目覚めたもの

 ミュリが目を覚ましたとき、辺りにはひどく血の嫌な匂いが漂っていました。手足を縛っていた縄はいつの間にか千切れて傍に落ちていました。

 正体不明の集団にウィゼル共々拘束され、ウィゼルに乱暴しようとした野卑な男に必死で抗おうとしたところまでは覚えていましたが、その後何が起こったのか全く想像が及びません。守ろうとしたウィゼルの姿はそこにはなく、そこら中、赤黒い血溜まりの上に男たちが倒れ伏しているのみでした。


 その光景はミュリの故郷で起きた惨事を思い起こさせました。よもやその中にウィゼルが混じってはいないかと建物の中を探し回りますが、それらしい姿は見つからず、ミュリはわずかばかり安堵しました。



「ああ、こいつは酷い」

 黒い鎧を身につけた男が大きく開いた建物の入口から中の様子を伺っています。

 それに気がついたミュリもまた、柱の影に隠れながらその男の様子を伺っていました。

「誰か生きているか」

 男は張りのない声で建物の奥へ呼びかけましたが返事はありません。開け放された扉から建物に吹き込む風の音だけが、ごうごうと不気味に響いていました。

 ミュリはその男の素性がわからず身動きできずにいます。あの男達の仲間であればまた捕まるわけにはいきません。何より今はウィゼルを探し出すことが最優先でした。

「やっぱりろくでもない仕事だ」

 男はぼやきながらゆっくりと建物内に踏み込むと、手近な死体を調べ始めました。

「ふうん……見事なもんだな」

 ミュリはまだどうすべきか迷っていました。男はまだ出口付近にいて、気づかれずに出ていける状況ではありません。息を潜めて獣のように男の気配を探ります。

「こんな業、一体何者が……つまらない結末だと思ったが、違ったかな」

 男はしゃがんだまま何やら呟きながら、死体の傷跡を入念に観察していました。ミュリはその隙に出ていこうと足に力を込めます。気取られても全速で駆け抜ければ逃げ切れる。そう思って覚悟を決めました。


「ちょっと話を聞いていいかな」

 ミュリが走り出そうとした瞬間、黒い鎧の男がミュリの存在を見透かすように放った言葉でミュリは動けなくなってしまいました。男は立ち上がると、ミュリの隠れている柱へ向かってゆっくりと歩いてきます。急に空気が張り詰めてミュリは感覚をさらに鋭くさせ、その男のただならぬ気配を感じ取っていました。

「安心してほしい。私はこいつらとは違う」

 鎧をまとったその男が宮廷騎士だとすれば、ウィゼルを追って来た可能性もあります。ミュリはなおさら、自分がウィゼルを見つけて守らなければいけない、と自らを奮い立たせます。

 柱を挟んで男との距離が段々と近づいてきます。男が柱のすぐ裏まで来たとき、ミュリは今度こそ出口へ向かって駆け出しました。しかし、それと同時に突き出された剣がミュリの前を塞ぎます。ミュリは勢いを失いながら咄嗟に剣の下をくぐり抜けようとしますが、男はそれを逃すまいと素早くミュリの腕を掴みました。

「いや、離して!」

 男は腕を振り払おうともがく少女を見て驚いた様子でしたが、すぐに涼しげな顔に返っていました。

「落ち着いてくれ。君を拘束するつもりはない。ただ少し話を聞かせてほしい」

 その間もミュリは抜け出そうと力を込めていましたが、男の腕力の前にそれは叶いませんでした。その手は確実に腕を捕らえていましたが、少女を痛めつけようとするような乱暴さはありませんでした。それを感じ取るとミュリは力を緩めて息を整えます。


「そうだな……まずは君について。君は私達とは違う、外界の人間だね?」

「……そう」

 ミュリはこの男にどこまで話してよいものか迷っていました。

「ワイザール城から使用人が二人、フィンクに乗って逃げ出したと聞いた。一人はマクアの霊泉を冒涜したとされる大罪人の娘。もう一人は外界から来た少女だと」

「違う!ウィゼルは、ウィゼルのお父さんはそんな――」

「宮廷議会ではそう認識している、というだけのことだ。しかしこれで君の身元が判った」

「あなたはウィゼルを追って来たの?」

「いや、違う。ちょっと面倒な仕事を受けてしまってね。彼らに用事があったんだが……こうなってしまってはね」

 男はミュリの険しい目線から逃れるように、あちらこちらに転がった死体を見回しながら苦々しい表情をしていました。

「こんな場所で話すのも気分が悪いだろう。外へ出よう」


 建物を出ると、どこまでも澄んだ空の下、乾燥した風が時折細かい砂を巻き上げながら家々の隙間を通り抜けていきました。

 建物の外に繋いでいたフィンクは無事でした。フィンクは立ち上がってせわしなく首を動かしながら周囲を探っていましたが、ミュリの姿を見つけると落ち着いたのか足をたたんでその場に座り込みました。そのそばでミュリと黒い鎧の男は会話を続けます。

「しかし君は外界から来たというのに随分と言葉が達者なのだな」

「ウィゼルに教わった」

「なるほど。それで、使用人だった君たち二人はどうしてこの街に?」

「ウィゼルの生まれた場所だから。でも、もうウィゼルの家族はいない。いなかった」

「そうか……最後にもう一つだけ。ここの奴らを一人残らず――いや、君達を助けたのは誰なんだ?」

「わからない。私が目覚めたとき、もう誰も……ウィゼル。ウィゼルを探さなきゃ」

 ミュリが辺りを見回すと、白い砂利道に黒い跡が点々と落ちているのに気が付きました。

「あれは……」

 それはもう乾いて白い砂埃にまみれていますが、血の跡のようです。その跡は街の中心部とは反対方向に向かってずっと続いていました。

「これを追えば会えそうだね」

 その男は何故か嬉しそうに口元を釣り上げます。ミュリはそれを怪訝な顔で見ていました。

「ああ、すまない。そう言えば名乗っていなかったね。私の名はダリオス。宮廷騎士団に属してはいるのだが、今は裏方のようなことをしている」

「ミュリ……ミュリティリーハ」

「ほう、なんとも不思議な響きの名だ」

「あなたは本当に私たちを、ウィゼルを狙って来たのではないの?」

「ああ、そうだ。他の宮廷騎士がどうか知らないが、私には関係の無いこと。今はそれよりも君達を救った者の後を追おうじゃないか」

「一緒に来るつもり?」

 このダリオスという男が本当にウィゼルへ刃を向けることがないのか。疑いを拭い去ることのできないミュリは逡巡していました。

「ここでは君一人の方が目立つだろう。他の宮廷騎士に見つかればまず怪しまれる」

 ミュリはそのことを心の中で肯定しながらも、行方の知れないウィゼルにとって最も安全な選択肢が何であるか考え抜きました。

「わかった。一緒に行く。でも私より前には出ないでほしい」

「それでいい。信用しろ、とは言わない」

 ミュリとダリオスは互いの乗ってきたフィンクを伴って、街の外へ続く赤黒い痕跡を追って歩き始めました。


 照りつける太陽の下で改めて見る街並みはミュリの目にとても不自然に映りました。

「砂だらけの土地に木の家が建っている。どれもみんなボロボロ」

「ここがかつては緑にあふれていたという証拠だ。突如始まった土地の乾きはあまりに早く、貧困とともにこの街を蝕んだ」

「誰も……お城の人たちは助けようとしなかった?助けられていたら、ウィゼルの家族ももしかして――」

「死なずに済んだ?」

 そう返されたミュリはただわずかに頷きました。

「可能性はあったかもしれないが、そう単純な話ではないだろう。この街すべてを救うのに我々の世界は狭い。それに、人は簡単に故郷を捨てる選択などできないものだ」

 ミュリは何かに気がついたように悲しい顔をして、それ以上何も言いませんでした。


 民家もまばらな街の外れまで来ると、追っていた跡は既に砂に覆われて消えかかっているものの、まだ向こうまで続いているようです。

「あれは、森?」

 ミュリの視線の先、白く平らな地平の向こうにわずかな緑が見えました。

「後退した聖域の森の西端。どうやらあそこに向かったようだ。ここは一気に駆け抜けよう」

 ダリオスがそう言って自らのフィンクに跨がるとミュリもそれに倣います。

 今日は比較的風も穏やかでフィンクも走りやすそうです。なんとも奇妙な組み合わせの二人はそれぞれのフィンクを駆り砂埃を立てながらまっすぐに荒れ野を進んで行きました。



 まばらに残る枯れ木の向こう、聖域の森は今なお枯れゆく木々が身を呈して守っていました。

 フィンクを森の境界で繋ぎ止め、ミュリたちは森の中へ踏み入っていきます。乾いた世界から一変する空気。潤いが目に見えるようでした。

「ウィゼル!」

 ミュリの叫びは高く伸びた木々の合間を複雑に跳ね返りながら澄んだ空気に溶けていきます。

「まだ奥に進んだようだ」

 ダリオスが発見した痕跡を追って二人は更に奥へ進んでいきます。

「魔獣の気配はないが気をつけたまえ」

「わかった」

 ミュリは痕跡に沿って少し進んでは立ち止まり、ウィゼルの姿を見逃さぬよう慎重に辺りを見回しました。血の滴ったような跡はここへ来て一層大きく残り、ミュリは想像したくない結末がにじり寄って来るように感じていました。

「やだ……ウィゼル!」

 景色の変わらない森を更に進むと、一際大きい痕跡を見つけました。それはまさにあの屋敷で見た血溜まりのように、辺りの土を侵していました。痕跡はそこで途切れているようです。

「ウィゼル、どこにいるの!」

 ミュリは泣き出しそうな声で呼びかけ続けます。

「お願い……」

 ふらつく足で辺りを歩きながら、木々の隙間に誰かの音を探します。

 そして、ミュリはとうとうその姿を見つけました。


「ウィゼル!」

 少女は木の根本の陰にうずくまるようにして倒れていました。長い時間動けなかったのか、その身体には小さな枝や落ち葉が積もっていました。

 ミュリが名前を呼びながら駆け寄るとウィゼルは目を覚まし、産まれ落ちたばかりの動物が身体が動くことを確認するようにもぞもぞと身をよじらせました。上半身を起こしたウィゼルは、焦点の定まらない目でミュリを見つめます。

「怪我はないの?」

「うん、大丈夫、みたい」

 ウィゼルは自分の手でお腹や手足を触って確認します。痛みといえば倒れている間に腕や足についた小石の跡くらいでした。

「よかった。生きてて」

 ミュリはウィゼルに正面から思い切り抱きつきました。

「ミュリ……私、とてもとても遠くまで行っていた気がする」

 ウィゼルもミュリの背中にそっと手を回して応えます。

「怖かった。辺りは血だらけで、ウィゼルがいないから」

「ごめん、私どうしてこんなところに来てしまったのか」

 ウィゼルの表情にはもう久しく人と関わっていなかったようなぎこちなさがありました。


「君は見たか。あの血のような跡を」

 それまで黙って見ていたダリオスが口を開きました。

「革命者の残党を根絶やしにした何者かを、見ていないか」

 矢継ぎ早な問いに、ウィゼルはまだどこかぼうっとした目で長身のダリオスを見上げました。

「誰か?……暗い、黒い……私……」

「やめて。ウィゼルは目覚めたばかり」

「確かめなければ。あのような尋常ならざる力、野放しという訳にはいかない」

「どうして、そんな……私は……イヤ」

「ウィゼル!思い出さないで、いいよ」


 その時、急に辺りの空気が張り詰めたのをその場の全員が感じ取りました。黄昏を飛ばして宵闇が訪れたかのような一瞬。ダリオスが背後に異様な気配を感じて振り返ると、血溜まりのような痕跡の上に黒い人影が立っていました。

「あなたは……うう」

 ウィゼルはその影を見てうめき声を上げました。

「これは魔獣、ではないのか?」

 ダリオスは目つきを変え剣を抜いて影に相対します。

――いっしょに行ってはくれないの?――

 その声は回り込んで背後から響くような不思議な音でした。少し変質して聴こえるものの、その声はウィゼルのそれにとてもよく似ています。

「あれにウィゼルは連れて行かれた?」

「やだ……ころすのは、違ったの……」

 ウィゼルは立ち上がることもできず、震える声で何かを必死に否定していました。

――どうして?守ったんだよ。他の方法なんてなかったもの――

「これは何かの呪いの類か?人でないのは残念だが、魔獣とやり合うよりは面白いか」

 ダリオスは剣を影に向けたまま不敵な笑みを口元に浮かべます。

――ねえ、ほら、この森の向こうが私の故郷だよ――

 黒い影はじりじりとウィゼル達の方へ近づいていきます。

「違う……私の故郷は……」

 ミュリは震えるウィゼルの肩へ手を遣って落ち着かせようとします。

――もうここは私のいるべき世界じゃない――


「その力、どのようなものか試させてもらう」

 構えていたダリオスは素早く踏み込むと影の足元を掬うように剣を払いました。しかし、影から伸びた木の枝のようなものが音も無くそれを受け止めました。ダリオスは驚いた様子で目を見開き、すぐさま続けて剣を振るいます。その剣筋は多彩で流麗。しかし、薙ぎも突きもすべて黒い枝に阻まれてしまいます。

 それでもダリオスは笑っていました。

「面白い、面白いぞ。さあ、返してこい!」

 軌道を変えながら剣を打ち込むダリオス。しかし黒い影はそれを意に介さぬ様子でただゆっくりとウィゼル達の方へ近づいてきます。剣が舞い、枝のような影が伸びては消える。それはあまりに静かな舞踏でした。


 影に魅入られたかのように動けないウィゼルとそれを庇うミュリ。影の動きを止められないダリオスは少しずつ後退し、ウィゼル達との距離が詰まりつつありました。

「私を無視するな!」

 ダリオスは一向に反撃してこない影に苛立って声を荒げます。

「ただの魔獣など何体屠っても満たされないのだ。さあ!」

――ああ、うるさい――

 その声と同時に黒い枝が一点に集束し、棘となってダリオスを突きました。それはダリオスの剣と黒い鎧の一部を穿いて欠けさせました。

 息を飲み込む間ほどの静寂。

「いいぞ!さあ、もっと見せてみろ!」

 ダリオスはそう叫ぶと、欠けた刃を気にもかけずまた剣を振るおうと身を翻します。影から更にいくつもの棘が伸びて、そのいずれもがダリオスの身体すれすれを通り、その先の中空に刺さりました。ダリオスは剣を構えたまま身動きが取れなくなってなお、口元を釣り上げ笑みを浮かべています。

――ねえ、はやく。こんな危ない世界にいてはだめ――

 影はウィゼルに向かって手を伸ばしますが、ミュリがその前に立ちふさがります。

「ウィゼル、耳を貸してはだめ。私が触れさせないから、落ち着いて」

――まもってあげたはずなのに、邪魔をするの――

 影から伸びた腕の先はいつしか槍の切っ先のような形になって、ミュリの身体の中心を見据えていました。

 ウィゼルはミュリの背中の向こうに力が集まるのを感じていました。自分の中の暗いところが心から滲み出て影に吸い込まれていくような感覚。それを許したら、ウィゼル自身もミュリもどうなるかわかりませんでした。

――だめ、それだけは――


 影の槍は今にも真っ直ぐに目の前のものを穿こうとしています。ウィゼルにはその意志が判りました。動き始めてからでは遅い。絶対にそれをさせたくなくて、ミュリを突き飛ばしてでもその一閃から逸らそうと足に力を込めます。

「ごめん」

 ウィゼルは斜め後ろからミュリの腰に抱きつくような格好でぶつかります。

「えっ」

 予期しない衝撃にミュリは倒れ込み、ウィゼルはすぐにその勢いで前方に駆けて出ました。槍は音も無く直進をはじめ、飛び出したウィゼルの胸につき刺さろうか、というところでした。

――ツェクレク!――

 ウィゼルの中で突然何かの名前が叫ばれました。ウィゼル自身も知らない言葉がどこからか結ばれてひとつの形をつくりました。それは光の翼持つ霊鳥となってウィゼルの中から飛び出すと、黒き槍にぶつかり、瞬く間に光の粒となって大気に還っていきました。槍は消え、大樹のように伸びていた枝は影のもとへ戻っていきます。

 影から解き放たれたダリオスはすぐさま体勢を立て直しますが、影は忽然と姿を消していました。ダリオスは視線だけで周囲を確認すると、息を切らしながら剣を地についてその場にしゃがみ込みました。


 ウィゼルはただ助けられてばかりの自分が嫌でした。しかし何よりもミュリを失うことが恐ろしくて、考えるより先に意思が身体を動かしました。

「ウィゼル!」

 立ち上がったミュリがウィゼルを背中から抱きしめました。

「平気なの?ウィゼル」

「そう、みたい……でも、なんで私」

 目の前に迫った黒い棘を思い出し、自ら胸元を触ってみても痛みはなく、息切れの焼け付く感覚だけが残っていました。

「ありがとう。ミュリ。あなたがいなければ私はあの影に飲み込まれていたかもしれない」

 ウィゼルは肩に回された手の甲にそっと触れました。

「光、眩しかった。ウィゼルは不思議な力を使えたんだ」

「よくわからない。急に心の底の方から言葉が飛び出してきて……私はただ、ミュリを守ろうと思っただけ」

「言葉って?」

「――ツェクレク……何かの名前なのか呪文なのか、わからないけれど」

「でもそれで本当に守ってくれたんだ。ウィゼル、ありがとう」

 影はウィゼルたちの前から消えました。誘う声も今はもう聞こえません。しかし、ウィゼルはまだ安心していませんでした。

「あの影は本当に消えたわけじゃない。またすぐに現れるかもしれない。一体どうしてあれは私に……ダメ、わからない事が多すぎる」

 ウィゼル達のやり取りをよそにダリオスは自嘲の笑みを浮かべて項垂れます。

「そうか、私はこの娘らに助けられたというのか。呆れた話だ」

 しかしダリオスはすぐに顔を上げるとふたりへ問いかけます。

「これから君達はどうする。何処か行く宛は?」

 ウィゼルはその時初めて存在に気がついた風に驚いてダリオスを見上げました。

「あなたは……」

「君がウィゼル・アルマーダだな?私はダリオス。宮廷騎士の端くれだ」

「それじゃあ――」

 ウィゼルは険しい目を向けて警戒します。

「確かに、君を始末したい何者かがいるのかもしれないが、それは私じゃない」

「ではどうしてここに」

「売られようとしていた子供を放っておく訳にもいかないからな」

 ――売られる――という言葉に嫌な感触を思い出してふたりは身震いしました。

「あなたのこと、わからない。さっきは戦いながら笑っていたというのに」

 ミュリはダリオスの豹変ぶりを不審に思い、咎めるように口を挟みます。

「死地においてのみ満ちるものもある。君達が理解する必要はないが、あれもまた私の破片の一つ」

 ダリオスの言うとおり、ウィゼルたちにその言葉は理解できませんでしたが、その声が偽りや欺きを語っていないことは感じ取れました。


 沈黙と静寂の後、ウィゼルはゆっくりと口を開きます。

「行く宛なんて何も……何も無いです。家は無くなって、ましてやお城にも戻れないですから」

「ふむ。君はあの影とどういった縁があって、自分が何者であるか、という事を知りたくはないか」

「私……私は父さまと母さまの娘。ただそれだけです」

「本当にそれだけだろうか。影を打ち払ったあの光は君から発せられたように見えた。魔術のようでもあるが何か違う。君自身も解らないのだろう?」

 ウィゼルはそれ以上否定できずに押し黙ります。

「本当のところを言うと、私はその力に興味が湧いたんだ。その行く末を知りたいと思った」

「もう誰かを頼ろうとは思えません。でも、知っておくべきこと、知らなければいけないことは確かにあるのだと思います」

「中央都から遥か南、沿岸区ヴォーレンの南の丘に建つ古城。名も知られず、固く封印されたその城を一人の元魔術師が調査している」

「もと?」

「この世界の知識の大部分は魔術院と宮廷に結集している。握られていると言ってもいい。訳あって魔術院を離れた彼から、何かを知るきっかけが得られるかもしれない」

「ウィゼル――」

「大丈夫だよ、簡単に信じたりしない。でも、嘘じゃない。なぜだかそう思う」

 その時、ウィゼルの脳裏に見たこともない風景がよぎりました。

――緑に覆われた古城を高い場所から見下ろす。静かに、滑空するように、高度を維持しながら城の上空を通り過ぎる――

 その光景は幾度か瞬きをするうちに消えていきました。

「今のは……鳥の目?行ったこともないのにどうして……」

「どうしたの?どこか痛い?」

 頭を押さえて呟くウィゼルをミュリは不安そうに見つめます。

「ううん、違うの。大丈夫」

 ダリオスはウィゼル達の様子を見ながら話を続けます。

「彼の名はルス・ドラッセン。今となっては研究の事しか頭に無いのだが、私の名を出せば話を聞いてくれるだろう。もちろん、会うかどうかは君達の自由だ」

「あなたはどうするんですか」

「私は宮廷に戻る。先ほどの件の後始末もあるのでね」

「私たちのこと、伝えるんですか」

「言っただろう?私はその命を負っていない。それに私はさほど騎士団に従順というわけでもないのでね。そうだな――君達はあの場所で下劣な男共に嬲り殺されていた。私は怒りに駆られ奴らを一人残らず殺した――どうだ、これで何も都合の悪い事はない」

「そんな事にして、困らないの」

 ミュリが相変わらず警戒した様子で眉をひそめながら低い声を挟みます。

「ああ、私がここに来た目的を果たしたというだけのこと。宮廷が信じる確証もないが、今はそれ以上追求されることもないだろう」

「分かりました。それで、ヴォーレンへ行くにはどうすれば――」

「あの子なら大丈夫。元気だよ」

「そうなのね。よかった。でも私達はヴォーレンへの道を知らない」

「ここから大街道を往くと中央都を経由することになるが……フィンクの御者ならそれよりいい道を知っているのではないかな」

「だといいのですが」

「昨晩私が利用した宿に話をつけておく。車を用意させるから、今日はそこに泊まって、明日の朝、御者に尋ねるといい」

「そこまでしてもらっても、あなたを信じるとは限りませんよ」

「もちろん、それでいい」

「……ありがとう」

「今、私達の世界は変わろうとしている。何が残るのか、何も残らないのか誰にも分からない。影を祓う力を秘めた君達はどう生きていくのだろうな」

 そこらの地面にこびりついていた血のような痕跡は、いつの間にか落ち葉に埋もれて見えなくなっていました。

「ウィゼル……どうする」

 ミュリがまだ少し不安げに見つめると、ウィゼルは迷いのない目で真っ直ぐ見つめ返します。

「行こう。大丈夫、今度は選んで進むから」

 ウィゼルは何かに誘われているのか、それとも自分自身の意思なのか正直よくわかりません。他に行く宛のないことを考えれば仕方のないようにも思われますが、何より鮮明に浮かんだ古城の姿が焼き付いて頭から離れなかったのです。

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