第10話 裏

 征服英雄アドラシオンは多くの征服者にとって越えるべき壁であった。

 名声。実力。功績。何をとっても彼を越えなければ、日本国内で頂点に立つことは難しい。

 

 それは、エーゴス・リンドバーグにとっても同じだった。

 彼の華々しい芸能活動も国を救った英雄の前では霞んでしまう。

 そして、世界で認められている彼の発明品も、英雄の拳一つでがらくたに変わる。


「だが、それも今日までだ」


 モニターに映るアドラシオンの一騎当千の勢いを見せつけられても、エーゴスは余裕を滲ませていた。流石にすぐに倒せるとは思っていない。しかし、今から彼も合流すれば、天秤は容易に自陣に傾き、英雄は無残に敗北の下り坂を転げ落ちることになる。

 ここに来るまで長かった。エーゴスは戦火から離れた別室で、懐古に頬を紅潮させた。


 世界征服実行委員会の目を盗んで規定違反の武器を開発し、何とか征服抗争に持ち込んだのが三か月前。

 それを赤髪の闖入者におじゃんにされてしまった時は、メディアの力を使ってでも生意気な餓鬼を探し出そうとしたものだ。

 当の本人は既に委員会に保護され、追跡は果たせなかったが。


 だが、兵器の改良を進められたのは僥倖だ。わざとはぐれに武器を流し、委員会を使って貴重なサンプルを得る。こうして作られた最新版には、アドラシオンですら苦戦している。


「もう一度正式な場でと思っていたのに。まさか同じ少年に邪魔されるとは」


 余裕の中に苛立ちが一点。白紙に落とされた黒い一点のように目障りだ。

 ただ、癪ではあるが、この展開でよかったのかもしれない。

 もともと委員会の規制は鬱陶しかった。アドラシオンとともに彼らも殲滅してしまえば、世界征服に向けて残された国内の障害は多くない。

 有象無象の征服者や一般人はエーゴスに従う道しか残されていないだろう。

 ルールなんて壊してしまえば日本なんて小さな国、欠伸をしながらでも征服できるのだ。

 

 エーゴスは壁に掛けてあった自身の発明品に恍惚の眼差しを送る。

 彼専用の兵器は、汎用機の性能を格段に上げ更に統合したものだ。量産する気はおろか部下にもこのことは教えていない。

 彼が王へ至るための聖なる神具。いや、神すら殺す革命の力。


「神の前にまず君を滅ぼそう。英雄君」


 ソレを被った下で、エーゴスは不敬な笑みを浮かべる。


「征服者に守られた偽りの安全神話。僕がそれを壊そう」


―――その鉄槌は、恐竜を絶滅させた灼熱の隕石を思わせた。


 エーゴスの隠れるモニター室の天井を周りの外壁ごと吹き飛ばして、その男は襲来した。

 細身ながらも筋肉を浮きだたせる漆黒のボディスーツ。水に滲んだ水彩画のような赤色の仮面と輪郭のはっきりとした赤色の髪。闇に潜む蝙蝠みたいな黒いマントは腰の下まで垂れている。

 男が携えるは二本の短刀。その一本の切っ先をエーゴスに突き付けた。


「お天道様浴びねえと性根まで黴つくぜ。研究者さん」


 遡ること一時間前。


 コトノの秘策を無事に受けとり、というよりも身に着けたタツミとシェリーは、都内の夕闇を切り裂き進んでいた。

 緊急事態だ。バイクで首都高を走るよりも屋根伝いに飛び越えて走ったほうが、シェリーと狂乱者状態のタツミの脚力ならば早く辿り着ける。


「おそらく、首都高も一般道も通行規制だ。自前の脚で走るしかねえな」


「だからと言って、この格好はどうにかならないのですか!」


 シェリーの声が裏返ったのは、全力疾走が原因ではないだろう。頬がやけに紅いのも夕焼けのせいではない。

 コトノがとっておきと言って事務所の物置から取り出したのは、華やかな衣装の数々だった。


「レイラがシェリーのために作ってた」


「うわぁ……」とまだ狂乱者になっていないタツミが、控えめに嘆声を漏らした。

 なんとあの不真面目委員長は、たった一回のテレビ収録のために様々な服を用意していたらしい。選ばれたのが件のふりふりドレスだったというだけで、他の候補も十分に羞恥心を刺激するものだ。

 シェリーは、段ボールから用意されていた衣装を取り出しては口をぱくぱく金魚のように唖然としていた。

 上司の職権濫用もここまでくるとパワハラ案件だ。


「まあ、シェリーさんの衣装はこれでいいとして」


「良くありませんよ!」


「僕はどうしようかな」


 タツミとシェリー。さほどの身長差はないが、体格差は一般的な男女並みの差がある。

 無理やり着たら、生地が悲しく破れるだろう。


「貴方も着なさい! 同じ責め苦を味わうといい!」


「いやいや、こんな恥ずかしい衣装着れませんよ」


「それを私に着せようとしてるんだろう!」


 こんな不毛な言い合いをしているべきではないというのに。髪を暴れさせながら詰め寄るシェリーにタツミは照れを隠して苦笑いを返す。

 そもそも、ここにある全てがレイラの用意したものというなら、どちらが着ようと変装にはならない。目聡い糸目は誤魔化せないだろう。


「じゃあ、これは」


 コトノが奥から持ってきた別の箱を、タツミとシェリーは仲良く覗いた。


「委員会の制服?」

 

 シェリーの口から漏れた言葉と同じ感想をタツミも持っていた。

 白と黒のボディスーツがそれぞれ一着。マントまで付いたそれは、背広の形に近い今の物と形は違うのだが、どこか似通った印象を受けてしまう。

 他にも、身を隠すにはお誂え向きの赤と青の仮面が一つずつ入っていた。


「これも今の制服を選ぶときの候補とか?」


「違うと思う。こんなの、無かった」


 コトノ曰く、今の制服もレイラの趣味で作られたらしいのだが、その時の候補案にはなかったし、前までの委員会メンバーは一般的な背広を着用していたので、過去の物でもないらしい。


「じゃあ、もっと昔の物ってことか」


 なんにせよこれは都合がいい。コトノにも覚えが無い者ならば、レイラが知らない可能性もある。


「時間がありません。これを着て急ぎましょう」


 そう言って箱に手を入れたタツミが掴んだのは黒いスーツ。そしてシェリーが掴んだのは、タツミの腕だった。


「待て。私が黒を着る」


 今日一の剛腕にタツミの腕が動かなくなる。


「え、いや、どっちでもよくないですか」


「じゃあお前が白を着ろ」


「僕じゃ似合いませんって。白は女性の方が」


「嫌だ。恥ずかしい」


「なぜですか? 赤い仮面上げますから。好きでしょう?」


「別に好きじゃない! それに赤白とか垂れ幕じゃあるまい」


「そんなこと誰も思いませんよ!」


「うるさい! 私が黒だ!」


「僕です!」


「私だ!」


「どっちでも! いいから! 早く! 行って!」


 コトノに追い出される形で二人はエーゴスの拠点に向かった。

 ちなみにスーツは公正なじゃんけんの結果、タツミが黒いスーツに赤い仮面、シェリーが白いスーツに青い仮面、を着ることになった。着心地もフリーサイズで問題ない。

 シェリーは未だに文句を言っているが、彼女の銀髪に相性のいい色合いだと、タツミは感動で拝まずにはいられない。


 ちなみに、

「眩しいほどの銀髪に白いスーツと青いマスク。月夜に湖で水浴びする麗しい白鳥ですか?」


 と言ったら殴られたので、褒め言葉はそれっきりだ。

 それに、タツミは彼を殴った手甲の色の方が気になった。


「塗装落としちまったのか」


 夕闇を走る中、金属の武骨な銅色が鈍くオレンジ色を反射している。


「そんなに赤色は嫌いか」


「本気にしないでください……けじめですよ。断ち切ったと思って縋りついていた弱い自分への決別です」


 その赤色は確かに彼女を支えていた。しかし、同時に、輝きで闇を隠していた。

 清き白鳥には似合わない武骨な銅色。

 だけど、その上に、彼女は何色でも塗ることができる。


「見えたぜ」


 オレンジのビル群を抜けた先では煙が上がっていた。

 タツミ達がいる地点からはまだ距離があるが、敵敷地内で爆発や建物の倒壊が確認できる。

 すでにアドラシオンと征服者たちの戦闘開始から数時間が経っていた。それなのに、あの征服英雄をもってすら決着がつかないとは。

改めて、大征服団エーゴスの軍事力が計り知れないものだと分かる。

 だからと言って、二人に退く気は毛頭ない。


「準備はいいかい。シェリーさん!」


「ええ。手筈通りに!」


 銅色の手甲と薄汚れた短刀を打ち鳴らす。

 秘密裏に開幕した対征服団エーゴス戦。経過約三十時間。

 均衡と疲労の牙城を崩しに、謎の二人組は夕闇に溶けて行った。

 

「こんな所に籠ってるから根暗な考えしか浮かばないんだよ」


 タツミが天井を突き破ること三回。思いの外早く敵大将を発見できた。

 アドラシオンが派手な立ち回りをしてくれている今だからこそできる強硬策だが、虚をつくには成功した。現にこの室内―――もはや室内と言えるほど壁は残されていないが、敵はエーゴスただ一人だ。


「ん、いや、あんた、エーゴス・リンドバーグか?」


 ねちっこい殺気は確かにエーゴスその人だと、タツミの腹部が疼いて教えてくれる。

 けれども、彼のよく知る白衣姿ではなかった。

 思い出すのは特撮物のヒーローだ。西洋の甲冑に近代的かつスタイリッシュな意匠が凝らされている。全身を重厚に覆いながらも、動きを阻害しそうな要素は一つもない。


「いかしてるな、それ。俺もそっちが良かった」


 タツミは肌に密着した黒いスーツを引っ張り、羨ましそうに口を曲げる。

 このスーツも動きにくくはないのだが、その分味気もない。目の前の超人スーツが持つだろう特殊な機能もないだろうし。


「変装はいいが、声には気を付けたほうがいい。聡いものにはばれてしまう」


 変声機を通した低いがなり声が聞こえたかと思うと、超人スーツの拳はタツミの腹部めがけて走っていた。

 タツミはその手首を掴む。しかし、捻り上げようと手首を回転させたところで手の甲から忍び刀が伸びてきた。切っ先が顎を割こうという直前、タツミは短刀を間に噛ませた。


「やっぱ、あんたがエーゴスだな。そういうみみっちい戦い方、嫌気がさすぜ」


 先手を取ったのはタツミだった。短刀で忍び刀をずらす。そのままスーツの隙間、首元を狙って短刀を滑らせる。

 だが、違和感。

肉ではない。別の感触が金属を通して指に伝わる。

 タツミは、それを無視して刃を立てた。


「おいおい、無理をする」


堪らずエーゴスは距離をとる。スーツの隙間からは血が流れていた。血の量から判断するに、頸動脈は反れてしまったが、致命傷には変わりない。

 しかし、深手を負ったのはタツミも同じだった。

右腕が爛れている。以前も食らわせた溶解液を今度はまともに受けたのだ。突き刺したはずの短刀は、ふやけた和紙のように千切れていた。


 ただし、タツミは避けられなかったわけではない。

 愚行とも思える刺突。だがそれをしなければ、ただ短刀を一本失って不利になるだけだ。

 だから、天秤にかけた。 

 右手の裂傷と相手の出血。こちらは痛みを我慢するだけで敵の最大の武器を弱体化できる。

 血が足りなければ奇才も考えがまとまるまい。


「やはり狂っている。狂乱者の名は偽りではないね。空閑タツミ君」


 エーゴスの首元から蒸気が噴き出す。高速で止血する機能でもついているのだろうか。


「まさか生きていたとは。君の評価は更新され続けていくね」


「光栄だね。免じて大人しくお縄ってわけにはいかないか」


「それはできない。これは悲願だ。長年敗者に甘んじた私の集大成だよ。大人しく観戦しているがいい」


 エーゴスの体が宙に浮く。アドラシオンのもとに行くつもりだろうが、そうはさせない。

 タツミは地を蹴って飛ぶ。そのまま足を掴んで引きずりおろす、なんて真似はしなかった。

 掴んでいたのは瓦礫。男性成人ほどの大きさの瓦礫を投げつける。一つや二つではない。次々に放っていく。

 もちろん、それを砕けないほどエーゴスの体は柔ではない。難なく拳で脚で瓦礫を崩していく。

 それでも、その場に留められているのは、タツミが縦横無尽に動き、四方八方、上下左右から瓦礫を投げ続けているからだ。


「煩わしい。君の相手は後でしてやると言っただろう」


「俺はあんたの心配をしてるんだぜ」


 刹那、エーゴスの視界からタツミの体が投げられた瓦礫で消えた。

 少しだけ焦ったが、エーゴスはタツミの影を捉え、彼が隠れているだろう瓦礫を蹴り上げる。

 しかし、その奥に影は輪郭すらもない。


「お前はアドラシオンさんには勝てない」


 爪先に乗っていた。エーゴスが蹴り上げた足の先にタツミは片足で立ち、見下し

ていた。

 もう片方の足がエーゴスを強打する。仕返しとばかりに蹴った場所は、タツミが穴をあけられた腹部だった。


 蹴りの勢いをもろに受けてエーゴスは急直下。体は地面に叩きつけられ、波状に罅割れを起こした。


「そのスーツが奥の手なんだろ? あんたの持ちうる最強の武器だ。じゃあなんで、さっさと勝負を決めに行かない? 一日以上こんな暗い部屋に籠って傍観決め込んでるんだ? 覚ったんだろう。手加減されてるって」


 アドラシオンは不殺をどんな時も貫いてきた。もちろんそれは、規則に則った征服者としての当然の行為。例外なく誰もが殺意無く征服抗争に明け暮れている。

 しかし、本気で殴り合えば不幸な事故というものは起こりうる。

 だから、アドラシオンは決して本気を出さない。殺す以外の方法で必ず勝利をもぎ取る。

 自分の力が頂にあると自覚しているものだからこそできる手加減だ。

 

 それは、彼を仰ぎ手を伸ばす人たちにとって、耐えがたい屈辱でもある。 


「黙れ!」


 すぐに起き上がれる一撃ではなかったはずだ。だが、エーゴスは跳ね上がる勢いで立ち上がり、無防備のタツミに食らいつく。

 その必死さも、タツミの目には冷ややかに映る。


「たった一度優位に立ったぐらいでよく大口を叩けるな! 君はまだこのスーツの真の力を知らない」


「だったら見せてみろよ。打ち砕いてやる」


 余裕綽々。泰然自若。

 陽気な声色で指を鳴らして誘うタツミに、エーゴスは全身を震わせ床を殴りつけた。


「その余裕。後悔するなよ!」


 まず形を変えたのは両腕だった。細やかにまとまっていった体の線から次々と兵器が乱暴に顔を出す。人型だったスーツは荒々しく姿を変え、最後には土蜘蛛の様相に変貌した。

 大きさにして二トントラック程。自身の施設を突き破り本性を現した化け物は、間髪入れずに光弾を発射する。


「デカけりゃ良いってもんでもないと思うぞ」


 光弾の他にも様々な兵器がタツミの影を追随する。

 着弾すると粘着性の液体を吐き出すミサイル。光の反射率を利用した透明弾。

 下手に突っ込もうものなら腰から体を分断する鋼糸も張り巡らされていた。

 数十、いや、百を超える種類の兵器の数々。


「俺は、さっきのスーツの方がかっこいいと思うけどな」


 しかし、その全てがタツミには届かない。


「デザインのセンスも試行錯誤したほうがいいんじゃないか」


「煩い!」


 機械の土蜘蛛はその図体から考えられないほど俊敏だった。

 日本刀並みに切れ味の増した足の一本がタツミの胴体を斜めに切り裂こうと迫る。

 それを短刀一本で受け止める。重量だけでも数十倍の差があるだろう。

底なし沼にはまった無力な小鹿さながらに、タツミの体が徐々に沈み始めた。


「どうした! さっきまでの威勢はどこに行った!」


 そんな状況でも、タツミの真っ赤な瞳は太々しい光を失わない。

 導火線の火種の如き豪胆な煌めきが相手の喉仏を穿つ。


「言い忘れてたけどな、あんたを倒すのは俺じゃねえ」


「何を……!?」


「俺達だ」


 飛来。

 銀色のほうき星が土蜘蛛の土手っ腹に衝突した。

 エーゴスは気が付けなかっただろう。タツミに全神経を集中させ、あと一歩で両断できるという間際、か細い一線など気にも留めなかっただろう。

 

 だが、それが間違いだ。


 侮っていた細い糸切れが眩耀する彗星だと気付いた時にはもう遅い。

 エーゴスの体は宙を舞い、施設の壁を何枚もぶち抜いて飛んで行った。


「すみません。征服者の制圧に手間取りました。遅れましたか?」


「いや。ジャストだよ。シェリーさん」


 タツミはブラフ。登場から挑発まで。一挙手一投足がエーゴスの注意を引くための行動だった。

 その間、シェリーが謎の白スーツとして増援を防ぎ、絶好の機会に渾身の一撃をぶち込む手筈だった。

 結果、パズルのピースは滞りなくはまったのだ。


「油断しないで。征服英傑の一人を私の一撃で倒せるとは思いません」


「慎重だな。同感だけど」


 土蜘蛛が飛んで行った先からは、パラパラと壁が崩れる音が届く。だが、敵が飛び出してくる様子はない。それでも、警戒が解けないのは、エーゴスの持つ兵器の全てを把握できていないからだ。

 故に臨戦態勢は解かない。油断して寝首を掻かれるなんて同じ轍は踏まない

 だから、エーゴスの反撃にも対処できた。


 それがたった一回の成功でも、即死に至らなかったことは称賛すべきだ。

 噴水みたいに噴き出す血液。仕掛け時計の小鳥みたいに飛び出す臓物。

自分の体から出ているそれらを視界に収め、タツミは冷静に思考を整理した。

 一秒にも満たない刹那、彼らの身に起こったことを遠くに転がる下半身を眺めながら回顧する。


 連続する壁の穴をくぐりぬけて二人に突撃してきたのは、土蜘蛛から離れたエーゴスだった。

 右手に光弾銃。左手には刀状の土蜘蛛の脚。

 土蜘蛛本体はシェリーの一撃で再起不能と判断。前衛シェリー、後衛タツミの陣形をとる。

 シェリーが先行。エーゴスの放った光弾を避けさらに接近。タツミも光弾を避け追従。

 

 ここだ。ここからだ。

 

 タツミの真後ろで奇妙な音が鳴った。最初は光弾の着弾音だと思った。

けれど、違う。空を切る音がしたのだ。そして代わりに、着弾音はなかった。

 何かいる。後手を取られたタツミが、初撃を防げたのは、偶然だった。

 振り向きざまに薙いだ短刀が土蜘蛛の脚に当たったのだ。

 

 驚くことに、土蜘蛛がエーゴスから離れ完全に自立して動いていた。

鋭利な脚は短刀を砕く。生身になったタツミは驚きに支配されたまま避けることもできずに、体を半分に分けられた。


「タツミっ!」


 シェリーが悲痛な叫び声を上げる。ぶつかり合う拳の最中覗けた彼女の顏は痛々しく歪んでいた。

 大丈夫。これは俺の油断で、シェリーさんの不幸は何も関係ないから。そう言ってやりたいのに、口からあふれるのはドロドロした血液だけ。


 まただ。何度慢心を繰り返せば学習する。不甲斐無い自分に反吐が出る。

 幸せにすると宣言しておきながら、見せつけたのは敗北者の烙印だ。

嘘つき者として、彼女を海底へと引きずり込もうとしているのは自分自身じゃないか。

 次こそは。失敗するたびに何度も脳裏をよぎる言葉だが、今回だけは空しく消えていった。


 征服者の体がどんなに頑丈でも、千切れた足では次の一歩は踏み出せない。


★☆★☆★☆★☆


 ビルの屋上。その縁に腰掛けながら叶恵コトノは珈琲を飲む。


「……苦い」


 一日でも早く大人になりたい。そんな背伸びしてタツミに作ってもらった珈琲を水筒に入れて持ってきたが、やはりまだ彼女の舌には合わなかった。

 それでも、コトノはちびちびとコップを傾け、ほろ苦さを口に馴染ませていった。


 遠く視線の先では黒煙があがり、遅まきに戦火の号砲が聞こえてくる。

 屋外で戦うアドラシオンの獅子奮迅の活躍は確認できても、室内までは覗けない。コトノは漸く飲み干したコップに新しく珈琲を注ぎながら、送り出した奇天烈な格好の二人を少しだけ心配した。


「命令違反ばっかりでお姉さんは困っちゃうよー」


 コツコツとヒールを鳴らす音がする。

 どこからだろう。コトノは誰もいない後ろを振り返った後に、表情を変えずに下を、ビルの壁に視線を移した。


 藺草レイラがビルの壁を歩いていた。


 重力に逆らい、陽気に歩いて上ってくる。だが、彼女の念動力を知っていれば驚くことはない。コトノはまた少しずつ苦い珈琲を口に運ぶ。


「あ、美味しそー。お姉さんにも一口」


「だめ。コトノの」


「いけずー」


 壁を登り切ったレイラの脚は止まらなかった。そのまま天に向かって二、三歩進んだあと、まるで森の中で揺られるハンモックに寝そべる要領で宙に漂いだした。


「二人は衣装しっかり着てくれた?」


「ドレスなら来てない」


「そっちじゃなくて、ボディスーツ」


「……何で知ってるの?」


 今まで眠たげだったコトノの琥珀色の目が微かに丸くなった。でも、すぐに察して白い頬を焼き餅みたいに膨らませる。

 委員会内の付き合いはこの二人が一番長い。彼女は、全てが上司の誘導だったと察したのだろう。

 不機嫌に風船を膨らませるコトノに、レイラは狡賢く白い歯を見せた。

 レイラが指を指揮棒のように振るう。すると、コトノの手にあるコップの中から珈琲だけが浮かびふよふよと漂いだした。

 無重力空間で水を飲む宇宙飛行士みたいに、レイラは器用に珈琲を口に入れる。


「あれ、ブラックじゃん。ミルクはいいの?」


 レイラは念動力で水筒を浮かせて新しく珈琲をコトノのカップに注ぐ。


「いらない。これがいい」


「そうかー。皆成長してくねー。お姉さんは嬉しいよ」


「援軍。行かないの?」


 レイラに企みがあるのはいつものことだ。

 桃太郎が持つきび団子。金太郎の持つ鉞。浦島太郎の釣り竿。

 おとぎ話の主人公が当たり前に持っている道具と同様に、レイラは企みを常備している。

 だから、今回の彼女が手札に何枚ジョーカーを仕組ませようがコトノは気にしない。

 

 ただ、こんなものぐさ委員長でも仕事は完璧にこなす。不真面目にだらだら生きつつも、成果だけは上げてきた。

 そんな彼女が自ら買って出た援軍に行かないことの方が、コトノは不思議だった。


「行かないよー。いま、新入り君に倣って大博打中なの」


 いつにも増してより一層訳の分からないことを言うレイラに、コトノは考えるのを止めた。ぷいっと体をそらして、また口にコップを付ける。

 そんな無愛想に見えて仲間想いの部下を励ますように、レイラは念動力で優しく頭を撫でた。


「心配しなくても、二人なら大丈夫だよ。シェリーちゃんの残滓があれば被害は出るけど、解決はする。それに、今回もタツミ君がいるから何とかなるよー」


 狂乱者としてのタツミの実力はもちろんコトノも認めている。

 油断しがちという嫌いはあるものの、覚悟のうえで戦闘に臨めば彼は国内でも屈指の征服者だ。それこそ、いずれは一人で筆頭征服者になる日も来るかもしれない。


 しかし、征服英傑には勝てない。


 征服英雄アドラシオンを始めとした、五人の筆頭征服者。

 エーゴス・リンドバーグもその一人。奇才で鬼才で機才な彼に、ただの短刀で挑むのは無謀だ。

 狂乱者の能力は、身体能力の莫大な増強。

 タツミが強大な鎚であれば、エーゴスは硫酸なのだ。いくら叩いても傷つくはずがなく、辺りに害をまき散らし、鎚を沈めて溶かしてしまう。

 予想外の一手に苦しめられることは、コトノにも明白だった。

 レイラとアドラシオンがいると思っていたから送り出したのに。これでは犬死させに行かせたようなものだ。


「タツミを信頼しすぎ」


 それでも、コトノの心配をよそに、レイラは快活に笑う。


「信頼はしてないよ。これは博打だからさ」


「分かんない」


「狂乱者の名は伊達じゃないのさ。伊達じゃいられないのさ」


 ふてくされる部下の口にレイラはグミを放り込む。苦味でいっぱいだったコトノの口では甘さが際立つのだろう。可愛いえくぼが満足度を教えてくれた。

 レイラは先日のシェリーの報告を思い出す。

 彼女が上げた報告書には、はぐれたちが起こした事件の顛末の他にも、タツミの征服王の残滓「狂乱者」についての考察も記されていた。


『極めて危険。著しい身体能力の増大が認められる。性格及び口調の荒々しさに伴い戦闘方法にも凶暴性が確認できた。そして、敵目標への容赦ない攻撃だけではなく、冷静さも垣間見えた。敵の攻撃に対し回避行動をとらなかった。しかしこれは、その危険性を瞬時に正確に分析し、より短時間の目標制圧を為すための行動ととれる。高い凶暴性と戦況を合理的に分析する知性。それらが合わさった危険度は今回の一件だけでは測り切れず、今後とも要観察対象として注意が求められる』


「シェリーちゃんもまだまだかなー」


 堅物な部下の詰めの甘さをころころ笑いながら、レイラは空中で寝返りを打つ。


「知性とか合理性とか、そんな余計なものは彼には要らないんだよ」


 その光景はあまりにも鮮烈だった。いつまでもレイラの心を掴んで離さない。

 叶うのならば、その場に居合わせたかった。そう願わずにはいられない。

 確実に、あの存在は大きな起爆剤になるだろう。


「今日こそは、直接見せてよねー」


 好き放題させてあげているのだ。その真の姿を、進化を今日こそは確かめさせてくれ。


 狂い果て妄りに乱れ立ち続け、溺れた眼で何を見つめる。


 藺草レイラはもう一度寝返りを打つ。まるで昼寝前のそれのように緩慢な動作だったが、彼女の瞳は神秘を隠す宇宙の光輝を宿していた。

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