潮風の誘い
魔力ランプの小さな灯りの向こう。暗黒が果てなく続くように見える。それでもウィゼルたちは怖れを抱くことなく、迷わずに歩を進めます。
闇の中に生きてきた、不確かながらウィゼルの半身とも言うべき存在となったアイルは、灯りの外へ消えていっては戻り、盲の者の手を取るようにウィゼルたちを導きます。
その間、ミュリもアイルと少しずつ会話を交わすようになってきました。都の街並み、使用人たちの素朴な料理、旅を共にしたフィンク、城で出会ったオリオーネのこと。新しい話題に刺激を受けるたび、アイルの身体の中の星々が、トク、トク、と明滅していました。
「もう、近いよ」
前を行くアイルが少し嬉しそうに言いましたが、ウィゼルたちに見えるのは相変わらず足元の古びた木道ばかりでした。
「本当?」
「間違いないよ。もう少し行けばわかるから」
会話を重ねるうちにアイルの声にも少しずつ感情がこもるようになってきました。その、わずかに入り混じった不安が暗闇の中ではよく伝わるようでした。
何か気になるのかとウィゼルが問いかけようとしたとき、向かっている先から、ボォー、ボォー、と不気味な音が響いてきました。
「この音は?」
「何かいるの?」
ウィゼルとミュリが同時に声を上げました。
「いえ、この近くには私達しかいない。さあ、こっち」
狭い隙間を抜けてアイルが招く方へ歩いていくとまた、ボォー、という低い音が鳴り始めます。それと同時に今まで沈殿していた周囲の空気が動くのを感じて、ウィゼルは音の正体に気が付きました。
「これは、風?」
「匂いがする。きっと海の匂い」
「やっと、抜けられる。この先が私達の行くべき場所」
ウィゼルたちは長い暗闇の道の終わりに安堵するとともに、一抹の寂しさを感じていました。
「ここ。この先だよ」
アイルの示した曲がり角を過ぎると、真っ暗だった洞窟の壁に細かい光の粒が見えました。それは夜空の遠い星のように揺らめきながら、それよりも強くウィゼルたちの目の奥を刺激します。
洞窟の出口から射し込む光が幾条もの細い糸となって横切る空間。その幻想的な光景はウィゼルの心を静かに揺さぶります。
糸の道を左手で爪弾くと、黒い痣の残る手のひらで光の粒が踊ります。チリチリと砂が落ちるような、かすかな音が聴こえた気がしました。
「これは、木洩れ日?」
洞窟の出口は鬱蒼とした緑に覆われ、それが太陽光を無数の糸に分散させていました。
「やっと、外。見てくる」
ミュリは光の糸を辿るように、朽ちた木道の上を早足で歩いていきました。
「ミュリ!気をつけてね」
ウィゼルが振り返るとアイルは光の糸を避けるように、洞窟の壁沿いで小さくなっていました。
「アイル?」
「やっぱり、だめみたい。私はここを出られない」
「え、そんな」
「わかってた。見た目は変わっても、本質は変わってない」
アイルがゆっくりと右手を上げ、光に触れると、その指先がすっぱりと切れたようになくなってしまいました。
「驚かないで、大丈夫よ」
アイルが暗闇に手を引くと、その輪郭は再び元に戻りました。
「ウィゼル、あなた達はこのまま進んで。あなたの行くべき場所へ……私はもう少しこの闇を彷徨う。私の行くべき道を探してみる」
「アイル……」
ウィゼルは言葉を重ねるのではなく、アイルの右手を取っていたわるようになでました。
「ありがとう。私にはこれで十分。ここで、お別れだね」
「いいえ、アイルはもう私の一部だもの。お別れは言わないでおくよ。きっと、またこうしてお話しできるときが来るはずだから」
アイルはその身体の内の煌めきをいっそう瞬かせながら、大きく頷きました。
「わかった。それじゃあ、また」
「必ず、またどこかで」
どちらからともなく互いの手のひらを重ね合わせると、触れた場所から淡く蒼い光の粒子が立ち昇って、暗闇に溶けていきます。二人の間には、それ以上の言葉は必要ありませんでした。
やがてアイルのぼんやり光る輪郭が消えて、残された煌めきは洞窟の奥の闇へ散り散りに遠ざかっていきました。
ウィゼルはかつてもそんな光景に出会ったような気がして、手のひらの感覚が消え去ったあともしばらく深い暗闇を見つめていました。
――――
「そう……アイルも旅に出たんだ」
「うん、私たちも行こう」
ミュリは洞窟の出口を覆う蔦を短剣で切り落としていました。あまり切れ味は良くなく、身体全体を使って蔦を引っ張ったりして、やっと獣道ほどの隙間ができると、ミュリはするりと抜けていって辺りの様子を伺います。細く捻じれ曲がった木々とそれに絡まる蔦が小さな林となって辺りを囲んでいました。
ミュリは、大丈夫、と手招きをします。ウィゼルは一瞬だけ暗闇の方を振り返ってから洞窟を出ました。
見上げると枝葉の隙間から真昼の青空が見えます。少しずつ光を浴びて、暗闇の中で失われていた感覚が戻ってきます。
複雑に絡まった植物たちをかき分けながら、その樹皮や葉の感触がウィゼルの懐かしい感覚を刺激します。ほどなくして、急に視界が開けました。
「わあ……」
ウィゼルは目を見開いて驚嘆の声をもらしまた。
眼前に広がる水平線。その真ん中に浮かぶ岬にはポツリと細長い塔が建っています。岬の手前は鮮やかな緑の平原がなだらかに下り、また登りながらウィゼルたちのいる林まで続いています。湾になった海岸付近には色とりどりの家屋が集まって小さな町を成していました。
時折、海から強い風が吹きつけてウィゼルの髪を乱します。
「あれがヴォーレンだよね、きっと。奥に立っているのが古城……夢で見たのとそっくり。それにしても何だろう、この匂い」
「海の水と波の匂い。そうか、ウィゼルは海を知らなかった」
「これが……あの、蛇の海」
身をもって海を体感したことのないウィゼルにとって、青い水を湛えた世界の果ては、想像よりずっと美しく煌めいて見えました。
「そう。私には少し、怖い」
「ミュリはあの海をさまよってここまで来たんだよね……大丈夫だよ。今は私がつないでいるから」
そう言ってウィゼルはミュリの手をぎゅっと握りました。
「うん、ありがとう」
ふたりは暗い洞窟を歩き通した疲労も忘れ、光と潮風を目一杯浴びながら軽い足取りで進み始めました。
海岸に向けて足元に広がる緑たちは、ウィゼルの知るかつてのカドゥミナや城の園庭のそれとは異なる不思議な植生でした。丸っこく肉厚な葉に触れるとぷるっとした弾力感が指に残ります。
「おーい!アンタたち!」
ウィゼルたちの向かう方から少年らしき声が聞こえてきます。ウィゼルはミュリの前に立ち、その声の主が近づいてくるのを緊張して見つめます。ウィゼルたちよりは少し小さい、活発そうな少年でした。
「なあ、アンタたち、あの林から出てきたよな?」
全速力で走ってきた少年は息を切らしながら言葉を絞り出します。武器らしきものは持っていない様子で、ウィゼルは少し警戒を解きました。
「えっと……そう……だけど、それが何か?」
「あの林の奥に、洞窟があるって、ホント?」
「え?ええ、洞窟はあったけど」
「やっぱり!嘘じゃなかったんだ」
少年は拳を握りしめて目を輝かせました。
「で、どうだった?覗いてみたりした?」
「えーと、覗いてみたというか、通ってきたというか……」
「ええ!洞窟に入ったの?魔獣はいた?お宝は?」
ウィゼルの言葉を聞いていたく興奮した様子の少年。そのまくし立てるような質問攻めにウィゼルは気圧されながら自らの軽率な返答を悔いていました。
「ごめんなさい。あまり詳しいことは言えないの」
「えー!そうか、やっぱり何かすごいものを見つけたんだ。すごいぞこれは」
「ちょ、ちょっと……」
「ねえ、あの町の子だったら、案内してもらう?」
ミュリが少年へ聞こえないよう小さな声でウィゼルに耳打ちしました。ウィゼルはハッとなって思考を巡らせます。少年を利用するようで少し気が引けますが、これがこの場の最適な行動だと思えました。
「あなたはヴォーレンの人?私達このあたりに詳しくないの。旅のお話を聞かせる代わりに町を案内してもらえたら助かるんだけど」
「本当に?やった!案内ならいくらでもするよ。母ちゃんに見つからないように……だけど」
「ありがとう、助かるわ。私はウィー、そしてこっちはミュー。理由あって顔は出せないの、ごめんなさいね」
「俺はマイルズだよ。潮くさい町なんてもうつまらなくってさ。姉御たちの話楽しみにしてる!」
「あ、姉御って、それ私のこと?」
「うん、ダメかい?俺なんかまだまだひよっこだし。その方が冒険家らしいだろ?」
「あ……まあ好きに呼んで……ちょっとむず痒いけど」
マイルズ少年の先導でウィゼルたちはヴォーレンの町に向けて歩き出しました。
遠く見える町並みを目指すうち、やがて小さな街道に出ました。一方はそのままヴォーレンへ向かい、反対側はウィゼルたちの抜けてきたナズルの断崖を迂回するように続いています。
「あれは、都とつながる道……あの人、私たちは死んだことにすると言っていたけど、何があるかわからない。気をつけよう」
「うん」
「都は、お城は、今どうなっているのかな……」
――――
「姉御たちはどうしてこんなところに?魚はいっぱい穫れるけど、他は何も……あ、もしかしてあの城かい?」
マイルズは徐々に光の靄が薄くなってきた遠くの古城を指差しました。
「ここらでお宝を探すって言ったら姉御たちの出てきた洞窟か、あそこくらいだもんな」
「そうだね。そんなところ」
「じゃあもしかして、ルス爺の知り合いなの?」
それは、ウィゼルたちに道を示したダリオスから聞いた人物の名でした。
「あなた、ルスっていう人を知っているの?」
「うん、知っているよ」
「私達、その人へ会いに行こうとしていたの。居場所を教えてくれると、すごく助かる」
「もちろんさ!ルス爺ってば町のみんなと気が合わないみたいで、城のそばに小屋を建てて、そこで一人でいるんだ」
「あなたはルスさんとどういう関係なの?なんだか親しそうだけど」
「俺はルス爺の、えーっと……十二人目の弟子さ!たまに買い出しなんかを手伝ってるんだ」
「そうだったんだ」
「あの城誰も入れなくてさ。ルス爺、ずっと調べてるらしいんだけど、足を悪くしちゃってさ」
「それでお手伝いか。優しいんだね」
「ルス爺のやってること、俺にはさっぱりわからないけど、なんかこう……ロマンあるよな、って」
少年と会話しているうちに、ウィゼルたちはヴォーレンの町に到着しました。
小さな家々がぎゅっと寄り集まった、ひなびた港町。明るい色をしたレンガ敷の道が民家の間の狭い隙間を通って港まで続いています。そこは確かに、マイルズ少年の言ったように独特な生臭さを含んだ潮の香りに満ちていました。
「海の匂い、ずいぶん強くなった。海が近いからかな?」
「半分くらいは魚の匂いさ。みんな魚ばっかり食べてるからな」
「さかな……ああ、海の中にいる生き物ね。聞いたことがある」
「もしかして、魚を見たことがないのかい?」
マイルズ少年はたいそう驚いた様子で振り返りました。
「ええ、そう。見たことはない」
「あっちに行こう!」
マイルズは町の通りからひらけた方を指差すと小走りで駆け出しました。ウィゼルたちも周囲の目を気にしながらそれに続きます。小さな町なのにあちこちから聞こえる威勢のいい声。それは中央都の市場の活気を思わせました。
ごうごうと聞こえてくる、風の音とは違うそれが少しずつ近づいていきます。町と海の境目とも言える小高い堤を登ると、眼下に揺れ、弾ける白波。遠目からはただ静かな平原のように見えた水面も、呼吸のように絶えず、大きく上下し、打ち寄せているのがわかりました。
それを見つめていると、まるで自分の身体まで揺り動かされているような気分になって、ウィゼルはふらついて倒れそうになりました。
「だいじょうぶ?」
「ああ、うん……海ってこんなに動いているんだ。霊泉の静けさとはまるで違う。生きているみたい」
海から吹きつける風は生ぬるくて湿気が多く、それ故にどこか生命の息吹を感じさせます。
「もっと近くに行こう」
マイルズが海側の坂を駆け下りていくと、ウィゼルもそれに続きます。
「あ、ウィゼル!」
躊躇いなく下りていったウィゼルを見てミュリは慌てて追いかけます。堤の先には砂浜が広がり、遠浅な沖に向かって一本の石垣がまっすぐ伸びていました。その先端はなだらかに下って、碧く透明な海面へと入り込んでいます。
ウィゼルはさらに石垣の先まで走って行って、足元に打ち寄せる透明な波を見つめています。
「ウィゼル、あんまり近づいたら……」
「すごい、すごいよ!海ってこんなに生きてるんだ」
ウィゼルは珍しく高揚した様子で追いついて来たミュリの手をとります。
「うん。だから飲み込まれそうになる」
「あ……ごめん。ミュリにとってはそうだよね」
「姉御にも苦手なものがあるんだね。海が危ないっていうのは本当さ。魔獣なんかよりずっと怖いときあるし。でも今日の海は大丈夫かな」
マイルズは石垣に腰をおろして海面に足をつけると、ひとつ蹴り上げてばしゃと音をたてます。
「ほら、そこ見て!クルだよ。でっかいなあ」
マイルズの指差す先、揺れる水面の下で大きい何かが動いているのが見えましたが、その形までははっきりわかりませんでした。
「あれがさかな?よく見えなかった。水は透き通っているのに、全然目が追いつかない」
「ちょっと待ってて!」
マイルズは突然上着を脱ぎ捨てて海に飛び込むと、岩場の方へと泳いでいきます。大きな岩の近くで立ち泳ぎをしながら様子をうかがうと、一瞬縦に真っ直ぐ浮かび上がって勢いよく頭から潜りました。水面下の動きはウィゼルからはよく見えません。
「すごいな。水の中であんなに動けるんだ……」
やがてマイルズの頭が浮上し、一息ついた後再び潜降していきます。それを何度か繰り返した後、マイルズはウィゼルの元まで泳いで戻ってきました。
ベチャッ。マイルズの手からウィゼルの足元に色鮮やかでブニブニした手の平ほどの大きさの不思議な物体が置かれました。
「これが、さかな?」
「ホントはクルを捕りたかったけど、やっぱり素手じゃ無理だったよ。魚じゃないけど面白いんだよ。こいつ」
真ん中に小さな穴が空いた円盤のような形。その外周は青く縁取られ、その色は少しずつ色相を変えながら内側に向けて徐々に薄く滲んで、生き物とは思えない模様を浮かばせています。
「見てて!」
海から上がったマイルズがその円盤の表面をチョンと触ると、表面の色相が波打つように変化していきます。
「わあ、きれい……」
「この真ん中のところ触ってみて」
ウィゼルは言われるがまま円盤の中心の穴に指を伸ばします。
指が穴の縁に触れた途端、穴の中から細い触手のようなものが飛び出してウィゼルの指に絡みつきました。
「きゃあ!何これ」
「アッハハハ!大丈夫、毒は無いよ」
「うう、ぬめぬめする……」
ウィゼルは眉尻を下げながらもどこか楽しそうに、指に張り付いた触手を剥がしていきます。
「面白いでしょ?カヌバリっていうんだ。大人たちは割って中身を美味しそうに食べるけど、俺はあんまり好きじゃないかなあ」
「そうなんだ」
ウィゼルは触ると硬い円盤を指で挟んで持ち上げ、鮮やかな色を太陽に透かして見ていました。
――――
その後マイルズ少年は、ウィゼルたちをルスのいる古城まで案内すべく、より一層奮起しました。ウィゼルたちを連れ、古城側の門に向かい勇んで歩きます。ですが、町ですれ違う大人も子どもも、誰も彼もがマイルズ少年に何かしら声をかけ、なかなか歩みを進めることができません。
――何処へ行くのか。連れている旅人さんはどちらから。この間の漁で父親が痛めた腰は大丈夫か。次はいつ遊ぶ?
「あー!俺は今大切な役目を背負ってるんだ。また今度な!」
先を急ぐ気持ちと相反する足止めに堪えかね、マイルズ少年が通りの真ん中で叫ぶと、呼応するように遠くから怒鳴り声が聞こえてきます。
「マイルズ!そこにいたのかい!」
「あっ、母ちゃん」
ウィゼルたちが後にした港。そこに隣接した作業場から、マイルズの母は驚くほど通る声を張り上げていました。
「父ちゃん動けなくて大変だってのに、何遊んでんだい!シーズはお手伝いしてるんだよ」
「でも、俺はあね……旅人さんを――」
「私たちなら大丈夫。もう十分教えてもらったから」
ウィゼルはマイルズの返事を遮るように声を上げます。
「え?でも……」
「家族が大変なときは一緒にいてあげるの」
ウィゼルは膝に手をついて腰を折り、目線をマイルズ少年に合わせます。
「……うん。姉御がそう言うなら、そうするよ。そうだ!ちょっとだけ待ってて!」
そう言うとマイルズは母親の元へ駆けていき、作業場で何やらして、網に入った何かを持って戻ってきました。
「これ、ルス爺に持っていって。ルス爺、ナンタの干物が大好きなんだ」
「ありがとう。渡しておくね」
「それじゃあね!」
言いながら作業場へ駆け戻るマイルズを、ウィゼルたちは手を振って見送りました。
「じゃあ、行こうか」
干物の独特な匂いが鼻を突く、午後の陽に包まれた港町の空気。闊達な人々の声がウィゼルたちの耳に小気味よく鳴り響いていました。
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