第7話 志の話

「ほいじゃあ、私、事務所戻るねー。コトノちゃん寂しがってるからー」

 

タツミが局内を逃げるシェリーを何とか捕まえて挨拶させた後、レイラは彼に全部を丸投げして戻っていった。

 安心してほしい。コトノはきっとレイラを待っていない。絡まれて嫌がる翠玉の三日月がすぐに浮かぶ。


 間もなく収録が始まるとのことだが、変装済みのタツミは打ち合わせ中の二人よりも先にスタジオに入っていた。テレビ局の撮影現場なんて普段は入れない。色々散策したかったが、タツミの変装姿に局員たちが悲鳴をあげかねないので、この場で大人しく待機するしかない。銀髪オールバックに真っ黒なサングラスと、これまた黒い委員会の制服では怖がられても文句は言えないのだろうが。


「しかし、暇だな」


 マネージャーとしてやることがない。

 本来の仕事はアイドルのスケジュール管理になるのだろうが、武道館でのライブを目指しているわけでもない。今回の番組収録も今日と明日だけ。それが終わってしまえば、今後のアイドルとしてのスケジュール帳は白紙になる。

  

 タツミには眺めていることしかできない。これではお客さんと何ら変わりない。

 笑いを足す練習でもしていた方がいいのだろうか。


「はははーははーははっ!」


「どうしましたか?」


 自分の笑い方は想像以上に奇天烈だと知りたくない事実を発見したところで、スタッフの一人に話しかけられた。

 小太りの男性だった。首から局員の証明書をぶら下げ、趣味の悪い柄のジャケットを着ている。伸ばしている鼻下のちょび髭のせいか、どことなく偉そうだ。

 実際、男性はそれなりの役職に就いているらしい。先ほどから通り過ぎるスタッフたちが、深々と頭を下げている。


 しかし、その笑顔はどれも媚びを張り付けたお面を思わせた。

 もしかして、面倒な人に話しかけられてしまったのだろうか。

 それでも、今のタツミは一ノ瀬シェリーのマネージャーだ。周囲に倣ってお面をつけてやろうじゃないか。


「申し遅れました。私、一ノ瀬シェリーのマネージャーで、田中と申します」


 演技は得意だ。タツミは怪しげなセールスマンよろしく口角を上げる

 彼の名前をどこの誰が知っているかも分からない。偽名を名乗っても損はないだろう。


「うん、よろしく」


 頭を下げる田中某の名前を覚える気がないことは、男の仕草からすぐに分かった。ガムでも食べているのだろうか。不快な咀嚼音を鳴らしながら、台本で肩を叩いている。

 いけ好かない奴だったが、もちろん、そんなことでは柳眉を曲げはしない。

 アイドルのマネージャーとして、理不尽も彼女の為と甘んじて受け入れる覚悟だ。


「それで、どこまでいけるの?」


「……とおっしゃいますと?」


「だから! 脱げるのかって聞いてるの?」


「はぁ?」


 宣言はどこへやら。タツミの眉はすぐに動いた。そりゃもう忽ち斜めに、見えを切った歌舞伎役者さながらだった。

 鬼の形相をしていると知らずに。禁煙のスタジオで、口寂しそうにライターをいじり始めた。


「使ってあげてんだからさー、視聴率欲しいわけよ。彼女、華はあるけど一般人だし。水着にでもなってくれれば、まだましだと思うけどねー」


 タツミは理解した。彼のマネージャーとしての本当の役割は、シェリーをこの男の魔の手から守り抜くことだ。

 お色気の要求が許せないのはもちろん。だがそれよりも、暴漢の前で恥じることなく服を脱ぐシェリーでは、「委員会の為」の一言で言いくるめられてしまいそうだ。


「お、お言葉ですが一ノ瀬は露出NGでして」


「じゃあ、どうすんのよ? どうやってあんたら数字上げてくれるの?」


 落ちかけたお面を付け直して断るタツミに、男は唾を飛ばしながら続ける。


「上の命令だから聞いているけどさ。国の組織つっても、あんたら実行委員会でしょ? 評判悪いんだよねぇ。エロの一つでもいれないと、時間とお金の無駄だよ? そこのところ分かってるの?」


 分かってないのはお前だよ! それでも、視聴率稼ぐ企画作るのはそっちの仕事だろ!

 とはもちろん言わない。言えるわけがない。使ってもらっているのは事実なのだ。


 だがしかし! シェリーを色物アイドルみたいに扱わせるわけにはいかない。

 大体何だ。征服者のインタビューを水着でやれと? シュールすぎる映像だ。しかも、相手はあの征服英雄。委員会のイメージアップどころか、双方の好感度がガタ落ちだ。


「アドラシオンさんと一ノ瀬さん入られまーす!」


 タツミが反論する前に、他のスタッフが二人の現場入りを告げる。すぐに撮影が始まるみたいだ。


「じゃあ、彼女にも話しといてよ。頼むね」


 男は無遠慮にタツミの背中を叩くと、他のスタッフのもとへと歩いて行った。ADの尻を蹴り飛ばしながら、他の局員と大笑いしている。

 再認識した。敵だ。あの男も、ここのテレビ局員全員が、シェリーの柔肌を狙っている。

 タツミはサングラスに隠れる赤い双眸を鋭角に尖らせて誓う。


「どうかしましたか?」


「シェリーさん。貴方は僕が守ります」


「何をいきなり」


「あなたのお宝映像は僕だけのものだ!」


 無論、タツミの後頭部に大きなたんこぶができたのは言うまではないが、それで

も彼の決意は変わらないまま、収録は開始された。


 今回の番組は「特別企画。英雄の秘密に迫る!」と題して放送される。アドラシオンのインタビューから始まり、日々の征服活動から過去の噂まで根掘り葉掘り聞いていくらしい。

 人前に出ることを嫌う彼がよく許可してくれたものだ。

 撮影前、スタジオの隅で巨体をびくつかせているアドラシオンに、タツミは後頭部をさすりながら訊ねた。


「何かレイラさんに弱みでも握られているんですか?」


「し、強いて言うなら、惚れた弱みかな」


 ありましたよ。ここに特大スクープが転がってますよ。

 もちろん、英雄のプライバシーを公にはしないが、あとでレイラを問い詰める必要がありそうだ。

 今はシェリーの心配をすべきだろう。


「は、始まりまひた! 特別企画。栄養の秘密に迫る! 今日はアドラシオンさんをお迎えして」


「カット! 一ノ瀬さん。噛んでますし、番組名違います」


 昼の健康番組みたいになってるじゃないか。

 さすがのシェリーも緊張が隠せていない。もちろん、番組収録ではなく、隣で可愛らしいえくぼを見せる可愛らしくない巨体が原因だろうけれども。


「シェリーさん。リラックスです。さっき挨拶済ませてるじゃないですか」


「アドラシオンさんは関係ない。これは、そう、テレビだから!」


 嘘だ。そんな玉じゃないだろう。

 いつも重厚謹厳が服を着ているふうなのに、ここまで慌てるとは。筋金入りのファンなのだろう。


 ただ、それはまだいい。タツミが口を挟んだことで、シェリーは躍起になってでも平静を装うだろうし、そうしていれば、いつも通りの彼女に戻るだろう。

 タツミ個人としては、慌てふためくシェリーも可愛らしくて絵になるが。


(それよりも、あの男だ)


 カメラの横で仏頂面をしている小太りな男。流石に水着の要求はしてこなかったが、今後、様々な無理難題を吹っかけてくることは想像に難くない。

 いやしかし、させるまい。タツミは胸を張って腕を組む。

 マネージャーとして、彼女の痴態を全国には流させない。


「アドラシオンさん。今日はよろしくお願いします」


「は、はい。こちらこそ」


 撮影再開。序盤こそ凝り固まっていた二人だったが、時間が進むにつれて、収録はつつがなく進んでいった。アドラシオンの日々の活動や、今まで真しやかに囁かれていた都市伝説、ファンでも知らなかった秘話まで。次々と驚きの話が掘り出されていく。


「沈没しかけた豪華客船を担いで岸まで泳いだというのは、いったいどうやって?」


「ク、クロールです」


「はい?」


「担いで手が使えないと泳ぐのに時間がかかるので。こう、背中に乗せて、普通に」


 体の何倍もある船を親子亀のように背中に乗せて泳ぐ姿を無理やり想像する。これが普通なら、船なんていらなくなってしまう。


 尋常じゃない秘話が飛び出してくるので、タツミも耳を傾けたいのだが、スタジオ中を駆け回る彼にその暇はなかった。

 やはり、スタッフたちはシェリーの際どい映像を狙ってきた。その全てをタツミは妨害していく。

 低い角度から狙うカメラマンを征服者の速度で気づかれる前に蹴飛ばしたり、台本に無い低俗な質問を出そうとしているADのカンペをすり替えたり。


 姑息な手段は全て小太りな男の指示だろう。すべて失敗に終わっているせいか、男の貧乏ゆすりが止まらない。苛ついているのがありありと分かる。だが、この調子でいけば秘蔵映像を作らせずに収録を終わらせることができる。

 タツミは肩で息をしながら顎に溜まる汗を拭う。身体が強化されているので走り回っただけでは疲れるはずがないのだが、精神的疲労はどうにも慣れない。

 小太りな男の視線を逃さず観察し、先回りして未然に阻止する。大したことはないのだが、掛かっているものがものだけに嫌でも緊張してしまう。

 だが、いくら汗で鬘の中が蒸れても、この二日間、絶対に死守してみせる。


(さて、次はどう動く)


 しかし、いくら注視しても男が動くことはなかった。もう諦めたのだろうか。それにしては、男の打って変わった余裕が引っかかる。まるで喉に刺さった小骨が取れた、そんなふうに脂で黄色くなった歯を晒して笑っている。


「まさか!?」


 遅まきながらタツミはシェリーを確認する。もう緊張なんか忘れて和やかな歓談を楽しんでいるはずの彼女がなぜか固まっていた。緊張のそれではない。切れ長の眼は、まるで暴漢たちと相対した時のように冷たく照明を反射している。


 油断だ。失念していた。タツミの脚を打つ拳に力が入る。


 このスタジオしか警戒していなかった、タツミの落ち度だ。少しでも考えれば予測できた、策にもならない当然の手段を男は取ったのだ。

タツミがテレビ局に不慣れだったという理由も、もう言い訳にしかならない。


 固まってしまったシェリーの耳につくイヤホン。まさか、音声で指示を出すとは、タツミは考えていなかった。

 テレビ局には、撮影するスタジオの他にサブという部屋がある。小太りな男は一度そこを経由して指示を出したのだ。

 集中した時の征服者の聴力は、隣駅で飛ぶ蚊の羽音さえも逃がさない。

 タツミも征服英雄の話に関心をそそられてしまっていたのかもしれない。


「えっと、シェリーさん?」


 マネキンみたいに動かなくなってしまったシェリーに、アドラシオンも動揺していた。巨体が指示を仰ごうと落ち着きなく左右に揺れている。


(何を言われたんだ?)


 恥ずかしさの敷居が取っ払われているシェリーの事だから、取れ高を狙ったお色気の要求にも即座に対応すると思っていたのだが、喋りもしないのはなぜだろう。

 スタッフたちが不思議そうに目を合わせ始めた時、漸くシェリーが動いた。

 教師に答えを求められた優等生のように、まっすぐ手を上げる。


「この質問は必要でしょうか」


 声音を聞いてタツミは理解した。シェリーは怒っている。

 しんとしたスタジオに響いたアルトをタツミが忘れるはずがない。彼が割って入ったアドラシオンの征服抗争。その中断を促した一声によく似ていた。

あの時よりも声量は小さい。しかし、大剣の大薙ぎを思わせる声圧にスタッフの何人かは腰を抜かしていた。


 撮影を続けられる雰囲気ではないが、その中で一人、あの男だけが笑っていた。


「どうしましたか。一ノ瀬さん。何か問題でも?」


 シェリーに無茶ぶりを続けていた小太りの男だ。彼だけが混乱するスタッフの中で平然と立ち、卑しい目を彼女に向けていた。

 その目がぎょろりと周囲に向く。タツミはそこで理解した。この男、「いじる」気だ。


「あはははは、困ったな。どうしたんですか、シェリーさん」


 急いでタツミが間に入る。何を指示されたのかは分からないが、シェリーに余計なことを言わせるわけにはいかない。


「あの男は、シェリーさんの都合が悪い発言だけ切り取って流すつもりです。どうか、発言には気を付けて」


 タツミの耳打ちにシェリーは無言で頷くのみ。怒気が表情だけでなく爪先からも漏れている。

 何を言ったら彼女をここまで怒らせることができるのか。

 シェリーはきれいな仕草で立ち上がる。体の一本軸を歪めずに優しく手を結んでから口を開いた。


「アドラシオンさんに、好みの女性を聞けとは、どういう事でしょうか」


 彼女の言っていることがすぐには理解できなかった。いや、意味は分かる。テレビでお決まりの内容だ。その多くがイケメンや美人の芸能人に向けられるもので、大した内容ではない。

 だから、「それだけで、なぜここまで怒っているのか」と、全員に疑問符が浮かんだのだ。

 例外なく、それはタツミも同じだった。

 だが、彼がいち早く状況を理解したのは、一度面と向かってその声を聴いたからだろう。


 一ノ瀬シェリーは、征服英雄アドラシオンを貶める一切の事実を許さない。

 それが低俗な質問であろうと、雄姿を遮る赤髪の少年だろうと、同様に。


(この人、アドラシオンさん好き過ぎだろ)


「今回の番組は、英雄の征服者としてのお話を皆さんにお伝えするものだと聞いております。公私混同した質問は致しかねます」


 彼女は毅然と答える。その迫力に押されながら、まるでしり込みした小心を見破られまいと小太りの男は大声でやり返す。


「素人が何を言ってんだ! 四の五の言わずにこっちの言うこと聞いてくれればいいんだよ」


 男の張り上げた声は虚勢でしかない。そして、その品のない大声で立場の弱い者たちを黙らせるのが彼の手段だ。

 だから、彼女はあえて黙った。シェリーの眼光に射抜かれれば全てが伝わる。

 お前の思い通りには決してならない。鮮明に光る青磁色が男の小心を貫いた。


「い、いい気になるなよ! 俺たちはな、何の役にもたたない委員会を使ってやってるんだ。大した仕事もしないくせに、規制規制って口ばかり出しやがって。貴様らは、征服者の陰でしか生きられない、害虫以下の存在なんだよ! 虫なら虫らしく隅で大人しくしてろ。邪魔なんだよ!」


 男が更なる虚勢を上塗りすることも、委員会を誹謗するのも想定内だ。


 けれども、計算外はこの後すぐにやってきた。

 一瞬だ。稲光が姿を現す間だけの時間でそれは起こった。


 タツミは数ある征服英雄の逸話の中でも、際立って異質なとある話を思い出す。

 彼ほどの有名人になれば、街中では人だかりが起きる。老若男女問わず人気があるのだ。それも致し方ない。

 ただ、その道を埋め尽くす人だかりの中、一人の女の子が転んだ。

小さな子供の体だ。押し寄せる無数の大人の脚に踏まれてしまえば、運が良くて重傷、悪ければ命を落とす。最悪の事態が起こっていたかもしれない。

 だが、結論から言わせてもらうと、そうはならなかった。

 

 人の波が割れたのだ。


 少女の悲鳴は興奮に揉み消されていた。小さい体も大人たちの体の渦に飲まれてしまった。誰一人として気づかなかった、はずなのだ。

 そう、征服英雄アドラシオン。この人を除いて。

 彼は怒った。女の子を押しのけた群衆にではない。子供から目を離した親にでもなく、危険と知らずに大人の波に潜った無知な女の子にでもない。

 自分自身に怒ったのだ。

  

 いくら謙遜しても、彼が国一番の人気でもある事実は変わらない。気軽に外出しては、混乱を引き起こすと予測できたはずだ。

 浅薄な脳みそに、内心で叱責したのだ。

 その自分の心内に向けられた怒気だけで、人々は自然と道を開けた。人の中にある微かな動物としての本能が、それを危険だと理解した。次に、原因は何かと考え導き出し、その答えが目に涙を溜めた少女だった。

 誰も征服英雄を怖がってなどいない。しかし、彼らはその後、アドラシオンと街で会っても軽く挨拶するだけになった。

 単純な怒気。しかも、微かに漏れ出した程度のものですら、彼は人に影響を与える。

 

 もし、そんなものを真面に当てられたならどうなってしまうのだろうと、タツミは考えたことがあった。

 

 ―――それを、目の当たりにする日が今日だとは、思いもせずにいた。


「彼女たちを侮辱するのは、もう止めにしませんか」


 まず、スタジオ内にあるガラスの類がすべて割れた。カメラや照明のレンズが粉々に砕け散る。灯体内の電線はショートして火花が散っている。

 しかし、誰ひとりとして腰を抜かしている者はいなかった。

 脱力だ。腕を組んでいた者は、まるで干されていたシャツのように腕を下ろした。座っていた者は、首が座る前の赤子のように天を仰いだ。立っている者を辛うじて支えている足も、二本の小枝だ。


 タツミとシェリーを除いた全員に同じ症状が起きていた。


 しかもこれは、征服英雄の力の残照。


(これが征服王の残滓じゃないんだから、恐ろしいな)


 やはりタツミは全身に畏怖を覚えずにはいられない。征服者として、彼こそが越えるべき最大の頂だと思い知らされる。


「僕は友達に頼まれてここにいる。その友達の大事な人たち貶すなら、ここにいる意味はもうない」


「お、お、お待ちください、アドラシオンさん!」


 緩み切ったブルドックみたいな顔で何とか声を出す小太りの男。本当なら呼吸をするのもつらいだろうに。大した奴だ。もちろん、褒めているわけではないけれど。


「我々もこれが仕事なのです。協力していただかなくては」


「仕事? では、あなたたちは、人を貶すことでお金をもらっているのかい。それはいけない。反しています。僕の征服道に反している」


「待ってください」


「そうです。僕たちは大丈夫ですので」


 これ以上はいけないと間に入ったのは、誹りを受けていたはずのタツミとシェリーだった。

 征服英雄の怒りの残照ですら常人には有毒だ。今は、ただの脱力症状で済んでいるが、これ以上当てられれば、どんなことになるか想像できない。

 こんな時に盾になるのは、委員会の仕事だ。

 思わぬ形で委員会本来の責務を果たす羽目になった二人だが、アドラシオンと拳を交えるのは全力で避けたかった。それは、最期の時だ。一も百も千も試して、数えるのを許してくれなかった時の最悪の手段だ。


「ですが、彼らはあなた達を口汚く罵った。あんな人たちと僕は一緒にいたくない」


 海より広い寛大な心を持つアドラシオン。その優しい性根は、知りあって数時間の人にも温かくもたらさられる。ありがたいことだが、別の機会に体験したかった。

 今回の仕事は、委員会の信用回復に必要だ。確かに気に食わない連中ではあるが、それはそれとして収録は完遂したい。


 どう説得する? どう止める?

 いや、止められるのか?

 アドラシオンの巨拳はいつにも増して大きかった。日本の中心に聳える富士山の如く巨大で神々しい拳。その拳が赤富士となって迫った時、非力なタツミに何ができるのか。


 今すぐなるべきか……狂乱者に。


「君たち、何をしている?」


 その声は静まり返るスタジオに響いた。

 タツミはすぐに目を向ける。これ以上の混乱を招く闖入者は勘弁願いたかった。

 声の主は白髪の老人だった。恰幅はいいが、小太りの男のような厭らしさはなく、身に着けているスーツには品格があった。


「しゃ、社長!」


 小太りの男は迷子になった子供みたいに老人に縋りつく。

 社長、ということはこのテレビ局で一番偉い人か。

 また、厄介な人が来た、とタツミは下唇を噛んでしまう。この事態を説明すれば、どう考えても非難の目はアドラシオンへと向く。彼の説得すらままならず、撮影は中断されるだろう。


「聞いてください。こいつら、何も知らないくせに我々の仕事を邪魔してくるんです。こんなんじゃ撮影ができませんよ。止めましょう! 最初から私は反対だったのです」


 英雄の威圧の影響も薄れてきたのか、男は調子よく社長にすり寄り始める。

 間違ったことは言っていない。暴言や無茶ぶりはあったにしろ、撮影を中断させているのは、タツミ達の責任だ。しかし、このままでは、アドラシオンにまで悪評が付きかねない

 前には厳めしい表情で顎を擦る社長。後ろには金剛力士像並みの佇まいのアドラシオン。

 虎や龍の方がましだ。

 

 この際、嘘でもいいから何か言い訳をすべきか。しかし、それがバレてみろ。言い訳が増えるだけの悪循環だ

 駄目だ。もう謝るしかない。頭を下げて治まる事態でないことは重々承知だが、どっち付かずで慌てて動けないよりはいいだろう。


 タツミは今日の仕事を思い出す。

 今の彼はマネージャーだ。演者の不手際に真っ先に頭を下げることが今の彼にできる唯一の手段だ。

 何も思いつかないからとりあえず土下座をするしかない、とかそんな安易な思考ではない。決して。

 タツミはズボンの裾を上げ、膝をつく。どうか事態が好転してくれますように。


「馬鹿者がっ!」


 ああ、やっぱり怒られた。まだ正座をしているだけなのに。

 ただ、頭を下げる前にタツミが見たのは、小太りの男の後ろ首を掴んで一緒に頭を下げる社長の姿だった。

先に謝られた?


「委員会の皆様、アドラシオン様。この度は誠に申し訳ございませんでした!」

 深々と腰を折り、例えるなら、秋の稲穂のようだった。


「再三依頼していた撮影に許可を出してくださいましたのに、この不始末なんとお詫びを申し上げたらよいか」


「え、いや、あの」


 張りつめていた糸が緩んでいく。ただ緊張しすぎていたタツミの糸は、急なことでどうも綻んでしまったみたいだ。適切な言葉が出てこない。


「頭を上げてください、社長さん」


 シェリーは、ほんのりと温かみを取り戻した声で社長に声をかける。


「一ノ瀬様にも多大なご迷惑を」


「もう大丈夫ですから」


「しゃ、社長? なぜ?」


社長は申し訳なさそうに口の端を下げて「お前はそのままだ!」と部下を掴む手に力を込める。


「一ノ瀬家にも大変なご迷惑を」


「……父のことはいいですので」


 シェリーは歯切れが悪そうに眼をそらしたが、なんと、総理大臣まで今回の一件に噛んでいたとは。たしかに、テレビ局側も政治界の大御所と正面切ってやり合いたくはないだろう。社長直々に謝るのは理解できる。


「藺草委員長にもご助力いただきましたのに」


 いや、なぜここでレイラなのだとタツミは苦笑いを浮かべる。総理大臣と並んで語られるなんて。事務所ではただのゲーム好きのだらしないオタクなのに。

 肩書以外の何かが彼女にもあるのか?


「そして、アドラシオン様。この度は誠に申し訳ありませんでした。この男は責任を取って解雇いたしますので」


「そ、そんな!?」


「僕はもういいですから。謝ってもらいましたし」


 アドラシオンは、既に謙虚で弱気な平生の彼に戻っていた。この変化の差分には、狂乱者として二面性を持つタツミも驚きを隠せない。

 ただ、事が収まってよかった、のか? ガラスの破片が散乱するスタジオにいるタツミにはそうは思えないが。


「あなたも、もういいですね」


「ええ、まあ。お二人が良ければ別に」


 隣に立つシェリーから顔を背けながら頬を掻く。彼が何をしなくとも済んだのは僥倖だ。

 アドラシオンとの正面衝突という最悪の事態は免れた。これで英雄の慈悲に泣いて頭を下げる小太りの男も横暴なことはしないだろう。

 もしかしたら、これも彼女の持つ隣人の幸福の力かもしれない。


「それで、なぜ座っているのです?」


「……本当に、なぜでしょうね」


 タツミの土下座なんて必要なかった。仮にしたところで、事態が好転したとも思えない。


(僕、もういらないんじゃないかな?)


 不幸にも汚れたズボンを手で払いながら、彼のマネージャーとしての仕事は終了した。


★☆★☆★☆★☆


 楽屋に誰もいないことを確認して、シェリーは畳に寝転ぶ。

 

だらけた姿を他人に見られるわけにはいかない。ただでさえ、人目を憚りたいファンシーな衣装を身に纏っているのだ。今更だと言われても、立ち振る舞いだけは流麗でありたい。それが彼女のせめてもの矜持だ。

 だから、疲れ切って足も閉じられずに横になっている姿は彼女だけの秘密なのだ。

でも、今ぐらいは緊張の幕を下ろさなくてもいいだろう。


 両手では抱えきれない出来事が一挙に舞い込んできた。目が痛くなる衣装もさることながら、征服英雄アドラシオンとの共演やスタッフの嫌がらせ。

 一人だったら確実にきりきり舞いになっていた。


「助けられてしまいましたか」


 認めたくないが、タツミの手助けがなければ、午前中の収録は乗り切れなかっただろう。

 赤髪がちょこちょこと動いていたのはシェリーの視界にも映っていた。

 あの小太りの男が出した指示を一つ一つ潰していたのだと容易に想像できたが、そこまでしなくとも彼女は、無意味な要求を却下するつもりでいた。

 おそらく、ビル倒壊時の様子から余計な心配を回したのだろう。


「私に羞恥心がないとでも思っているのか」


 寝返りを打ちながら畳の目を数える。けれど、すぐに無意味な行為だと思い至り、疲れに任せて目を閉じた。

 あの決断が最善だと信じて行動した。肌を晒して敵の油断を誘い、窮地を脱せるなら恥なんて捨て置ける。

 人命が懸かったあの時だからしたことだ。

 だから、タツミの心配は杞憂だ。思い違いも甚だしい。


 眠気に負けないために文句を並べて、はたと気づく。

 全て言い訳だ。助けられた事実から目を背けるために、気に食わないタツミの姿を思い出しているに過ぎない。


「あの時も、助けられたな」


 今日だって、はぐれと戦った時だって。タツミはシェリーの盾になった。

 女性博愛主義の軟派者がすることだと理解している。追いつめられたのがシェリーでなくとも、あの少年は気安く手を差し出す。

 狂い、乱れて、困難を断ち切る剣となるだろう。


(まだ、聞けていないな)


 狂乱者とは何なのか。なぜ隠していたのか。なぜ征服者を目指したのか。

 知りたいことの一つも聞けていない。

 タツミはいつもへらへらと笑ってすましてしまうから。


(でも、私も彼と話そうとしたことがあっただろうか)

 

 常に邪険に扱い、忙しさと時間を言い訳にして、向き合ってこなかった。

 ならば、今度こそ問い詰めてやる。そう決めて、シェリーは、青磁色の瞳を瞼で隠した。

 彼女は気づかない。眠気の中、何とか思い浮かべたこの疑問ですら、本心を隠す深い藪であることに気づかない


 心中にある微かな温もりに触れる前に、シェリーは静かな寝息を立て始めた。


★☆★☆★☆★☆


「……びっくりしたー。」


 タツミは楽屋のドアを開けると、すぐさま首を明後日の方向に回した。征服者の反射神経をこんなことに使いたくはなかったが、奇跡的に目撃を回避できた。「その中」を覗いたとなれば、痛い目を「物理的に」受けてしまうので、事故を回避できた自分を褒めるべきだろう。

 タツミは、可愛らしい寝息を立てるシェリーに上着をかけると離れた場所に腰を落ち着けた。

 鬘をとった時の解放感が、午前中の過酷さを物語っていた。


「今日はあと半分か」


 起こさないように小声で呟いて、台本を確認する。

 もう邪魔をしてくる人はいない。局員たちタツミたちのバックに怯えて低い腰で近づいてくるだけだ。特に小太りの男がぺこぺこと手を擦りながら敬語で近寄ってきた時には、若干以上に引いたが、あの様子なら午後の撮影も心配はいらないだろう。


 アドラシオンも少しやりすぎたと思ったのだろう。昼休憩は局員のみんなに謝りに行くと身を窄めながら言っていた。

 もしや、撮影機材の修理は委員会もちになるのではないかと、タツミは内心でひやひやしていたが、アドラシオンが全て弁償すると言ってくれてほっとしていた。何百万もする機材の補償ができるほど委員会の財布は分厚くない。


 征服者番付上位の懐事情が気になるが、ここは口を噤んで征服英雄の寛大な心遣いに甘えるとしよう。

 静かにめくっていた台本に改めて眼を通す。午後のスケジュールは散策ロケ。アドラシオンが普段利用している商店街で彼の評判を聞くというものらしい。

彼が歩きなれた町となれば、また誰かが怒気に当てられてしまうこともないだろう。


「何とか乗り切れそうだ」


「……っ! すみません。寝てしまいました」


 起こさないようにしていたのだが、眠りが浅かったらしい。タツミの呟きに、うたた寝をしていたシェリーは眠い目をこすりながら飛び起きる。


「大丈夫ですよ。一時間の休憩らしいですから。まだ時間はあります」


「そ、そうですか。よかった」


 まだ眠気が勝っているのか、シェリーは刺々しさがない様子で胸を撫でた。

 だが、視線を下に落とした瞬間に、鋭いバラの棘が頭をのぞかせた。

 シェリーのミニスカートに掛けられていたのは、委員会の上着だった。

 彼女の視線が上着とワイシャツ姿のタツミを行き来する。


「見ていません!」


 上着をかけるべきではなかったと、タツミは自分の行動が浅はかであったと思い知る。シェリーの貞操を気遣った自分の紳士さに後悔はない。でも、彼女が普段、タツミのことをどう思っているかを考慮に入れるべきだった。

 いけ好かない軟派者の上着が自分のスカートに掛けられていたらどう思うだろう。その心遣いを察しつつも、恥ずかしい部分を見られたのではないかという勘繰りの方が先立つのではないか。


 その証拠と言わんばかりに、シェリーの目尻の皺が上がっていく。

 あれ? これは殴られる流れでは? 紳士のつもりが割に合わなくない?

 こんなことならまじまじと眺めておくべきだったという本音を頭の中で散らしながら、タツミは大きい手ぶりで否定する。


「見てませんよ。際どかったけど見てませんよ。ギリギリ見えてませんよ!」


 言えば言うほどわざとらしい。墓穴を掘削機で掘る勢いだが、シェリーの瞳の前では黙っていることも後ろめたい。

 また殴られるのか? 征服者でも痛いものは痛いのだ。是が非でも回避したい。

 何が何でも!


「……信じます」


「嘘つけ!」


「信じますから。こんなことで狂乱者にならないでください」


 タツミの逆立った赤髪に肩をすかしたシェリーは弱々しく声を出す。


「本当だろうな? 殴らないか?」


「殴りません。気遣ってくれたのでしょ。こんな格好で横になっていた私にも落ち度はありますから」


 いつもと違い心有る様子で頷くシェリーに、心拍数が落ち着くと同時にタツミの髪の毛も下りていく。

 これは、優しくしてもらえている? 認めてくれたと思っていいのだろうか? 

 疑問符がタツミの脳内のプラットホームへ次から次へと押し寄せてくる。だが、申し訳なさそうな彼女の声を聴いていると、今起きている摩訶不思議な現象は現実だと実感が湧いてくる。

 ついに実ったのだ。言い換えるならば、猫カフェの客商売で擦れたベテラン猫を幾度となく通い詰めて漸く触らせてもらえた時の達成感。


 これで漸く第一歩を踏み出せる。


「やったぁー! シェリーさん付き合ってくださーい!」


「前言撤回。殴ります」


 スタジオでは不発に終わったタツミの土下座が華麗に決まる。流石に、後頭部に鉄拳を打ち下ろされることはなかったが、毒気たっぷりのため息を浴びせられた。


「どうしてあなたはいつもそうなのですか? 私が真面目に話しているのに」


「すみません。つい」


「つい、何だというのです」


「……うれしくて」


 親の顏よりも慣れたシェリーの呆れ顔にタツミは赤く染まった顔を伏せる。彼も自覚している悪癖なので、まるで悪戯をした飼犬を責める顔をするのはどうか止めて欲しい。

 改めて、居住まいを正したタツミの対面にシェリーが座る。


「私はあなたに聞きたいことがあります」


「はい、何でしょう」


 こうやって正面から見るとやっぱり美人ですね。正座する姿勢も美しいです。

 寸でのところで口には出さずにタツミは何とか飲み込んだ。全く注意されたばかりだというのに、何回同じ轍を踏むつもりなのか。


 いや、しかし、どうだろう。こんな美人を目の当たりにして賛美の一つも口にしないというのは、この世全ての美に対する冒涜ではなかろうか。

 真珠よりも白い肌に端正な顔立ち。ほんのりピンクな唇は桜を思い出させる。華奢だが女性らしさを損なわない凹凸のある体。銀髪の放つ光彩は水晶にすら勝るだろう。背筋の張った美しい正座は舞妓を思わせる。


「……やっぱり」


「やっぱり? 何ですか?」


 自分の悪癖はどこまで質が悪いのだろうか。このタイミングで褒めては、はぐらかそうとしていると思われても仕方がない。

 ただ、口にしてしまってからではもう遅い。青磁色の刃が光る前に、有り体な言葉でごまかすしかない。


「やっぱり、シェリーさんの赤い手甲って、アドラシオンさんに憧れているからなんですか?」


「な、何をいきなり。そんなわけないでしょう」


 瞳は光らなかった。だがその目に映った蛍光灯が揺れている。


「だって、戦い方も似ているじゃないですか。同じ肉弾戦ですし」


「彼とはまるで別物です!」


 身を乗り出して強く否定された。だけれども、とタツミは違和感を覚える。


 これは拒絶ではなく憧憬ではないか。


「なぜ、そう思うんですか?」


「私が質問するはずだったのですが」


「気になってしまいまして」


「……届くはずもない」


 美しい直線を想起させていたシェリーの背筋が萎れた茎のように弱々しく曲がる。

 綺麗な花を支え続けたかった。そんな未練を滲ませていた。


「迫る無数の光弾。彼ならどうすると思いますか」


 彼女が言ったのは、一週間前の偵察任務でのことだろう。彼女自身が数発の光弾を霧散させ潜り抜けた危機を、征服英雄ならどう切り抜けるか。それをタツミに問うている。

 おそらく、アドラシオンは全ての光弾をかき消すだろう。

 あの偉大なる赤い巨拳は、刹那の間に光弾の壁を打ち壊す。征服者の目から見ても常軌を逸した速度と破壊力で、例外なく障害を塵にする。

 並の征服者には真似ができない偉業。

 力の一端に触れた彼らにはわかる。あの領域に、頂に立てる者は少ない。


「私はたどり着けなかった。それだけです」


 シェリーとアドラシオンの戦闘方法は確かに似ている。

 でも、確実に違うものだ。


 彼女が躱したものを彼ならば打ち砕く。

 彼女が掻い潜ったものを彼ならば打ち砕く。

 彼女が飛び越えたものを彼ならば打ち砕く。


 真正面から、その巨拳は全てを砕く。


「それに、いつまでも征服者ではいられない。私の家の事情は知っているでしょう。いずれは、委員会も辞め、国に仕えるものとして責務を全うしなければいけない」


「それでいいんですか?」


「私個人の感情を挟むべきことではないの。これは一族の意志です」


 タツミは歪んだ背中に声を荒げずにはいられなかった。


「関係ない! 僕はシェリーさんがどうしたいのかを聞いているんです」


 いけないと思っていても前のめりになる体を戻すことができない。熱がこもる言葉を飲み込むことができない。

 重荷にぽっきり折れてしまいそうな茎を前にして、タツミは矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。


「征服英雄に憧れているなら彼のようにあるべきです」


「ですから言っているでしょう。憧れてなどいないと。私が征服者に憧れを抱くなんて許されない」


 事実、シェリーは征服者を持ち上げる言葉を口にしない。それどころか、忌み嫌うような発言さえしている。


「じゃあ、なんでシェリーさんは征服王の残滓を持っているんです。征服王の前で何を誓ったんですか?」


 征服者になるために、全ての人は誓いを立てる必要がある。

 何のために力を得るのか。何を征服たらんとするのか。己の征服道は何なのか。

 その志を持たない者に征服王の残滓が与えられることはありえないはずなのだ。 

「そんなもの、忘れてしまいました。もう捨てたものですから」

 まるで動かない大きな岩を押しているかのみたいだ。どこまで頑固なんだ。

「あなたこそ、何を誓ったのですか。狂乱者という恐るべき力、何を誓えば手に入れられるというのです」


 強情な心は天岩戸か。しかし、シェリーはただひた隠しにするだけでなく、以前からの疑問をぶつけた。

 このシェリーの問いかけにタツミは固まってしまう。それでも、目を逸らしながら吐き捨てた。


「力試しですよ。自分がどこまで上に行けるのか、試したかったんです」


「そんな利己的な想いで征服者になったというのですか!」


 怒りを隠そうともしない厳しい追及にタツミは顔を伏せながら腕を組む。少しの空白の後、答えにならない言葉で応える。


「悪いですか」


「ええ。そんな誓いで他の征服者に勝てるはずがない。何もなせるはずがない。不甲斐無く散るだけです。送り出してくれたというご両親が聞いたらどう思うでしょうね。そんな自分勝手な誓いで多くの人に迷惑をかけているのですから」


 机を叩く勢いも、睨み殺しそうな剣幕も、心を腐らせる皮肉も。いつものタツミだったら臆して、誤魔化していたかもしれない。

 しかし、ある一点が彼の心を折らなかった。


「……どうとも、思うはずがない」


「え?」


 興奮のせいだろう。シェリーにはタツミの声が聞こえなかった。

 シェリーは喉の痛みで思っていた以上に大きな声を出していたと気が付いた。それと同時に、タツミの様子が少しおかしいことも気になった。先ほどまで背けていた顔を逃がさずに向け、赤色の瞳にシェリーを映している。

 その赤色に落ちている影が妙に気になる。

けれども、彼女が聞き直そうとする前に、タツミの大声が疑問を吹き飛ばした。


「やはりあなたは嘘をついている。アドラシオンさんへの、いや、征服者への憧れを捨てきれずにいる。でなければそんな台詞が出てくるはずがないんです。征服者の理想像を押し付けるはずがないんですよ」


 図星を突かれたという意識はなかった。それなのにシェリーの声は上ずってしまう。


「わ、私は、委員会の立場で言っているだけだ。そんな中途半端な征服者が溢れては我々の仕事が増えるだけだ」


「本当ですか。もう一度考えてください。家のことを理由にして諦めているだけなんじゃ」


「しつこいぞ! 貴様に説教される筋合いはない!」


「説教じゃありません! 僕はあなたの本心を聞きたいだけです」


 一触即発。まるで日本刀の刃先の上を歩く緊張感。だけど、二人とも後に引けなかった。引っ込みがつかなくなってしまっていた。

 拳で殴り合わなくても、お互いの心に痛々しい痣を作りあっている。そうと分かりながらも、重なり合う絵の具のように頭の中がぐちゃぐちゃに濁っていく。

 最早、気持ちが真っ黒になろうかという時、楽屋のドアが控えめに開かれた。


「えっと、あの、二人とも大丈夫ですか?」


 遠慮がちに入ってきたのは、立派な巨体をハムスターみたいにがたがた震わせて

いるアドラシオンだった。


「ご、ごめんね。ノックしたんだけど、言い合う声が外まで響いてたから」


「こちらこそすみません。何もありませんので」


 アドラシオンには申し訳ないが、二人にとっては幸運というべきだろう。

 縮まっていたはずの心の距離も、今や彼方の水平線より遠い。対面に座りながらも、シェリーの細い背中は一本杉のように周囲の一切を拒絶し誰も近づくことを許していなかった。


 机の向こうにある手は伸ばせば届く距離なのに。


 タツミは、掌に滲む動揺と後悔の汗を握りしめずにはいられない。


(僕が折れるべきだったのか)


 いつもならそうしたし、今回もそうするべきだった。

 あんな些細な、自分でも些細だと自覚していた筈のことに心を揺さぶられるなんて。

 手汗は拭えても離れた心は近づかない。孤独に佇む一本杉は次第に霧の中へ姿を隠していく。

 深い霧の中では、彼女の心に近づくことはおろか、見つけることすらままならない。


 謝罪もできぬまま午後の収録は再開される。そうして、一言もしゃべらぬままに、その日は終わりを迎えてしまった。

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