絵里は、どんな時でも外では、明を叱ったりしない。
外では悪い事をしてもその場ではやんわりとしか叱らず、優しい母親を演じるが家に帰った途端、烈火如く怒りを撒き散らして明を罵倒するのだ。
「いつもみたいに物を投げつけて怒鳴って、ストレス発散の道具にしろよ!!」
家と外で人格が違う人は多くいる。
多かれ少なかれ、人間はそう言った部分を持っている。
だが絵里のそれは尋常を外れていた。
「投げたものをわたしに取りに行かせて、また投げればいいだろ!! いつもそうやって犬みたいに扱ってんだから!!」
絵里の怒りの判断基準は、何時だって人の眼だ。
人の眼があるところで悪い事をすれば、人の眼を忍んで怒りをぶつける。
怒りの理由は、明が悪い事をしたからでなく、絵里に恥をかかせたから。
「あんたがいいのは、外面だけじゃん!! 何が素直だ!! 何がいい子だ!! 誰かの目がなくなるとすぐにわたしを罵倒するくせに!!」
「やめなさいって言ってるでしょ!! 恥ずかしい!!」
「また出た!!」
自分が恥ずかしいからやめてほしいだけ。
子供に対して本気で注意していない。
いつだって自分本位に怒っている。
それが海藤絵里だ。
そういう海藤絵里に育てられたのが海藤明だ。
「あんたに謝罪の気持ちなんかないじゃん!」
だからこんなに歪んでしまった。
「何時でも価値観は自分じゃん! 自分が恥ずかしいか、恥ずかしくないか」
この世界で明を一番嫌いな人間は、明自身だ。
「あんたは、わたしが人に迷惑かける事に怒ってるんじゃない!! 自分に恥をかかせたから怒ってるんだ!! 何時でもあんたの怒りは自分のためだ!!」
歪んだ自我が憎くとも、深くに根差して取り去る事が出来ない。
「わたしを全うに育てようとか、人に迷惑を掛けないようにとかなんて考えてない!!」
こんな自分を育んだ絵里という存在に対して燻り続けた感情が発露していく高揚感。
何もかもが終わってしまうのなら、いっそ正直になってしまえばいい。
破滅が口を開けて待っているのなら、これが最後に出来る足掻きなのだから。
「自分に恥をかかせない人間だったら、わたしがどうなろうと知ったこっちゃないんだよ!!」
「やめろって言ってるだろ!!」
「うるさい!!」
咆哮が背中を押し、明の右手は、絵里の左頬を弾いた。
――やった。
愉悦も束の間、弾けるような音と共に、明の右頬を鋭い感覚が突き刺した。
「明!!」
絵里の悲鳴が病院の廊下を劈き、明を抱きしめてくる。
絵里に殴られたのではないのか?
じゃあ誰が?
理解出来なかった明だが、すぐに気が付かされる。
哲郎の憐れんだ眼が明と絵里に向けられていた。
「殴る事ないでしょ!! 赤の他人なのに! 父親でもないくせに!!」
「人を殴る奴は、殴られて当然だ」
温厚そうな面立ちは、絵里の罵声にも怯まず、憤怒に塗り固められていた。
俊介たちも哲郎の行動が意外だったのか、大島家一同も呆然としている。
人生で初めて殴られた明に、不思議と恐怖はない。
「本当は、母親のあんたを殴ってやりたいよ。その子が歪んでるのは、あんたの育て方が悪かったせいだよ」
絵里は、明を抱いたまま敵意を崩さなかった。
しかし反論を述べる事はなく、沈黙のまま哲郎の言葉を聞いている。
「その子は、被害者だ。あんたの中途半端な厳しさと中途半端な甘さが、歪んでいるあんたがその子をそういう風にしたんだ。あんたを救ってやる義理はないし、俺の目から見れば処置なしだ。でもその子はまだやり直せる。だから殴ったんだ」
哲郎の声が明の中に染みわたってくる。
絵里に怒鳴られている時のような苛立ちや憎悪が生じる事はなく、哲郎の紡ぐ言葉を素直に受け入れられる自分がいた。
「明さん。大会に出なさい。そして俊介と戦うんだ。もう逃げるのは、なしだよ」
言いながら哲郎は、一転破顔した。
「ここで逃げたら一生逃げっぱなしだぞ。君は、それでいいのか?」
このまま逃げ続けて、胸の内に巣食う嫌悪感を抱えたまま生きていく。
それ以外の生き方しかないと思っていた。別の生き方を出来るのなら、どんなに素敵だろう。
「君と俊介が向き合うのに一番なのは、ゲームの中だ。お互いあそこが一番本音になれる場所なんだろう?」
明には、去りゆく哲郎の背中が希望の光に見えていた。
家に帰ってきた明は、自分の部屋に閉じこもった。
既に夜も更けているが、電気は点けていない。
目を閉じていても開けても見える景色は同じだった。
闇は、真っ新だ。何も生まれておらず、何色も染まらず、何色にも染まり得る。
これから進むべき道は、二つしかない。
絵里に全てを委ねた今まで通りの生き方か。
手さぐりしながら自分一人の足で歩いていくか。
どちらを選んでも、同じように苦労して、同じように恐怖して、同じように彷徨う人生だろう。
だけど選ぶべき道は決まっている。
明は、部屋を出て階段を下っていく。
リビングには、ウィスキーをマグカップで飲んでいる絵里が居た。
彼女は、明の姿を見るや甘ったるい声を上げた。
「殴られて可哀想に。あんなやつ怪我させたからって気に病むんじゃないよ。人の子供を殴るようなやつ怪我して当然だ」
「当然だし、当然じゃないよ」
「え?」
「わたしは殴られて当然だけど、あの人は怪我して当然じゃない」
明自身、分かっていた。
絵里に全ての責任を押し付けて逃げているだけという事に。
「ごめんね母さん」
「何がごめんなの?」
「たくさん苦労を掛けて」
「子供は、親に苦労かけるものよ」
分かりやすい悪役を置いて、不満を全て彼女のせいにしている。
自分には何の非もないと思い込んで、悲劇の主人公を演じているだけだ。
「母さんの優しさに甘えてた。だけどもう卒業しなくちゃいけないと思うんだ」
絵里が明を縛っているのと同様に、明も絵里を縛っている。
「わたしたちは、これからも親子だけど、今までみたいな関係じゃお互いをダメにする」
「……出て行くって事? あんたがどこに出てくの? お金はどうするの? どこに住むの? 考えなしにやって上手く行くわけないでしょ!」
「別にずっとこの家から出て行くわけじゃないよ。でも今は母さんと距離を置きたい」
お互いにお互いを開放しなければならない。
でないときっと、互いの心を殺し合う事になる。
「あんたは、父親そっくりだね。あたしを捨てるんだ。いっつもそう。肝心な時に逃げるところが父親そっくり」
「でもわたしは、あの人に似てる事を恥じたりしてないよ」
「明!!」
絵里は、マグカップを渾身の力で投げつけ、明の左頬を掠め飛び、背後の壁に当たって砕け散った。
明が黙ると思って、折れると思って、都合が悪くなった時や言葉で勝てないと思った時、絵里がよく使う手だ。
事実、とても怖い。
でも、ここで勇気を持って退かない意志を見せなければ一生明は変われない。
部屋に充満していくウィスキーの芳香が明の勇気を奮い立たせた。
「母さんの許可を得てるんじゃない。わたしがこうするって事を宣言したんだ」
「あの男を選ぶわけね。あんたを殴った赤の他人を選ぶんだ! 育ててやった恩を忘れるのか!?」
「忘れてないよ。それから殴ってごめんなさい」
明は、小さくお辞儀すると自室に戻り、着替えの服とゲームデータの入ったバックアップ用のUSBメモリーをリュックサックに詰めた。
階段を下りて玄関に向かうと、扉の前に絵里が立ち塞がっている。
「出て行ったら謝っても入れてやんからね!!」
「それでもいいよ」
明は、絵里を押しのけて玄関の扉を開け、一歩外に踏み出した。
振り返ると絵里は、殺意にも似た形相を浮かべて明を一瞥すると、わざと大きな音がするように乱暴に玄関扉を閉めた。
明が空を仰ぐと、微かな月明かりが道しるべのように輝いていた。
都内の高層マンションの一一〇一号室に田辺貴美は住んでいる。
急患の対応が終わった時には空が白み始めており、早朝になってようやくの帰宅となった。
何時なら部屋に付いた途端睡魔が襲ってくるが、今日はソファーに身体を横たえても安息は訪れなかった。
明と俊介の事が気になってしまう。
出来る事ならずっと二人と一緒に居てやりたかった。
あれから事態は、どう転んだのか。
今の時間に連絡するのは、さすがに迷惑だからしないけど、気になって眠れそうもない。
気分を誤魔化そうとテレビを見ようとした瞬間、玄関チャイムが鳴った。
――こんな時間に一体誰が?
「まさか?」
ある予感が過った貴美は玄関に向かい、覗き窓から来客の顔を確認した瞬間、慌てて扉を開け放った。
「あーちゃん!? どうしたのこんな時間に? 大丈夫? 何かあった?」
明は、貴美の顔を見上げた途端、涙で顔をぐしゃぐしゃに崩して頭を下げてきた。
「お願いです。しばらく泊めてください。お金は払います」
絵里がこんな時間に明の外出を認めるはずがない。
二人の間で余程の事があったのだと、貴美に悟らせた。
だから敢えて貴美は何も聞かない。
明が自分から話すのを待つ事にした。
「キミ姉ちゃん。あのね」
「うん」
――大丈夫。お姉ちゃんが聞いてるよ。
「大会に出たいの。でも母さんと一緒に居ると、きっと出させてもらえない……」
「うん」
「母さんから結局逃げたけど、でもわたしは……」
「逃げてないよ」
貴美は、明の身体を抱き寄せた。
「この場合の逃げるは、おばさんの所に居続ける事。自分の家を出る事は、自分やおばさんにちゃんと向き合ってる証拠だよ」
絵里の言いなりに生きてきた明を貴美は知っている。
明にとって家出という選択示がどれほどの勇気を必要とするかも。
「ちゃんと自分で考えて行動したんだもん。えらかったね。頑張ったね」
「キミ姉ちゃん……」
貴美は、腕の中で赤子のように泣き出した明の頭を撫でながら、愛する従妹の成長に涙を零した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます