邂逅
見上げるとそこは、空、と呼べるのかもわからない不可思議な空間。夕暮れ前の北の空のような薄ぼんやりとした紫色の中に長い直線の裂け目がいくつも連なり、その裂け目の奥からはウィゼルもよく知る青空の一部が覗いています。裂け目は常に一定方向に発生と消滅を繰り返していて、その不規則で不穏な周期は雷雲の明滅のよう。ウィゼルはそれに対して常に直角に進むことで何も目印のない空間を直進することができました。
足元は平らであることが感覚でわかるものの、足首のあたりまでが一面青白い靄に覆われてよく見えません。足音もその靄に吸い込まれ、自分が本当に進んでいるのかわからなくなる錯覚を起こさせます。もしかしたら突然穴が空いていて、奈落の底に落ちてしまうかもしれない。はじめはそんな恐怖感とともに歩みを進めていました。
くぐもった風の音のような雑音が遠く絶え間なく響き、どれだけ来たのかと振り向いたとて入り口はもう見えず、距離感など掴みようもありません。それどころか、真っ暗な世界の果てが後ろからだんだんと迫って来ているように見えて、ウィゼルは歩調をやや速めました。
今のところ空腹を感じることもなく、立ち止まって食べる気も起きないので、鞄に入れた保存食には手を付けずにいました。体感としては半日にも満たない行程。それなのに裂け目を通して見える空は既に幾度か昼夜を繰り返し、気がつけばまた新たに生まれた裂け目に朝焼けの色が覗いていました。
「私だけ取り残されているみたい……」
それでもウィゼルは歩みを止めることはありません。やがて真実の眠る古城にたどり着くと信じて。
行けども行けども代わり映えしなかった空間に、ようやく少しずつ変化が現れます。上空に走る裂け目の数が少なくなって、代わりにウィゼルの正面に裂け目が現れるようになりました。それはこの空間の終端が近づいている証拠のように思えましたが、様々な感覚を失わせるこの空間では、ウィゼル自身が空に向かって歩きはじめているのだとしても、なんら不思議はありません。
それでもさらに進んでいくと、裂け目の奥の景色が移りゆく空模様から、苔むした石積の壁に変わり始めます。それはまさしく外から見ていた古城の城壁そのものでした。
「これだ。間違いない。このまま……」
ウィゼルは自らの存在を確かめるように呟きました。もう振り向くこともなく、前だけを見据えて歩きます。境界に近づくほどに裂け目はウィゼルを飲み込みそうなほど大きく広がり、やがてそれが鼻先まで迫ると、城壁の様子が石の質感までわかるほど見て取れました。
ウィゼルは深呼吸してから思い切って腕を伸ばします。指先にザラリとした感触が伝わり、そのまま手のひらを壁に置いた瞬間、身体ごと持っていかれるような感覚とともに視界が一気にひらけて、不可思議な空間は消え去り、壁の全容が現れました。精緻に組み合わされた石材の隙間からはしたたかな植物たちが蔓を伸ばし、城壁という芸術品に複雑な意匠を施しているかのようでした。天を仰げば、広がる青空に向かって塔の先端が伸び、振り返れば、ほど近い小さな庭の向こうにルスの小屋も見えます。それらは一体いつの光景なのでしょうか。目には見えない距離に少しの孤独を感じ、ウィゼルはしばし放心していました。
光の層を抜けても、まだ終わりではありません。目の前に立ちはだかるのは高く堅固な石の壁。いくら古くとも、外敵の侵入を阻む城壁であることには変わりありません。間近に見ると光の層の外側から見ていたよりもかなり大きい建造物だと感じます。外周に沿って少し歩いたところで、身長の何倍もある大きな木製の門扉を見上げたウィゼルは少しのあいだ口を開けて立ち尽くしていました。重厚な扉はずっしりと鎮座し、かんぬきなどなくともウィゼルには到底動かせそうにありませんでした。
「あ……」
ウィゼルはこのような門を以前にも見たことを思い出します。初めてワイザール城を訪れたとき、衛兵は巨大な門扉の隅の小さな通用口から出入りしていました。かつてこの城も何らかの拠点として機能していたならば、日常的に利用するための出入り口がこの門にもあるはず。そう考えたウィゼルはいかにも分厚そうな木の扉を舐めるように観察します。表面の大半はボロボロとささくれが出来ているものの堅牢さには影響しない程度のものでした。一本一本が木造民家の柱程の太さもある、やや暗い色合いの材木が整然と組み合わされ、継ぎ目にはわずかな隙間も見られません。
「あれ?」
向かって右側の門扉、城壁との接合部付近に一部だけ構造の異なる継ぎ目があることに気がつきます。近寄ってよく見てみると、ウィゼルの目線より少し低い位置で扉の一部が四角くくり抜かれ、一辺がウィゼルの片腕の長さほどの正方形の板がはまっていました。その板はくり抜きに対し小さく歪んでいるのか周囲からやや浮いており、門扉のつくりに比べると粗末なものでした。上部には指が入りそうな程の隙間も空いています。ウィゼルはその板を外してみようと、思い切ってその隙間に指を入れました。
「これは……石?」
指先には木とは異なる冷たい感触。板の厚みは存外薄く、そのまま指をかけて手前に倒すとあっけなく板は外れ、地面に落ちて乾いた音をたてました。
板のあった奥には黒い石板のようなものがはめ込まれていました。板はこれを隠すために後から被せられたもののようです。石板には何やらウィゼルの知らない文字が刻まれています。
「なんて書いてあるんだろう。私たちの文字と似ている気もするけど、ちょっと違う……ルスさんやケイトスさんだったら、わかるのかな」
神妙な顔で石板を見つめるウィゼルがその文字を指でなぞると、ひんやりした触感に呼応するように心の奥のどこからともなく言葉が浮かび上がってきました。
――たゆたえ――
「えっ?」
無意識に自分が呟いたのか、それすらもわからない。ウィゼルはかつて自らの内に光が発露したときと同じ感覚を覚えました。いくつかの言葉が頭の中を廻り、ウィゼルはそれらをひとつずつとらえていきます。
「生と死、たずさえしもの……ゆだね、たゆたえ」
心象に浮かんだ言葉のとおりに呟くと、石板に刻まれた文字の後に続いて光の文字が現れます。
「これは、古きことわりの……残滓……」
そう言い終えた瞬間、ウィゼルの視界のほとんどが真っ白になって、文字の浮き出た石板だけが浮かび上がります。ウィゼルはためらわずに石板を手のひらで押し込むように触れました。キーンという耳鳴りとともに視界が戻ってくると、目の前の石板は消え、その周囲に人が一人通れるほどの穴がぽっかりと空いていました。
「あいた……」
ゆらゆらと不安定な穴を恐る恐るくぐると、城壁に隠されていた城の全容が見渡せました。外側とはやや色相の異なる植物が全体に蔓延り、足元の石畳はところどころ割れたり崩れたりしていました。正面には主塔がそびえ、その左右には幹から分かれた枝のように副塔が伸びています。塔の根本は窮屈な城壁内に押し込められ、光を求めてその身を伸ばした巨木のような印象も受けます。一見、扉は正面に見えるひとつだけ。ウィゼルは隆起した石に足を取られないよう、ゆっくりと奥に進みます。草の葉をすり潰したような緑の濃い匂いが鼻を突き、ウィゼルの感覚をより鋭敏にさせました。
主塔の中央から突き出した屋根の下、再び扉の前に立ったウィゼル。外門のそれに比べればだいぶ身の丈に近い大きさではあるものの、金属で縁取られた両開きの木製扉は十分頑丈そうでした。
「これは……押したら開くかな」
右側の扉の金属部分、錆がかったところに手を置き、かんぬきなどないことを祈りながら体重をかけて押し込むと、ゴリゴリと石を擦るような音とともに扉がわずかに動きました。
「もうちょっと……」
今度は扉に肩を当て、さらに足を踏ん張って押し込んでいきます。ゴゴゴゴ――とさらに少しずつ動き、やがて――ガタン!と急に支えが取れたように勢いよく扉が開きました。
「うわ!」
ウィゼルはその勢いで前につんのめって、扉が壁にぶつかる大きな音とともに床に倒れ込みました。
「いったたた……」
ウィゼルはゆっくりと立ち上がって服についた土埃を払い、軽いため息をひとつつきました。城内は真っ暗で目を凝らしてみても入り口が明るくて中がよく見えません。身につけていた鞄からランプを取り出し、カラカラと燃石を揺さぶって灯りを灯すと、足元を照らしながら一歩一歩慎重に奥へ足を踏み入れていきました。
暗闇へ一歩踏み込むごとに、長く停滞し淀んだ空気が濃くなっていくのがわかります。しばらくまっすぐ進むと壁に突き当たりました。道は左右に別れているようです。
「……そう、アイルはここにはいないんだ。自分で道を探さなきゃ」
暗闇を導いてくれたアイルの存在を恋しく思いながら、頼りない灯りで左右を照らします。廊下の幅は灯りが届くほどの距離ですが、行き先はどちらも見えません。ウィゼルは左へ進むことを決め、左手を壁に伝わせながら進み始めました。しばらく進むと廊下は右に折れ、また淡々と長い直線の廊下が続きます。見える範囲には豪奢な装飾など見当たらず、無骨な石の壁が続くばかりで、城というより要塞と呼ぶべき場所に思えてきます。
――真っ暗闇を一人で歩くのは、何回目だろう。
もう一度壁に突き当たって右に曲がったところで、外光の差し込む場所が見えました。その光の先に何かある気がして、行ってみよう、と寂しさを紛らわすように呟いたウィゼル。やや歩調を速めて近づくと、照らし出された壁の中心に扉がありました。光の中に立って上を見上げると、高所に空けられた一本の細い窓に、細く小さく切り取られた青空が見えました。
「まるで牢屋みたい」
何もかもがワイザールと異なることを改めて認識して、扉に向き直りました。その奥からは埃や黴の匂いが入り混じった、さらに濃密な空気を感じます。呼吸を整えて、扉に手を掛けると、ギイという音とともに扉は簡単に奥へ開きました。
部屋にわずかな外光が差し込むと、壁沿いに並んだ書架の一部が淡く浮かび上がります。中に踏み込んで周囲をランプで照らしてみると、ウィゼルはその光景に息を呑みました。
「すごい……ルスさんの家の何十倍――いや、何百倍あるだろう……」
見える壁一面を書物の背表紙がギッシリと埋め尽くしています。書架は灯りの届かない天井まで届こうかという高さ。部屋の中程にはウィゼルより少し背の高い書架が整然と立ち並んでいました。
大量の蔵書に圧倒されながら部屋の中央らしき場所に近づくと、なにか人影のようなものが見える気がして、ウィゼルは身体を硬直させます。それは確かに、非常に背が高く手足も長い人物が胡座をかいている姿勢に見えました。しばらく様子をうかがっても動く気配はまったくありません。ウィゼルは意を決して、音を立てぬように息を飲み込み、ゆっくりと近づいていきます。
――この感覚、前にもどこかで……。
ランプを掲げ、やがてその灯りが届くとそこには、ぼろ布をまとい骨と皮だけになった木乃伊のような遺骸がただ静かに鎮座していました。およそ想像がついていたウィゼルも、異様を間近に見て呼吸が震えます。その人物の落ち窪んだ眼窩は、希望を見出そうとどこか遠くを見つめているようにも、悲嘆に暮れ果てただ虚空を見つめているようにも見えます。死後相当な年月が経っているようですが、身体の腐食もほとんどなく、乾いた木の皮のような匂いがする程度でした。
――この人はもしかして、あの夢で見た……。
遺骸の足元に小さな木簡が落ちていました。そこには城の門扉の石板と同じような文字で何か刻まれています。ウィゼルは大切な人の頬を撫でるように、その文字をなぞりました。
――いつか役目を終えるその日まで。たとえ、永遠だとしても――
その言葉が脳裏を駆け抜けると、追いかけるようにウィゼルの目からも涙が流れ落ちました。
「待っていて……くれたんだ……」
何も知らないはずなのに、なぜだか自分のことのように、悠久とも言える時間の向こうから誰かの想いが溢れてくるようでした。堰を越えて落ちる感情と涙。ウィゼルは理由もわからず、しばらくの間むせび泣いていました。
静寂の底から暖かい光が昇るように、書庫のあちこちにあるランプが突然灯りました。ウィゼルはそれに気づいて我に返ると、ゆっくりと立ち上がってぐるっと辺りを見回しました。そこは想像していたよりさらに広い空間であることがわかりました。
――いったい、どれほどの歴史があるんだろう――
なんとなく呟いたところで違和感を覚えたウィゼル。自分の発したはずの声が耳に返ってきていません。ウィゼルはそれがマクアの霊泉で体験した蒼い静寂と同じであると、すぐに思い当たりました。それはつまり、聖域の森とこの古城には何かつながりがある、ということ。言葉を交わす相手はここにはいませんが、真実に近づいてゆく気がして鼓動が高鳴ります。同時に、それをともに体験したオリオーネとの絆を再び得られたように思えて、いたく懐かしい気持ちにもなりました。
――泣き虫同盟……まだ解散してないですよね。オリィさま――
ウィゼルは決意に満ちた表情で、近くの灯りがついた書架に向かって歩いていきました。
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