第5話 ババアは僕に馬乗りになってはいけない
僕を呼ぶ声が聞こえる。
「暦ちゃん!! 暦ちゃんたら!! 起きてよ、暦ちゃん!!」
ババアの声かな。
でも、僕を呼ぶなら、同級生だったあの娘がいいなぁ。
あの子はクラスの中で疎まれているだけの味噌っかすだった僕にさえ声をかけてくれる天使のような子だったし。
でも、あの子ももう僕の事なんてすっかり忘れているんだろうな。
引きこもってからというもの、学校なんて行ってないし。
忘れられていて当然ってところだろうし。
「暦ちゃんったら起きてよ!! 起きてったら!!」
うるさいなぁ。
もう少し寝かせてくれよ、ババア……。
「……はいはい」
僕はあまりない気力を振り絞って重い瞼を開いた。
「きゃっ?!」
悲鳴?
どうして悲鳴を?
「……良かった。お姉さん、心配しちゃった」
心配そうに僕に顔を寄せている仁奈の顔が間近にあった。
しかも、目の端に一粒の涙が浮かんでいる。
「……ババア、どうかしたの?」
事情が飲み込めなくて、僕はそう訊ねた。
僕の現状を周囲の状況で確認すると、どうやら僕は自室のベッドで寝ていたようだ。
それで何故かしら仁奈が僕に馬なりに乗っかっている。
しかも、どうやら涙を流しちゃうくらい心配していたようだ。
僕が目を覚ましたからなのか安堵の笑みを絶やさずに浮かべている。
というか、どうしてババアが馬乗りしているので?
も、もしや、ぼ、僕の貞操が?!
うん。
そっちの方は異常がなさそうだから襲われたワケではなさそうだ。
良かった、良かった。
「暦ちゃん、起きないから心配しちゃった。気絶しちゃっているのかと思ったし。気絶じゃなくて……お姉さんの胸の谷間に顔を埋もれさせたまま窒息死しちゃったのかもしれないと思っちゃったし……」
まだ目の端に涙は残っていた。
どうやら僕の死という悲劇的な展開になりそうだったので、ついつい涙してしまったのだろう。
「……窒息死?」
ようやくこの状況が飲み込めてきた。
ベッドで寝ていたババアに引っ張られて、引きずり込まれてそれで顔を何かに挟まれて、それで甘い香りのせいで眠りに落ちて……。
謎は全て解けた。
ようは、僕はババアのおっぱいに挟まれて、窒息死しかけたのかな?
それで僕が死んでいるかもしれないと、ババアが焦りに焦ったと。
おっぱいに挟まれて窒息死。
おっぱい好きにとっては最高の死とも言える。
けれども、僕はおっぱい好きではないし、ババアのおっぱいのせいで死んだなんて事になったら不名誉極まりない。
死ななくてよかったという事だ。
けど、あの果物のような甘ったるい香りは良かったな。
ババアも女だから、あんな匂いがするんだ。
たまには嗅いでやってもいいな、あの匂いならば。
「……暦ちゃん?」
仁奈が顔をぐっと近づけてきて、僕の顔をのぞき込む。
吐息がふっと僕の顔にかかって、僕の気持ちがどこか解きほぐされたような気配がした。
「ん?」
「呆けているの?」
仁奈が僕の事を憂慮しているような目で見つめてくる。
僕はそんな目で見られるのはあまり好きではないのだけど。
「ババア、さっさとどいて。重いから」
僕はババアから顔を逸らした。
「あ、ごめんね、暦ちゃん」
仁奈は軽く舌を出して、さっと僕から降りた。
ベッドから降りる様子は見せずに、その場で女の子座りをしてみせた。
「暦ちゃんはやっぱり健全な男子だったんだね」
と、愁眉を開いたかのような安らかな顔立ちでそんな事を言った。
「僕は健全だよ」
「うん、そうだよね。お医者さんに相談してみたんだよ、お姉さんは。そうしたら、無気力になってしまっているのは病気の可能性もあるからって教えてくれて、それで健全な男の子かどうか確かめた方がいいって言われたの」
そのための方法が、丸めたティッシュの確認だったと。
「お姉さんはね、男の子の朝立ちは健康の証っていうのも聞いたんだよ」
「は?!?」
卑猥な単語が仁奈の口から出て来たものだから、僕は吹き出しそうになった。
「寝ている間に、男性器が立つのは健全な証だって言っていたんだよ。それでね、暦ちゃんが目を開けたときにね、その……硬いものがお尻にこつんって当たって……驚いちゃって……」
仁奈がいきなり赤面するなり顔を斜めにさせて、僕の視線を避けようとする。
僕の時間が止まった。
ババアのあの悲鳴は、僕のが生理現象を起こした時のが当たったからなので?
「暦ちゃん、でも、安心して。お姉さん、男の人の事はちゃんと保健体育とか友達の女の子に訊いたりして勉強しているからね。だから、暦ちゃんの事は理解しているんだよ」
そう言われても説得力がないような?
というか、色々と勉強しているって事は、このババアに僕の貞操が奪われそうな気がする。
こうすると元気が出るって聞いたとか言いながら……。
それはそれでいいような気がするけど、このババアに奪われるのはちょっと……。
あれ?
でも、どうしてあのティッシュの意味が分からなかったんだろう?
汁が出るのは知っていても、それをティッシュで受け止めるという知識を得ていなかったからなのかな。
それなら納得できるけど、まだまだ十分な知識を得ていない証左とも言えるかな。
「ババア、これだけは言わせて欲しい。僕は健康だから変な心配とかしなくてもいい。それに引きこもっているのは、この世界が僕の理想とはかけ離れている事に絶望したからだ。だから、そんなに構わなくてもいい」
父親は若い男と駆け落ち。
母親は愛人の所に毎日通っている。
両親がそんな状態なのが、近所に知られてしまっていて、同情とも憐憫とも判然としない視線に晒されて、僕は外に出るのが嫌になってしまって、引きこもるようになった。
学校ではいじめがあったワケではなかったが、クラスメイトにも両親の事が知られているような雰囲気と気遣いがあって、行くに行けなくなってしまった。
そして、行き場がなくなった僕はネトゲの世界に逃げ込んだ。
「暦ちゃん、だったら、お姉さんが希望になってあげる」
仁奈は僕の方に身体を寄せてきたと思ったら、僕の頬に右手を添えた。
そして、何を思ったのか、顔をぐっと接近させてきて、僕の頬に軽く朱色の唇をさっと触れさせるようにしてキスをしてきた。
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