第11話 征服道
蜘蛛の巣に捕らえられた蝶々はどうなるのだろうと、幼い時分にシェリーは考えたことがある。
生まれも育ちも都会暮らしの彼女は、街中でその光景に出会うことができなかった。しかし、今は便利な時代だ。フィールドワークをしなくとも、動画サイトに潜れば学習用の教材としていくらでも目にすることはできただろう。
それをしなかったのは、その結末を予期していたからだ。
身動きの取れないまま羽をもがれ胴体を食い破られる。
自然の摂理に則った弱肉強食とはいえ、悲惨なものからは目を伏せたい。
幼かったあの時、好奇心に任せてその光景を目に焼き付けておけば、今回の結末は避けられたのだろうか。
そんなはずはない。その光景はただシェリーの心に小さな傷として残るだけ。
都合よく機械の土蜘蛛を倒せる妙案を思いつくわけがない。
過去を後悔するのではなく、未来に期待するのではなく、今に全神経を注ぐべきだ。
だがそれでも、弱肉強食の現実はシェリーの筋書きに一つずつ二重線を引いていく。
過去の後悔も許さず、未来の展望に影を落とし、今への注力をもみくちゃにする。
「一ノ瀬嬢。苦戦してる場合かな? 相方の無残な姿を見ろ。手当てが遅れれば命を落とすぞ」
廃墟と化した施設内でエーゴスと打ち合う。シェリーは手加減されている屈辱に歯ぎしりが止まらない。
この男は、わざわざシェリーに合わせて戦い、戯れに結末を先延ばしにしている。
自身の企みを阻止し続けたタツミへの腹いせだろう。
邪魔がなくても彼の救命は間に合わない。
胴体分断でショック死。辛うじて意識がつながっていても出血多量で死の谷底へ転がっていくだけ。
だから戦闘続行は無意味だ。
シェリーが何度振りかぶろうとも、エーゴスに拳は届かない。
それでも。
「それでも、その顏ぶっ叩かなきゃ、気が済まないのよ!」
無骨な拳を強く握りしめる。その虚ろな灯を失ってしまえば、共に歩むと言ってくれた生意気な仲間に文句を言うことができない。
「私を幸せにするって言ったくせにぃっ!」
その拳に簡単に刃は貫通した。蜘蛛本体から射出された刀はシェリーの手を貫いたまま引き摺り、瓦礫の山に磔にした。
「なるほど、やはり恋仲だったのですね。田中少年は野暮な嘘をついたものです。それとも、貴女の片思いかな?」
土蜘蛛に乗ったエーゴスが動かなくなったシェリーに近づく。辛うじて動く胸部を確認すると、憎たらし気に短く息を吐き捨てた。
お返しとばかりに、シェリーも絶え絶えな息を吐く。
「何事もそういう色目でしか見られないのね。恋愛脳の痴れ者が」
「まだ喚くかい。女性は慎ましいほうが、花があっていいぞ」
エーゴスは突き刺さった刀を足で押し込む。
「それに、君の愛しの人も同じ穴の狢だろう」
シェリーは痛みに呻く。掌の鈍痛が彼女の意識をかき消そうと広がる。
けれど、反抗はまだ終わっていない。うめき声を短く抑えて口を開く。
「確かに、あの男は分別もない立派な軟派者だ」
淑女に似合わぬ大胆な破顔。気に食わない優男へ皮肉を混ぜて冷笑を贈った。
「でも、下劣な貴様と一緒にするな。毒蜘蛛め」
エーゴスの眉間に皺が寄ったのと同時に、土蜘蛛が足を振り上げる。
二本の刃がシェリーの胴体を目掛け袈裟に斬り掛る。
シェリーは、最期の言葉であの後輩を庇ったことが、場違いにもおかしかった。 笑う気力はもはやないが、足掻く力が残されていないわけではない。
残された消し滓のような最後の力でも、優男を殴るために使うのだ。
届かない拳を、それでもシェリーは突き出した。
しかし、今回に限り、彼女の拳が届かなかったのは僥倖と言えた。
もし、これ以上に体に余力があり、もう片方の手に突き刺さっている剣を引き抜いて踏み込もうものなら、彼女も巻き込まれてしまっていた。
眼前で舞い上がる黒い噴火は天を刺した。
突如、土蜘蛛の足元から黒い噴煙が吹き上がり、天高く持ち上げて行ってしまった。瀑布を逆立ちしながら見ているのではと錯覚してしまう。そんなあり得ないことを然も在りなんと考えてしまうほど、黒い噴煙は唐突に姿を現したのだ。
シェリーは突き出した拳をどこに収めるでもなく混乱の中で固まってしまった。
状況を理解するのにまだ五感が追い付いていない。そんな彼女へのヒントなのか、そっと黒い噴煙の一部が突き出した手の甲に落ちた。
飛ばされないように恐る恐る手を近づける。
煙とは違う何かだった。塵灰よりも細かい何かが集まっている。
それが一体何なのか。考えてもわからない。
そして、その思考が無駄だと中断を促したのは、空から落下し騒々しく着地に失敗したエーゴスだった。
身に着けたスーツが火花を散らして壊れている。
「あり得ない。なんだ、あれは」
ふらふらと倒れる寸前の独楽みたいな頼りない足で何とか立ち上がる。
呆然自失。まるで前世の悪行までその身に宿した絶望の面持ち。血まみれの顔面では、誰も甘いマスクで一世を風靡するタレントだとは思わないだろう。
「何なんだ、お前はー!?」
エーゴスが震える腕で指したのは、明らかにシェリーだった。
しかし、彼の瞳に銀髪の彼女は映っていない。その瞳は真っ黒に染まっている。
バリボリと何かが砕ける音がした。グニャグニャと何かが歪む音がした。
その音はシェリーの頭上からした。
彼女は恐る恐る首を捻る――—いた。
彼女の右手に刺さる刀の上にソイツは鎮座していた。
全身の産毛を総立ちさせる怪奇な音は、ソイツの咀嚼音。機械の土蜘蛛を貪る音だった。
真上でむしゃむしゃと口を動かすソイツのことを、シェリーは形容できなかった。
犬のような人のような鳥のような魚のような何ものでもないような。
分かるのは、彼女の手の甲に落ちてきたのは、ソイツの体を構成する一欠けらだということ。灰よりも小さい黒い粒がソイツの姿を成形している。
そしてもう一つ。シェリーはコイツの事が怖くて仕方がなかった。
腹に力を入れなければ嘔吐してしまうほど、歯を食いしばらなければ涙してしまうほど、気を緩めれば失禁してしまうほどに、ソイツが怖くて仕方がない。
恐怖に支配されていたのはエーゴスも同じだった。ただそれでも、一歩を踏み出せたのは、征服英傑としての意地だろう。
近くに転がっていた光弾銃を拾って引き金を引く。強化版の光弾銃に撃ち抜かれれば、如何に頑丈な征服者でも無事では済まない。
黒いソイツも例外ではなかった。体を貫き千切れた一部がぼとりと地面に落ちた。
しかし、驚いたことに、呻き声一つ上げなかった。それどころか、落ちた自分の体をじーっと眺めていた。路上で汚れている手袋を眺めているみたいに無関心で痛みを感じさせない。
有効打かどうかはまだ判断できない。エーゴスは迷わずに引き金を引き続ける。
ソイツは避けなかった。ぼとぼと落ちる自分の体をただ眺めていた。
さっきまでそのはずだったのだ。
ソイツが消えた。シェリーには辛うじてそこまで視認できた。次に聞こえたのはエーゴスの悲鳴だった。
言葉にできない叫び声をあげながら引き摺られていた。後頭部を鷲摑みにされ、地面に無理やり口づけをさせられている。
それでも足りないと言わんばかりに地面を割ってソイツの突進は続く。
その猛進はシェリーの磔られていた瓦礫の山を崩して進み、その場を離れてエーゴスの敷地内を蹂躙しに行く。
抜け落ちる形で拘束が解かれたシェリーは、右腕の止血をしながら立ち上がる。制服を噛み千切り掌に巻く。こんなもので流血は止まらないが、気休め程度にはなる。
危機が去ったとは言えない。しかし、こちらから去る時間ができた。
「タツミ! どこです。空閑タツミ!」
タツミが真っ二つにされてからすでに数十分が経過している。すでに望み薄だが、こんな瓦礫の山を彼の墓石にするわけにはいかない。
しかし、シェリーがあたりを見回しても上半身も下半身も転がっていない。
まさかさっきの衝撃でどこかに放り出されたのかと、シェリーは崩れて境界が分からなくなったモニター室を離れた。
敷地内の施設の倒壊は想像を絶していた。特撮のジオラマでももっと綺麗に建物を壊す。転がる瓦礫には建物だったころの面影はない。
戦闘開始からどれほど経ったのだろう。夜の闇の中で倒れている征服者も散見された。アドラシオンに倒されたのか、アイツの猛進に巻き添えをくらったのか。
ここが地獄へ至る道だと言われても、シェリーは疑わない。
でも、地獄への獣道にタツミの姿はなかった。
「いったい、どこに……っ!」
全身が自然と硬直した。征服者以前、人間の動物としての本能がシェリーに警告する。
『アイツが近づいてくるぞ』
ソイツはのそりと歩いていた。いや、歩いていたかどうかはシェリーにはわからない。ソイツが地につける個所を脚と呼称していいのか判断できないからだ。
ソイツは動かなくなったエーゴスを引き摺っていた。まるでぼろ布を扱うように、ずりずりと彼の後頭部を擦っていた。
シェリーはボロボロの拳を構える。
戦おうとは思っていない。闘志を奮わせなければ彼女は立っていられなかった。
「タツミを何処へやった!」
叫ばなければ弱音に押しつぶされていた。
そんな状態で、接近に気が付くはずもない。
ソイツの嘗め回す視線はシェリーの体を石にした。
ソレの瞳は、蝶々の標本を眺めるみたいにじろじろと、人間であれば鼻息を吹きかけられる程の間近で彼女の体を観察した。
最後に目に辿り着いた。
シェリーはソレと視線を交錯させた事で死を覚悟した。
多くの動物は目を合わせることが決闘の合図になる。コイツも同様ならば、シェリーの命は次に心臓が鳴るよりも前に米粒みたいに潰される。
だが、そのあと何度も彼女は自身の心音を聞いた。
そして、それ以外の音が何も聞こえないほど煩い鼓動に包まれながら、彼女は理解してしまった。
紅玉みたいな丸い瞳が奥で輝いている。
「むぅんっ!!」
シェリーの眼前で太陽を彷彿とさせる赤い巨拳が通過した。
アドラシオンの一撃は確実にソイツを捉えた。シェリーやエーゴスでは歯が立たないと確信していた難敵は、吹き飛ばされ施設を壊していく。
「ごめんね、シェリーさん。手加減できそうにない」
「い、いえ」
思わずそう答えた後に自身の顏に手を伸ばす。まだ、仮面はついたままだ。どうしてバレた。
「レイちゃんから聞いてるから」
ここまで委員長の思惑通りなのか。思わず悪態をつきたくなる汚い口を塞いで、 シェリーは代わりの言葉を紡ぐ。
「アドラシオンさん。おかしなことだと思うかもしれませんが聞いてください。あの黒い奴は空閑タツミです」
「うん、僕もそう思うよ」
予想外にも、アドラシオンはすぐに飲み込んでくれた。まさかこの事態も委員長の計画の一ページだとでもいうのか。
ことと次第によれば本格的に委員長を殴らないといけなくなる。利き手に力が入らないのが恨めしい。
「違うよ。想定はしていたみたいだけどね」
アドラシオン曰く、レイラも知らなかったらしい
「差し詰め、『真・狂乱者』ってとこかな、今の彼は。僕はいつ爆発するか分からないタツミ君の抑止力として、レイちゃんが他の用があるときは近くにいてって言われてたんだ」
かつてアドラシオンと並び立っていた主要征服団を壊滅させたタツミの力。そんなものが、普通のはずはないとアドラシオンンも勘ぐっていたらしい。
だとしたら、アドラシオンとレイラは、知っていたようなものではないか。
今は恨み言を口にしても仕方がない。帰ってからこんこんと問い詰めればいい。
それよりも今は本題だ。
「タツミは生きてるんですか」
あの黒い霧の中にタツミが動いているのならば、彼は生きている可能性が高い。
分かれた胴体で生きられるはずがない。それを真・狂乱者としての力が可能にしているのか?
理屈なんてそんな些細なこと、今はどうでもいい。
「タツミを助けられるんですよね」
「わ、分からないよ」
「どうしてですか」
ふらふらな体で詰め寄ったシェリーは、案の定、体勢を崩してしまう。
アドラシオンはそれを支えると、すぐに突き放した。
シェリーが腰を強打する前に、アドラシオンが黒い霧に飲まれ運ばれていく。
タツミであるはずのソイツは空高くでアドラシオンを手放す。身動きの取れない空中でいたぶるつもりだろう。エーゴスはそれでやられたのだ。
しかし、英雄を同列に語ってはいけない。
アドラシオンは、地に足つけない不安定な状況でもソレの猛攻を捌いていた。
かろうじて目で追えるアドラシオンとの立ち回りの中で、シェリーには漸く真・狂乱者の姿も認識できるまでになってきた。
常に形を変えているのだ。
さながら一つに留まらない水のように自由に姿を変え、こちらの正確な視認を妨げている。
ただそれも、アドラシオンの攻撃を受けることで、シェリーにも認識できるまでになったのだ。
狼のように食らいつき鷲のように空へと運び人のように蹴り飛ばす。かと思えば、名前を持たぬ何ものかの形になって絡みつく。
より適した破壊の形を模索しているふうでもあった。
アドラシオンはその全てを防ぎきり反撃もしているが、決定打は一つもなかった。
殴ろうとすれば自ら霧散し、投げようとすれば自ら千切れるのだ。
攻守回避の全てを兼ね備えられては苦戦も必至だった。
両者はひとまず距離をとる。
真・狂乱者の様子は測れない。アドラシオンは傷こそないものの上半身を激しく上下させ、浅い呼吸を繰り返していた。
「やってみたけど、手加減は出来そうにない」
目で追うのもやっとの攻防の中でもアドラシオンは手加減を試みていたらしい。 けれど、続行不可能なことは彼の荒れた息遣いが物語っている。
殺さなければ殺される。
不殺を規則に定めた征服者同士の戦いではありえない状況。一つ一つの攻撃に殺意を込めなければ、死神に首輪をかけ連れていかれる。
「わ、私も加勢すれば」
「駄目だよ。きっとフォローしきれない」
足手纏いだと、そう直接言わないのはアドラシオンの優しさゆえだろう。
シェリーではタツミを助けることはおろか、指一本触れることも不可能だ。
「今すぐ避難するんだ。あと、レイちゃんを連れてきてくれると助かる」
そう言い残して、アドラシオンは跳躍した。
砲弾の勢いで飛ぶと上空に留まり続けるタツミに突撃する。黒い体が蜘蛛の子を散らしたようにそれを避けると夕空を渡るムクドリの大群のように後を追う。
既に外は濃い闇に閉ざされ目は利き辛い。
しかし、そんな夜の牢獄をもろともせずに、アドラシオンとタツミは衝突を繰り返す。
一度目の衝突で空気を揺らし、二度目の衝突で散らばった瓦礫を吹き飛ばす衝撃波が生まれる。
シェリーは、昔読んだ征服王の絵物語を思い出す。
世界中の征服者がしのぎを削り、終に訪れた最終決戦。
誰も恐れる最恐最悪の決戦が今目の前で、たった二人の男によって再現されている。
もし、万が一、征服英雄が負けたとき、シェリーではこの暴走を止められない。タツミは見境なく周囲を破壊し、都内を阿鼻叫喚に堕としいれるかもしれない。
早急にレイラを呼ぶべきだ。
レイラとアドラシオンが手を合わせ、タツミを抑え込むのが先か。英雄か同僚の亡骸が出来上がるのが先か。
シェリーがいくら手を伸ばそうと届かない事実は不変だ。だから、早く走り出すべきだ。委員長の加勢に期待して救援要請に走るべきだ。
「……ふざけるな」
でも、許せるはずがない。目の前にいるのに、まるで遠い銀河の果てにいるみたいに、自分を無視するいけ好かない後輩を殴ってやらないと気が済まなかった。
「ふざけるな! 空閑タツミ!」
ほんの少し間、タツミの動きが止まった。
その後、ぎょろりと赤い眼光が確かにシェリーに向けられた。すぐにアドラシオンの追撃を避けるため体を散らしたが、確かな反応を示した。
まだ聞こえているのか?
「いくよ。シェリーさん」
いつの間にかアドラシオンが彼女の後ろについていた。彼も、タツミの反応を見逃さなかったのだ。そして彼女が一縷の望みであると即座に手を組むことに決めた。
「来て!」
バレーボールのレシーブの構えで低く腰を据える。ここに足をかければ、タツミの所までアドラシオンが飛ばしてくれる。
右足を乗せる。それは、たった一枚きりの頂への切符だ。
本来届かない場所へ行くため、一度だけ許された飛行船への搭乗券。
保証はない。靄の中、直感だけを頼りにあるのかもわからない希望にすがっているに過ぎない。
ただそれでも、シェリーは信じるしかない。
赤い瞳と目が合った時、それまでの恐怖心の一切を克服した自分の体を信じるしかない。
「よろしくお願いします!」
アドラシオンは合わせた腕を振り上げ、シェリーを放り投げる。
海をひっくり返しそうな勢いの中、喉奥を焼く胃酸を何とか飲み込む。
意識を置いてきぼりにしそうな速度の中で、シェリーを繋いでいたのは、微かな温もりだった。
彼女は、自分がタツミに突っかかってしまう理由を漸く理解した。
軟派者だとか小生意気だとか不真面目だとか。そんなものは本心を隠すための張りぼてだ。
(私は羨ましかったんだな)
シェリーは征服者を諦めていた。
総理大臣の娘という都合のいい理由を隠れ蓑にして、幼い彼女が抱いた夢から逃げ出した。
タツミの生き方は、そんな暗いところに隠した本音を暴いてしまった。
逆境にも折れずに自分であり続けた彼の姿は、シェリーの心に火種を蒔いていった。
燻ぶっていた彼女に宿った違う色の炎。その炎が心に巣くっていた呪いを燃やしたのだ。
幸福の責任を一緒に背負おうとタツミは言ってくれた。苦難を共に乗り越えたいと手を取ってくれた。
(まるで愛の告白みたいだったなんて、お前は考えないんだろうな)
真・狂乱者は、両の爪をこの世のありとあらゆる武器の形に変えてシェリーに向かってきた。
しかし、彼女は臆さない。
「助けられてばかりは気に食わないんだ」
真・狂乱者として暴走する今の姿が、タツミの目指す先にあるものだとは思えない。
じゃあ、目を覚まさせてやろう。
自分を連れ戻してくれた相手へ、返礼の一撃をお見舞いしてやろう。
「歯を食いしばれ! タツミ!」
右手の血は止まりそうにない。
それでも、銅色の手甲を打ち鳴らす。
たとえ色を落とし鈍くなろうとも、手甲から出る火花は枯れかけた花弁を紅く燃やす。
美しく散る未来を待つ花ではない。
闇夜を飛ぶ彼女は、炎々と燃える青い焔になった。
燦然と閃く青が兵器の間を潜り抜ける。夜陰を割く一筋の炎は確実にタツミに届いた。
シェリーは落下しながら手ごたえを感じていた。決死の一撃は確実に真・狂乱者に命中した。
黒い無数の武器はほろほろと形を崩したが、体は散り散りになることなく、彼女と同様に落下していく。
「大丈夫?」
地面に打ち付けられそうになる寸前、シェリーはアドラシオンに受け止められた。
無事に着地する気力は残っていなかった。英雄の腕の中で気を失いそうになる。
けれど、まだタツミはそれを許してくれなかった。
黒い粉塵を身に纏いタツミは立っている。
アドラシオンの喉が鳴る音が聞こえた。
「おろしてください」
「シェリーさん。これ以上は」
「大丈夫ですから」
英雄の体からそっと離れる。それだけでシェリーの体は傾いてしまうほど力を失くしていた。
それでも倒れずに一歩。少しずつでも、近づいていく。
腕を上げる力はもうない。そんな丸腰の状況でシェリーはタツミの前に立った。
「帰るぞ、タツミ。そしたら、またお前のカレーを食わせてほしい」
春の終わり。
雨に当たって花びらを散らす桜のように、黒い粉塵がタツミの体から落ちていった。
雨露でその身を濡らす代わりに汗をびっしょりと体中に滲ませて、五体満足のタツミが姿を現した
彼も自身の体に起きた異変に内側から抗っていたのだ。
全ての粉塵が流れると、憑き物が落ちたみたいにタツミの体から力が抜けた。
倒れそうな体をシェリーが受け止める。
シェリーが左手一本で抱きかかえる不格好な支え方だったが致し方ない。お互い五体満足で立っているが、満身創痍に変わりないのだ。
二人は体重をかけ合い、ゆらゆらと立っていた。
「ご迷惑をおかけしました」
「本当だ、馬鹿者め。あとで殴らせろ」
「さっき良いの貰いましたよ」
「覚えているなら尚更だ。もう一度殴らせろ」
「お手柔らかにお願いします」
背中に回されたか細くも力強く離れない腕に抱かれながら、タツミは心底残念そうに瞼を下ろした。今日ほどだらしない自分の体を呪ったことはない。
(まったく。これだけして、腕一本分しか近づけないなんてな)
それでも、四分の一の温もりを忘れないために、タツミは子供のように全てを委ねるのだった。
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