隠された歴史
「本当に……夢で見た通り」
ウィゼルたちは岬の突端近く、古城のすぐ近くに建つ小さな家の前に立っていました。壁はレンガ積みで、かつては白く塗られていたようですが、全体がずいぶんと掠れています。
屋根の向こうにそびえる塔を見上げ、ウィゼルはかつて自分の中に流れ込んできた光景のひとつがまさに今、目の前にあることを改めて認識しました。
岬は標高が高く海側は断崖になっており、ウィゼルたちが登ってきた急な坂道の方を振り返れば、ヴォーレンの港町とその向こうの街道までよく見渡せました。
徐々に夕暮れの気配が迫る中、海からの強い風が服をバサバサと揺らします。ウィゼルたちは潮の香りを身体中で受けながら息を整えました。
「あの、ルスさん。いらっしゃいますか」
ウィゼルが古びた木の扉に向かって呼びかけても返事は返ってきません。
「こんにちは。ルスさん、いらっしゃいませんか」
扉をノックしようと構えた瞬間、ガタンと扉が手前に開きました。
「ひゃ」
驚いて尻もちをついたウィゼルにミュリが手を差し伸べます。
「大丈夫?」
「うん……平気」
ウィゼルが立ち上がると、半開きの扉の向こうから怪訝そうな声が聴こえてきました。
「誰じゃ。くだらん催事の誘いなら要らんと言うたろ」
「あの、はじめまして。私はウィゼル・アルマーダと言います。ダリオスという騎士にあなたのことを聞いて来ました。見たこともなかったこの古城を夢で見て、魔術とは違う不思議な力が――」
「中で詳しく聞こう」
老人はウィゼルの話に食らいつくような調子で言葉を被せました。第一声との変化に面食らい、ウィゼルは言葉を詰まらせて少しの間固まります。
「ほれ、早く入らんか」
コツコツ、と扉を杖で叩く音。
「あ……はい、お邪魔します」
ウィゼルはミュリと目線を交わした後、ゆっくりと扉を開けます。キイと軋む音がどこか懐かしさを感じさせました。
老人は杖をつきながらよろよろとした足取りで部屋の中央、半ば本の山に埋もれた木の椅子へ座りました。部屋中が古びた紙や木の落ち着く匂いに満ちていました。必要最低限の生活空間の他は、まるで小さな塔のようにうず高く積まれた本と、よくわからない形をした多種多様な魔術具らしき品々で埋め尽くされています。
扉を閉めると、近くに立てかけてあった杖がカランと音を立ててウィゼルの足元に転がりました。杖の頭にはぼんやりと橙色に光る石が付いていました。
「あ、ごめんなさい」
ウィゼルが杖を拾うと暖かい色をしていた石がより強く明滅し、鮮やかな色を繰り返し放ち始めます。
「わ」
ウィゼルは慌ててそれを壁に立てかけると、石は元の静かな色に戻りました。
外でごうごうと聴こえていた風の音が嘘のように室内は静まり返っていました。
「ほう、なるほどな……あの箱入りが何を思うたんか」
老人は長く蓄えたあご髭を触りながら額にしわを寄せて何か考えていました。
「あの……これ、マイルズくんからルスさんに、と」
ウィゼルは干物が入った網を両手で差し出しました。
「おお、ナンタか。気が利くのう。思考と向き合うには欠かせないお供じゃ。ほれ、マイルズならいつもそこに座って何ぞわしの独り言に付き合っておる」
老人は干物を受け取りながら古びた絨毯が敷かれたところを杖の先でコンコンと叩きました。
「失礼します」
ウィゼルは横座りに、ミュリはあぐらをかいて座ります。小さな絨毯の上はそれだけでいっぱいでした。舞い上がった埃が差し込む夕日の形を映します。
「あなたがルスさんですか?」
「いかにも」
「古城の研究をしていらっしゃると」
「そうじゃ。この封ぜられた古城を、かつてわしも宮廷魔術師のひとりとして調べておった。だがついぞ封印を解くことができず、今や誰も見向きせんのうなった。今はわし一人残って、庭のようにしておる」
「封印された城……ルスさんはどうしてこの城にこだわっているんですか?」
「ここには手がかりが眠っている」
「手がかり?」
「さよう。主は歴史というものに思いを巡らせたことはあるか?過去に何が起こり、何故ここにわしらがいるのか。どんな事象が繋がって今があるのか」
「ええと……まず聖域の森があって、北より来る魔物たちから土地を守るためにワイザール城が建って、それで都は発展を……」
「それは正しいじゃろう。だがそれは長い歴史書の最後の一枚に過ぎぬとしたら?ワイザール城の建立前、騎士団や魔術院が成立する前、更には聖域の森が生まれる前、人々はどのように暮らしていたんかの」
「あ……そんなこと考えたことなかったです」
「ああ、この世界ではそれが普通じゃ。だが、わしはそこが気になっておる。この古城の造りも、状態もワイザールのそれより遥かに古い。魔術の封により風化が進んでいないにも関わらずじゃ」
「それって……」
「わしらの知る史実より旧時代、誰かがここにいた。その紛れもない証拠を目の当たりにして、わしはここを離れることはできんかった。だが、魔術院は調査を引き上げることを厳命した……どんな圧力があったか知らぬが、叡智の結集たる魔術院も腑抜けたものじゃ。わしは宮廷魔術師を辞めたよ」
小さなかまどにくすぶっていた炭がパチ、と弾けました。ルスは大きく息をついて続けます。
「主たちを導いたダリオスはわしの魔術師時代の最後の教え子じゃった。将軍の息子にしては剣技も冴えぬ坊じゃったが、頭は切れたな」
「彼は……私たちがここへ来るきっかけをくれました。ただ、戦いになるとまるで人が変わったようで……どこか危うさを秘めた方でした」
「ふむ、思い当たる節がないでもないが、今はそれより主らのことよ。真理にたどり着くにはまず己の立つ場所を知ることじゃ。話を聞こうかの」
――――
ウィゼルは今までのことを淡々とルスに語りました。
ミュリが外の世界から来たこと。
城で使用人をしていたふたりの周りで起きた事件のこと。
窮地の折、ウィゼルの中で何かが起きたときのこと。
途中、辛い情景を思い返しては涙が浮かび、言葉に詰まっても、ルスは黙って聞いていました。時に厳しくも見える眼差しは真剣さの証。ウィゼルは自分の過ちや選択も包み隠さず吐露しました。
――――
話が終わる頃には、小さな窓の外は夕景の中に沈んでいました。
「光の翼持つものと、黒き影から生まれしもの、か……」
ウィゼルはルスに見せた左手をゆっくりと下ろし、今も残る黒い痣を右手で軽くさすります。
「主にそれほどの事象が集うのは特別な何かが……ううむ」
「私は何も、特別なんかじゃ……」
「ただの偶然だったのかもしれん。だが、事象に選ばれたということ、そのものが特別だと言えよう」
「私、どうしたらいいんでしょう。アイルのことも、光の翼のことも、わからないことだらけで……」
「すまぬがそれらに対してはわしも答えは持っておらぬ。わしの知る魔術で説明できるものではなさそうじゃ」
「そうですか……」
「どうしたら、私はウィゼルを守れる?このまま逃げていればいい?それとも……」
それまで黙っていたミュリが口を開きました。
「ミュリ……」
「ほほう。ほんとうに言葉が達者じゃあないか。うむ、そうだな……ひとつ気がかりなのは革命者を利用したという何者かの話じゃ。考えたくもないが、魔術院が関係している可能性は高い」
「やはり……そうなのですね」
「魔術院は宮廷にこびり付いた因習と政治により、本来の目的である民のための魔術の探求から道を逸れはじめておった。そんな中、ある忌まわしい研究が始まっていた」
ルスは眉間に寄った皺をことさら深めました。
「先に一般的な魔術について話しておこう。魔術は媒体を通じて発現し、その媒体を魔術具と呼ぶ。魔術師が杖を携行するのものそのためだ。主らの身近なところだと魔力ランプもそのひとつじゃな。あれは遅効発現と言って……ん、すまん。今話すと長くなるな。ともあれ、魔術の行使には媒体たる魔術具を用いるのが大前提である。ここまでは、いいな?」
「はい」
ウィゼルは固唾を飲んでルスの話に集中します。真実を知りたい欲求と魔術への興味がないまぜになって、瞬きをするのも忘れていました。
「して、魔術院で始まった研究というのは人の身体そのものを魔術の媒体と為すことであった」
「人の身体を……」
「うむ。理論上、魔術具に頼らず直接魔力を扱うことで、より強力な魔術を行使できるはずだった。しかし、人体を媒体とするには大きな危険や代償が伴うと魔術師の誰もが危惧した。それでも、何らかの政治的な圧力により研究は進められることとなった。わしが魔術院を離れたのはちょうどその頃」
ルスは目を閉じ、肘を肘掛けに置いて胸の前で軽く手を組みました。
「これから話すことに確たる証拠はない。仮説として聞いてほしい」
「……はい」
「人体を魔術の媒体とする研究はその後も進み、完成へとこぎつけた。だが、人体への影響を確かめる術がなかったのだろう。そこで、非道にも民を使って実験を行うに至った。反体制組織の人間を利用することは都合が良かっただろう。実験に失敗したら、事が公となる前に組織ごと潰せばいい。主の父親はまさにその被験者として使い潰された」
ウィゼルは怒りが渦巻きそうになるのを抑えて、胸が苦しくなりました。
「……だとしたら、その実験は霊泉の力が涸れたことにも関係があったんでしょうか」
「その因果についてはわしも想像がつかぬが、そもそも研究を強行した背景は気になる。もし、霊泉の加護が失われることを何者かが予見していたとしたら……?その後増えるであろう魔獣に対抗する力として……?いや、だとすれば公式に事を進めればよい話。狡猾なやり口で秘密裏に進めるからには何か別の理由がありそうじゃの」
「別の理由……」
「宮廷には様々な思惑が入り乱れておる。騎士も、魔術師も、官吏も、誰もがそれぞれ違う何かを腹に抱えて立ち回っておる。野心、慢心、正義、忠義……少なくともこの件が宮廷全体の意志だとは考えにくいな」
「私にできること、何かあるんでしょうか……」
気がつけば外は夕闇に暮れ、部屋も薄暗い空気に満ち始めていました。
「ほ、もうこんな時間か」
そう言ってルスが足元の魔力ランプに触れると、部屋が薄青い光で満たされました。その光はざわつき始めたウィゼルの心を鎮めるように、そっと染み込んでいきます。
「答えを焦っては逆に真理から遠ざかってしまうもの。しばし考えを落ち着かせる時間が必要だろう」
ルスはゆっくりと立ち上がって、本に埋もれた部屋の一角を指さしました。
「狭いかもしれんが、今日はそこで寝るとよい。町の宿を探すにはもう遅いじゃろう」
本を整理すればふたりが寝る分の空間くらいは確保できそうでした。
「ありがとう、ルスさん。あの……このあたりの本、私たちも読んでみていいですか?」
「魔術の本ばかりじゃが、興味あるのかね」
「はい。それに、何もしていないと私余計なことばかり考えてしまうので、ルスさんの言う通り一度頭を切り替えたくて……」
「ほほ、それは殊勝よ。質問があればいつでも答えようぞ」
ルスの表情は少しずつ和らいできていました。声色からも喜びが十分に伝わってきます。
ウィゼルとミュリは乱雑に積まれた本を、ひとつずつ重みを感じながら本の題名を確認していきます。『魔術の大前提』『魔術強度の推定――発現性と再現性――』『魔術媒体とその特質』『暗黒因果論』……。
気になるものは手元に置き、棚に入り切らない本は壁際に丁寧に積み直していくと、やがて本の壁に囲まれた小さな空間ができあがりました。それはさながら幼い頃、低木の茂みにこしらえた秘密の空間。誰にも邪魔されずその日の出来事を思い返し、空想を巡らすことのできる、そんな場所に思えました。
ウィゼルたちはその後、ルスの家で静かな夜を過ごしました。質素な食事をルスと共にした後は、黙々と読書に耽ります。ミュリも時々質問をしながら難しそうな本に真剣に向き合っていました。ルスからは読書のお供にと干物を一口ずつもらいました。歯ごたえは硬く、噛むたびに独特の刺激臭が鼻腔を突きます。苦い顔をしたウィゼルたちに、長く生きているとこれが美味くなるのだ、とルスは得意げに語りました。
その夜、ウィゼルは夢を見ました。また知らない光景が勝手に入ってくる。そんな事を知覚する前に夢は妙な生々しさを持って現れました。
――――
城壁の上から遠い北の夜空を見上げる。城と周囲の地形はウィゼルの見た古城と同じように見えますが、大地は随分と荒廃しているようでした。
隣には背の高い人物。お互い、随分とボロボロで貧しそうな身なりをしています。顔はもやがかかってよく見えません。
「本当にそんなことが可能なのですか?あなたの魔力の強さは十分に知っていますが……」
「ええ、これしかありません。我々が生きてゆくには」
「それでも、永遠をつくりだせるとは思えません。いつかは……」
「もちろん、私にそこまでの力はないでしょう。一時の安寧でいいのです。今、このときに滅びてしまうよりは」
「あなたは……あなたの思いはどうなるのですか!生を捨て心も捨て、苦しみだけを負い続けるなど、人でなくなってしまうのと同じではないですか!」
「それは……」
視線が手元に移ると、繊細な装飾のか細い錫杖が見えました。その錫杖がすっかり色を喪った姿をウィゼルは知っていました。
視界が急に暗くなって、闇に閉じました。目の前か遠くかにポツリと青白い光の点。それに向かって誘われるように歩いていきます。ウィゼルはかつて見た同じような光景を思い出し重ねます。暗闇との邂逅から離別への道程とも言うようなそれは、確かに体感したと思える鮮明さで、まだ記憶の中に残っていました。
――――
ドン、と頭に衝撃が走ってウィゼルは目を覚ましました。いつの間にか枕にしていた本から頭が滑り落ちたようです。
「いたた……」
本の壁のむこうから差し込む少し冷たい朝の空気と光。すぐ隣ではミュリも本を枕に静かな寝息をたてています。
上体を起こして部屋を見渡すと、ルスは昨日と同じ椅子に座りながらお茶を飲んでいるところでした。
「目覚めたか」
「おはようございます」
硬い床で寝ていたせいか、伸びをすると身体のあちこちが痛みます。
「飲むか?」
「はい。いただきます」
ウィゼルは自分の器を持って、部屋の一角の小さな炊事場へ歩いていき、古びた鍋から濃い緑のお茶を注ぎます。立ち昇る湯気を吸い込むとほのかにツンとした香りが鼻を抜けていきます。
息を吹きかけ軽く冷ましてから口をつけると、深い苦味と少しばかりの酸味が舌の上に広がります。ウィゼル少し渋い顔をしながら味わって飲み込みました。その味は、昔よく母親のために淹れた薬草茶を思わせます。
「かつてな、わしも渡来人……外界から流れ着いた者を見たことがある」
「あ……」
ウィゼルはかつてオリオーネが語っていた蛇の海と渡来人の話を思い出しました。
「東の海岸で発見され、魔術院へ運ばれてきたときにはもう息がなかった。わしは外の世界のことを知りたいと願ったが、叶わなかった。だが、同じく外界から来た娘は今、生きてここにおる。不思議なものよ。生まれた世界が違い、髪の質も肌の色も違う。だが、それだけなんじゃ。他はわしらと何ひとつ変わらん。もしかしたら、元々同じ世界で暮らしていたこともあったのかもしれんな」
「同じ、世界……」
ウィゼルは静かに寝息を立てているミュリを見つめました。窓からの光が少しずつ強くなって、小さな家の静けさと溶け合い始めていました。
「気になる夢を見たんです。」
「ほう」
「あの古城で誰かと話をしていました。なんだか悲しい選択を迫られていたような……はっきりしないけど、今の時代ではないみたいでした」
「それは本当にあの古城だったのかね?」
「ただの夢ですし……確証はありません。ですが、ワイザール城よりはずっと小さく、周りの地形も似て見えました」
「もしや、古城が封ぜられるより以前の記憶ということか?」
「今までだったら、そんなことある訳ない、って思います。でもなぜでしょう、今はあれが誰かの古く切ない記憶だと、信じられる気がするんです」
「興味深い。古城に近づいたことでそれが呼び起こされたのか。長年解けなかった謎の鍵となるのかもしれん……他には何か覚えておらぬのか」
「城の周りはどこまでも荒れ果てていて、とても人が暮らしていけるようには見えませんでした。話も途中で途切れてしまって、それ以上のことは……」
「近くで見てみよう」
いつの間にか起きていたミュリが勢いよく立ち上がりながら言いました。
「ミュリ、おはよう。そうだね、私も気になる。私の見た夢と無関係じゃない」
「うむ、ではわしが案内するとしようか」
ルスは椅子に掛けてあった杖を取り、ゆっくりと立ち上がりました。
「脚、大丈夫ですか?」
「ふん、今日は調子が良い。庭に出るくらい、なんてことはないぞ」
ウィゼルは持っていた器をミュリに渡してルスに付き添います。ミュリは器に半分ほど残っていたお茶を一気に飲み干すと、大げさに渋い顔をしながら口を大きく開けました。
「苦い……」
「ふぉっふぉ、あんたにはちいとばかり濃かったかの」
ウィゼルが扉を開けると、昨日の強風が嘘のように、穏やかなそよ風が顔を撫でます。古城は昨日と変わらぬ姿でそこにありました。
その城壁の赤茶けた石積みをよく見ると、紅をどこまでも薄くぼかしたような色で全体が覆われています。時折、気まぐれに空か海の色が反照し、得も言われぬ色相を生み出す様は、ここが夢の中であるかのような錯覚をもたらしました。
「あの光鱗こそが封印。ほれ、こっちじゃ」
家の裏手に回ると、城壁を背景に素朴な花の庭園が広がっていました。足元を小さな白い花が埋め尽くし、所々生えた低木には黄色や橙色の花が彩りをそえています。
「素敵な庭ですね」
「そうじゃろう。もっとも、手入れはほとんどしておらん。自然とそうなった」
「お城の園庭も綺麗ですけど、こういう場所も好きです」
「そうか、主らもワイザールの内園庭を知っておったか」
「はい。たまに手入れのお手伝いなんかもしていました」
「ウィゼル、そこで無理して倒れたこともあった。オリオーネに助けられてた」
「あはは……ミュリには看病してもらったよね。オリィさま……また会えるかな」
「ベルクロイ家の息女か……まだ幼い姿を見かけたこともあったが、もう洗礼を受ける歳だとは。早いものじゃな」
「私たちとはとても仲良くしていただきました。突然別れてしまって、寂しさを感じる間もなかった。ただ、最近なんだか少し気にかかるんです」
「お城、居心地は悪そう」
「苦難に絶えぬベルクロイ家の噂は聞いておった。宮廷内の立場は弱く、家としては厳しい状況だろうな」
「それだけなら良いのですが……妙に、胸騒ぎがするんです。話していたらどんどん……」
ウィゼルは曇り始めた顔を横に振って不安を振り払います。
「いえ、今考えても仕方ないですね。行きましょう」
庭を抜けてすぐ古城の壁が目の前に迫ります。ワイザール城のそれと比べればその規模はあまりに小さく、造りも歪なものでした。最も高い中央の主塔は本来の屋根の上に、更に小さな塔を継ぎ足したようにも見えます。その脇には高さも屋根の形状も異なる副塔が並び、石積みの城壁がそれらを囲っていました。左右対称な整然さを体現するワイザール城とは全く異なる過程で造られたことは誰の目にも明らかでした。
城門は街道に向いた北側ではなく、切り立った断崖のある南側に設けられていました。ウィゼルたちは城壁をぐるっと回り込んで城門へ向かいます。杖をつくルスの両脇にはウィゼルとミュリがピッタリついて歩きます。
「どうしてこんな造りに……まるでこの岬へ追い詰められているような」
「主は賢い。賢しいものと話すのはまこと愉快よ」
ルスは満足げな笑みを浮かべます。
「その昔、魔獣共がこの世界全土を闊歩していた時代があると言ったら、信じられるかね?」
「あっ」
ウィゼルはゆうべの夢でみた、荒れ果てた大地を思い出しました。
「それって……それがもしかして聖域の森が生まれる前の時代!」
「うむ。そう考えると辻褄が合うのだ。城の中を調べられれば、さらに多くの事が判るはずなのだがな」
「夢で見た光景……色までははっきりしませんけど、土地は今よりずっと荒れていたように見えました。まるで今のカドゥミナと同じように……」
自分の思考が現実世界で具体的な形を成し、欠けた隙間にパチリとはまる。高揚感のようなものがウィゼルのつま先から頭まで駆け昇りました。
「もしかすると、それがこの世界の本来の姿なのかも知れんな」
「ここもみんな枯れてしまう?みんな、どうやって生きていく?」
ミュリは漠然とした不安をボソリとつぶやきました。
「そんなことになってほしくない。させたくない。けど……やっぱり、どうやって『私たちの今まで』があったのか、知らなきゃいけない。ここに導かれたのも、きっとそのため」
南側の城壁と崖の間は荷車のすれ違う街道ほどの広さ。そのくらいこの古城は断崖絶壁の近くに建てられていました。崖に沿って、ほとんどが崩れてしまった石塀の跡が残っています。
「この塀もおそらく前時代のものだが、封印の外というだけでこの通りよ」
ウィゼルが城門の正面に立つと、太陽光を受けて城壁全体が虹色に輝いて目を惑わせました。
「目がまわる……」
隣でその光を一緒に見ていたミュリは胸を抑えて苦しそうに俯きます。
「ミュリ!大丈夫?」
ウィゼルはミュリの背中を擦ります。
「うん。光見てちょっと気持ち悪くなった。大丈夫」
「このような封印の術は今の魔術師にも成し得ぬもの。遠目から見るぶんには美しいが、近くで見つめていると酔うたようになってしまう。気をつけることだ」
「はい、私は今のところ平気です」
ウィゼルはミュリを背の低い石塀に座らせて再び城門と向き合いました。様々な光が格子状に交錯しながら目の奥を刺激します。時折その向こうに古びた城壁や木製の門扉がちらちらと透けて見えました。
「これ、触るとどうなるんですか?」
「まるで雲の中に手を入れるようなものじゃ。掴みどころなく、いくら手を伸ばしても届かぬのよ」
ウィゼルは城門の真正面、光の層に鼻先まで近づいてみます。恐ろしいと感じることはありません。ウィゼルは右の手のひらをそっと光の中に差し出してみました。ルスの言った『雲の中』という表現は、それを経験したことがなくとも、とてもしっくりきました。ウィゼル自身の目には手で触れられる距離に見えますが、腕を目一杯伸ばしてもその感触は得られません。陸上から水中を見るのと同じように、ウィゼルの指は別の何かで満ちた空間で空を切っていました。
「あの夢に似ている……」
ウィゼルの脳裏には絶望の果てに歩いた、感覚を失うような、長いながい暗闇の記憶がおぼろげに浮かびあがりました。
――生きなさい。あなたならきっと、しるべになれる――
嘆きの旅の末に聞いたその言葉はひとつの決断をさせるのに十分でした。
「私、行ってきます」
「行くって、何処へじゃ?」
「このお城の中へ。ずっと歩いていけばたどり着けます」
「なんじゃと?その身であの光の中に入ろうと言うのか。そのようなこと、試した者はかつておらん。どうなるかわからんぞ!」
ルスは少女の身を案じて年甲斐もなくうろたえました。
「はい、きっと大丈夫です。たぶん、私の中に誰かがいて、導いてくれる。そう、不思議と信じられるんです」
「しかしな……ううむ……手を差し入れるのとはわけが違う。無事に戻れるかどうか……」
「ルスさんが長年調べて解けなかった封印です。もし私が鍵を持っているのだとしても、触れるだけで簡単に解けるようなものではないみたいです。今まで試したことがないなら、やって見る価値はあると思います」
「一緒に……行くんだよね?」
ミュリはこの上なく不安で今にも泣き出しそうな面持ちでした。
「ごめん、ミュリ。私、ひとりで行く。そうしなきゃいけない気がする。ミュリのこと、無事に連れていけるかわからないの」
「もうずっと一緒だって、そう、言ったのに!私は……」
「ミュリ……」
「ウィゼルのこと守れないなら、消えたって同じ」
沈黙の合間。遠い波音が変わらぬ調子で繰り返していました。
「私ね、ミュリが待っていてくれるなら、必ず帰って来られる。あのときだって、ミュリは私を見つけてくれた。あるべき場所に戻るには、強い力が必要だと思う。私にとってそれは、ミュリがそこにいてくれることなの」
「あ、ああ……ごめん。私、ウィゼルのこと疑って……ただ、自分のことばかり」
ミュリはこぼれた涙を袖で何度も拭います。ウィゼルはそんなミュリの肩をそっと抱きしめました。少しだけ背が高いウィゼルの鼻を柔らかな髪がくすぐります。
「私もね、怖いよ。ミュリと離れてしまうの。でも、大丈夫。必ず帰るから。そのとき、私の『しるべ』になってほしい」
「しるべ?」
ミュリは泣き腫らした顔を上げてウィゼルの目を見つめます。
「うん。帰りたいと思う場所、そこにたどり着くための光。夜空の星、青空の太陽、絶対に信じられるもの……」
「……わかった。ウィゼル、待ってる」
隣からもグスグスとすすり泣く声。ルスもまた涙を流していました。
「ふう……潮風が妙に目に染みるわい」
「ふふ、今日の風はずいぶん穏やかですよ?ルスさん」
出会った時の少しぶっきらぼうな空気はかけらもない、今やただ好々爺たるその様子をウィゼルは微笑んで見つめました。打算に終始する大人たちに辟易したルスも、子どもたちの無垢で真っ直ぐな振る舞いに、自身の心が救われていることを改めて実感しました。
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