Her fiancee is...?

浅井基希

第1話

(1)

「今なんて言ったの?」

 ゴールデンウィークに入る前日、池嶋真琴いけしままことは夕食を食べる手を止め、食卓の向かいに座っている母親の琴音ことねに慌てて言葉を返す。

「だから、下宿を始めるの。この家、大学も近いし部屋も余ってるし」

 このゴールデンウィークに引っ越してくるの――琴音が嬉しそうに話している。

「いや、そこはまあまあわかったんだけど、その下宿に入る人のこと」

 明日から下宿を始めるという突拍子のなさも問題なのだが、真琴の気のせいでなければ、なんだかとても重大な事をあっさりと言われた気がする。

「ああ、真琴の婚約者ね」

 琴音は何一つ疑問に思ってる風でもなく、そう答えていた。

「どうして勝手にそんな話を決められてるわけ?」

 真琴は穏やかにツッコミを入れる。

 母親の琴音が時々ぶっ飛んでるのは、産まれてから今日に至る長い付き合いでわかっているからこその対応だった。

「お母さんが大学時代にお世話になってた先輩の頼みだから」

「だからって……勝手すぎない?」

「でも、とても良い話でしょ?」

 この様子では、琴音はまだ問題点に気付いていない。

「いやいやいやいや、百歩譲って良い話だったとして、大問題でしょ」

「何が?」

「婚約者と同じ家に住むとか話が飛びすぎてる。高校生の娘を持つ母親として――」

 もっとそれなりの危機感を持って、と言いかけたのだけど――

「――今の怒った顔、真一しんいちさんに似てるわ」

 琴音がとても懐かしそうな顔をしていた。

「う……」

 真琴は早くに亡くなった父親である真一の話を出されると弱い。

 子煩悩で真琴を大事にしてくれた父親――病に倒れ、真琴が中学二年の時に死んだ。

 それからは琴音が女手一つで育ててきた。丁度琴音が以前勤めていた会社からの復帰要請があったおかげで、生活に困ることはなかったのだが。

「女の子は父親に似るって言うけど……本当に似てきたわ」

 琴音はそっと目頭を押さえる。

「そういうの卑怯……」

「その拗ねてる顔も――」

 琴音は袖口でそっと涙を拭っている。

「わかった、わかりました。もう文句言いません。だから泣かないでよ」

 真琴も親の泣き顔は見たくない。それでなくても真一が亡くなってしばらくの間、琴音が隠れて泣いていたのを見てきている。

 娘に見せまいとしていたのだろうが、子供は意外と見ているものだ。

「本当?」

 琴音が顔を上げるともう普段の表情に戻っている。

 ――しまった。

 真琴がそう思った時は既に手遅れだった。

 琴音は会社に復帰して、あの頃よりも強く、逞しくなっているのだ。

 何処かぶっ飛んでるのはそのままなのだけど――

「あ、名前言ってなかったわ。先輩の息子さんでね、名前はユウマ君っていうの」

 聞いた話によると成績優秀、スポーツ万能なのだと嬉しそうに続ける。

「いや、待って! こっちは全然OKしてない!」

 文句は言わないけれど、異議は唱える――真琴はしっかりとツッコミを入れていた。

「先輩の息子さんだから、きっとちゃんとした人よ」

 ちゃんとした人なら女性だけの家庭に下宿なんてするわけがないと思うのだけど、こうなった琴音には何を言っても無駄だというのも思い知っている。

 もう真琴はただ、黙って受け入れるしかなかった。婚約者だとかの話は別にして。


(2)

 ゴールデンウィーク二日目――真琴は家で今日から始まる下宿の入居者を待っていた。

 婚約者だとは絶対に認めない。入居者だ。絶対に入居者扱いだ。

 琴音は入居者に出すスイーツを買いに行っていた。もうすぐ約束の時間なのにまだ帰ってこない。何処かでご近所さんに出会して、世間話に引っかかったかもしれない。

 ゴールデンウィーク初日は入居者――ユウマという人――が入る部屋の掃除だった。

 真琴にもしわ寄せが来るのだから、琴音にはもう少し慎重になって欲しいと思うのは、贅沢なのだろうか――


 玄関のチャイムが鳴る。約束の時間にピッタリだ。真琴は玄関に出た。

 門扉の前に立っていたのは、一人の若い女性だった。

 カジュアルな服装で、メイクも少しだけ――年齢は真琴とそんなに変わらないと思う。

 ご近所では見たことのない人で、手には大きなキャリーケースを持っている。

「あ、えっと池嶋さんのお宅で間違いないでしょうか?」

 その女性はスマートフォンの画面と住所とを確認しながら、真琴を見た。

「はい……そうですけど……」

 宅配便のアルバイトだろうか――そういえば入居者の荷物も今日届く予定――

「あの、今日からお世話になります。芹沢夕真せりざわゆうまです」

 そう言ってその女性は礼儀正しく頭を下げていた。

「…………え?」

 確かユウマと言った――婚約者のはず――認めてないけど。

 でも目の前に居るのはどう見ても可愛い女の人。真琴は反応に困って止まってしまった。

「……えっと、もしかしてまだお話が通ってませんでした?」

 ユウマと名乗ったその女性は途端に不安そうな顔になっている。

 失礼だけど小動物みたいで可愛いと思った。

「いえ、あの。今日下宿に人が来るとのお話は聞いてます」

「じゃあ良かった――お世話になります」

 真琴の答えに、ユウマと名乗った女性は安堵の笑顔を浮かべている。

「え? あの、でも、来られるのはユウマさんという方だと――」

「はい。芹沢夕真です」

 その女性は、爽やかに自分の名前を言い切っていた。

「マジで……?」

 真琴が小さく呟く。どう見ても女の人――が婚約者――?

 あの母親は、何をどう間違ったのだろう――


(3)

 真琴はとりあえず、夕真をリビングに案内して、応接セットのソファに座るように促す。

 肝心なことを知っているはずの琴音はまだ帰ってこない。勿論、スイーツもない。

 とりあえずお茶だけ用意して、テーブルに出した。

「ありがとうございます。えっと――池嶋さんの」

「真琴です。池嶋真琴――」

「え、じゃあ婚約者……のマコトさん……?」

 そう言ったきり夕真は黙りこんだ。その表情は疑問に満ちあふれていた。

「ごめんなさい。あの、多分私の母のことだから色々勘違いしてると思うんですよね」

 真琴は疑問符だらけの表情をしていた夕真に謝る。

「その……真琴さんのお母様が『真一さんに似てきて』と言っていたらしくて……」

 ――それだ。

 きっと親同士の電話でのやり取りの中で、大きな勘違いをしているに違いない。

 確かにマコトもユウマも音だけで聞くと男性の名前に受け取られても仕方ない。

「こちらも、私の母の事だから色々と聞き逃していた可能性もあると思います」

 可能性ではなく、確実にそうだと真琴は思う。琴音はそういう人だ。

 それでも会社では仕事の出来るキャリアウーマンで、そこそこの役職。家事一般も出来るし、家計もしっかりと管理できている。ただ、時々ぶっ飛んでるところが謎すぎるのだ。

「私も親戚中からよく父親似だと言われますし、そういう話になったのかもしれないですね」

 夕真は思わずなのだろうか、変なフォローをしていた。


「あ、ああ、でも良かった――婚約者がこんなに可愛い人で」

 しばらく黙ってお茶を飲んでいた夕真が、突然安堵の息と共にそんなことを言い出した。

「いや、ちょっと待ってください。前提から少しおかしいです。女同士だし婚約者とか無かったことになると思うんですけど」

 真琴は冷静にツッコむ。可愛い人と言われたのは嬉しいけれど、そんな場合じゃないのだ。

 この人も自分がツッコミに回らなければいけないタイプの人かもしれない。

 多分、突拍子もないことを言い出したのは緊張しているからだろうけど。

「あ、そっか――そうですよね。無かったことになりますよね」

 夕真が頷いていた。やっぱりツッコミに回らないといけない人のように思えた。


「ただいまー」

 玄関のドアが開いて琴音の暢気な声が聞こえてくる。

「あ、帰ってきた」

 真琴は小走りで玄関に行き、足早に琴音をリビングに引っ張ってくる。

「あら、いらっしゃいませ」

 琴音はマイペースに挨拶をしていた。

「今日からお世話になる芹沢夕真です。よろしくお願いします」

 夕真はソファから立ち上がって、また礼儀正しく挨拶をする。

「あなたがユウマ君……? 美少年だわ……」

 琴音は夕真の姿を見てもまだ何かを勘違いしているようだ。

 スタイルを見れば女性だとわかるはずなのに――夕真は細身だけどスタイルが良い。

 だが、髪型が少し長めのショートボブで、どちらかと言えば端正なほうの顔立ち――服装もデニムに重ね着風のカットソーでカジュアル。

 見方によれば琴音の言う通り、美少年だとも言えなくないのが問題をややこしくしていた。

「あの、違います。私、女です。多分双方で勘違いをされていたと思うんですけど――」

 夕真がこれまでの大体の流れを琴音に説明する。

 その説明を聞く分には、夕真はかなりしっかりしている人だった。


「…………」

 全てを聞いて、流石の琴音でもおとなしくなった。

「じゃあ、美少女ね。嬉しいわーこんな美少女が真琴の婚約者だなんて」

 駄目だ――なってなかった。真琴は頭を抱える。

「あのね? お互いの勘違いでどっちも相手が男の人だと思い込んでたの。それはわかる?」

 なんとかして婚約者が云々のところは早いうちに解決しておかないと、この母親はきっとぶっ飛んだ何かを繰り出してくるだろう。

「わかってるわよ。多分お互いに名前で勘違いしたのね。困ったものよね」

 琴音が笑いながらそう答えていた。

「そんな他人事みたいに……まあ良いや。それでね? 最初から婚約者とかじゃ無かったわけ」

「……真琴、最近は同性同士でもパートナーシップ制度のある自治体があってね?」

 やっぱり何かを繰り出してきた。

 真琴に言い聞かせるように、制度の説明を始めだした。

 琴音の考え方は人として何の偏見もなくて、とても良いことなのだとは真琴もわかっている。

「そうじゃなくて! 元々婚約者とか私はOKしてないからね?」

 真琴は夕真を見た。頷いてくれ――との念を送って。

 夕真は何かを察知したらしく「私も、その件については了承してません」と言ってくれた。

「わかったわ。とりあえず二人の意見を尊重して、下宿人さんってところから始めましょう」

 琴音はそう言い残してキッチンへとケーキの箱を持って行った。

「……わかってくれたんですかね?」

 夕真が不安そうに真琴を見る。

 琴音は「下宿人から始めましょう」と言っていた。

 多分、そこからステップアップすると思っている。

「わかってないような気がします」

 真琴はそう答えるしかなかった。


(4)

「――だから違ってたの。女の子なんだってば」

 ケーキを待つ間に、夕真が「親に電話します」と言って電話をかけていた。

 琴音はキッチンで楽しそうな鼻歌交じりにケーキを用意している。

「え? いや、可愛い子だけど――そうじゃなくて、元々私だってそっちの了承はしてない――ただ通学時間が物凄く少なくなるから乗っただけの話で――」

 真琴には電話の向こうの音は聞こえないが、夕真の様子からこちらもかなり手こずってるような気配が伝わってくる。

 ――っていうかサクッと「可愛い子」とか言われてしまった。

「だから、違うんだって……はい、はい。そうだけど、そうじゃなくて……」

 かなり苦戦しているようだ。あまり聞いているのも悪いので、真琴は琴音を手伝いにキッチンへと向かう。ケーキと紅茶の準備が出来ていたのでそれをリビングに運ぶ。


「……可愛い婚約者で良かったねって言ってました」

 両親共に――夕真は通話を切って、戻った真琴を困ったように見た。

 何一つ問題になってないところで、夕真の両親もなかなかにぶっ飛んでる感じがする。

「なんとなく、母みたい。なんて言うんですか、何かことわざで……」

 ケーキと紅茶を出しながら、真琴が言う。

 似たような人が集まる現象を表わした言葉が、どこかにあったはずだ。

「――類は友を呼ぶ?」

 夕真がポツリと呟いた。

「それです!」

 失礼な話だけど、多分それしか的確に表現できない。

「お互い苦労してますね……」

 夕真が溜息をついている。

「ホントです……」

 真琴と夕真の間に、初っ端から変な連帯感が生まれていた。


(5)

「これが洗濯機――乾燥機も付いているので、空いてたらいつでも使ってください」

 なんとか落ち着いてケーキを食べ終わった後に、真琴は家の中を夕真に案内していた。

 ちなみに、根本的な問題は何一つ解決していない。

「お風呂はこっちでここも空いてたら自由に……一応使う時間帯とか決めます?」

 真琴はメモを取り出して、尋ねる。

 案内しているうちに必要なものが出て来るかもしれないので、念のために持っていたのだ。

「私は一番最後で良いです」

「駄目ですよ、ちゃんと家賃とかいただくんだから遠慮しないで使ってください」

 とりあえず今日は一番に入ってください――遠慮させないために真琴はそう続ける。

「わかりました。ありがとうございます」

 夕真は笑ってそれに答えていた。

 この辺は琴音の言っていた通り、ちゃんとした人だと思った。


「でも、どうして下宿なんですか? 一人暮らしのほうが多分自由だと思うんですけど」

 二階にある夕真の部屋までの階段を昇りながら、真琴はそう尋ねてた。

 予算はかかるけど、一人暮らしのほうが気を使うこともないと思うのだけど――

「一人暮らしは反対されてしまって。でも下宿なら良いって言われて……」

 うちの親、謎に厳しいんですよね――と夕真が答えていた。

「じゃあ、婚約者とかの話は――」

「交換条件で出されました」

 そこからなんとかお互いに気に入れば、というところまで交渉をしたそうだ。

「ああ……それは難しい交換条件ですね……」

 一人暮らしを反対するわりに、見たこともない婚約者と同じ家に暮らすのはOKという辺りのハチャメチャさは、琴音に通じる謎のぶっ飛び具合だ。夕真は良く粘ったと思う。

「今までお家から大学に通ってたんですよね?」

 真琴の家の周辺は学校が多い。大学だけでも自転車で行ける範囲に何校かあるし、電車に三十分も乗れば十数校に膨れあがる。教育に恵まれた環境だ。

「はい。片道で二時間半くらいかかってました」

 夕真がサラッと答えている。

「ちょっとした旅行じゃないですか」

 真琴は思わずツッコミを入れた。

 確か新幹線で東京から大阪まで行くのに、そのくらいの時間がかかる。

「そうなんですよ。新幹線なら良いんですけど、電車を何度も乗り換えるのがハードで……あと電車の中で勉強すればいいやと思ってたんですけど、何故か字を読むと酔っちゃって」

 夕真は困った顔で笑っていた。そんなにハードな通学を解消出来るなら、ある程度無理な交換条件を出されても乗ってしまうだろう。真琴でも乗ると思う。

 だけど、電車で字を読むと酔うのに今まで気付かない辺りが、若干天然だと思った。

「じゃあこれから少し楽になりますね。あ、部屋こっち側です」

 夕真の部屋は真琴の部屋の右隣の洋室――真琴はドアを開けた。


「そうだ。部屋の鍵、業者さんに来てもらえるのは連休明けなんです」

 夕真はまだ何もない部屋の中に入って「広いです」と感激している。

 今日はこれからここに組立式のベッドなどが届く予定だ。

「え、鍵無くても大丈夫ですよ?」

「でも、勝手に入られそうな気がするのも困るでしょうから」

「琴音さんも真琴さんも、そんなことしない人たちだと思うんですけど……」

 夕真が笑顔でそう答えた。すぐに信用してくれるのは嬉しいと思う。

「じゃあ、一応念のためにってことで」

「わかりました」

 夕真は頷いていた。

 また玄関のチャイムが鳴る。当たり前だけど今日は忙しい日だ。

「あ、荷物かな?」

 玄関から「手伝って」との琴音の声が聞こえる。真琴と夕真は二人で玄関に向かった。


(6)

 届いたのは組立式のパイプベッドとプラスチックの引き出し式の衣装ケース三つだった。

 かさばるが重さがあるものでもないので、三人で順調に夕真の部屋に運び込む。

「さっき届いたのはこれで最後ですありがとうございました」

 夕真が軽々と――何も入ってないから実際軽い――ケースを部屋に運び入れ一息ついていた。

 後は布団一式と簡易デスクが届くそうだ。念のために時間差で届くように手配したらしいが、この辺り夕真はとてもしっかりしている人で少し安心だ。

「でもベッド組み立てますよね? 手伝います」

「いいんですか?」

「はい。早く組み立てたほうが――ってその前にラグとか敷かなくて良いのかな」

 床はフローリングなので、出来ればカーペットかラグがあったほうが良いとは思うのだけど、届いた荷物にはそういったものが無かったように思う。

「あ……そうだ。そういうの忘れてました。どうしよう」

 夕真が少し慌てている。手配したものの中にもないらしい。

「多分敷かなくても大丈夫だと思いますけど、近くのお店に買いに行きます?」

 近くと言ってもちょっと遠いけれど、大手の家具雑貨を扱うチェーン店がある。

 時間はまだ午後二時を過ぎたくらい――買物をして帰ってきても組み立てる時間はあった。

「下宿は綺麗に使わないとなので、行ってきます」

 夕真はスマートフォンを取り出して、真琴に場所を尋ねている。

「案内しますよ?」

 一応場所を教えながら、真琴はそう申し出る。

「場所だけ教えてもらえたら一人で――折角のお休みなのに付き合わせちゃうのは」

 夕真はスマートフォンで地図を確認して、これならなんとか……と遠慮していた。

「でも、慣れない街で迷子になったりしたら」

 わかりにくい街でもないけれど、今日夕真が来たであろう駅からは反対方向なので、迷いやすいかもしれない。

「それもそうですね……迷子にならない自信がないです」

 夕真が気まずそうにしている。若干天然っぽい感じだけど。

「じゃあ、一緒に行きます」

 真琴は出かける準備――と言っても、財布の入った小さなバッグを持つだけ――をする。

 琴音に二人で必要なものを買いに出かけると言ったら「もうそんなに仲良くなったのね」と喜んでいたけれど、真琴は深く考えないことにした。


(7)

 真琴は案内の途中で、目印になりそうな建物を何軒か夕真に教える。

 これからも生活に必要なものを買いに行くだろうし、他にも近くに大きなスーパーマーケットがあったりするので、こっち方面の道も覚えているほうが生活しやすい。

「そうだ、ここの道を入ると美味しいかき氷屋さんがあるんですよ。テレビにも出てたかも」

 雑誌とかネットもだったかな――歩きながら真琴はそう続ける。

「そういうお店、弟たちが凄く喜びそう」

 夕真が真琴の指差したほうを少し覗くように見て、答えた。

「弟さん居るんですね」

 そういえば、真琴は夕真のことは家族構成も何も知らない。

 さっきの話を思い出す限りでは、この春に大学に入ったのだろう――ということしか。

 婚約者だとか言うなら、どうして先に教えてくれないのだろう。

 ――っていうか琴音も知らないかもしれない。

「はい。兄二人と弟二人――」

 特に一番下の弟は中学生になったばかりで、ネットなどで話題の店に反応するらしい。

「大家族だ。楽しそうかも……」

 元々三人家族――いつの間にか母と二人の家庭になっていた真琴にしたら、多分誰かが常に居そうな家庭なら寂しくないだろうし、想像が出来ないくらい楽しそうだと思った。

「祖父母と兄夫婦含めて十人だから賑やかですね……」

 一方の夕真はうんざりしているような感じだ。

「全員同居なんですか?」

「母屋があって、隣に祖父母と兄夫婦の家がそれぞれある感じです」

 夕真が宙に手を上げて大体の位置関係を説明する。それによると家が三軒ある――凄い。

「もしかしてお嬢様なんじゃ……」

「とんでもない――田舎だから土地が余ってるだけで、ほとんど畑ですよ」

「でも凄いことですよ。あ、着きました」

 誰かと歩く道程は時間が早く過ぎる。もう店に着いていた。


(8)

 夕真はラグ売り場で三十分ほど悩んでいた。

 大体の大きさと、ストライプのデザインまでは絞り込めたのだが、カラーリングがパステルカラーの淡い色合いのものと、寒色系のクールな色合いのもの――どちらにするかで。

「これも可愛い色だけど、こっちのほうがシンプルだし……こっちで」

 夕真はクールな色合いのものを手に取ったのだが、表情にはまだ心残りがあるようだ。

「気に入ったのを買ったほうが良いと思うんですけど。テンション上がるし、同じ値段だし」

 真琴は余計なお世話で、そんなことを言っていた。

 折角の自分の部屋だし気に入ったものに囲まれるほうが、多分生活は楽しい。

「でも、私には可愛い色は似合わないですから」

 苦笑いで夕真はそう答える。夕真の服もどちらかと言えばクールな色合いをしていた。

「夕真さん可愛いのに……」

 真琴はついそんなことを言っていた。だけどそれは、心の底からの言葉だった。

「……え、えっと」

 夕真の顔が見る間に紅く染まる。髪の間から少し見え隠れする耳まで紅い。

「え、そんなに照れるとは思わなかったです」

 言ったほうの真琴まで照れてしまいそうなくらい、夕真は照れている。

 だけど、それも可愛いと真琴は思った。

「――男兄弟の中で育ったので、そういう言葉には慣れなくて。服も大体お下がりとかですし」

 それでクールな感じの服なのか――夕真の謎がまた一つ解ける。

「……じゃあそういう時は、喜んどけば良いんじゃないですかね。実際可愛いんだし」

 可愛い色も似合いますよ――真琴は更に後押しのつもりで、迷っている夕真の背中を押す。

「え、えっと。ありがとうございます。嬉しいです……じゃあ、こっち買います」

 結果――夕真はパステルカラーのラグを選んでいた。


(9)

「持てます?」

 帰り道で真琴は夕真が手に持っている折り畳まれたラグを見る。

 ラグは持ち帰りやすいようにプラスチックの取っ手を付けてもらっていた。

「軽いし大丈夫です。これでも農作業とか手伝ってるので力はあります」

 確かに真琴が少し持った時も軽かったけれど、折り畳まれていてもそれなりに大きいものだし持ち歩くのは大変そうに見える。

「じゃあ、疲れたら交代で持ちますね」

 いつでも言ってください――真琴はそう言って隣を歩いていた。

「はい。真琴さんが優しい人で良かったー」

 夕真が一安心したようにいきなりそんなことを言い出す。

「急に何ですか」

 真琴が慌てて隣の夕真を見た。

「だって婚約者が嫌な人だったら困るじゃないですか」

 夕真も真琴のほうを向いて、大真面目な顔で答えている。

「……その話は無かったことになると思いますけど」

 真琴は穏やかに返す。

「あ、そうだった。物凄く覚悟して来たので、なんというか、その意識が抜けない……」

 明らかに困った様子で夕真が肩を落としている。

 夕真もやっぱりツッコミが必要な人だと思った。


(10)

 二人は帰宅して、ラグを敷いてからベッドを組み立てる。

 組み立て終わった頃に丁度良く布団一式とデスクが届いたので、これで住める部屋になった。

 家具をレイアウトした後に、夕真が「やっぱりこの色で良かったかも」と嬉しそうに言っていたので、真琴としても良い仕事をした気分になる。

 あと足りないものは本棚代わりのカラーボックスくらいだろうか――夕真に尋ねたら頷いていたので、明日また買いに行くことになった。今度は急ぎではないので配送も頼める。


 そうしているうちに夕飯の時間になったので、琴音が二人をキッチンへと呼んでいた。

「あ、そういえば、夕真ちゃんのお茶碗とかお箸ある?」

 琴音が食卓の準備をしながら夕真に訊く。

 今日のメニューは少し豪勢にローストビーフがメインだ。

 琴音は料理も上手いので、本当に時々ぶっ飛んでるところだけが謎だった。

「え……あー、そういうの忘れてました」

 夕真が意表を突かれた感じで答える。

 真琴は引っ越したことはないけれど、日常的に使うもので、言われるまで気付かない小物類があることはわかる。

「じゃあ、今日はお客様用のお茶碗で良いわね」

 琴音がサラッと準備をしていた。我が家にそんなものがあったのか――新しい発見だった。

「明日、またお店に行くついでに一緒に買いましょうよ。可愛い雑貨屋さん案内します」

 真琴はそう言って夕真を誘う。

 可愛いものが多い店も知っているし多分、夕真も気に入ってくれるだろう。

「はい。お休みなのにごめんなさい……」

 遠慮がちに夕真が笑う。

「特に予定ないですから良いですよ」

 友達のほとんどは旅行だし――真琴はそう返していた。

「もうこんなに仲が良いなんて素敵ねー」

 琴音が嬉しそうに二人を見ている。

「……お母さんの予想通りにはならないからね?」 

「えー可愛い娘が増え――」

「――ません」

 即答で真琴が否定していた。

「ま、でも今の時点でも増えたようなものよね。夕真ちゃんよろしくね」

 しかし、琴音はめげない。笑顔で夕真に改めての挨拶をしていた。色々と強い。

「はい。よろしくお願いします」

 夕真も笑顔で答える。


 こうして、少し賑やかな生活が始まった。


(11)

 長いゴールデンウィークも終わり、今日からまた学校が始まる。

 結局、この連休は夕真にこの街の案内をしていた。

 夕真の通う大学は、自転車でも行ける距離のところだったので、そこにも二人で案内がてら一緒に行って、帰りに初日に言っていたかき氷店に寄ったりもしていた。

 夕真が写真を撮って弟に送ると、姉ちゃんだけズルいとのメッセージが返ってきたという。

 真琴にすれば、兄弟が居るとこういう点で楽しいのかという新しい発見になった。


「おはようーございます」

 朝――身支度を調えて、真琴がキッチンに降りると、もう夕真は起きていた。

 挨拶を交わすが、まだ少し他人が居る感覚に慣れない。

 眠る時も、なんとなく隣の部屋に人が居ると思うと、ちょっとくすぐったい気分になる。

「おはようございます。あ、可愛い」

 真琴の姿を一目見るなり、夕真が突然そんなことを言い出した。

「え……」

 朝から急に可愛いと言われても――真琴が固まる。

「あ、あの制服が。私、ブレザーの制服に憧れてたんです」

 夕真は慌てて説明をしていた。そういうことなら納得できる。

「制服『が』なの? 真琴は可愛くない?」

 琴音がまたぶっ飛んだ質問をしている。しかも少し拗ねていて、そこそこ本気だ。親バカだ。

「え……いえ、真琴さんも可愛いです」

 夕真は照れながら、真琴を褒めていた。

「あ、ありがとうございます……」

 無理矢理言わされた感が強いけど、真琴もそういう時は喜べば良いと夕真に言ってしまっているので否定も出来ない。

「でも本当に可愛い……リボンのクロスタイとか、ちょっと珍しいけど羨ましいです」

 真琴の制服はブレザータイプで、襟元に特徴的なクロスタイがあしらわれている。

「夕真さんはブレザーじゃなかったんですか?」

 朝食を食べながら、真琴は夕真に尋ねる。

「中高と普通のセーラー服でした」

 オーソドックスで良いけど、とにかく普通で――夕真はそう返していた。

 しかも親は兄のお下がりで済ませようと思っていて、入学前にそういえば性別が違う=制服が違うと気付いたくらいに感心がなかったそうだ。

「セーラー服も可愛いと思うんですけど」

 真琴も一度は着てみたいとは思う服のひとつだ。

 もっとも、真琴はセーラー服を着たことがないので、これは無い物ねだりだろうか。

「でもなんとなくブレザーのほうが格好良くないですか?」

「あー格好良いのほうなら、私もブレザーのほうが格好良いってなるかも……」

「ですよね?」

「今度着てみます?」

 多分、夕真はブレザーも似合うだろうし、見てみたい。

「え、良いんですか――ってそれは流石に遠慮します」

 一瞬喜んだ夕真だったが、すぐに言葉通りの遠慮をしていた。

「どうして?」

 お下がりとかを着られるのだから、他人の服でもそんなに抵抗はないはず――身内以外は嫌だというなら仕方ないけれど。

「だってもう大学生なのに高校生の制服を着たらなんか色々アウトじゃないですか?」

 なんとなく可愛い理由が夕真から出てきた。

 真琴にすれば、夕真もつい数ヶ月前まで高校生だったのだから何の問題も無いとは思うけど。

「出歩くわけじゃないんだから良いじゃないですか」

「……そうかも」

 夕真が少し乗り気になっている。

「仲が良いわね」

 琴音がまた喜んでいた。


(12)

「わー似合う! すごい似合う!」

 その日の夜、真琴は早速自分の部屋で制服を貸していた。

 ゴールデンウィーク中に、お互い年も近いし、楽だしで、敬語は止めようと二人共が言い出したので、できる限り砕けた口調で話していた。

 流石に、一家の主の琴音が居るところではお互いに敬語が出るのだが。

「そうですか? なんとなくブレザーだとちょっと引き締まる感じかも……」

 鏡を見て、満更でもない表情で夕真が答える。

 髪型のせいもあるかもしれないが、確かにキリッとした感じに見えた。

「うちに来るの一年ずれてたらこの制服着れたかもなのに」

 真琴は呟く。夕真と同じ学校だったら多分楽しいだろうなと思った。

「ずれてたらまだ下宿に来てなかったと思うけど……」

 夕真が遠慮がちにツッコミを入れた。

「あ、ホントだ」

 大学に入ったから下宿に来ているのに、これでは話がおかしくなる。

「真琴さん、意外と天然なんですね」

 若干天然気味の夕真に言われてしまった。少し不本意だ。


「記念に写真撮りましょうよ」

 真琴はスマートフォンを手に持って、夕真に近付く。

「え、いや、恥ずかしいのでいいです」

 夕真は慌てて身を退くが――

「可愛いのに勿体ないですよ。撮りましょう?」

 真琴は夕真の弱み――でもない――を突いていた。

「え、えっと、ありがとうございます……って自撮り?」

 夕真の隣で自分も写真に入るように真琴はスマートフォンを構える。

「駄目ですか? 友達にもどんな人って訊かれてるから紹介したい」

 真琴は尋ねる。今時珍しい下宿という形での新しい家族――ではないけど――を紹介したい、そんなちょっとした自慢も含まれているかもしれない。

「それは構わないけど……」

 戸惑いながらも夕真は了承していた。

「決まり。はい撮ります」

 ちょっとした撮影会が始まる。夕真は始終照れていた。


(13)

「え、何、婚約者めっちゃ可愛い」

 クラスメイトで友人の鹿島香里かしまかおりが、真琴のスマートフォンに映し出された夕真を見て、真剣な表情でそう言った。

 ゴールデンウィーク中に親の勘違いが行き過ぎたという顛末をメッセージを送って、爆笑のスタンプが返ってきていたのに、香里が夕真のことを話題にする時は「婚約者」と呼んでいる。

「……だからそれはもう無い話だって言ってるのに」

 聞き付けた他の友人たちも何気に同じように呼び始めているので、真琴は早々に打ち消す。

「はいはい。婚約者、なんて名前だっけ?」

 香里が真面目な顔で尋ねた。

「夕真さん」

「――覚えた」

 サムズアップで香里が答える。

「それなら良し」

 真琴もそれに答えて同じポーズをしていた。

「で、その婚約者なんだけど」

「違うってのにー!」

 やっぱりこうなるのか――真琴は机に突っ伏す。

「ゴメン。もう真琴で遊ばないから」

 そもそも遊ぶな――真琴の心のツッコミだった。


「そんでもさ、何か婚約者とか、そういうの決められてるのって良いよね」

 昼食の時間――真琴と香里は学食で月見蕎麦を食べていた。

 少し固まりかけた玉子の黄身を箸で突きながら、香里が感慨深げに言う。

「決まってないけど、どうして?」

 真琴は玉子は最後に取っておくタイプ――崩さないよう慎重に食べながら香里に返事をする。

「だって、一から恋愛してこの人なら大丈夫だって判断して結婚とかさ、遠い話だよ」

 まだ高校生だからってのもあるけど――そう言って、香里は蕎麦を食べている。

「だからって勝手に決められても困るだけだよ。特にいきなりは」

 真琴は七味唐辛子を追加して、より辛い蕎麦にした。

「そこだよね。でも最初から決まった人を好きになったら苦労しないのにとか思わない?」

 香里は玉子の混ざった出汁を飲み干す。

「あーそれはあるかも……決められた人を好きになれたら楽だよね」

 思いの外深い話に、真琴は黄身を崩さないチャレンジに失敗していた。

「真琴には決まった人が出来たじゃないか」

 香里はビシッと箸で真琴を差した。行儀が悪いけど、友人なので嫌な感じはしない。

「だからそれは無くなった話だってば……」

 この調子だとしばらくネタにされるなと真琴は思った。


(14)

 放課後――香里が婚約者を見たいということで真琴の家に寄り道をすることになった。

 婚約者じゃないってのに聞いてくれない。っていうか、わかって真琴をからかっている。

「ただいまー」

 玄関を入って香里が大きな声で挨拶をする。

 いつものことなのだけど、香里の家じゃないのに「ただいま」と言っていた。

 真琴は既にツッコミを諦めている。

「今の時間、誰も居ない――」

 いや、確か今日は大学が午前中だけだと言っていたので、夕真が居るはず。

「あ、真琴さんおかえりなさい」

 聞き慣れない声だったからか、夕真が玄関まで様子を見に来ていた。

「おっ、婚約者」

 香里が夕真を指差す。流石に失礼が過ぎると思うので、真琴はその手を即座に叩く。

「「違います」」

 叩き落としながら否定の言葉を口にしたのだが、夕真と同じタイミングになってしまった。

「綺麗にハモったね」

 香里が笑っている。

「いい加減にしてよ。違うって言ってるのにさあ……」

 夕真とハモってしまったのが嫌だとかではないけど、真琴としては少し恥ずかしい。

「ゴメン。もうしない」

 本当に反省しているのかわからない感じで香里が謝っている。

「絶対だよ? あ、夕真さん、これ友達」

「これ扱い……」

 香里は若干不服そうにしていた。自分のことには敏感だ。

「文句ある?」

「ないでーす。あ、指差してごめんなさい――ところで、ご趣味は?」

「香里……」

 この友人はなかなか懲りないな――真琴は心の中でそこそこの厳しいツッコミを入れていた。

「えっと、散歩とかサイクリングとか?」

 少し考えながら、夕真が答える。この人はこの人で、人が良すぎる。

「夕真さんも答えなくて良いですからね?」

 真琴は夕真にツッコミながら、香里を部屋に連行していた。


「夕真さん、今日はごめんなさい。なんか見世物みたいになっちゃった」

 琴音も帰ってきて、夕食の時間――真琴は夕真に謝っていた。

 結局、香里は夕真を見に来たかっただけで、あの後少しだけ宿題をやって帰って行ったのだ。

「え、気にしてないよ? 面白い友達で良いじゃないですか」

 夕食のクリームシチューを食べながら、夕真は笑っている。

「初っ端から失礼だったのに心が広い……」

「大体の高校生ってあんな感じじゃないです? 真琴さんはちょっと落ち着いてるけど」

 夕真から見たら真琴は落ち着いて見えるのか――ツッコミに忙しいけど、新しい発見だった。

「ああ、香里ちゃんが来てたのね」

 琴音が色々とわかった風に頷いている。

 さっきの会話で誰だったかわかる香里の存在感もどうかと思った。


(15)

「お風呂、お先でした」

 風呂場から出てきた夕真が、リビングに顔を出す。

「あれ? なんか違う匂い……ボディソープ? 変えました?」

 現れた夕真からふわっと漂ってきた香りが、いつもと――とは言っても一ヶ月くらいのいつもだけど――違っていた。

「サンプルもらったから使ってみたんだけど、わかるんだ……」

 夕真が自分の腕をパタパタとさせて、ボディソープの匂いを確認していた。

 一応下宿の形として、シャンプーなどの消耗品はそれぞれで管理するようになっている。

「……ホントだ。なんでわかったんだろう」

 まだ下宿人が居る生活というものに慣れていないし、そんなに注意して夕真の動向を見ているつもりでもないのに、謎だった。

「うちの兄弟なんて何変えても全然気付かないのに、わー女の子だ――」

 そう言って夕真が感激している。

「え、いや……そんな……そうですけど」

 そんなに喜ばれても、真琴としては少し恥ずかしくなってしまう。

「あら、可愛い。そうよね女の子ってそういうところに気が付くのよねー」

 明日の朝食の準備をしていた琴音も会話に入ってきた。夕真も「ですよね?」と言っている。

「お母さんまで……」

 だけど、そういうものなのか――真琴は今まで気付かなかった。

 新しい何かは、新しい感情を教えてくれる。

 少し楽しくて、くすぐったい何かの感情を。


(16)

 夕真が一緒に住みだして一ヶ月と半分が過ぎた頃――もうすぐ七月になる。

「え、今日から出張なの?」

 朝、琴音が大きなスーツケースを玄関に置いていたので、真琴が尋ねたら「出張」との答えが返ってきた。

「そうなの。三泊四日で大阪のほうまで」

 朝食を用意しながら琴音がサラッと言う。

「いつも言ってるけど当日の朝に言わないでよ……」

 琴音が出張に行くのは確か五回目か六回目――いつも当日の朝に真琴に知らされる。

「ご飯二人分作れる?」

 テーブルにオレンジジュースを差し出しながら、琴音が訊く。

「それくらいなら出来るよ」

 普段あまりやらないけど、真琴はこれでも家事は一通り出来るのだ。

 きっかけは、母子家庭で家庭を維持している琴音の負担を少しでも減らしたいからというものだったが、結局琴音が何でも出来るので、そのスキルをあまり発揮できないでいた。

「じゃあ良かったわ。行ってきまーす」

 後片付けはよろしく――そう言い残して琴音はさっさと出張に行ってしまった。

「行っちゃった……」

 琴音を見送ったあとで、真琴が呟く。

「本当に突拍子のない人なんですね」

 黙って二人を見ていた夕真が、感心したように琴音に対する感想を言っている。

「急にごめんなさい」

「いえ、責めてるわけじゃなくて、面白いなーって」

「まあ、見ようによっては……」

 真琴は苦い顔で返した。というか、琴音の行動に慣れてしまってる自分が確かに居た。


「琴音さんが出張の時はいつも一人で留守番ですか?」

 二人で朝食の後片付けをしながら、夕真が真琴に訊く。

「はい。でも……私が高校に入ってから出張に行くようになったかも」

「ちゃんと気を使ってくれてるじゃないですか」

 夕真が笑っている。真琴は、夕真に訊かれるまでそんなことにも気付けなかった。

「ですね。母をちょっと見直さないと。でも、今回は夕真さんが居てくれて良かった」

 洗い終えた食器を食器乾燥機に突っ込んでから、真琴は夕真を見る。

「お手伝いくらいしか出来ませんけど……」

 勝手にキッチンを探り回るのもあまりいい気がしないだろうということで、夕真は手伝いをメインにしていた。

「そうじゃなくて、流石に四日も一人だとちょっと心細いかもしれないです」

 厳密には丸三日――というか三晩――真琴もそれなりに成長はしたけれど、それでも一人だと少し寂しくなるだろう。

 このまま一人になったら――そんな悪い空想が芽を出すかもしれない。

「いつもはそんなに長くない出張なんだ?」

「いつも一泊二日だったので――ああ!?」

 ある一つの考えに辿り着いて、真琴が素頓狂な声を上げた。

「――どうしました?」

 夕真が驚いている。

「母のことだから何か企んでるかも……既成事実的な何かを!」

 夕真が女性だったから良いものの、これが男女だったら何かの間違いとかが起きる可能性もゼロではない。――というか、男女じゃなくても、何かが起きる可能性は何処にでもあるのだ。

「それは……気にしすぎだと思うな」

 夕真が冷静にツッコむ。

「……ですよねー」

 真琴も冷静になってそう返す。

 なんでそんなに夕真を意識してしまうのだろう――真琴にはわからなかった。


(17)

 琴音が出張に行って三日目――明日には琴音が帰ってくる。

 当然、夕真との間には何もなかった。いや、それで良いのだけど。


 いつもの真琴の帰り道、にわかに空が曇りだした。

 この空の様子では、真琴の一番苦手なあの雷が鳴り出すのも時間の問題だ。

 家までは歩いてあと十分くらい、早足ならもう少し早いし、走ればもっと早い。

 真琴は家までの道を走り出していた。


「ただいま――」

 玄関のドアを大急ぎで開け、挨拶もそこそこに真琴はリビングに走り込んでいた。

「おかえりなさい――どうかしたんですか?」

 キッチンのテーブルで勉強をしていたらしい夕真が、その様子を見て真琴の近くに来た。

「雷……」

 真琴が答えた途端、遠くから雷の音が聞こえてくる。

 やはり、自分の予測は正しかった――走って帰っていなければ、今頃はまだ外だろう。

「――雷? ああ、鳴ってますね」

 夕真が耳を澄ませている。

「雷が、怖くて……」

 真琴はリビングのソファに座り、クッションを抱きしめて、身をすくませていた。

 やがて、激しい雨音も聞こえだす。

「……じゃあ、鳴り終わるまで怖くないように傍に居ます」

 そう言って、夕真が真琴の隣に座った。

「ありがとう……わぁ!」

 さっきよりも近くで雷鳴がする。確実に、雷が近くなっていた。


 数分後――より、もっと長い時間に感じる――一際大きな、何かを割くような音が近くで鳴ったかと思うと、部屋の電気が一気に消えた。

「て、停電……?」

 恐る恐る、真琴が部屋の照明を見てから、夕真を見る。

「……みたい。近くに落ちたのかな」

 落ち着いた様子で夕真が返す。夕真は雷が平気なようだ。

「怖い……かも……」

 真琴は思わず隣に居る夕真の腕にしがみつく。

「大丈夫。落雷の停電ならすぐ復旧しますよ。それに、日が暮れるまでまだ時間があるから――あ、もう電気点いた」

 停電はほんの数十秒のものだったらしい。部屋の照明も何もかも元通りに点いていた。

「あ……えっと、思わず……ごめんなさい」

 真琴は夕真にしがみついていた腕を慌てて離す。

「誰でも怖いものはあるから、大丈夫――」

 夕真は真琴を落ち着かせるようにゆっくりとそう話していた。

「え、じゃあ、夕真さんの怖いものは?」

「……イノシシ?」

 少しだけ考えて、真面目な顔で夕真が答える。

「なにそれ――」

「全力で突進してくると怖い……」

 あと畑も荒らすし――夕真がまだ大真面目に答えていた。

「されたことあるんだ……」

「小さい時に四、五回だけ」

 それは「だけ」とは言わないのでは――言いかけた途端、窓の外で稲光が走る。

「わぁ!? まだ鳴ってる!」

 真琴はまた夕真にしがみついて、身をすくめた。

「遠ざかってるから大丈夫ですよ」

 平然と夕真がそう答える。

「な、なんでわかるんですか!」

 雷の距離なんてどうやったら測れるのだろう――怖いけど興味はある。怖いけど。

「光ってから音が鳴るまでの秒数を数えて、三百メートルをかけ算すると距離がわかるように」

 夕真が雷の距離を測る方法を教えてくれた。

「そんなの落ち着いて数えられない……」

 測り方はわかったけれど、真琴には役立てられそうにない。

「私が数えるから耳塞いどきましょう」

 夕真はそう言うと優しく真琴の両手を取って、そのまま真琴の耳に当てた。

 その上から更に自分の手でカバーしてくれる。

 夕真の指が真琴の指に少しだけ絡まって、温かい――

 雷はうっすら聞こえる程度になっていた。


「笑わないでください……」

 雨も止み、雷も遠ざかってしばらく――まだ曇っているけれど、青空も見え隠れしていた。

 一安心だと大きな溜息をついた真琴を見て、夕真が笑っている。

「しっかりしてるかと思ってたけど、女子高生らしくて可愛いなって」

「……女子高生関係ないと思う」

 しっかりしてると思われていたのは嬉しいけれど、そうではない。ある意味で恥ずかしい面を見られてしまって、それが可愛いと言われたらどう対応して良いのかわからない。

「でも、私はこういう風に怖がれないから、可愛いの良いなーって」

「夕真さんだってイノシシが怖いとか可愛いじゃない」

 追いかけられるほうは命がけだろうけど――

「でも街中には出て来ないでしょ? だから可愛いってのは真琴さんの勝ち」

「勝ち負けとかあるの……? 夕真さん普段でも可愛いと思うけど……」

 あれ、何を言ってるんだろう――真琴は自分で自分にツッコミを入れていた。

「……えっと、ありがとう」

 夕真は素直に喜んで、返事をする。

「あ、こちらこそ、今日はありがとうございました」

 真琴はソファの上に正座して、丁寧に礼をした。

「また、雷が鳴ったら任せてください」

 いつの間にか、夕真の手が真琴の頭を撫でている。

 その手は――安心というものを真琴に教えてくれていた。


(18)

「ただいまー。はい、お土産」

 雷の一件があった翌日の夕方に、琴音が三泊四日の出張から帰ってきた。

「おかえりー何?」

 真琴が出迎える。夕真は自分の部屋で勉強をしている。そのうちに降りてくるだろう。

 お土産のわりに大きな箱がラッピングされていて、何をそんなに買ってきたのかわからない。

「たこ焼きセット。折角だからたこ焼き器も買ったの」

 それで大きな箱なのか――っていうかたこ焼き器はこっちでも買えるのに謎だ。

「ベタなお土産……」

「あ、言ったわね。たこ焼き上手くひっくり返せる?」

「……出来ないかも」

 琴音の指摘に真琴はぐうの音も出ない。

 たこ焼きをひっくり返すあの技術は、何かの特殊な練習が必要だと思う。

「おかえりなさい。お疲れ様です」

 二階の部屋から夕真が降りてきた。

「あ、夕真さんたこ焼き作れます?」

 真琴はいきなりそんな質問を夕真に投げかける。

「はい。祖父が大阪出身なので」

 小さい頃から良く焼いていた――夕真がサラッと答えた。

「出来るんだ……」

 こんなところに特殊な練習を積んだ人が居たとは思わなかった。

「助かるわー夕真ちゃんを頼りにしましょう」

 琴音がはしゃいでいる。

「お母さんはお母さんで、買って来たわりに出来ないんだ……」

 夕真が居なかったら悲惨なたこ焼きしか生産出来ないところだった。危なすぎる。


「うちは切ったタコにかつお節と醤油をまぶして下味を付けてましたけど、これは生地に出汁が利いてるから味が濃くなっちゃうかも」

 結局、たこ焼きが焼ける人――夕真に準備をお任せする形になってしまった。

 夕真はお土産のセットに入っている粉を分量通りに水で溶いていた。

「でも、それも美味しそうだからちょっとやってみたい」

 真琴も手伝いで茹でダコの足を小さく切りながら、夕真に作ってくれるよう促す。

「じゃあ、これくらいで作りましょう」

 夕真は切ったタコを少し別の器に取って、早速言ってた通りの下味を付けていた。


「生地を流し込んですぐにタコを入れて――紅ショウガとかを散らしてるうちに縁が少し焼けてくるので、ピックを縁に添わせて円を描くようにくるっと――」

 夕真が解説をしながらあっさりと特殊技能――真琴から見れば――を披露している。

「あ、凄い! 鮮やか! でもまだ完全には焼けてない?」

 それにまだ真ん丸じゃない。言わないけど。

「この後形を整えながらくるくる回して良く焼くと出来上がりです」

 言いながら夕真は次々にひっくり返していく。

 真琴も何個か真似てひっくり返そうとしてみたが、案外思ったようにひっくり返らない。 

 それでも夕真は器用に少し生地を足してから、丸くなるようにリカバーしてくれる。

「わー焦げ目が付いてきたし、ちゃんと丸い……」

 お店で見るものと遜色ない出来上がりになりつつあった。

「はい、出来上がり」

 夕真は焼けたものから皿に取り出して、ソースをかけてかつお節を乗せる。

 真琴が思い描いてた、たこ焼きそのものだった。

「いただきます――熱っ……でも美味しい。夕真さん凄い!」

「焼いただけですよ?」

「でもちゃんと丸いし、良い感じにたこ焼きですよ」

 お店出せるかも――真琴の言葉に夕真が笑う。

「私と真琴だけじゃこんなに綺麗なたこ焼きは出来なかったわね」

 琴音もビール――出張のご褒美――と共に、とても良い笑顔で食べている。

「だったらなんで買ってきたの……」

 夕真が居たから上手く出来たけど――出来なくてもそれはそれで楽しいけれど。

「真琴、人生ってなんとかなるものなのよ」

 琴音の言葉は酔いが回っているのか、少し説教っぽくなりつつある。

「何の教訓なの……美味しいから良いけど」

 夕真はその会話を笑って聞きながら、二回目の生地をたこ焼き器に流し込んでいた。


(19)

「夕真ちゃんと何かあった?」

 楽しい一時が過ぎて、後片付けの時間――真琴と琴音で後片付けをしていた。

 フッ素樹脂加工だけど、たこ焼き器の鉄板にある穴を一つ一つ洗うのはわりと面倒だと思っていた時に、琴音がそんなことを訊いてきた。

 夕真は当番で先にお風呂に入っている。

「え、何もないけど……」

 雷の日にちょっと仲良くなることがあったと言えばあったし、なかったと言えばなかった。

「もっと仲良くなったみたいだから、何か進展があれば良いのになーって」

 琴音がわりと大胆なことを言っている。

 いつも以上に笑っているので、これは確実に酔っていると思った。

「年頃の娘を持つ親の台詞とは思えない……」

 お互いの同意があったとしても、本当に何かあったらどうするんだろう――

「えーでも娘の恋人とか紹介されてみたい」

「そこすっ飛ばして婚約者決めたの誰ですっけ?」

 話しながら洗っていた鉄板が綺麗になった。やり遂げた感じがある。

「うふふ。でも、こういうのも悪くないでしょ?」

「……まあ、珍しい体験は出来てるから、悪くないかも」

 優しくて、ちょっと天然で、いざという時は頼りになる――

 夕真が本当に婚約者だったら良かったのに――そんな感情が真琴の胸を一瞬掠めた。

「乗り気になってきた?」

 その一瞬を見透かしたように琴音が尋ねる。

「ち、違うからね?」

 真琴は慌てて否定をする。

「またまたー」

「違うって……」

 そう答えながらも、さっき自分の胸を掠めたあの感情は何だったのだろうと考えていた。


(20)

 夏休みは好きだけど、好きじゃない。何故なら、雷が発生しやすい季節だからだ。

 それでなくてもあれから何度かゲリラ豪雨的なもので雷が発生している。

 真琴はその度に部屋やリビングで小さくなっていた。

 ――だけど、夕真が家に居る時は、雷が鳴り終わるまで真琴の傍に居てくれるおかげで、真琴の雷恐怖は少しだけマシになってきている。

 激しい雷の時には、以前と同じような体勢で耳を塞いでくれるので、それも安心感があった。

 いつからか、真琴の中で少しだけ雷が楽しみになっていて、不思議な感覚だった。

 基本的には鳴らないで欲しいけれど――こればかりは止められるものでもない。


 そして、今日もまた――雷が発生していた。しかも、かなり激しい。

 家には真琴ひとり――誰も居なかった。

「なんで……」

 真琴はリビングのソファでクッションを抱きしめながら呟く。

 何故雷が怖いのかよく覚えてないけど、小さい頃に見た落雷で人が亡くなったニュースがきっかけだったように思う。

 だけど、今更きっかけを探っても、この状態が良くなるとは思えない。

 ただ、怖い――それだけだった。

「夕真さん……」

 あれ、自分は今、夕真を頼りにしていた。今までひとりでなんとかしてきたのに――

 だけど今は夕真は居ない――ひとりで何処かに放り出されたような気分だった。


 ふと、玄関のドアが開く音がした。

「真琴さーん――大丈夫ですか?」

 玄関から、夕真の声が聞こえてきた。

 急ぎ足で廊下を歩く足音がして、リビングに夕真が顔を出した。

「夕真さん……」

 外は激しい大雨――雷もまだ鳴っている。夕真の髪と服は、かなり雨に濡れていた。

「ああ、良かった。家に居た。なんかここ最近で一番ひどい雷だったから心配で――」

 夕真は自分のことなんて気にしてないみたいに笑っている。

「ば、馬鹿!」

 真琴は礼を言うより先に、そんな言葉を口にしてしまった。

「え?」

「雷が落ちたらどうするつもりだったんですか! 死んじゃうんですよ!? それにこんなに濡れたら風邪だってひくかもしれないじゃないですか!」

 自分なんかのために、夕真がそんなことになったら――考えるだけでも辛い。

 だからといって、真琴が怒って良い言い訳にはならないけれど。

「あ、あーごめんなさい……」

 夕真は困ったような表情になっていた。

「え、あ、違う。心配で……私がごめんなさい。タオル取って来ます」

「待って、待って。どうせ着替えないとだから、真琴さんはそこに居て」

 真琴を制止して、夕真は自分の部屋に消えていった。


「さっきの、怒ってないんですか?」

 ソファに居る真琴の隣に座った夕真に、真琴が尋ねる。

 夕真は部屋着に着替えて来て、タオルで髪を乾かしていた。

「んー、心配してくれたからだと思うから、気にしてないよ?」

 笑顔で夕真が答える。表情からも本当に怒ったりはしていないようだ。

「夕真さんだって心配してくれたのに、私、怒っちゃった……ごめんなさい」

 あんな酷い言葉を言うつもりじゃなかった――というのはただの言い訳になってしまうので、真琴はただ夕真に謝るしかない。

「良いって」

 夕真の手が、真琴の頭を撫でるように触れた――

「でも……ぅわあ!?」

 一時収まっていた雷がまた鳴り始めた。真琴は思わず夕真にしがみつく。もう何回目だろう。

「この調子だと、まだ止みそうにないね」

 夕真は窓の外を見て、秒数を数え、雷の距離を測っている。

「……また、傍に居てくれますか?」

 真琴が尋ねる。あんなに酷いことを言ったのに、頼ろうだなんて、都合が良すぎるけれど――ひとりでは耐えられそうにない。

「また、耳塞いどく?」

 夕真が両手で、真琴を包み込むようにそっと触れていた。

「うん……」

 真琴は返事をしてから自分の手で耳を塞ぐ。

 夕真の手が、それに重なってまた温かさと安心を与えてくれていた。

 至近距離に居る夕真からは雨の匂いがして――真琴の鼓動を早くさせていた。


(21)

 夏休みにも慣れた頃――真琴は宿題に行き詰まっていた。

 一応これでも毎日の日課を決めてそれをクリアしていくタイプ――なのだが、どうしても問題の箇所で二日ほど止まってしまっている。

 ここは誰かに訊くべきか――真琴は風呂上がりにリビングでスマートフォンを手に友人にメッセージを送るかどうか迷っていた。

 そこに、夕真が通りがかる。身近に訊けそうな人が居た。

「ねえねえ、夕真さんって英語得意だったりします?」

「うん。一応大学でも必修で英語あるけど?」

「あの……わからないところがあるので後で教えてもらえません? 高校二年生レベルのヤツ」

「私で良ければいつでも」

 夕真は快く了承してくれる。

「良かったー宿題が止まるところだった……」

 これで一安心だ。真琴は安堵の息を吐く。

「そんなに難しいの?」

「なんか、長文読解は良いんですけど、本当に意味が合ってるのかわからなくて」

 言いながら、夕真を都合良く振り回しているみたいで少しの罪悪感もあるにはあるのだが。

「わかった。じゃあお風呂上がりにこっちの部屋で――」

 夕真はそう言って風呂場に向かって行った。


「ここは意味が逆になってる。否定の言葉はこっちの文にかかってるよ」

 夕真は風呂上がりにすぐ、自分の部屋で真琴のわからなかったところを教えてくれていた。

「あ、それで次の問題がなんかおかしかったんだ。解決した。ありがとう」

 ここの意味が逆なら、その次の問題文も辻褄が合わなくなる。

「思ったより早く解決しちゃったね」

 風呂上がりの水分補給をしながら夕真が笑う。

「夕真さんのおかげだね。ありがとう」

 これなら止まっていた宿題が一気に解けそうだ。

「そうかな――」

 夕真はそう答えて照れている。

「そうだよ。一人だったら解決できてないもん。居てくれて良かったかも」

 それ以外にも沢山、夕真が居てくれて良かったことがある。全部言えないけれど――

「私も――真琴さんいつも可愛いとか言ってくれるし、居てくれて良かったです」

 夕真も笑顔で答えていた。

 お互いに褒め合うような、気恥ずかしい少しの間が二人の間に流れていた。

「えっと……何か照れますね――って、どうしたんですか」

 真琴は、こちらをずっと見ていた夕真の視線に気付く。

「……ちょっとだけ、動かないで」

 夕真がそう言って、静かに触れるように真琴の肩に手を伸ばす。

「え、何――」

 真琴の間近に夕真の顔が近付く。

 風呂上がりのボディソープ――フローラル――の香りがする。

 それに、部屋自体も、他人の部屋の匂いなのだけど、何故か良い香りだと思った。

「ああ、何かの糸くずだった」

 虫だと思った――言いながら夕真は取った糸くずをゴミ箱に入れていた。

「びっくりした……」

 一瞬だけ、キスとかされるのかと思った。

「虫じゃなかったから大丈夫だよ?」

 真琴の心を知ってか知らずか――多分知らない――夕真がサラッと返している。

「あ、はい。ありがとう……」

 答えながら真琴は――夕真とだったら、それでも構わないのに。そう思っていた。


(22)

「あー……」

 真琴は自分の部屋でひとり、モヤモヤした想いを抱えてのたうち回っていた。

 とはいえ、騒音を出してはいけないので、静かにベッドの上で。

 決められた人を好きになれたら――とは言ったけれど、まさか本当にそうなるとは思っていなかったのだ。

 条件だけを見れば夕真はとても良い相手――夕真は成績も優秀、性格も明るくて人懐っこい。一緒に居て楽しくて、あとは――優しいし、可愛いし、時々頼りにもなる。

 よくわからないけれど親同士も仲が良いので、揉めることだってないだろう。


 ただひとつ、夕真が同性だということだけが真琴にストッパーをかけさせていた。


 真琴自身、恋愛はいつかはするものだとは思っていたけれど、まさかこんな形でその日が来るだなんて思っていなかったので、どう振る舞って良いかもわからない。

 とりあえず普通にするつもりだけど、夕真は、どう思っているのだろう――

 そんなこと今更改めて訊けない。

 本当に婚約者だったら楽なのに――だけど、それは――真琴の心は揺れていた。


 今夜も、壁一枚隔てた向こうに夕真が居る。

 それだけでも、真琴の気持ちは少しくすぐったい不思議な温かさに包まれていた。


(23)

「おはようございます」

 夏休みも後半に差し掛かった土曜日の朝、少し遅めに夕真が起きてきた。

「おはようございまーす」

 真琴はとっくに朝食を食べ終わって、乾いた食器を棚に戻しているところだ。

「あ、おはよう。今日はゆっくりなのね」

 新聞を読んでいた琴音が、遅い朝食を準備するために立ち上がる。

「休みですし、ちょっと遅くまで寝ちゃいました」

 少し寝癖のついた髪を整えながら、夕真がまだ少し寝惚けた風でぼんやりしていた。

「良いのよ。寝たい時はそれで。育ち盛りなんだもの」

 琴音の中では何歳までが育ち盛りなのだろう。よくわからない。

「そうだ、夕真さん、今日予定あります?」

 食器を片付け終わって、真琴が夕真に尋ねる。

「特にないけど?」

「じゃあ、一緒に買物行きません? 駅前に新しいお店が出来たっぽくて偵察に」

「……偵察、楽しそう! 行きます!」

 偵察という言葉が夕真の琴線に触れたのか、二つ返事で了承していた。

「あら、デートね」

 羨ましいわ――琴音が笑顔で二人を見ている。

「いや、違うからね?」

 真琴は即座に否定する。しておかないと色々と面倒――だけど、それも寂しい気分になった。

「今日は偵察ですよね」

 夕真が嬉しそうに答えている。やはり、偵察という言葉が、夕真のスイッチだった。


「まさかタピオカミルクティーのお店とは……」

 駅併設のショッピングセンターに新規出店してきたのは、最近流行のタピオカミルクティーを扱うカフェだった。クレープもあるのでブームに乗った感じのゆるいお店という印象だ。

 言いながらも、夕真は弟に写真を送ると言ってしっかりほうじ茶ラテを頼んでいた。

「近くだけでもう何件目なんだろ?」

 真琴もしっかりとミルクティーを頼んで店内のテーブル席で座って飲む。

 この形態の店は駅と反対方向の総合スーパーにもあるし、真琴の通う高校の近くにもある。

 夕真に訊いたら大学の近くにも小さな店がふたつあるそうだ。

「おかげで空いてたから、その時々で選んで飲めば良いのかな」

 何処でも大体味は似てる――のんびりと夕真が真琴に返す。

「でも並ぶところはそれなりに美味しいのかも……?」

「――今度、一緒に人気のお店行きます?」

 夕真はお伺いを立てるように、少し慎重に尋ねてきた。

「良いんですか? 行きます」

 真琴は即答していた。夕真から誘ってくれたのが、なんだかとても嬉しい。

「じゃあ約束で。あ、弟からだ」

 夕真はなんとなく、サクッと流したような気がするけど、真琴にはそれでも良かった。

 だけど、好きだからとは言え、どうしてそう思えるのだろう――

「怒ってるんじゃないですか?」

 沸いてきた疑問を片隅に追いやって、スマートフォンを見ている夕真に声をかける。

「姉ちゃんばっかりズルいって怒ってる」

 夕真はスマートフォンの画面を真琴に見せた。怒りの言葉と共に、落ち込んだ様子を表わしたキャラクターが映し出されている。

「弟さん、可愛い」

「悔しかったら早く大学生になれって送っておきます」

 可哀相だけど――夕真が少し意地悪な表情で笑っていた。

 一緒に居ると、夕真の色んな表情が見られて楽しい――真琴は心から思っていた。


(24)

「――もうちょっと遊んでいきません?」

 ショッピングセンターを出ようとした瞬間、真琴は夕真に手を掴まれた。

「え、良いですけど、どうしたんですか?」

 急に手を掴むだなんて、どうしたのだろう――嫌ではないけど。

「いや、雲が――」

 夕真が何か言いかけた瞬間、雷特有の地面さえ揺らがすかのような音が聞こえてきた。

「……わぁ!?」

 真琴は思わず夕真に抱き付いていた。

「ちょっと遅かった……」

 夕真は真琴をなだめるようにしっかりと身体を抱きしめて、軽く背中をさすっている。

「な、な、なんで、雷鳴るってわかったんですか」

 尋ねている今でも確実に雷鳴は近くなってきていた。

「外を見たら実家で夏によく見てた感じの雲だったから、もしかしてと思って」

 夕立だから一時間もすれば止む――夕真が続ける。

「お、落ち着いてないでどっか入りましょうよ」

 外よりは建物の中の方が遙かにマシ――だが、建物の中でも真琴の雷恐怖はそれなりなのだ。

「じゃあ、こっち行きましょう」

 夕真は再び真琴の手を取って、ショッピングセンターの中に戻って行った。


「ゲームコーナー……」

 夕真に手を引かれて連れてこられたのは、クレーンゲームやメダルゲームのある一角だった。

「賑やかだから音が気にならないでしょ?」

 夕真が笑顔で真琴に言う。確かに各ゲーム機から流れる音楽や、コーナー全体に流れているBGMで外の音はほぼ聞こえない。

「ああ、そっか。そういう方法があったんだ……」

 賑やかなゲームコーナーで、真琴が小さく呟いた。

「真琴さん?」

 夕真は立ち止まった真琴を不思議そうに見ている。

 目の前には休憩のためのベンチがあった。多分そこに座るつもり――

「私、雷が鳴ったら家でもずっとリビングとかで小さくなってて、音楽とか聴く方法があるなんて思い付かなかったです……ありがとうございます」

 真琴にとっては予想外の発見だ。

「え、何か試したりとかしなかったんですか?」

「全然。とにかく怖くて、早く遠くならないかなって雷だけ聞いてました」

 それだけに注意を払っていれば、いつまでも怖いのは当たり前だ――雷恐怖が完全に解決した訳ではないけれど、解決への一歩としてはとても大きい。

「――やっぱり、真琴さん可愛い」

 夕真が笑う。馬鹿にしてとかではなく、心から真琴を可愛いと思ってくれているようだった。

「笑わないでください……」

 真琴は照れながら、そう返す。そして、ひとつの答えに辿り着いていた。

 新しい発見をくれる夕真のことが、やっぱり好きなのだということに。

 夕真を頼りにもしてるし、夕真を大事にもしたい。

 今までに経験したことのない、この気持ちは、確かに恋なのだ――


(25)

 真琴と夕真の二人は、夕立を乗り切って無事に家に帰り着いた。

 雨に濡れることもなく、雷に遭うこともなく――ただ、少し時間が遅くなった程度で済んだのは夕真のおかげだろう。


「今日はありがとうございました」

 夕食を食べ終えて、片付けの時間。真琴は食器をまとめてシンクへ持って行く。

 今日は夕真が食器を洗う当番だ。持って行ったついでに、夕真に今日のお礼を言う。

「どういたしまして」

 夕真は少し笑って答えていた。

「何かあったの?」

 タッパーに残り物を入れて冷蔵庫にしまうのは琴音の役目――冷蔵庫はシンクの真横なので会話は自然と耳に入る。

「今日、夕方に雷が鳴ってたでしょ? 対策教えてもらった」

 音楽を聴いてみる方法――真琴には盲点だったと話す。

「――夕真ちゃん!」

 冷蔵庫を閉めた琴音が、夕真に迫っていた。

「は、はい?」

 琴音の勢いに押されたように、夕真が戸惑っている。

「私からもお礼を言うわ! これからも真琴をよろしくお願いしますね?」

 琴音は夕真の手を取って、感激といった風に熱のこもった言葉を口にしていた。

「は、はい。よろしくお願いされました」

 夕真が頷いている。そんなに簡単にお願いされて良いのだろうか――

「不束な娘だけど、素敵なお相手で良かったわ……」

 そう言って琴音はまだ、感激している。

「ちょっと待った。それはもう無い話でしょ」

 真琴はツッコミを入れた。まだ諦めてない辺り、琴音らしいというか、ぶっ飛んでる。

 でも、真琴の本音ではこのまま押し通して欲しい面もある。

「……正式なお断りはされてないけど?」

「正式に決まってないのにお断りも何も……」

「じゃあ、この場で断る?」

 琴音が迫る。琴音がハッキリした答えを求めるのは珍しい。

「え、でも、そんな面と向かって……言えない」

 ただ、婚約者だとかの話を断るだけなのだが――断るということは、夕真を嫌いだと心にもないことを言わなくてはならない。

 いや、別にそんな強い言葉を使わなくても良いのだけれど、嫌いじゃないから困るのだ。

「夕真ちゃんは? どう?」

 琴音は改めて夕真に向き直っていた。

「……私のほうは、お互いが気に入ればって言われてますけど」

 夕真がサラッと答えている。

「あら、じゃあ夕真ちゃんはその気なの?」

「え? その気というか――でも真琴さんのことは嫌いじゃないですよ」

「それなら、この話は保留ね」

 良かった良かった――そう言い残して琴音は風呂場へと消えていった。


「あの、断ると住みにくくなるからとかだったら、気を使わないで断ってもらっても」

 しばらく――食器を洗っている夕真の背中に、真琴が話しかける。

「そうじゃなくて、考えてみたら断る理由がないんです」

 洗剤で洗った食器の泡を丁寧に洗い流しながら、夕真がのんびりと答えていた。

「理由?」

 沢山あると思うのだけど――そもそも女同士だし。真琴が躊躇っているのもそこだし。

「真琴さんしっかりしてて良い人だし、可愛いし、楽しいし――」

「待って、待って。その前にある性別とか気にならないんですか?」

 褒めてもらえるのは嬉しいのだけど、問題はそこじゃない。

「――え?」

 夕真が虚を突かれたような表情で、真琴を見た。

「え?」

 真琴も予想外の返答に疑問で返した。はたしてそこは驚くところだったのだろうか――

「……それ、今までそんなに意識してなかったです」

 なんでだろ――夕真が大真面目な顔でそう答えていた。

 真琴は夕真のことをなんとなく天然気味だと思っていたけれど、結構な天然だと確信した。

 でも、今日みたいに頼りにもなるし、不思議な人だ。

「……じゃあ、とりあえずこの件は保留で」

 真琴はそう答えるしかなかった。

 ――というか、自分から一歩進めてしまった。


(26)

「は? 転勤!?」

 夏休みも終わろうとしている日曜日の朝に、琴音が言い出した言葉で、真琴と夕真の二人はそれぞれに驚いていた。

「そう、この十月から――期間は二年」

 意外と長い――転勤にしては短いのかもしれないけれど。

「え、じゃあ家とかどうするの? 私、来年三年生だし、一応下宿だってあるのに」

 それだけじゃない、三年生になるということは受験もある。

 琴音はその辺りをどう考えているのか。

「真琴と夕真ちゃんが住むのよ? 真琴はそのまま今の学校に通うの」

 私は週末と大事な行事には必ず帰ってくるわ――琴音が平然と続けていた。

 ふと、真琴は琴音があんなに答えを急かしていた一つの考えに辿り着く。

「……あの、もしかして婚約者とか言い出したの、それも理由?」

「当たり前じゃない。色々危険だし一人で住まわせるわけにはいかないもの。そこに良いお話があったら乗るでしょ?」

 確かに、近くに頼れる人が居るのと居ないのとでは大違いだとは思うけど、そうじゃない。

「いや、だからって婚約者と同じ家に住むのもある意味危険でしょ……」

 なんというか、シェアハウス的なものだとしても、色々な意味でアウトだと思う。

「お互いが納得してるなら危険じゃないわよ?」

 何かあってもお互いの同意の上だし――琴音は続けている。

「なるほど……って、違う! 謎理論過ぎない?」

 駄目だ――何年もぶっ飛んでいるところを見ているが、琴音の考えは全然わからない。

「そうかしら?」

「そうだよ! 夕真さんが女の人だから良かったけど……」

 だけど、それでも真琴の感情は一杯一杯で毎日過ごしているのに――

「あの――」

 夕真がそっと手を上げている。

「ああ、忘れそうになってた。夕真さんごめんなさい。わけわからないことに巻き込んでた」

 真琴は慌てて琴音のぶっ飛び具合を謝罪して――

「危険という意味では男女とか関係ないと思うんですけど」

 今度は夕真が天然を発揮しだした。

「問題はそこじゃないです……いや、そこだ」

 真琴の頭が若干混乱してきた。

「あら、夕真ちゃんは真琴のことが気になってるの?」

「え、えっと、気になってます。前向きな意味で」

「夕真さん――!?」

 この人まで何を言い出すのだろう――真琴は混乱を極めていた。


(27)

「……あんなこと言い出すなんて思ってなかった」

 夕真の部屋で、夏休みの宿題のわからないところを少し教えてもらっていた真琴が呟く。

 こうして二人きりなのが、少し気まずい程度には夕真を意識をしてしまう。

「でも、真琴さんの近くに居たいなとかそんな感じなのは事実だから」

 なんでもない感じで夕真が答える。本当になんでもない感じで。

「だからって、お母さんの前で言うとかもう婚約者宣言だよ……」

 多分もう夕真の両親にも連絡しているはずだ、琴音はそういう連絡は早いのだ。

「真琴さんは――嫌?」

 夕真がそう訊いて、真琴を見ていた。

「……嫌じゃないから困る……私だって夕真さんのこと、ずっと気になってるし、本当に婚約者だったら良いのにって、何回も考えて……」

 本当に何度も――嫌になるくらい考えて、その度に駄目だと自分に言い聞かせていた。

「――じゃあ、そこから始めない?」

「始めるって……」

「正式な、婚約者に――なりません?」

 夕真はいつの間にか、シャープペンシルを持っていた真琴の手を取っていた。

 あまりに自然だったので、気付くのに遅れたくらいだ。

「な、なにそれ……反則。大体それってゴールでしょ?」

 真琴はつい、照れ隠しで変な言葉で返してしまった。

 大体、夕真が何処まで本気なのかだって――

「あ、そっか。じゃあ、ゴールに向けて、こうやって一緒に生活しません?」

 駄目ならその時――そう言って笑顔を浮かべる夕真を見てわかった。夕真は、本気だ。

「一緒に生活……」

 ずっと一緒に生活してきたはずだけど、改めて言われると何処かくすぐったい。

「……でも、夕真さんは私が私――女子じゃなくても良かったんじゃないんですか?」

 夕真なら当初の親同士が考えていた通りの状況だったとしても、上手くやっていけるだろう。それくらいちゃんとしてる人だと思う。かなり天然だけど。

「真琴さんが女の子だから仲良くなれたんだし、真琴さんが真琴さんで良かったと思う」

 その答えは、普段の夕真にはあまり見られないくらい、凜々しくて――

「そんなこと平気で言えるの……ズルい」

「――真琴さんとだったら仲良く暮らせる気がするんだけど」

 追い打ちのように夕真が言葉を続ける。

「わ、私も、夕真さんとだったら、暮らしていける気がします」

 真琴はそう答えて、触れられている手を握り返していた。

 指と指が絡まって――温かい気持ちになれる。


 真琴の未来の婚約者は、そんな安心をくれる人だった。



■Her fiancee is...?(Bonus)

 夏休みが終わってしばらく。夕真の部屋で、真琴はまた勉強を教えてもらっていた。

 大学に通っている夕真はまだ夏休みだ。少し羨ましい。

「夕真さん、お話があります」

 勉強も一段落して、真琴は夕真に向き直る。ここ最近では珍しく、姿勢を正して丁寧に。

「はい。何でしょう」

 ペンを片付けながら、夕真が答えた。夕真も背筋を伸ばして座り直している。

 真琴が真剣な時は、ちゃんと真剣に向き合ってくれる。夕真はそういう人だ。

「その……婚約者になるに向けての証明が欲しい。です」

 まだ琴音には話していないが、その方向で約束をしたのだから――そういう証明が欲しい。

 真琴はそう思っていた。

「……お揃いの指輪とか?」

 夕真は自分の左手を見てから、真琴に尋ねる。

「それも素敵だけど、もっと簡単にできる約束が良い」

 真琴としてはいつか、お互いに贈り合えるようになるまで、楽しみとして取っておきたい。

 それよりも、もっと簡単で、でも特別な――

「簡単に……約束――指切り?」

「可愛いけど、そうじゃなくて、誓いの――そういう……」

 駄目だ、照れが先行してハッキリと言えない。

 ただ、同居しているだけの関係ではなくて、もう一歩進みたいだけなのだが――

「あ、わかった……けど……えっと……良いの、かな……」

 真琴が言いたいことの答えがわかったようだけど、そう答える夕真の顔は紅くなっていた。

「わ、私はいつでも大丈夫です」

 そう答えて、真琴は夕真の腕に触れる。

「……じゃあ、少し、じっとしてて」

「うん――!?」

 夕真が近付いて、その指で真琴の顎を捉えた。

 これは、俗に言う顎クイという体勢ではないだろうか――

 真琴が思うに、照れながらでもこういうことが出来る辺り、夕真の天然が発揮されている。


 夕真の唇が近付く――

 目を閉じたくない――だけど、目を合わせられない――

 真琴の視線はただ夕真の唇を見ていた。


 やがて、唇同士がそっと触れ合って、すぐに離れた。


「……こういうことだよね? 合ってる?」

 まだ、真琴の顎を持ち上げたままで、夕真が尋ねる。

 その顔も、耳も、まだ紅くて、可愛かった。

 多分真琴の顔も紅いはずだけど、見えないからわからない。

「合ってる……」

 真琴は夕真の肩に寄りかかるように、頭を預ける。

 自分から言い出したことなのに、恥ずかしくて夕真を直視出来ていない。

 だけど、ただひとつわかったことがある。

 そっと触れただけのキスだったけれど、とても満たされた気分になった。

 こうしている今も、許されるのならもっと触れていたいし、もっと――

「真琴さん……?」

 夕真の手が、黙り込んだ真琴の身体をそっと抱く。

「……大好き」

 真琴は小さく呟く。聞こえていても聞こえていなくてもどちらでも良い。

 この不思議な婚約者に言えることは、それだけ――

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Her fiancee is...? 浅井基希 @asai_motoki

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