闇の中へ

 ウィゼルたちは車の中で数々の荷物と一緒に揺られながら一日かけて荒野を進みました。遠く霞んでいた断崖が近づくに連れ、空と断崖の頂きとの境界線がはっきりと映し出されると、ウィゼルはその威容に圧倒されました。地平の向こうから巨大な壁が迫ってくるようでした。ミュリも隣で口をぽかんと開けたままそれを見上げていました。

 日が傾くと断崖は幕となって夕日の色を映し出し、頂上付近は日没の最後の最後まで名残惜しそうに色を残していました。



「あんなに高い崖、一体どうしてできたんだろう」

 荒野の只中で明かす一夜。ウィゼルは不自然に星空が途切れる場所を見つめてつぶやきました。

「巨大な化物が南の海を引っ掻いた傷痕だとか聞いたことはあるが、そんな話は好きじゃないな」

 御者は焚き火の世話をしながら肩をすくめて答えました。

「どうしてですか?」

「あれを不思議だと思うなら、今我々が踏みしめている大地だって同じことだろう?どのようにしてできたのか、誰もわからない。今、目の前にあるもの、それがすべてさ」

「確かにそうかも知れません。でも、空想するのも偶には悪くないですよ。私自身もすっかり忘れていましたけど」

 ウィゼルはそう言って焚き火の近くまで戻ってきて、手のひらを焚き火の炎にかざします。パチパチと音が弾け、火の粉が幾筋も天に向かって昇っては消えていきます。


 御者はしばらく神妙な顔で何か考え込んだ後、慎重に言葉を選びながら口を開きました。

「私は今まで大勢の客を見てきた。無用な身の上話は好みじゃないが、話を聞かずとも客の身なりや顔が語っている。困窮に耐えかね都に夢を見る若者。逃げるように都を去る成金風情……あえて聞きたい。中央都を避ける理由は一体何なんだ?ましてや嬢ちゃんのような歳でだ」

「やっぱり、怪しい……ですよね」

「私は客を選ぶことはしない。嬢ちゃんたちが何者でも貰った額には応えるさ。ただ、気になったんだ。このまま踏み入らないのが本当にいいことなのか」

「すみません、なんと答えたらよいか……」

「そうか……そうだな。嬢ちゃんがもし一人だったなら、無理矢理にでも事情を聞き出しただろう。だが嬢ちゃんには相棒がいる。だからいいんだ。ふたりが信じられる道を進むことだ」

「ありがとう」


 幌の中で先に眠っていたはずのミュリは目を覚まして外の会話にそっと耳を傾けていました。

「じゃあ少しだけ、私の事を話そう」

「いいんですか?私が聞いて」

「もちろんだ。私の名はレイゼン。今はしがないフィンク屋だが、昔は世界各地を巡りながら秘境を求めて冒険していた」

 ウィゼルは黙ったまま興味深そうに語る姿を見つめていました。

「ナズルの断崖もその一つだ。頼りない足場から何度も滑落しかけ、ようやく頂上へ辿り着くと、そこは鳥たちの楽園だった」

 その言葉を聞いた途端、頭の中にまた遥か上空からの景色が流れ込んできてウィゼルは目を瞬かせました。

「一本の大きな樹……白い、長い、たくさんの翼……赤茶けた岩肌に、無数の鳥たちの家」

 炎を見つめながらそう呟いたウィゼルに、レイゼンは信じられないといった様子で大口を開けて目を白黒させました。

「何故、知ってる。誰かに聞いたのか?」

 ようやく言葉を絞り出したレイゼンは訝しげに眉間に皺を寄せてウィゼルを睨みました。

「わかりません。気がつくと空からの光景が目の奥に流れ込んで来るんです。誰かから聞いたこともないですし、ましてや自分の足で登ったこともないんです」

 ウィゼルは少し震えながら自分の掌を見つめていました。

「まさか――いや、私は魔術にはてんで疎いが、最近の魔術はそんな事も可能なのか?」

「どうなんでしょう。少なくとも世にいう魔術とは違うと思います。望まなくても勝手に現れるんですから」

「それも込み入った事情のひとつか……だが、わかったよ。参ったな。自慢話のひとつもできないとは」

 レイゼンは今にも後ろに倒れ込みそうなほど仰け反って夜空を仰ぐと、自嘲気味にため息をつきました。

「すみません。でも、自分の足で登られた事の方がすごいです」

「おいおい、嬢ちゃんもこれからあの崖を超えるつもりなんだろ?」

「あ、そうですよね。がんばります」

 ウィゼルの淡々とした答えに、レイゼンは突然大口を開けて軽快な笑い声を夜の荒野に響かせます。

「あんた、人をたらし込む才能があるよ」

「どういう意味ですか?それ」

 からかいに戸惑うウィゼルの様子を見てレイゼンはまだ笑っていました。

「いや、すまん、冗談さ。人を惹きつける何かがあるということを言いたかった。嬢ちゃん自身は気づいていないのかもしれないがな」

「そんなこと……私は……」

「いずれわかるさ。さあ、今日はもう休んだ方がいい」

「そうですね。レイゼンさんは休まないんですか?」

「私はもう少し火を見ておく。どうぞお客様は気にせずお休みください」

「わかりました。では、おやすみなさい」

 ウィゼルは会釈をしてから車の幌の中へ入っていきました。



 御者は一人、炎を見つめ、自らの過去を見つめ、少女たちの未来を案じました。そしてその後も一晩中、冷たい風から少女たちを守るように焚き火の番をし続けました。その時間と空間は、御者を自分自身が夜空に散る星のひとつにでもなったような気分にさせました。



――――



 荒れ野の明け方は大変冷え込みますが、レイゼンの守った火のおかげでウィゼルたちはよく眠れました。

 目を覚ましたウィゼルの隣にミュリの姿はありませんでした。既にもう起きて外に出たのだと思いながらもウィゼルは不安に駆られて外に飛び出しました。

 ミュリは車のすぐそばでフィンク達と触れ合っていました。その姿を見てウィゼルは安堵しました。無駄な心配をしたことを悟られないように息を整えてからミュリたちの元に向かいました。

「おはよう。ミュリ」

「ウィゼル!おはよう」

 ミュリは普段あまり見せない溌剌とした顔でウィゼルを迎えました。

「どうしたの?何だか妙に嬉しそう」

「そうだよ。朝、起きたらウィゼルがそばにいるんだ」

「あ……うん。私もこの前みたいな夜明けはもう嫌だもの。だから、私も嬉しい」

 ふたりが微笑みあうと、一緒に旅をしてきたフィンクが低い声でひと声鳴きました。レイゼンの連れる二頭のフィンクとも馴染み、落ち着いた様子でした。


 ウィゼルたちはレイゼンが用意した香ばしい調味料の効いた朝食を食べてから、再び断崖へ向けて出発しました。昨日より強い風がフィンク達の体力を奪うため、休み休みの道程でした。ウィゼルとミュリは幌の中からフィンク達の様子を気にかける事しかできませんでした。


 断崖の根本に辿り着いた頃には荒野での二度目の日没を迎えていました。レイゼンは陽が沈み切る前に急いで状況を確認します。

 まずは断崖を登って行く道。ゴツゴツした岩の突き出す壁面には折り連なるように足場板が巡らされていますが、一様に劣化し、とても頼りにできるものではなさそうでした。試しに登り口の板に足をかけてみると、固く軽い音と共にその断面から木くずが舞います。

 一方、断崖の根本に小さく空いた洞窟の入り口にはかつて使われていた篝火の跡が遺されていました。もちろん今は往来する人の姿などありません。真っ暗な洞窟の奥を覗き込んだ後、レイゼンは懐かしむように断崖の高みを見上げてから、ウィゼルたちの元へ戻っていきました。


「洞窟を行こう。予想はしていたが、壁面の足場は劣化が激しい」

「わかりました。フィンクたちはどうするんですか?一緒に洞窟へ?」

「かつては車も通れた道だが、今はどうなっているかわからない。とはいえ物資も必要だ。様子を見ながら連れて行こう」

「この子達、暗い所は大丈夫でしょうか」

「こいつらは暗闇を恐れたりしない。それよりも足周りが気になるところだな。木道が生きていればいいんだが……」


 その夜はウィゼルたちが夕食を準備しました。荷に積まれた食材はいずれも保存のきく味気ないものばかりでしたが、ふたりは工夫をこらして、ささやかで暖かい料理をこしらえました。レイゼンはその味をいたく気に入って、うまい、うまいと言いながらふたりが食べるより多くの量を一人で平らげました。



――――



 明くる朝、フィンクの引く車はゴトゴトと音を立てながら洞窟の暗闇に滑り込みました。そこはウィゼルが想像していたよりずっと大きい空間のようです。レイゼンの持つ魔力ランプは足元の木道だけを照らし出していました。フィンク達はそれを頼らずとも足先の感触を頼りに進んで行きます。幌の中にもランプが吊るされ、その下でウィゼルとミュリは夜より暗い空間に耳をそばだてていました。フィンク達の足音と車輪の音が、ガラガラ、ゴトゴト、と幾重にも響き渡り、闇中に眠る何かを呼び起こしてしまいそうな感じがしました。


 ミュリは外の真っ暗な空間に少し怯えた様子で、ウィゼルの服の裾をギュッと握っていました。

「ミュリ、大丈夫?」

「こうしていれば、平気」

 ウィゼルはそんなミュリを慈しむように見つめました。

「ねえ、あの子に名前をつけてあげない?」

 ミュリの不安を紛らわそうと、ウィゼルが提案しました。共に旅をし、今も自分たちを引っ張ってくれているフィンクに何かしてあげたいと思ったのです。

「うん、いいね」

 ウィゼルの期待通り、ミュリの表情が少し明るくなりました。

「何がいいかな」

「……ツェクレクは?」

「それって……」

 ミュリの提案した名は、ウィゼルが不思議な力を発現した時に突然降りてきた言葉でした。

「何となく、たぶん大事な意味。だから、名前にすれば忘れない」

 ウィゼルはそんな事考えもしなかったというふうに目を大きく見開きました。

 ウィゼルはその力のことを、何か気味の悪いものに取り憑かれてしまったと、ある種の忌まわしさを感じていました。だから、その言葉に寄り添うことなど考えもしませんでした。

「ミュリは……そう思う?」

「私を助けてくれた。あれは、ウィゼルの心だと思ったよ」

 それを聞いた途端、ウィゼルは身体の奥から熱を発し、まぶたの裏まで満たしていくのを感じました。

「あれ?どうしてだろう……」

 ウィゼルは少しばかり溢れた涙を指で受け止めます。濡れた指先はすぐに冷たく乾いていきました。 

「ウィゼル?」 

「ごめん、大丈夫。そうしよう。あの子の名は『ツェクレク』」


 その時ウィゼルは不意にオリオーネのことを思い出しました。音の無い洗礼の森で彼女から向けられた眼差し。慈しむような瞳。青白い空気。

 別れる間際、何も伝えられなかったことをウィゼルはほんの少し後悔しました。

 オリオーネがどんな気持ちでウィゼルたちを見送ったのか、知りたいと思いました。

 オリオーネは今どうしているのか、知りたいと思いました。


――きっと、城壁の中でオリィさまはまた独り――



――――



カタカタ、コトコト、ウィゼルたちを乗せた車は暗闇の中を進みます。時折、車輪が石か何かを踏んで車が跳ねると、狭い車内に積まれた荷物に頭がぶつかります。ウィゼルはぶつけたところを擦りながら何度も荷物の山を崩れないように直していました。


 そうしてしばらく経った頃、フィンク達が急に足を止めて車が停止しました。

「どうしたんですか?」

 ウィゼルは幌から顔を出してレイゼンに呼びかけます。

「どうも木道が途切れているようだ。まだ降りないでくれ」

 レイゼンはランプを持って御者の席から降りると、ゆっくりと暗闇の向こうへ歩き出しました。静まり返った洞窟に固い石や砂利を踏みつける音が幾重にも重なり、まるで大勢の人が歩いていくかのように錯覚させます。

 レイゼンが照らした道の先は大きく崩れた土砂によって塞がれていました。崩落した跡からは水が滴り落ち、周囲に水溜りを作っています。

「これはまずいな……」


 レイゼンはその後さらに別の方向も覗いてから車の場所まで戻ってきました。

「ルートが落盤で塞がっている。このままここを通ることは出来ない」

「そんな……じゃあ、向こうには辿り着けないんですか?」

「安全を考えれば引き返さざるを得ないだろう」

 諦めるように肩をすくめたレイゼンに対し、ウィゼルの目には迷いはありませんでした。

「危険でもいい。何か道はないんですか?」

 それを聞いたレイゼンは口元をニヤリと釣り上げました。

「良かったよ。ここで諦められたらどうしようかと思っていた。選択肢は二つ。無数に伸びる洞穴から別のルートを探すか、無理矢理にでもここを通るかだ」

「無理矢理って、一体どうするんですか」

「崩落の上部は比較的土砂が薄い。そこを掘って身体ひとつで抜ける。フィンクたちは置いていく」

「それじゃあ、あの子達は――」

「うまくすれば自力で帰る事ができるかもしれないが、どうだろうな」

「ツェクレクのこと、捨てて行くなんて……」

「名前を付けたのか?」

 レイゼンは呆れた風で笑い混じりに言いました。

「はい、大事な仲間ですから」

「まあそれはいい。だが、もうひとつの選択は勧められないな。横穴はいくらでもあるが、迂回したところで出口へつながる保証などない。ましてやフィンクを連れてとなれば尚更だ。あまりに歩の悪い賭けだ」

「そう、ですよね……わかってます。この暗闇を抜けるのが今は優先」

「ツェクレクなら、大丈夫だよ。大事な名をつけたんだもの」

 ウィゼルにだけ聞こえるくらいのミュリの声。その言葉に根拠はなくとも、ウィゼルにとっては不思議と不安を包み込んで心のざわめきを沈めてくれるものでした。

「そう、そうだ。あの子は強いから。きっと――」

 俯いていたウィゼルは顔を上げると、おもむろに車を降りてツェクレクの元に歩いていきました。

 ウィゼルは視線を合わせながらツェクレクの首元を撫でます。その毛は砂埃で随分と汚れていました。

「ツェクレク……」

 ウィゼルが小さく息を吐くようにその名を呟いた瞬間、ウィゼルの胸のあたりから眩い光が放たれました。その光は広大な洞窟の全容を照らし出すほど強く、しかしほんの一瞬で消え、目を眩ますことさえありませんでした。


「何だ今の光は?あれも嬢ちゃんの力なのか?」

 驚いたレイゼンが慌ててウィゼルの元に駆け寄ります。

「わかりません……でも怖い感じはしませんでした」

「確かにフィンク共も落ち着いているようだが……」

 ミュリは他のフィンク達をウィゼルと同じようにしてなだめていました。しかし、レイゼンの言う通りフィンク達があの光に驚いたような様子は全く見られませんでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る