第9話 きっかけ


 征服団エーゴスの抵触行為に巻き込まれたテレビ局員たちは、命からがら逃げ延びていた。

 あまりに色々起こりすぎて、昨日の出来事だけでも一年分の疲れが溜まった気分だ。現場にいた局員たちは、仕事をしながらもどうも上の空の様子だが、それも頷ける激動の一日だった。

 

 そして、小太りの男、鴨井ディレクターもそれは同じだった。

 

 世の中の風に流され隅に追いやられた喫煙室で、三年ぶりの煙草を吸う。上がっては消える煙を目で追い、また吐いては見上げてを繰り返していた。

 吸わなければやっていられないと火をつけたのに、空っぽにした頭に浮かぶのは昨日の事件だった。

 

 休憩中、工房内が大きく揺れたすぐ後、エーゴスの征服者たちが武装し、彼らに銃口を向けたのだ。

 混乱状態のスタッフたちが誰一人として怪我をしなかったのは、その場にいたシェリーとアドラシオンの適切な対応のお陰だろう。

 アドラシオンが敵の注意を引きつけ、シェリーが避難誘導をしつつ流れ弾から皆を守っていた。

 

 有難いとは思う。だが一番に鴨井の脳裏に浮かんだのは、恐怖だ。

 

 征服者の持つ「恐ろしさ」を再認識してしまう。

 彼らの指は指ではなく、刃ですらなく、肉体を貫く弾丸そのものだ。


「やっぱり、あいつらには関わり合いにならない方がいい」


 事件の詳細を追うことはおろか、二日間取りためた映像の使用も実行委員会から禁止されてしまった。

 タダ働きのことを思うと煙が目に染みるが、余計なことは言うまいと鴨井は黙ることを決めた。

 下手に首を突っ込めば、擦り潰されるのは煙草ではなく、誰になるのか。それが分からないほど、鴨井も伊達に年を重ねてはいない。


 嫌なことはさっさと忘れて、後輩いびりに精を出すことにしよう。

 久々の煙を堪能して喫煙室から出たところで、胸ポケットの携帯が震えた。


 番号は非通知。


 気持ちを切り替え携帯を耳元に当てた鴨井は、数分後、コンビニで煙草をカートン買いしていた。



★☆★☆★☆★☆


 意識を回復したタツミが真っ先に目にしたのは、見慣れない天井だった。

 

 それだけで、自分に何が起こっていたのかを思い出す。

 胴体に風穴を開けられてすぐ病院に担ぎ込まれたのだろう。そんなことは血が回っていない頭でもすぐに分かることだ。

 分からないのはその天井に浮かぶ見慣れた翠玉色の三日月である。


「コトノちゃん。重いからどいて」


「あ、タツミ起きた」


 大怪我をして包帯でぐるぐる巻きの腹部の上に、遠慮なくコトノは馬乗りになっている。

 グミをほっぺ一杯に溜めながら、驚く様子もなくタツミの上でもきゅもきゅいわせていた。。


「あげる。お見舞い、だよ」


「今はいいかな」


 タツミはコトノを両手で持ち上げるとベッドの縁にずらす。

大怪我をしたはずなのに、大して痛みない。けれど、征服者の体とはそういうものなのだろうと納得するほかない。

 なんせ腹に穴が開いたのは初めてである。


「お、タツミきゅん。気が付いたねー」


 病室のドアを勢いよく開けてレイラが入ってきた。腕に抱えているのは鉢植えに入れられた菊の花。マナーを全力で突き破ってのご登場である。


「お土産いる? かつ丼」


「僕、腹に穴開いてるんですけど」


「臓器は傷ついてないって。だから大丈夫」


 いや、だとしても入院中にかつ丼はご法度ではなかろうか。

 だが、タツミは眉尻を下げずにはいられなかった。いつも通りのレイラやコトノのお陰で、決して無事にとは言えないが、帰って来られたのだと実感する。


「今の状況知がりたいだろうから、かいつまんで話してあげるよー」


 レイラはコトノを膝の上に置きながら、病室のパイプ椅子に座って顛末を教えてくれた。

 あの後、征服団エーゴスは実行委員とアドラシオンに向けて宣戦布告したらしい。

 征服英雄との再戦を、なんと、公共の電波をジャックして全国に発信したという。

 もちろん、報道は過熱。SNSも話題で持ちきりだったが、その熱も一日たって落ち着いてきているらしい。


「もー、君たちが帰ってきてからお姉さんてんやわんやだよー。報道規制とか、他の主要征服団への協力要請とか。眠れてないよー」

  

 コトノの後頭部に頬を押し付けながらレイラは眠そうに瞬きをする。 

 協力要請といっても対応できる征服団は限られる。エーゴスに所属している征服者のランクはB以上。エーゴス本人もAは固い。発明品で強化されれば、ランクSの大台も簡単に越えるだろう。 

 番付も上から四番目。征服英雄を除いて、対応できる征服団は二つだけだ。

 そのどちらも素直に委員会の言うことを聞いてくれるとは限らない。

 こういう時、嫌われ者の公共団体は肩身が狭い。


「アドラシオンさんはどうされたんです?」


「もう向かってるよー。君たちをここに放り投げてすぐ工房に後戻り。手甲だけ取って行っちゃった」


 いかに征服英雄とはいえ、大征服団エーゴスの猛者が束になって掛かれば苦戦は避けられない。

 あの時エーゴスが使っていた武器がどこまで量産されているか分からない。だが、征服者が全員あれらの恐るべき兵器を身に着けているとすれば、一人で行かせるのは愚策だ。


「まあ、そっちの方は私が何とかするよー。タツミ君には新しくお願いしたいことがあるんだよね」


「さっきも言いましたけど、僕怪我人ですよ?」


「大丈夫ー。ベッドの上でもできるからさー」


 コトノの後ろからひょこっと顔を覗かせて、レイラは指をベッドの向こう側に向ける。


「その子、見張っててよ」


 指先はタツミの視界の後ろを指していた。

 彼女がいたのはタツミのすぐ横だった。けれど、あまりにも覇気がなかったので、その存在を今の今まで気が付けなかった。

 

 一ノ瀬シェリーが俯いたまま座っていた。

 

 物音ひとつ立てずに座り続ける姿は、まるでミケランジェロ作・考える人の像だが、彼女の顏の方がよっぽど苦悶に満ちていた。

 タツミの驚いた視線にも気が付いているだろう。だが、赤くはれた目は、ぼやけた焦点でシーツをただただ見ていた。


「シェリーちゃんと一緒にお留守番。お願いしていいかな?」


 こってりレイラに絞られた後だろうか。それとも自責の念に首を絞められたのだろうか。

 どちらにしろ、この様子ではタツミが番をしなくても下手な行動には出なそうだ。


「すみませんが、尻ぬぐいお願いします」


「うん! じゃあ後はヨロー」


 レイラは念動力でコトノを宙に浮かせると、手を引いて室外へと出ていった。

 おそらく、二人で英雄の協力に行くのだろう。コトノの実力は定かではないが、レイラはアドラシオンの邪魔にはなるまい。

 むしろアドラシオンは駆け付けたレイラに奮起を約束しそうだ。

 惚れた弱みというけれど、惚れているからこそ出る強みというものもある。

 

 名言めいた冗談をシェリーにふってみたいが、今の彼女の返しがタツミには全く想像できなかった。

 笑った彼女も怒った彼女もタツミは見たことがあるけれど、黒雲みたいにどんよりと落ち込んだ姿を見るのはこれが初めてだった。

原因は聞くまでもない。


「えっと、気にしないでくださいね」


 タツミは包帯の巻かれた腹部を擦りながら、ぎこちない笑顔で語りかける。

不思議なことに、多少の痛みは残っているが、今から遠泳を強制されても泳ぎきれる程度には回復している。


「あのアドラシオンさんも苦戦するほどエーゴスは強かったですから。普通に戦っていても、どこか怪我をしていたでしょうし、シェリーさんが気に病むことじゃないですよ」


 どう慰めの言葉を口にすればいいのか分からなかった。何を言っても、彼女の傷口に塩を塗ることになる。

 シェリーが参戦しなければ最後に立っているのはアドラシオンとタツミだったのだ。それは彼女も理解している。だからこその猛省だ。

 開口一番にフォローをすべきではなかった。他愛ない話でもしつつそれとなく切り出せばよかったのだ。いつものタツミならそれができていただろうに、彼も今、事の大きさに中てられて平生ではいられなかった。


「落ち込んだ顔も可愛らしいですけれど、僕は、いつものきりっとした顔の方が好きですよ」


 でなければこんな軽口を、俯くシェリーに言うはずがない。

 拳一発。傷口が開くのを覚悟したが、シェリーの拳はおろか指一本動くことはなかった。


「お前は勘違いしている。私は褒められるような人間ではない」


 その声は海に沈み漂う藻屑だった。

 太陽の光が届かない暗い海底でただ流されるまま漂い、空気に触れることもなく、水圧にその身が軋もうとも、もがくことすら許されない。

 意志のない海の滓だ。


「私は確かに落ち込んでいる。足手まといになったこと、お前を死なせかけたこと。どちらも腹立たしい。だけど、それ以上に、私は自分の弱さが憎い。その憎しみで私の頭は一杯になっているんだ」


 シェリーが初めて吐いた弱みだった。

 毅然と振る舞い続けていた彼女の脆い部分をタツミは知らない。けれど、力なく弱みを吐露する彼女は、罅の入った硝子細工のようだ。


「これで何度目だ。私は何度自分に負けた。誰も傷つけまいと、全ての不幸を撥ね除けようと決めたのに。いったいどうすれば、私は強くなれるんだ」


 その硝子細工は今まで何回も砕けてきたのだろう。その度につなげ直してきたのだろう。破片を一つ一つ合わせて脆くなった心身を誤魔化してきたのだろう。

 でも、もう限界だった。


「なぜ、征服者になったのか聞いたな。憧れではないかと言ったな。そうさ、認めよう。私はアドラシオンに憧れた。彼のようになりたくて、多くの人を救いたくて不相応な誓いを立てた。その結果がこれだ。『隣人の幸福』なんていらない。人の幸せをかすめ取って成し遂げた成果なんて、私は欲しくない。私は『皆を幸せにしたい』と願ったのに!」


 征服とは一種の略奪行為だ。

 戦で相手の領地を奪い取った古来の武人と同様に、現代の征服者も誰かの犠牲や闘争の敗北者の上に立っている。

 規則の枠内でも、誰かが損をしている事実は変わらない。


 ゴールテープを最初に切るのはたった一人だ。


 これが、一ノ瀬シェリーが征服者を嫌う理由。

 彼女は征服者が台頭するこの世界を変えたくて征服者へと身を落としたのだ。

 なんと倒錯した憧憬だろうか。


「こんな力なら、欲しくなかった!」


「……そんなこと言わないでください」


「貴方もこの力に期待しているのならやめておくことです。私ですら制御できていないのですから」


『隣人の幸福』がもたらす恩恵は、金銀財宝がかすむほどの価値を持っている。

その性質や、シェリーの出自故、利用しようと考えた者は今まで後を絶たなかった。

 しかし、その全てが屍に成り果てた。


「私に近づけば、いずれ貴方も死ぬことになる。……そうなる前に故郷へと帰りなさい」


 タツミのシェリーへの態度が急変したのは、彼女の征服王の残滓を知ってからだ。

 能力目当ての胡麻すりだと思うのも無理はない。


「できません」


 だけど、タツミはすぐに首を振った。睨むシェリーに怯えるでもなく、笑ってごまかすのでもなく、静かに目を見つめ返す。


「借金の事なら私が何とかしておきます」


「そういう事じゃないんです」


「では何だというのです! 中途半端な誓いしかできなかった貴方では、征服王にはなれない! 今回みたいに傷ついて、いつか死ぬことになる。早死になどしたくないでしょう。だから、両親のもとへ帰りなさい。そこでかなわない夢を捨てて普通に生きればいい」


 彼女の叫びは確かにタツミに向けられていた。

 でも、タツミにはそれが悲痛に聞こえてならない。まるで身を削って回り続ける歯車のように、己を殺して軋んだ声を上げている。

 それが助けを求める声に聞こえてしまった。


「言ってませんでしたっけ? 僕と両親不仲ですよ」


 あまりにも呆気からんと温度差を感じさせずに言うものだから、シェリーは言葉に詰まってしまった。


「え、で、でも以前、送り出してくれたと」


「厄介払いですよ。僕の両親、仮面夫婦だったんですよ」


 タツミの征服者としての門出は決して祝福されたものではなかった。


 いつだったか、幼い時分、自意識がついてきた間もない頃、タツミは両親が放っている違和感に気が付いた。

 二人は決して目を合わせなかったのだ。タツミの前では笑顔で語り合っていても、二人が直接会話しているところを見たことがなかった。家族間の交流は全てタツミが鎹となって回っていた。


 二人のその状況に、仮面夫婦という呼び方があると知ったのは小学生に上がったころだった。

 タツミには二人の事情を推し量ることはできなかった。ただ、唯一血のつながっている自分が友好な関係を築く架け橋になろうと、両親に辛い思いはさせまいと、自然と努力するようになった。


 仕事と家事をこなす母親のために料理を覚えた。最初に作ったのはカレーライスだった。

 早起きして出かける父親のために毎朝珈琲を淹れた。やたらと産地に詳しくなった。

 家事も勉強も何事も。迷惑をかけないように、少しでも明るい話題を作るようにしてきた。


「お前なんていなければよかったのに」


 そう言われたのは、ちょうど一年前。征服英雄アドラシオンが死者ゼロ人という

「雪山の赤い奇跡」の救出劇を繰り広げたまさにその日だった。

 アドラシオンの偉業を目の当たりにしたタツミは意気揚々と避難場所に帰った。


 この話をすれば両親は興奮し笑顔になるだろう。なんてすごい人なんだ、と。

 タツミはこの時考えていなかったのだ。亡くなった人はいなくても、多くの人たちが家や土地を失い心の余裕を失っていたことに。

 意気揚々と話していたタツミに、容赦なく毒牙が食い込んだ。

 疲弊した両親の口からその言葉が出てしまったのは、無意識だろう。だが、毒は容赦なくタツミの体に巡っていった。

 

 この一言で理解してしまった。

 

 タツミの今までの人生は無駄だった。

 両親の為、他人のために善行を尽くしてきた時間は何の意味もなかったのだと。


「僕は思ったんです。誰かに尽くしても、それに応えてくれるとは限らない。じゃあ、僕は、僕のためにできることをしなくちゃいけない。自分のために、頑張らなくちゃいけないんだって」


 自分の力が世界のどこまで通用するかを知りたくなった。

 取り繕った善行ではなく、剥き出しの野望を秘めて、征服王に誓いを立てた。

 タツミは、戸惑ったまま固まっているシェリーの手を握る。彼女は、少し驚いて肩を上げたけど、それでも振り払うことはしなかった。


「僕も認めます。最初はシェリーさんを利用しようとしていました。そういう打算もありました。でも今は違います。僕と貴女は似ているんです。僕には貴女が必要だ。同じ心を持った貴女と一緒に成し遂げてこそ、僕の誓いは意味がある!」


 同じ英雄に憧れた者として。

 両親の抑圧に自分を押し殺していた者として。

 過去の自分を否定された者として。

 まるで映し鏡のような彼女と、タツミは一緒に越えたいと思ってしまった。


「『隣人の幸福』はシェリーさんに必ず幸福をもたらすと言いましたね。そんなの嘘っぱちだ! 一番不幸になっているのは貴女じゃないか。シェリーさんが一番苦しんでいるじゃないか! 『皆を幸せにする』には、まず自分が幸せじゃないといけないんですよ。シェリーさん。僕があなたを幸せにする。貴方に降りかかる災厄の全てを打ち払ってみせる。だから、お願いです。僕の隣でその拳を握ってください」


 タツミの頭には、すでにその姿があった。

 狂乱者として敵を蹂躙する赤髪のタツミとその背中で赤い刺突を見舞うシェリー。

 二人で征服王の玉座に座れたのなら、これ以上の幸せはない。


「矛盾している。誰かのための善行は止めたんじゃなかったのか」


 いつの間にかシェリーの顏には生気が戻っていた。少しだけ頬を赤らめて、握られていた手を払う。


「まあ、そこは染み付いてしまった習慣ですよ」


 払われてしまった手を残念そうにふりながら、タツミはベッドをから立ち上がる。


「お、おい、大丈夫なのか?」


「ええ、不思議なほどに」


 そう言ってタツミは勢いよく腕を回す。快調も快調。大穴を開けられる前よりも身軽だ。


「どこへ行く気だ?」


「一回事務所へ戻ります。準備して、直ぐにアドラシオンさんのところへ向かいますよ」


「なっ!?」


 お目付け役を任されていた筈のタツミの発言に、思わずシェリーは立ち上がる。

 しかし、事態は急を要する。

 いくらレイラたちが救援に向かうとはいえ、エーゴスの戦力は未知数だ。初見では絶対に対応できない。手の内を少しでも知っているタツミが援軍に行くべきだ。


「驚いてますけど、シェリーさんも来てくださいね。リベンジですよ」


 目を丸く開き口を開け閉めしてるシェリーをよそにタツミは病室の扉を開いた。

 彼女はやっとの思いで固まっていた足を動かすと、外に出ようとするタツミの腕を掴んだ。


「……お前は、俯いたりしないのか?」


「どういう意味です?」


 シェリーがやっとの思いで絞り出した言葉だったが、タツミは首をかしげてしまった。

 今度は手を払わずに、むしろ力を込めて彼女が続ける。


「それだけ傷ついて、両親に蔑ろにされて、どうして前を向いていられる。また歩き出せる?」


 柄に無く震える手に、どんなことを聞かれるのかと身構えていたタツミだったが拍子抜けしてしまった。

 いつも通りの軟派者に戻ったタツミは笑顔で呟く。


「俯きましたよ。でも、そしたら自分の靴が目に入ったんですよ」


 その小さい微笑みに脱力したシェリーの手からタツミはするりと抜けていく。

 扉がゆっくりと閉まる。一人残された彼女は、しばらく上の空で固まった後、思い出したかのように足元に視線を落とした。


 履き慣れた世界征服実行委員会の小綺麗な革靴がそこにはあった。


★☆★☆★☆★☆


「連れて来たほうがよかったかなー」


 どや顔で病室を抜け出したはいいものの、一人で来たことをタツミは後悔し始めていた。

 委員会の事務所を小走りで駆け上がりながら細かく息を吐く。

 やはり体に異常はない。一人でも戦い抜く気概はある。ただ、大口を叩いた手前、来てもらわないと立つ瀬がない。

 すでに手も一つ打った。けれど、それもシェリーと二人でなければ効果が薄い。


「準備できたら一回戻ろうかな、っ!?」


 この上なくかっこ悪い計画を立て終わったところで事務所のドアを引く。

 こめかみを何かが掠っていった。

 確認のためタツミは振り返る。


「ピコピコハンマー?」


 視認しそこなったそれの正体は、音の鳴るおもちゃのハンマーだった。

 そのピコピコという名前は、叩いた時に空気が抜けて出る音に由来したものだ。だから、よほどの力で叩かれても痛くない。

 だから、壁にめり込むなんてありえないはずなのだ。


「あれ、引き抜こうか?」


「いい。置いておいて」


 タツミは首筋に冷や汗を無視して、ハンマーを投げたコトノに上ずった声で問いかける。

 コトノはレイラと一緒に現場に行っているものだと思っていた。現場で合流する以上、隠し通そうとは思っていなかったが、これでは参戦する前に止められてしまう


「約束、守ってない」


「ご、ごめんよ。でも、なんでここに?」


「委員長がきっと来るからいろって」


 あの糸目委員長め。タツミの反攻も掌の上らしい。。

 でも、現場に向かったのは、レイラ一人ということになる。救援に行く理由が増えただけだ。


「黙って通してくれるわけには」


「……」


「いかないよね」


 無言の否定にタツミは身構える。まさか、こんなところで味方と相対することになろうとは。

 後ろでめり込んでいる玩具のこともある。コトノ相手とは言え油断は禁物だ。

 だが、もちろん、傷つけるわけにはいかない。せめてタツミの武器だけでも回収して、抜け出さなければ。

 緊張が体を走るタツミに対して、コトノは無防備に直立している。


 正直、彼女がどんな征服者の残滓を有しているのかタツミは知らない。


 だからこそ、隙がありそうでも油断できない。

 タツミは深く腰を据え、一瞬の脱力。息を大きく吸って力強く一歩を踏み出した。


「待ってください!」


 慌てた様子のアルトの声にタツミは急停止した。

コトノも、自分を避ける様に走り出したタツミの前にゆらりと回り込んだが、直立の格好で停止した。


「私も、準備をしに来ました」


 走って追いかけてきたのだろう。ドアに手を置くシェリーの頬は微かに上気していた。


「来てくれるって信じてましたよ!」


 シェリーは抱きつこうとしたタツミをひらりと避ける。


「貴方の信頼なんていりません」


 そんな軽い身のこなしの後で、彼女は重そうな足でコトノの前に立った。


「いいつけ、破った」


「ごめんなさい、コトノ。でも、どうしても行かなければならないの」


 身長の低いコトノにシェリーが目を合わせる。背格好だけ見れば姉妹のようなのに、それぞれの表情は真逆だった。

 背の高い妹がゆっくりと言葉を紡ぐ。


「癪な男が説教してきたんです。まだ靴も汚れていないのに足を止めるな、とどやされました。だから、行かなくては。私はまだ、この足で何も成していない」


 それを聞いて、背の低い妹はしっかりと頷く。


「うん。シェリーが言うなら、いってらっしゃい」


 姉妹にも兄弟に成れていないタツミをよそに何やら解決してしまったらしい。


「え? さっきまでの緊張感は何だったんですか?」


 一触即発だったのでは?


「……雰囲気づくり。最初から通すつもり」


 ……えー。確かに通さないとは一言も言っていない。タツミが勝手にそう解釈しただけだけど、肝を冷やした身としては納得できない。


「ごめんね」


「うん、まあ可愛いからよし!」


 小動物に小首を傾げて可愛らしげに懇願されて許さない人はどれだけいるのだろう。


「って、流石にレイラさんは許してくれませんよね。どうします」


 いつもは飄々と作業をこなし、偶にこなさずのんびりと不真面目に仕事をしているレイラだが、今回は楽観視できない。タツミとシェリーの命令違反はこれで二度目なのだ。

 何とかばれずに忍び込めないか、そう考えてタツミは顎を掻くがこれと言った名案は思いつかない。


「ばれないように潜入できませんかね?」


「どうでしょう。どのみち戦闘になれば嫌でも目を引きます。見つからないのは不可能です」


「ですよねー」


「いい案、ある」


 小さな手を控えめに挙げたのはコトノだった。予想外の協力だが、タツミは素直に掴むことにした。


「教えて!」


「嫌だ」


 なぜ? なんでさっきからタツミには非協力的なのだ?


「お願いします、コトノ。駄目ですか?」


 しかし、今回はシェリーのお願いにも首を振る。


「ただじゃ駄目」


 意外に現金な発言だが、コトノにあげて喜ぶものと言われても、そんなに多くは思いつかない。


「グミ?」

「持ってる」

「じゃあ、カフェオレ?」

「やだ」


 もうタツミには他に何も思いつかない。まさか、お金が必要とでも言いだすのだろうか。

 だけど、コトノが少し小走りで近づき耳元で伝えてきた物に、タツミは驚きと心配を隠さずに口に出した。


「大丈夫なの?」


「うん」


「まあ、コトノちゃんがそう言うなら作るけど。ちょっと待ってて」


 時間はもうない。コトノがそれで妙案を授けてくれるのならば安いものだ。

 タツミが台所に消えたのを見送って、シェリーは事態を把握しきれないまま、またコトノに視線を合わせた。


「何をお願いしたのですか?」


「秘密」


 どうやらコトノは教えてくれないらしい。

けれども、二人で並んで待っていると台所の奥から鼻をくすぐる良い匂いがした。


「大人の秘密なの」

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