導きの一歩目

 カドゥミナの大路にある宿は昨夜の事件の話で持ちきりな様子でした。

「まったくいい気味さ。何が『革命者』だと――やあいらっしゃい」

 待合場で客と話し込んでいた店主らしき人物がウィゼル達に気がついて声をかけます。

「あんた達だね。騎士方から聞いているよ」

 大きな体を揺らしながら歩いてきた男は、入口に立つウィゼルたちの姿を見てすぐに判った様子でした。

「はい、あの名前は――」

「ああ、そこに帳簿があるから書いておいてくれ。部屋は二階に上がって左側の一番奥だよ」

 店主は懐をまさぐって鍵を取り出すとウィゼルへ手渡します。ミュリは昔のように外套を目深に被って目立たないようにしていましたが、店主は怪しむこともなく踵を返し待合客との談話に戻っていきました。


 活気を失ったカドゥミナにあってこの宿は繁盛しているらしく、受付の奥では数人の男女が忙しそうに行き来しています。

 ウィゼルは卓の上の帳簿に名前を書くと、ミュリとともに二階へ上がっていきました。

「何だか、宿舎を思い出す」

 ミュリがボソリと呟きます。

「そうだね。たった幾日か前なのに、もう随分昔のことみたい」

 素朴な造りの廊下を歩きながら、ふたりは妙な感傷に浸っていました。カチャリと鍵を開けて部屋へ入るとそこは宿舎と同じ二人だけの空間になりました。


「疲れたね……」

 ウィゼルは寝床へ腰掛けると息を深くついて目を閉じました。窓から濃い夕焼けの色が射して、部屋の中にふたりの影をつくります。

「うん……あのねウィゼル、私、どこまでだってあなたについて行く。独りには、絶対にしないから」

 ミュリは静かに語りました。それはウィゼルへ向けただけでなく、自らの心、そしてこの世界への宣言でもありました。

「ありがとう、ミュリ。私、不安な顔してたかな」

「ううん。今そう想っただけ」

「そっか……いつかまた、どこか静かな場所で暮らせる日が来るのかな」

 会話が途切れ、疲労感に任せて寝床へ倒れ込むと、ふたりともすぐに眠りにつきました。赤く焼けた空の色が部屋を暖かく満たしていました。


 ――――


 ウィゼルは眠りの間、まるで自分が見てきたかのように、いくつもの不思議な光景が頭の中を流れていくのを感じました。

 それらは一様に高い空から見下ろす視点で、視界の端はぼやけるものの、中心は妙にくっきりと地上に揺れる木の葉一枚の形まで見通せました。

 最初に広がったのは鬱蒼とした森、その中でぽっかりと丸く一枚の鏡のような泉が太陽を澱みなく反射しています。

 次には大きな宮殿と園庭。城壁の外には小さな建物がひしめき合って街を成しています。

 街道、海沿いの街、白い砂の荒地。知った場所、知らない場所、様々な土地を俯瞰した映像がただの夢とは思えないほど精細にウィゼルの頭の中を通り過ぎていきました。


 ――――


 ウィゼルが目を覚ますと、部屋はすっかり静寂をまとって暗闇に落ち、魔力ランプの灯りがひとつだけ、孤独に浮かんでいました。窓の向こうでは夜が薄れ始め、まもなく明日が訪れようとしています。

 ウィゼルがまだぼんやりした目で薄明を見つめていると、カタ、と遠慮がちに扉の閉まる音が聞こえました。

 振り返るといつの間に起きたのか、ミュリが片手に籠を持って立っていました。

「これ、部屋の前に置いてあった」

 差し出された籠には大きな丸々としたパンが四つ乗っていました。

「宿の人が用意してくれたのかな」

 顔を近づけて息を吸い込むと、穀物の香りがふわりと鼻を抜けていきます。

「お腹も空いたし、いただこうか」

 ミュリはウィゼルが手をつけるより早くパンを手に取り、小さく千切った一欠片を自らの口に運び、もぐもぐと顎を動かしながら深く頷きました。

「うん、大丈夫」

「ふふ、ありがとう」

「思い出す。ウィゼルが倒れたとき」

「ああ、あの時はミュリの看病に本当に助けられたね」

 ウィゼルはその時見た、そしてつい最近にも見た、夢のような幻のような出来事を思い出しました。


 ――あの祈りは、本当にただの夢?――

 無意識の内に幾度か現れた、現実味のない出会い。


 ――私が終わらせたものは、何?――

 手には錫杖があっけなく折れた時の感触がまだ残っていました。


「ウィゼル?」

「少し、怖いの。何か取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないかって。あの力がその代償だとしたら……」

「私、言ったよ。ウィゼルを独りにしない」

 ミュリはウィゼルの震える手をそっと握ります。

「本当はまだ、迷ってるの。もし私たちとこの世界が相容れないのなら、取るべき道は他にあるのかなって」

「あの影の言っていたこと?」

「あれも私のひとつなのかもしれない。他にも、まだいるのかもしれない」

 ウィゼルはまたあの影に引っ張られるような感じがして、目をきつく瞑って頭を抱えました。


「ウィゼルのきれいな目が好き」

 長い静寂の後、ミュリは掠れそうに小さな声で呟きました。

「フィンクのごわごわした背中が好き。小さな部屋の床板がきしむ音も、パンの匂いも、生きた木の皮の感触も……みんなこの世界にある」

 ウィゼルは顔を上げてミュリのことを見つめます。乱れていた吐息が徐々に落ち着いていきました。

「ミュリ……私またおかしくなってた。ありがとう。しっかりしないとね」


 ふたりは残りのパンを頬張りながらこれからの旅路に思いを馳せます。部屋の外に満ちた薄明は小さな窓から静かに入り込んでふたりの姿を染めていきました。



 ――――


 ウィゼルたちが客室を出て受付へ鍵を返すと、後ろから豪快な笑い声が響きます。店主は昨日と同じ場所で別の客と話し込んでまた大いに盛り上がっていました。掃除をしていた女性がウィゼルたちへ送る言葉をかけると、気づいた店主はウィゼルたちの方へ振り向いて大きな声を上げました。

「御者が来ているよ」

「はい、ありがとうございました」

 ウィゼルは宿の朝の喧騒に負けないよう声を張って礼を言いました。


 宿を出るとすぐ脇にフィンクの車があり、何か考え込むような姿勢で御者らしき男が一人座っていました。

「あの――」

 その男は顔を上げてふたりの姿を認めると、細い目を大きく見開きました。

「あんた達かい?ヴォーレンへ行きたいっていうのは」

 戸惑い気味の御者の声を聞いてウィゼルはすぐに思い出しました。

「もしかして、あのときの御者さんですか?」

「おや、以前も乗っていただいたことがあったかな。悪いが客の顔は――」

「あの子は元気ですか?また会えると思ってませんでした」

 明るい声に遮られて御者は額に皺を寄せながら目の前の少女の顔を見つめました。

「ああ、思い出したよ!うちのフィンクをずっと見ていた」

 御者は急に大きな声を上げて嬉しそうに目を細めました。

「あいつは今も元気に走ってるよ。確かあの時は中央都行きだったか」

「はい、あの時はありがとうございました」

「しかし、そんなに昔だったか?その間に随分と大人びたものだ。もう嬢ちゃんとは呼べないかな」

 ウィゼルは少し恥ずかしそうに微笑みながら視線を逸らしました。

「それで、そちらは貴女のお連れで?」

 ウィゼルの背後に隠れ、全身を外套で覆い隠した姿を御者は不思議そうに覗き込みました。

「すみません、訳あって顔は……」

 ウィゼルはそれ以上を言い淀みました。

「おっと失礼。客の素性を詮索など柄にもないことを。さあ、乗ってくれ。中で話を」

 ウィゼルたちは御者に手を引かれて幌の中に入りました。


 狭い車の座席にウィゼルたちと御者が向かい合って座りました。外の賑わいが遠のいて、埃っぽい空気と土の匂いがなぜだか少しウィゼルの心を落ち着けます。

「まず、ヴォーレンへ向かうには中央都を経由することになるんだが――」

「それなんですけど、中央都を通らず直接ヴォーレンへ向かう道はないんでしょうか?」

「どうして?」

「これも訳あって、私たち、中央都には近づけないんです」

 御者は低く唸りながら首をひねりました。

「ないことはないが、ふむ、どうしたものかな」

 眉間に皺を寄せた御者は短い顎髭をいじりながらしばらく考え込んだ後、重そうに口を開きました。

「ここからヴォーレンへの最短距離を往くにはナズルの断崖を超える必要がある」

「ナズルの断崖……」

「ああ、あの巨大な城壁のようにそびえる崖さ。この市街からだって望めるだろう。そこを超えるにはいくつかの選択をしなければならない」

 御者は小さい子に怖い話でも聞かせるかのような声色で、しかし至って真剣な顔で語りはじめます。ウィゼルたちは緊張しながらそれに耳を傾けます。

「ひとつ目は文字通り断崖を登って超える道。すれ違うこともできないほど狭い足場は踏み外せば真っ逆さま」

 ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえました。

「ふたつ目は台地を穿く洞窟を往く道。道を誤れば先の見えない暗闇を身が骨になるまでさ迷い続けることになる。いずれの道もこの車はもちろん、フィンクの足に頼れる可能性も低い。それでも整備された街道ではなくこちらを選ぶのか?」

 ウィゼルは流石に不安になって声にならない息をもらしました。三人の間には幌の隙間から大路を往来する人々の気配がわずかに流れ込んでいました。

「今は人の方がこわい」

 ミュリが顔を隠したままぼそりと呟きました。

「……そうだね。本当にそうだ」

 ウィゼルはミュリの手をぎゅっと握って、嫌な思い出を振り払うように目をつぶって大きく首を振りました。

「お願いします。断崖を超える道を教えて下さい。一緒に来ていただくのは崖の手前まででも構いませんから」

 御者はウィゼルの真っ直ぐな瞳に見つめられて少しの間固まった後、深く息をついて答えます。

「私ももう長いこと通っていない道だ。あまりに危険な場合は引き返す。その時は諦めてくれ」

「ありがとう」

「では準備と参ろうか。道中必要なものは私が調達する。ふたりはご自身の装備を整えてもらえますかな。その服装では何かと困るだろう」

 そう言われてウィゼルは自分たちの姿を改めて見ました。城から逃げ出した時そのままの服は掃除や炊事をするには適していましたが、険しい道を歩き通すにはまるで向かないものだと、言われずとも理解できました。

「でも私たちお金もあまりなくって……」

 ウィゼルは懐に忍ばせてきたわずかばかりの給金を思い出し、申し訳無さそうにつぶやきました。

「それは心配いらない。依頼主から準備金は十分にいただいているのでね」

「えっ」

「不思議な話だろう?あなた方がどのような関係か知らないが、宮廷騎士の考えることはわからないな」

 一体あの騎士はどこまで見越していたのでしょう。思い返せばたいそう不思議な人物でありましたが、今はその志をありがたく受け取ることにして、ウィゼルたちは一旦御者と別れました。



 それからウィゼルたちは旅に必要なものを揃えるためカドゥミナの大路を巡ります。

「よく見れば、人は結構いる」

「そうだね。昔よりは寂れてしまったけど、みんなたくましく暮らしている」

 今日は少し風が強く、巻き上がった砂が時折ウィゼルたちの手足をチクチクと叩きます。

 ミュリの姿が目立たぬよう建物に沿って進んでいくと、色鮮やかな織物をなびかせる店を見つけました。中には旅人向けの丈夫な衣服が陳列され、他に客はいないようです。

「ここで探そう」

 ウィゼルがミュリの手を引いて中へ入ると、数多くの商品が雑多に並ぶ狭い空間に不思議なお香のような匂いが立ち込めていました。奥で織物の山に埋もれるように座っていた老婆が「いらっしゃい」と潰れた声でつぶやくように言いました。

 ウィゼルたちはところ狭しと壁を覆っている衣服を眺めます。どの服も形は似たようなもので、ゆったりとした長い袖に足首まである長い身丈が特徴的でした。触れてみると固くざらっとした感触がどこか懐かしく感じられました。

「ミュリはどれが好き?」

 ミュリはその場で体ごとぐるっと一周すると、ある一点を見つめてぴたりと止まりました。

「これ、かな」

 その視線の先には白地の身頃に色の異なる左右の袖が合わされた、どこか不思議な服がありました。

「うん。いいね」

 飾り気のない淡白な服達の中にあって、その色使いは少女たちの心をくすぐりました。

「あの、このふたつをください」

 ウィゼルは袖の色の組み合わせが異なる二着を指差して老婆へ声をかけました。すると老婆は顔の皺をことさら深くさせながら、織物をかき分けて出てきました。老婆はウィゼルの指した服を手に取ると、見かけによらない機敏な所作でウィゼルたちの身体に服をあてがい身丈が長過ぎると見るや、どこからか取り出した裁縫道具で丈を詰めていきます。

 そのあっという間の仕事にウィゼルたちは口をぽかんと開けたまま、されるがまま。気がつくとふたり揃ってその身にぴったりと合った丈の衣装を身にまとっていました。

「仕立てというほど上等なもんじゃないけどね。まあまあだね」

 老婆はどこか嬉しそうにふたりを眺めていました。


 ウィゼルが代金を渡すと老婆はさらに「風が強いと捲れるから」とか「陽よけにはこれがいい」とか、理由をつけては帯や帽子をどこからか見繕ってきて孫の世話でもするように次々とふたりに着せていきました。

「あの、おばあさん。私たち――」

 そう言いかけたウィゼルの腕をミュリが掴みました。

「これ、確かにあった方がいい」

「え?そっか……そうだね。まだお金はあるし」


 その後もいくつか薦められたものを身につけていくふたり。気がつけばウィゼルたちは旅人らしい機能性を重視しながらも、明るい色と愛らしさを備えた服装にすっかり衣替わりしていました。

 そうしてようやく老婆が満足した頃合いを見てウィゼルが声をかけました。

「あの、たくさんありがとうございます。これらはおいくらですか?」

「お代ならさっき貰ったがね」

「先ほどのは服の代金ですよね」

 困った様子のウィゼルに老婆はゆっくりと首を振ります。

「またこしらえりゃいいんだ」

 老婆はゆっくりと頷くと元いた織物の山の奥に戻っていきます。

「おばあさん、ありがとうございます」

 ウィゼルはどうしてか少し涙声になっていました。

「ああ、気をつけて行ってくるんだよ」

「はい。行ってきます」

 老婆は店の奥からウィゼルたちの背中へ向けてずっと手を振っていました。


「これ、前より動ける」

 ミュリはウィゼルの目の前で軽快にくるくると回ってみせます。長い裾が広がって円を描き、その上に袖の鮮やかな色が風車の羽根のように舞いました。

「そうかもしれない。あの服も好きだったけれど」

 ウィゼルは太陽の下で改めて、自ら腕を通している袖の生地の感触と色を確かめます。ざらっとした厚手の生地。左袖は晴れた日の夕焼け空のような色、右袖は真昼の雲と霞の間のようなぼんやりした色とに染め分けられていました。

「この色、どうやって染めているんだろう」

「帰ってくればまた聞ける」

「そうだね」


 ウィゼルたちが御者と合流する頃にはもう太陽が真上まで来ていました。乾いた地面をジリジリと焼く熱が時折吹く風に乗って辺りへ溶けていきます。

「いやあ、お待たせ」

 ウィゼルたちの待つ建物の影に現れた御者は、連れたフィンクの引く車いっぱいに荷物を載せていました。

「すごい量ですね……でも、車は引いて行けないんですよね?」

「そうさ。だから道の状況を見て、この中から選ぶんだ」

 確かに必要そうな食料をはじめ、魔力ランプの光源やロープ、果ては何に使うのかわからない棒状のものや木の板まで、積み込まれたそれらは車の幌に収まりきらずはみ出していました。

「この街でこれだけの物を揃えるのは本当に大変でね。余剰資金がなければ難しかったさ」

 そう言って御者は白い歯を見せて笑いました。

「これでヴォーレンまで行けるんですね」

「準備は万端整えたが、現地では何が起こるかわからない。そこだけはくれぐれも――」

「わかっています。でも私たちは行かなければ。だから、行けると思うんです」

 それを聞いた御者は目を見開いてひゅうと口笛を吹きました。

「その心、昔を思い出す……そうさ、俺にとっても久々の冒険だ。必ず越えてみせよう」

 御者は自らを鼓舞するように声を上げ、秘めた思いを巡らせるようにウィゼルたちへ少年のような眼差しを向けました。ウィゼルは何だか恥ずかしくなってミュリの方へ振り返ります。

「大変だろうけど、がんばって行こう」

「うん。出発」

 ミュリはウィゼルの両手を取ると、天へ向かってぐいっと伸ばすように挙げました。お互いが背伸びをして、ふたりの身体が同期する感じがしました。

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