壊れた果実

 その夜、ベルクロイ家の屋敷の門が急な来客のために開かれました。

「アズバール様にガイウス様……このような夜更けに一体何の御用でしょう」

 来客を迎えた執事のベテロは門灯に照らし出された姿を見て驚きと戸惑いを隠せませんでした。現れたのは騎士団と魔術院、それぞれを指揮する二人。宮廷議会の場でもなければこのような顔ぶれが揃うのは稀なこと。ましてや、城壁の中とは言え、今や影響力を失った貴族の屋敷に足を運ぶことなど異例でした。

「夜分にすまない。ご令嬢と少し話をさせてくれるかな」

「……かしこまりました」

 その日、兄のヴィンヤードは公務で屋敷におらず、母親も長い病のため臥せっていました。ベテロはただならぬ雰囲気を感じつつも、従うしかありませんでした。玄関広間を抜け、手際よく客間の卓を整え二人を案内しました。

「ただいま呼んで参ります。少々お待ちください」

「うむ」

 ベテロは恭しく礼をして客間を出ると、なるべくゆっくり階段を登っていきました。


 二階にあるオリオーネの部屋の前でベテロはひとつ深呼吸してから扉をノックしました。

「こんな時間になにごと?」

 扉越しにけだるげなオリオーネの声が返ってきます。

「オリオーネ様、その……アズバール様とガイウス様がお見えになっています」

 わずかに扉が開くと、ここ最近の心労で少しやつれた様子のオリオーネが怪訝な表情を覗かせました。

「どういうこと?兄さま今日はいないのよ」

「それが、オリオーネ様にお話があると……」

「私に?……それこそ一体何なのかしら」

「見当もつきません。私は扉の裏で控えております。もし何かあればすぐにお声を上げてください」

 なにか嫌な予感がしているのはどちらも同じでした。宮廷の重役を担う二人であっても、目的がわからない以上それは警戒すべき相手でした。

「わかったわ。行ってくる」

 オリオーネは手早く装いを整えて部屋を出ました。神経を研ぎ澄ませ、客間の扉を注視しながら階段を降ります。がらんとした見慣れた玄関広間がいつもより広く感じられました。

 オリオーネは扉の脇に立つべテロと目で合図を交わしてから客間の扉をノックしました。

「失礼します」

 オリオーネは努めて上品にそう言って扉を開けました。そこには豪奢な鎧を身につけた巨躯の将と、長身に重厚な法衣を纏った魔術師が静かに座っていました。屋敷の中では見ることのない威容に圧倒されながらも、オリオーネは毅然として卓に着きました。

「洗礼式では色々あったそうだが、息災かね」

 魔術院長のガイウスは低く落ち着いた声で、見かけの印象より若々しい印象でした。

「はい。ですが、あのとき犠牲となった騎士のことは今でも心苦しい思いです」

「ヴィンヤードとはどうだ。兄妹仲良くやっているかね」

 一方、騎士団の将アズバールはその髭面からして、いかにもらしい尊大な声は小さな客間から溢れんばかりの勢いでした。

「どうでしょう。激務のため食卓を共にすることもめっきりなくなってしまいました。兄が家に帰る余裕もないことはアズバール様もよくご存知かと思いましたが」

 オリオーネは露骨に呆れた表情を見せました。

「はっはっは。この強面にも臆さぬその姿勢、愉快だよ」

 ガイウスが張り付いた笑顔で笑い飛ばすと、アズバールは不機嫌そうに鼻息を飛ばしました。

「それで、御用をお聞かせいただけますか」

「ああ、そうだな……実は君にとても重要な役目を担ってもらいたいと思っている。この世界の救済のためにね」

「重要な役目……?私のような小さき家の若輩に何ができるとお思いなのですか」

「聖域の力の源であるマクアの霊泉。その光が枯れたことは知っているね?」

「はい……」

 ガイウスは机上に肘をついて口元で指先を組み、冷たい声で淡々と語り始めます。

「君が洗礼を終えてまもなく霊泉の光は失われた。まさに前代未聞の事態だ。それが何を意味するのか、仮説を立ててもそれを確信できる証拠は何もなかった。だが、ここへ来て明らかな変化が現れてきた」

「魔獣の被害は目に見えて増えている。つい先日も魔獣討伐のおり、予期せぬ魔獣の出現により騎士団が想定外の被害を受けた。むろん、それに臆する我らではない。だが、精鋭たる騎士の数にも限りがある。こうも数が増えてはいずれ民を守りきれなくなるだろう」

 アズバールは演説でもするかのように騎士団の近況を切々と語りました。

「このままではいずれ聖域の森は完全にその力を失い、多くの魔獣たちが民を脅かすことになる。光が失われたのはその前触れ……もしくはそれが最後だったのかもしれない」

「ウィゼルの父親を殺して、今度は私ですか」

「何がきっかけであったかはもはや重要ではない。加護を取り戻すことの方が今は大事であると我々も気がついたのだ」

「なんと都合のいい……」

「そう思われるのも無理はない。だが今は我らの世界に迫る危機に対し、最善の策を講じるべき時であることは認識してもらいたい」

「……それで、その役目とは一体?」

「聖域のために、その身を捧げること」

「よくわかりません。つまりどういうことですか?」

 オリオーネは眉をひそめながら考えを巡らせていました。

「最後に洗礼を受けた貴女の力によって、霊泉に加護の光を取り戻すことができるかもしれないのだ」

 蒼い、静寂の森。霊泉の中心で天から降りてきた光。その不思議な感覚をオリオーネは覚えていました。ですが、その後も身体に何か変化が起こるでもなく、今まで加護を受けた実感などないまま過ごしてきました。

「あの洗礼にそんな力が?ただ伝統のための儀式かと思っていました。それに、洗礼は皆さんも受けられているはずでは?」

「洗礼の加護は時とともに少しずつ失われる。今、最も強い加護を宿しているのは間違いなく貴女だ」

「それで、どうすれば霊泉を復活させられるのですか?」

「言葉の通り、霊泉に身を捧げ、聖域と一体となること。崇高な肉体と魂が魔力を彼の地に巡らせ、やがてこの地に再び安寧をもたらす加護となる。尊い宿命だと思わぬかね」

「……それは、要は生贄ということですか」

「無下に言ってしまえばそうなる。だが、それは純然たる死ではない。貴女の存在は聖域の一部となって生き続ける。何よりこれは民を守るための気高い行為であって、野蛮で無意味な因習とはまったく異なるものだ」

 オリオーネは震えた息を吐きながら目をつぶって俯きました。何かの感情が昂って嗚咽を漏らしそうになるのを堪えて声を絞り出します。

「少し、考えさせてください」

「もちろんだ。だが、あまり時間が残されていないことも忘れないでもらいたい」

「……はい」

 ガイウスはやおら立ち上がると、法衣の重さを感じさせる足取りで扉の前まで歩いていき、わずかに振り返りました。

「明日の夕刻、使者を送る。それまでに決めてもらいたい」

 そう冷たく言い残してガイウスは客間を出ていきました。

「献身を遂げれば、ベルクロイ家は真に尊い血筋として語り継がれることになるだろう。よく考えることだ」

 アズバールも期待の見え透いた言葉を俯いたままのオリオーネにかけた後、騒々しい金属音を鳴らしながら屋敷を去りました。


 開け放された客間の扉の向こうから、ベテロがいたく心配そうに覗いています。

「失礼を承知で伺いますが、一体どのようなお話をされたのですか」

「ベテロ……あなたには自分の命を差し出してでも救いたいものって、あるかしら?」

 オリオーネは消え入りそうな声で目を伏せたまま問い返します。

「は、それは……オリオーネ様とヴィンヤード様です」

「いいのよ、本音を言っても」

「偽りではありません。天涯孤独だった私がこのようにお仕えできるベルクロイ家のことは、失礼ながら私にとっても家族の形のひとつだと思っております」

「家族、か……ありがとうベテロ。今日はもう休むわ」

「はい。おやすみなさいませ」

 オリオーネはどこか虚ろで憂いを帯びた表情のまま、病人のように重い足取りで歩いていき、階段の下で立ち止まりました。

「今日のこと兄さまには言わないでおいて」

「は、しかし……」

「お願い」

「……わかりました」

 戸惑うベテロに後ろめたい秘密を囁くような声を残してオリオーネは階上へ登っていきました。


 オリオーネはかつてのつまらない日常という沼に再び半身を浸かっていました。安否の知れぬ友という心の風穴を抱えたまま、その沼の中で身動きが取れなくなっていくのを自覚していました。――城を抜け出してでも友に会いたい――そんな思いをオリオーネが秘める一方、兄のヴィンヤードは家のため、そして何より妹のために、より一層激務に身を置くようになりました。妹の将来を少しでも明るいものにしたいという兄の心はわかっていても、ほとんど孤独な日常はオリオーネに空虚な思いを募らせるばかり。唯一心をほぐせるはずの使用人宿舎で過ごすひとときも、今はもうウィゼルも、ミュリもそこにいないという事実をオリオーネに突きつけるばかりでした。

 

 ――まただ。またこの選択が私を苛む――


 自分には選べない弱さがあることもわかっていました。すべてなげうって、屋敷を飛び出して、どこにいるかもわからない友達を当てどなく探す。もし運良く出会って、喜びの言葉を交わしたとしても、彼女たちを再び城に招くことなど叶わない。それどころか、兄の努力を踏みにじることになるだろう。そんなことなら、いっそ哀れな貴族の家の娘として、このまま静かに暮らしていれば……。

 そんな思索を巡らせては何も解決できない自分に苛立ちを覚えていたオリオーネ。その目の前に突然、どす黒くも鈍く光る宝玉のような、第三の選択肢が転がり込んで来ました。生来守られる立場であった少女にとって、自身の破滅を伴う英雄的行為は、弱い自分を脱ぎ捨てながら誰も傷つけるはずのない選択として鮮烈に心へ焼き付きました。


 ――――


 翌朝、オリオーネが朝食をとっているところにヴィンヤードが帰ってきました。ようやく家に戻ったというのに、また直ぐに公務のために発つというヴィンヤードの身支度ため、ベテロが慌ただしく動きはじめます。

 ヴィンヤードは食卓の傍までやってくると、疲れを見せぬよう気取ってオリオーネに話しかけます。

「おはよう、オリィ。今日の気分はどう?」

「兄さま、おかえりなさい。私は変わりありません」

「本当かい?なんだか浮かない顔に見える。どこか調子が悪いのか?」

「そういう日なんです。兄さま、そういうの女性に嫌われますのよ」

「あ、ああ、ごめん。そうか……そうだよな」

「それで、兄さまはお休みにならないのですか?」

「ああ、すぐに別の任務でね。なに、移動中に一眠りするさ」

「また、魔獣が増えているのですね……」

「心配することはない。騎士団と魔術院が必ず終息させる」

「……兄さま、どうかお気をつけて」

「ああ、それじゃあ行ってくるよ」

 兄妹の会話はどこかぎこちなく、冷たい朝の食卓をさほど暖めることもなく消えてしまいました。オリオーネは昨日の出来事を悟られまいと、ヴィンヤードの顔をしっかりと見返すことができませんでした。


 ヴィンヤードが出発すると屋敷は再び静けさに沈みました。朝食を終えたオリオーネは少しの間だけ窓から外の様子をぼうっと眺めた後、何か意を決した様子で二階に上がっていきました。進む意志に反して足取りは重く、何かを思い出しながら廊下を歩くオリオーネ。目線の先、廊下の突き当りには、もう長い間立ち入ることのなかった部屋の扉。そこはオリオーネの両親の部屋であり、父ウォルスが亡くなって以来、母親であるカナーリヤがひとり病の床に臥せっている部屋でした。

 ガチャ、と重い扉を開くと、開け放たれた窓からの風が扉を抜けてオリオーネの肌を撫でます。

「失礼します」

 華美な装飾に頼らず、素朴で統一感のある家具が配された広い部屋。洗練された印象を与えるその空間は昔と変わっていません。ですが、オリオーネの思い出の中の両親はもうそこにはいないのでした。びゅうと吹き込む風の音がとりわけ空虚で寂しい気持ちを呼び起こしていました。

 奥で横になっているはずの母親から返事はありません。オリオーネは部屋の壁にかかっている飾り盾を懐かしむように見つめながら、何も置かれていないテーブルの脇を通って、ふたつ並んだ寝台の奥の方へと歩いていきました。立ち止まったところで目線を下に向けたまま深呼吸しました。

「母さま、お久しぶりです」

 そう声に出してからゆっくりと視線を動かしていきます。天蓋付きの寝台の幕は開かれており、その中でカナーリヤは上体を起こして本を読んでいる様子。しかし、オリオーネの呼びかけがまるで聞こえていないかのようで、顔を上げることさえしませんでした。

「母さま、会えるのはこれで最後になるかも知れません。だから挨拶に来ました」

 よく見れば、カナーリヤの目は文字を追ってはおらず、ただ開かれた頁を虚ろな瞳で見つめるばかりでした。

「母さまの病気が治ったら、また一緒にお庭でお茶を飲みたかった。大人の女性の先輩として、いろんな話を聞きたかった……」

 カナーリヤは夫のウォルスを亡くしてから徐々に精神が錯乱し、やがて昔の幻覚の中に閉じこもっていきました。愛する夫を突然亡くし心が弱っていたところに、時機悪く北から来る魔物たちの瘴気にあてられ、ある種の魔力障を患ったのだと言われていました。

「でもそれは……もう叶わないの」

 オリオーネは涙声になっていて、それでも言葉を絞り出します。すると突然カナーリヤが顔を上げました。

「誰か!どこかの家の子が泣いているわ」

 大きな声で廊下に向かって呼びかけます。その言葉を聞いたオリオーネの目からは堰を切ったように涙が流れ落ちはじめました。

 気づいたベテロが廊下からすぐに駆けつけます。

「お嬢様!」

 ベテロはオリオーネの肩に手を触れようとして思いとどまり、困惑しながらその涙の行方を見遣りました。

「ああ、あなた……こちらの子、どの家の娘さんかご存知?」

「奥様……」

 ベテロが悲しい表情で見つめると、カナーリヤはそれまでわずかにも見せなかった笑顔で見つめ返しました。

「う……うう……」

 顔を覆ってしゃがみこんだオリオーネにベテロが手を差し出します。

「お嬢様、行きましょう」

 オリオーネはべテロに連れられて部屋を後にしました。扉が閉められ静けさの戻った部屋で、カナーリヤは誰の訪れもなかったかのようにまた虚ろな目に戻って、読み進められることのない本を再び見つめ始めました。



 それから、城内園庭の片隅の墓地でオリオーネは残りの涙を流しました。その涙が乾くまで父ウォルスの墓の前でひざまずいて、墓に供える一輪の花をずっと握っていました。どこかで訓練する兵士たちの声が遠くから響き、気まぐれな風がオリオーネの長い髪を弄びます。べテロは墓地の入り口から仕える主の様子を黙って見守っていました。やがて陽が落ち始める頃、ようやくオリオーネは立ち上がって墓地を後にしました。赤く染まりはじめた地平の空に、ちぎった綿毛のような雲の船がいくつも列をなして浮かんでいました。


 ――――


 夕闇とともに、黒い法衣に身を包んだ魔術師が二人の騎士を伴ってベルクロイ家の屋敷へ向かって園庭を横切っていました。

「こんな時間にお茶にお呼ばれですか?ここにはただ淋しい母娘しか今はいないはずですが」

 たった今まで厨房で調理でもしていたような格好の女性が屋敷の門の影から姿を現し、魔術師一行の前に立ちふさがりました。それは、オリオーネを幼少期から見守ってきた宮廷使用人のラエアでした。

「誰かと思えば、口ばかり達者な下女ではないか。役目を果たせぬどころか、邪魔だてしようとは」

「あら、役目はしっかり果たしておりますよ。誰かが汚していく城内を美しく保つのも決して楽ではないのですから」

「なぜ貴様がこのことを知っている。……ケイトスあたりが察したか」

「さあ、どうでしょう。いいではないですか、そんなこと。仕事柄、城内のいろんなことが小耳に入ってくるというだけですよ」

「そこをどけ。貴様には何もできぬ。不忠な道化め」

「それは心外。私は誰より忠実ですよ。私の心に」

 ラエアは携えていた波打つ刃を無造作に構えました。真っ直ぐに前を見据え、視界の隅のつぶさな動きまで逃さず読んでいます。魔術師の後ろに控えていた騎士も剣を抜き、一触即発の空気が辺りを支配しました。

「我らを退けたとて意味はない。これは宮廷の総意であるぞ」

「本当でしょうか?少なくとも私は同意していませんよ」

「戯言を。ならばどうする。貴様がすべての民を救うとでも言うのか!」

「そんなことは後で考えます。今はただ、ひとりの若者の命を大人たちがいいように使う。そのことが気に入らないだけです」

「民を守護する崇高な行為をそのように軽んじるとは……もはや貴様を正す道理もない」

 魔術師が杖を突き立てると、その杖先に光が集まっていきます。それを合図に二人の騎士は間合いをうかがいながら左右に散開。ラエアは心を固めました。

「庭が汚れたら、また仕事が増えるじゃない……」

 三方を警戒しながら、口火を切るのは魔術と読んだラエア。発動されるのがどのような力であるか予測はできませんが、その身で受ければ無事では済まないでしょう。

 ラエアは魔術が発動する瞬間を読んで大きく踏み込み、魔術師の杖を一閃横に薙ぎ払いました。

「なにっ」

 杖は真っ二つに分断され、片方は勢いよく飛んで騎士の一人の足元に落ちました。すると、その杖先から光とともに極寒の冷気が周囲に放たれ、近くにいた騎士を鎧ごと瞬時に凍りつかせました。もう一人の騎士が斬りかかるもその一撃は精彩を欠き、ラエアは軽く刃で受け流します。幾度か刃を重ねたあと、ラエアの掛け声と同時の鋭い一振りが騎士の手から剣を跳ね飛ばしました。騎士が息を飲んだ時にはすでに甲冑の隙間に刃の先端が差し込まれ、皮を断つ寸前でぴたりと止まりました。

「今日のところはお引き取りいただけませんか」

 ラエアの要求に魔術師が応えるより早く、凛とした少女の声が響きました。

「ラエア、いいの!私行くから」

 宵闇を背にほのかな灯りを浮かべる邸宅から歩いてきたオリオーネが門のところまで来ていました。背中で声を受けたラエアは刃を止めたまま視線の端でオリオーネの姿を捉えます。

「オリオーネ様!それがどういう意味かわかってらっしゃいますか!誰と言葉を交わすこともできなくなるのです。たった一人、ウィゼルたちと会うことだって叶わなくなるのですよ?」

「わかってる。でも、もういいの。今の私には何も変えられないもの。私の身ひとつでみんなが平和になるなら、安いものだわ」

 オリオーネはそのままゆっくりと門を出ました。ラエアではなく暗い空に向かって、諦観を含む調子で語りかけながら、門柱の灯りに少しずつ背中を押されるように歩いていきます。

「彼女自身が肯定しているのだ。貴様が止める筋合いもあるまいに」

「これは私の意志です。オリオーネ様がどう考えようと……本当に……本当にそれでよいのですか?」

「きっと、誰も悪くないんだわ。いつか、誰かが背負わなければならなかったもの。それが、偶然今、私のところに巡ってきた。それだけのこと」

「私にはその偶然が正しいこととは思えません」

「考えたの。これがもし私じゃなくて、他の誰かに巡ったのだとしたら、私はそれを本当に心から止めることができただろうか、って……。そう、今のラエアのように」

「オリオーネ様……」

「でも私はそうなれないと思った。うわべではその人を憐れみながら、きっと受け入れ、再び安寧がもたらされることに安堵するんだわ。そんな私が自分に回ってきた天命を拒むのは、やっぱり何か違うな、って……」

 オリオーネの意思を聞き、刃を握る力も抜けたラエア。天を仰いだその表情は苦渋に満ちていました。

「それは……それでも……私はオリオーネ様の羽ばたく姿を見届けたかった!それに、ヴィンヤード様はどうするのですか。オリオーネ様を失うことなど考えられないでしょう。ウィゼルたちだって、いつかまた会えると――」

「ごめんなさい。ラエア……今までありがとう。みんなにも伝えておいて。これは……これが私にとって、精一杯の羽ばたきなの」

 悲嘆を抑えきれない様子のラエアを横目に、オリオーネは使いの魔術師の前まで来て立ち止まりました。

「さあ、準備はできています。行きましょう」

「素晴らしい意志だ。霊泉の加護が再びもたらされんことを」

 オリオーネは使者に従って、すっかり夜に沈んだ園庭を本城に向けて渡って行きました。取り残されたラエアは、夜の海に落としてしまった大切な宝物が救いようのない真っ暗な波間にのみ込まれていくのをただ見ていることしかできませんでした。


 そうして、オリオーネはワイザール城の奥深くに幽閉されました。そこは普段、使用人はおろか議会の騎士達でさえ立ち入りを禁じられている場所。その日以来、そこには魔術院長のガイウスをはじめ、顔を隠した幾人かの魔術師が頻繁に出入りを繰り返すようになりました。

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