記憶が遺したもの

 或る、古びた手記より『祈りのために』


 

 長き洋上の旅の果て、ついに陸が見えた。ただ潮流に身を任せるばかりの旅。本当に辿り着くのかも半信半疑であった。だが、今我々の目の前には確かに大地がある。どうやらこの船を我らの棺にせずとも済みそうだ。


 

 陸が近づくにつれ徐々に様子が見えてくる。切り立った崖に赤茶けた大地。樹木の生育もわずか。豊かな暮らしなど望めそうもない。だがそれで良いのだ。これは贖罪の旅路。何も無ければ、無い方がいい。



 やっとのことで上陸できる海岸に船を付け、我々はようやく大地へ足を降ろした。旅立ってからもうどれほどの日が過ぎただろうか。直立にも揺れ動くことのない、身体の芯から忘れかけていた感覚に、海で果てることも覚悟していた心が思わず涙を零しそうになった。仲間の幾人かは感極まり膝をつけてすすり泣いていた。



 海岸近くの野営地で我々は初めて先人と遭遇した。ぼろぼろの衣服にやつれきった顔と体。かつて罪人として流された者だろうか。虚ろな目で燻る焚き火を見つめていた彼は、我々に気がつくと這いずるように近づいてきて私の足元に倒れ伏した。何か言葉を喚いているが、聞き取ることができない。その日は我々もそこで野営することにした。



 野営地を拠点として数日。自然界に存在する魔力を活力として取り込める我々はそう多くの食事を必要としないが、先人にとってはそうもいかないようだ。掻き集めた食糧を分け与えると、彼はわずかに生気を取り戻したようだった。

 我々にも徐々に生活の周期ができ始め、食糧を探す以外の時間は、ほとんどを祈りと瞑想に捧げた。



 ある朝、野営地から彼が消えていた。昨夜に火の番をしていた者が、低くうめきを上げながら北の方へ歩いていく姿を見たという。

 私は数人の仲間と共に、失踪した先人の行方を捜索することにした。これ以上関わる必要はない、と主張する者もいたが、私はついぞ彼と言葉を交わせなかったことが気がかりだった。



 どこまでも乾いた大地。北へ進むにつれ、赤い砂が舞い、私たちの歩みを阻む。彼は本当にこのような荒野を渡って行ったのだろうか。野営地のある島の南部と比べ、この辺りの環境はことさら過酷だ。向こうには一体何があるのだろう。



 石と砂の混じった荒野を先人の痕跡を探しながら歩き続けた。だが、時折発生する砂嵐がそれらを覆い隠し、我々は何も発見できずにいた。

 そろそろ諦めて引き返そう、と仲間に呼びかけた矢先。前方の砂塵の中から突如おぞましい咆哮とともに巨大な獣が現れた。

 その姿はあまりに歪で、醜悪で、全身が棘のように太い毛に覆われ、その色は浴びた獲物の返り血がそのまま固まった様を思わせる。口元から覗く黒ずんだ牙は我々を認めて歓喜していた。

 他に身を守る術を持たない我らは、やむなく魔力を振るい獣を足止めする。小さな礫などまるで応えず、岩塊を火球となしぶつけても致命傷を負わせるには至らない。運よく砂が舞い獣の視界を覆い隠した隙に、からくも撤退することができた。



 野営地に帰還し正体不明な敵対的存在の発見を伝えると、皆の表情は陰り浮足立った。祈るばかりとなった身とはいえ、ただ無為に刈り取られて終わるわけにはいかない。それは死に対する恐怖ではなく、ここでもまた何かと戦わねばならないことへの落胆だった。

 獣は時折姿を現してはこつ然と消える。その形態は様々であったが、いずれも遺骸を纏ったような醜悪な姿であること、そして必ず野営地より北側で目撃されることは共通していた。

 我々は北方を警戒しながら、比較的安全な南部の探索を広範に進めることにした。敵対的存在からの防衛拠点を築くためだ。



 自分たちに危機が迫っても、私はまだ、姿を消した先人の行方が気がかりだった。彼はあの獣たちの餌食となってしまったのだろうか。それともどこかで生き延びているだろうか。



 野営地近辺に比べ南方の土地は起伏に富んでいた。南の半島を半ば切り取るように、西側の海から壁のような断崖がそそり立つ。断崖の先はしばらく緩やかに下る平野が続き、やがて南端へ向けて今度はやや急峻な上り、岬の突端は海面から高く切り立っている。防衛にはうってつけとも言える地形だった。

 そして、その岬には古い石造りの建造物が遺されていた。中には先人達の亡骸が多数、身を寄せ合うように折り重なっていた。ほとんどが白骨化した彼らの身体を埋葬した後に残ったのは、彼らが杯にしていたと思われる木製の粗末な器だけだった。これを建造できるだけの知識と資源を持った彼らは、どのような想いで最期の杯を交わしたのだろうか。



 我々は南端の岬に建つ遺構をロウレイと名付け、拠点とすることを決断した。獣が出現する北方との距離を置けることと、防衛の面でも戦略的に有利と思われた。

 ここまで来て戦の真似事などと辟易する者もいたが、我々にもまだ生への執着が残っている。先人たちの弔いも程々に我々はロウレイの拡張工事を始めた。

 建築の知識に乏しい中、遺構の造りを模倣していく。はじめは小さな塀を建てるのも困難だったが、我らの得意とする魔力も駆使しながら、やがて大規模な建築も可能な技術を身につけていった。

 つくることに集中しているうちは皆、生き生きと目が輝く。他者の生命を傷つけるためではなく、自分たちが生きるために力を振るうことが、こんなにも我らを自信付けるとは誰も想像していなかった。



 ロウレイの遺構を大きく囲む塁壁が完成すると、十分砦と呼べる規模になっていた。ここなら安穏に暮らせるだろうと我々は安堵した。

 しかしその頃、不穏な現象が始まった。北方を哨戒していた仲間の一人が未知の何者かに襲撃されたのだ。幸い彼は軽傷で済んだものの、話を聞くと、彼を襲ったのは今までの獣とはまた異なる影だったという。それは我々と同じような姿形で、我々と同じように魔力を扱う。その身体はまるで闇夜を纏い、空に現れた真っ暗な穴のようであったと。

 影は時折北方より来る獣に混じって陽炎のように現れては消えていく。こちらの出方を見定めるように、或いは少しずつ消耗させるように。



 また一人倒れた。度重なる黒い影の襲撃に我々は疲弊していた。前線は押し下げられ、ロウレイの砦がある南の半島を護るので精一杯である。影が現れ始めてから、それにつれ獣の数も増えている。このままではいずれロウレイの守りも危うくなるだろう。祈る時間も減った。一時は輝きを取り戻した皆の目にも影が射す。

 そんな折、誰からともなく、ある策が浮かび上がる。それは、魂を代償に莫大な魔力を生み出す、影に連なる者を寄せつけぬ守護を完成させることだった。

 一人の魂を燃やし尽くすほどの力を転じれば、それは可能だろう。だが、肉体や魂を犠牲にする術は破滅へ向かう轍であり、戦いを強いられてきた我々の歴史の中では口に出すのも憚られる禁忌とされてきた。その禁を犯す覚悟すら生み出すほど、今の我々は追い詰められていた。


 

 ――――

 


 気がつけばウィゼルは瞬きも忘れて、震える指先で破れてしまいそうな頁をめくりながら、掠れた文字を追い続けています。読めないはずの古代文字も頭の中の誰かが代読しているかのようにさらさらと意識になだれ込んできます。

 ここに書かれていることが一体どれほど昔のことなのかは分かりません。ただ、書庫の中央で骸となっていた彼が生きた時代のものであろうことは想像できます。もしかしたら、これも彼自身がしたためたのかもしれない、と直感しました。ロウレイと呼ばれていた場所は、まさにこの古城のことで、北より来る獣とは今も聖域を越えて現れる魔獣のことではないかと。憂いと覚悟を帯びた時代の空気は現在と重なるようでした。


 ――これは本当にこの世界のこと?

 

 ――私たちの昔のこと?

 

 ――彼らは生き延びた?

 

 ――聖域をつくったのは彼らだと?

 

 ――では私たちの祖先も?

 

 ――そもそもこの世界は……


 多くの疑問が想像とともに渦を巻き、書物の言葉たちがそれを裏付けるように流れを加速させます。突如解き放たれた真実の海に眩んで倒れそうになりながらも、その物語から目を離すことができません。ウィゼルは何かに導かれるがまま膨大な書物の中から手記の続きを選び取り、読み進めていきます。



 ――――


 

 或る、古びた手記より『痛みと光の詩』

 


 影が押し寄せて来る。我々の輪郭を型取り、存在だけが闇に落ち込んだ彼らは、獣ならぬ人の意志をもって、生ける我らを刈り取らんとする。

 ただ、あの影はどうしてもその姿形以上に仲間の誰かを思わせる。それはやがて私自身のようにも見えてくるのだ。昏き闇に落ちた我々のもうひとつの姿。気づかぬうちに秘めた怨嗟が呪いとなって顕現するのだとしたら……。なんという事だ。我々は静かに祈りを捧げていたはずが、同時に呪怨を練り上げていたというのか。


 

 人に非ずと戦いの道具として扱われた日々。命ぜられるまま罪なき者たちを屠るごとに心は削り取られていった。甚大な被害の末にやがて決着すれば、我々は多くの命を奪った兵器として唾棄された。力の矛先が自分たちに向くことを恐れた彼らは、ようやく訪れた平和の名の下に我々を忌み、追放したのだ。その仕打ちに恨みの念が毛頭無かったなどと誰も言えるはずがない。だが、我々はもう争うことに疲れていた。非道を訴え新たな諍いを生むよりも、これ以上彼らと関わらないで済む道を選んだ。

 そうして訪れる事になったこの咎人の地。かつて流された者たちの呪いが渦巻く場所で、我々もまたその一部になろうとしている。なんという因果か。世界は知らない。或いは目を背けている。醜く穢らわしいと蔑んだ魂たちの成れの果てを。


 

 

 我らが同胞、美しきへルゼミアは言った。


 ――『私の魂を燃やしてほしい』と。


 夜の静寂がその場にいた皆を包み込み、誰もそれを破ることができずにいた。

 何故彼女が、という思いはあった。しかし、誰が犠牲となるかはもはや問題ではない。そのような選択を取ることが我々にとって本当に善いことなのか、直ぐには答えを出せなかったのだ。

 彼女は『未来』に思いを馳せていた。そのためなら肉体も、魂すら捧げられるのだとたおやかに語る。もう永い間耳にしなかった言葉だ。如何に静かに消えてゆくかを考えていた私にとって、我々が消えたあとの未来のことなど、存在するのかも不確かな、はるか遠い雲の中の雨粒に等しく思えた。

 だが、彼女はその雲の中に希望を見ていた。我々の子らが慎ましくも明るく暮らす世界を。彼女が語る光景、その眩しさに、気がつけば私も、皆も涙を流していた。



 やがてその日が来る。

 前夜、私はヘルゼミアと共に塔の上からこの荒涼とした大地を見つめていた。いつからか彼女を失いたくない気持ちが芽生えていた私は、柄にもなく彼女に我侭をぶつけてしまう。それでも彼女は慈しむように答えた。


『私は犠牲などとは思っていません。これは私の夢想なのです』


 その言葉に私は何も返すことができなかった。ただ、彼女の想いだけが耳の奥に強く刻み込まれた。その意志を繋ぐため、私も力を尽くそう。



 そしてついに、禁忌の秘術は果たされた。

 鮮やかな緑が芽吹き、瞬く間に乾いた大地を塗り変えていく。若木が永い歳月を超え一足飛びに大樹となり、影を拒絶する樹林が長城の如く形成される。大地創生とも呼べる光景は自らが時間を超越したかのように錯覚させる。


 整然と並んだ木々の列柱に囲まれ、ヘルゼミアは祈る格好のまま事切れていた。秘術を見守るため共に来た者らと最期を見届け、祈りを捧げる。

 我々は小さな祠を造り、その中に彼女の肉体を安置した。それは彼女の為ではなく、ここでただ朽ちていく彼女の運命を見ることに堪えられない我々の為だ。

 湿気を多く含んだ空気が喉を潤す。これはまやかしなどではなく、真に育まれた生命。ここもいつしか樹海となり、彼女の想いを秘める如く全てを覆う。我々も次代を信じ、忌むべき記憶を封じよう。


 

 ――――



 呼吸を忘れて苦しくなったところで、ウィゼルはふと我に返ります。落ち着いて、深く息を吸って、もうほとんど混ざりかけた、頭の中の空想と現実を分離させようと試みました。しかし、悠久の過去のはずの出来事が、まるで昨日の事のように像を結び、潮騒のような周期で打ち寄せては、新しい砂も古い砂もない交ぜに堆積し、碧い記憶の海の中にひとすじの歴史が形づくられていくのが見えます。


 ――あれは本当にただの夢幻じゃなかった。私は昏い祠の底で彼女に会っている。そして……


 

 ――――


 

 或る、古びた手記の終わり


 

 咎人の地で我々が編み認め、終生の祈りを綴ったはずの諸書には無意識より産まれた呪いが滲んでいた。其れが再び我々を怨嗟の淵に誘うことのないよう、役目を終えたこの砦に全ての過去を集め、我々の名と共に封じる。

 

 ――彼女が創る未来に禍根は遺させない。


 だが、もしいつか未来の子らが此れを開くとすれば、それは真実が必要になる時であろう。


 

 いつか来る子らよ、変わらぬ幸福を望むならば、此れをもはや棄て去るべき過去と断じ燃やせ。

 

 いつか来る子らよ、苦しみ抱くならば畏れを捨てよ、世に嘆き溢れるならば、此れを識るべきであろう。

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