終わるとき
「ミュリ!」
少女はわずかな明かりすらない暗闇の中で気が付きました。血の気が全身から引いて四肢が冷たくなっていく感じがします。ミュリに向けられた凶刃が振り下ろされる瞬間、耐えられない絶望に感覚が遮断されたように、目の前が真っ暗になりました。
「ミュリ……ねえ、どこにいるの?ミュリ!」
上半身を起こして辺りを見回す少女。素足には冷たい床の感触。でも目を開けているはずなのに何も見えません。悲痛な少女の叫び声だけが規則正しく反射していつまでも残っています。
――ここは何?あの男たちは?ミュリは?――
少女は自分が置かれている状況が理解できず暗闇の中でもがきます。
――私は、ミュリのことを庇った?それで、死んだの?――
――私が死んだら、それでミュリは助かるの?それを確かめることもできないのに――
――命は助かったとして、その先は?死ぬより辛い目に会うかもしれないのに、それで救ったと言えるの?――
――ああ、私は結局、また大切な人を守ることができなかったんだ――
ただ怒りと嘆きだけが少女の全身に立ち込め、それらが自分を支配しようとしている感覚に胸が締め付けられました。
――このまま私は闇に溶けて、どこにも存在していなかったことになるのかな――
少女が意識を朦朧とさせながら暗闇の奥底を見つめていると、ずっと向こうに夜空の小さな星の一つより頼りないかすかな光がぼんやりと浮かび上がりました。少女ははっとして感覚を取り戻します。
冷たい床に座り込んでいた少女は、両手で辺りを探りながら立ち上がって暗闇の奥へ歩いていきます。まるで死に場所を探すような力ない歩み。もしそこが冥府へと下る道だったとしても、少女は足を止めるつもりはありませんでした。
何百、何千もの歩みの果て、遠く浮かんでいた光のもとへたどり着いた少女は足を止めました。何かに気がついた少女は息を飲みます。
そこはかつて少女が森の中で出会ったほこらの中でした。幼い身体に感じた冷たくも暖かい青い光は今はもうなく、消え入りそうに小さな光が時折ぼうっと部屋の隅で明滅するのみでした。
――どうして、また――
耳が痛くなるほどの静寂の中、部屋の中央に目を凝らすと記憶と違わぬ人の姿影が浮かび上がりました。そこでかつて耳にした言葉が少女の頭に蘇ります。
少女はその姿の足元へゆっくりと歩いていって跪くと、懺悔するような声色で語りかけます。
「覚えていますか?私のこと」
部屋に響いた声の残響が消えるほどの間を開けて少女は続けます。
「あの時、あなたの声を私はただの夢だと思ってた。いえ、そう信じたかった」
「でも、今の私にはこれが現実なんですよね」
「この世界はおかしくなり始めています」
「いえ、きっと前から歪んでいたんです」
少女は悔しさを顔ににじませます。
「あなたひとりにすべて背負わせて、私たちは平穏に暮らしてきた。当たり前に」
「それなのに、魔獣のいない世界でも、結局悲しみは増えるばかり」
「私たちはもっと自分たちの力で生きるべきだった」
「あなたが救いたかったのは、こんな世界じゃなかったはず。もうこれ以上、続けるべきじゃない。だから……」
いつからか少女の頰には雫が伝い、ぽたぽたと床に落ちていました。
やがて掠れた囁きのような音が少女には聞こえました。それは言葉を結んでいき、少女はその意味を理解しようと目を閉じます。
――本当に私はこの身を捧げてでも守りたいと思ったのです。だから嘆かないでください。真に嘆くべきは自分や誰かを呪ってしまうことですから――
長い時間の末、少女は目を開きました。何か大きな決意をしたような様子で、祈り続ける姿を見つめ直します。
「ごめんなさい。私は、あなたのようにはなれません」
少女は祈る姿へ手を伸ばします。錫杖を握る冷たい手に少女の両手が重なり、その震える指先がか細い錫杖の柄へ触れました。
「今、終わりに」
苦しそうに息をつきながら最後のためらいを捨てた少女がそのまま力を込めると、パキ、という音とともに錫杖はあっけなく折れました。真っ二つに折れた錫杖の上部は床に落ち、鈍い音を残して粉々に散りました。
「ごめんなさい……」
少女が祈る姿の顔に触れようとした瞬間、それは砂のように崩れ落ちて形を失くし、部屋の中に昇っていたわずかな光も途絶えました。
真の闇に残された少女は糸の切れた人形のように力が抜けきって動くことができませんでした。部屋の中には震える吐息だけが波を立てていました。
帰るべき場所も、大切な人も、すべて失った少女は、このままここで朽ち果てる事に抵抗する意志すら失くしていました。
――――――
ウィゼルを助けようと抵抗したミュリに向かって振り下ろされた短剣は、ミュリの身体を貫くことなく床に転がり、その凶刃を向けた男は仰向けに倒れていました。
「え?」
恐る恐る目を開けたウィゼルは、こつ然と現れた真っ黒な人影が倒れた男と自分の間に立っているのを見ました。影のようであり、確かにそこに存在するそれはウィゼルと同じくらいの背格好で、その輪郭の内は黒く落ち込み、暗がりではどちらを向いているのかもよくわかりませんでした。
気がつくとウィゼルの束縛は解かれ、手足を縛っていた縄は黒く焼き切れて地面に落ちていました。
影はゆっくりと音もなく歩き出し、ウィゼルたちの元を離れて行きます。荷の裏の暗がりから出て、薄明かりに照らされたその横顔はウィゼルを凍りつかせました。それはとても自分に似ていて、自分自身の影が意志を持って動き出した様を見ているようでした。
その影がウィゼルの視界から消えた後、すぐに周りのあちらこちらから男たちの悲鳴と怒号と断末魔のような叫び声が聞こえてきて、ウィゼルは再び気を失ってしまったミュリをかばうように覆いかぶさって、それが過ぎ去るのを震えながら待ちました。
やがて静寂が訪れるとウィゼルは立ち上がります。誰かの足音も、人の動く気配すらも感じられず、ウィゼルは目の前に倒れ伏す男を見ないように、息を殺しながら荷の影から顔を出して辺りの様子をうかがいました。そこには見渡す限り十人ほどの男たちが倒れていて、その誰もが床に大きな血溜まりを作っており、遠目からも事切れているであろう事が想像できました。
ウィゼルはその凄惨な光景を前に声を上げることもできず、ただ引きつった顔で目を見開き、開いたままの口で浅い呼吸を繰り返していました。
「いいんだよね。これで」
背後から突然囁くような声。ウィゼルは息を飲んで恐怖に満ちた顔で振り返ります。
そこには先程の自分に似た影が音もなく佇んでいて、驚いたウィゼルは反射的に飛び退こうとして脚をもつれさせ、尻もちをつきました。
「あ、あなた……が、これを?」
ウィゼルは目の前の未知なる存在に、ガクガクと震える顎から漏れ出すような声を出すので精一杯でした。
「だって、わたしが望んだから。そうでしょう?」
声は応えてもその影が喋ったのかどうか、ウィゼルにはその暗い色の唇の動きは読めません。
人間の顔であることはわかるのに、その瞳は暗く穴が開いたよう。それでも、ウィゼルにはそれが自分の顔であるように思えてなりません。そしてそのことが余計にウィゼルの恐怖心を情動させていました。
「わたし……わたし、が」
胸を迫り上がる畏怖に身体中から黒い何かが吹き出して自分と世界と影の境目が溶けていく。それはウィゼル自身が過去にも経験した感覚に似ていました。
やがてウィゼルは自身の鼓動だけを感じながら、真っ暗な淵に落ちていきました。
――――――
どれだけの間そうしていたでしょうか。もはや時間と空間の感覚も失われかけた頃、ぼうとした青白い光の粒が少女の目の前へ現れます。
光は呼びかけるように少女の目の前でふわふわと舞います。少女の目線が自然と光を追いかけるうち、闇に溶け出していた少女の意識は再び結晶となって少女自身へそれを取り戻させました。
「あ……ここは……ミュリ?」
傍にあったはずの温もりを確かめようと周囲の暗闇に手を伸ばしても、触れるのは冷たい壁と床だけ。少女の視線が行き場を失って再び小さな光へ戻ると、少女が目覚めるのを待っていたかのように、ゆらゆらと揺れながら遠ざかっていきました。
「あれは……」
光に導かれるまま少女は立ち上がり、壁に手をつきながら進みはじめます。小部屋だと思っていた空間はその先も隧道のように真っ直ぐ続いているようでした。
闇の中に少女の足音だけがじっとりとまとわりつくように響きはじめます。
歩けども歩けども道は続き、時折足を止めて振り返ってみても、ただ暗闇が広がるばかり。既にどれほどの距離を歩いたのかもわかりません。
それは、背後から迫る死より逃れる歩みなのか、それとも自ら死の淵へ踏み入ろうとしているのか。どちらにしてももう少女は前に進むしかないと思っていました。
「ごめんなさい、ミュリ。私は――」
少女は自分の想像を言葉にできず首を振ると、再び歩き出します。
遠くかすかに見える光の点はいつまで経っても一向に近づいてきません。足がもつれ途中何度か転びそうになりながら懸命に進んでいた少女も、ついにその歩みを止め膝をついてその場にうずくまってしまいました。
「やっぱり私、間違っていたのかな」
誰に訊くでもなく泣きそうな声で少女が呟くと、どこからか、ぴと、ぴと、と水の滴るような音が聴こえてきました。果てしない静寂にあって、その音は誰かの静かな足音のようにも聴こえました。
はっとして顔を上げた少女が闇の奥へ目を凝らすと、遥か向こうだと思われたた光はぼんやりと滲んで広がり、うっすらと階段のようなものを浮かび上がらせていました。ようやく見えた変化に少女は心を動かし、再びそれに向かって歩いていきます。先程までとは違い、一歩ずつ、確実に近づいているのがわかりました。
階段はそれ自体が薄ぼんやりと明るく、一段一段が暗闇の中に浮かび上がって、ずっとずっと先まで続いていました。その向こうには、陽光のような強い光の点が見えました。暗闇に慣れきった少女の目にそれはしばらく残り続けました。
少女は息を整えると階段を登り始めます。永遠に続くかに見えた階段ですが、登るにつれて空気が変わってきているのがわかりました。か細い足を酷使して、少女は懸命に登り続けます。
――この先に何があっても、もう私は――
そして、暗闇の道の終わりへ向けて少女は力を振り絞ります。最後の一段を登りきると、光はもうすぐそこ。少女は目を細めながらその向こう側へ歩み出ました。
「ここは……」
少女の目の前に現れたのは、立ち枯れた木々に囲まれた荒涼とした空間でした。
荒れた土の上に大小様々な灰色の石が点在し、それぞれの石の周りには木の枝を十字に組んだものがいくつも無造作に差し立てられています。そこはまさに少女の知る墓場でした。
無残に朽ち果てた墓標に乾いた土と血と獣の臭い。遠く深く、沈みかけた太陽がその空気を一層濃いものにしていました。
そのおぞましい感覚に少女はたじろぎ後ろを振り返りますが、出てきたはずの暗い穴は場所はただの土の壁に変わっていました。
――そうか、ここが私の――
何かを悟りその場に崩れ落ちた少女でしたが、すぐにその背後から魔獣のごときおぞましい呻き声が聴こえてました。既に諦めかけていた心も身体的な恐怖に動かされ、少女はよろめきながら立ち上がります。
荒れ果てた墓場を絶望を背負った少女が歩いていきます。墓列が終わり枯木の林立する辺りに差しかかると、外れに塚のようなものが見えました。
そこへ近づいた少女は何かに気づいて小さな悲鳴を上げました。
それは、うず高く積まれた大勢の人間の亡骸でした。隙間から覗くいくつかの顔は皆一様に苦しみの末に果てた事を物語っています。
少女がその事を認識するには幾ばくかの間を要しました。個人としての尊厳など有り様もないその光景は少女の目に強烈に焼き付きましたが、心が理解を拒みます。
「あ、あ……」
少女は言葉にならない声を漏らし、それに背を向けて逃げるように走り出しました。
墓場を越えて森の中を走りました。なにかに足を取られて転びそうになりながら必死に走りました。行くあてもなく走り続けました。
枯木の森はどこまでも続き、同じような墓地を何箇所も過ぎました。それらをすべて見ないようにして、走って、走って、やがて少女の足も限界を迎えました。息が苦しくなって胸の奥が締め付けられます。
目を閉じると墓地の光景が浮かんで離れません。それを必死に振り払って少女が再びまぶたを上げると、前方少し先の開けた空間に倒れている人影がありました。
またこれも誰かの亡骸であろうと思いながらも、どうしても気になった少女は恐る恐る近づいていきました。
それは少女の父と母でした。
それぞれ別の場所で死を迎えた両親。そのどちらも最期を看取ることはできなかった少女ですが、その顔は見間違えるはずもありません。どこか苦しそうな顔でふたり揃って横たわっています。身体に傷はなさそうでしたが、肌の色は亡くなった人のそれでした。
「父さま!母さま!」
少女がふたりに近づこうと一歩を踏み出したとき、少女の頭上からばさばさ、という音とともに大きな影が目の前に落ち、大人の身長より高い大きな鳥がふたりのそばに舞い降ります。その鳥は細長い首とぼさぼさの黒い羽毛を持ち、小さな頭からはいびつな形のくちばしが伸びていました。その醜い鳥は足元のふたりの匂いでも確かめるように首を下げます。
「やめて!」
少女の叫びを意に介さず、鳥は横たわるふたりの身体にくちばしを突き立ててついばみ始めました。
「いやぁ!やめて!」
少女が再び叫ぶと鳥は威嚇するように首をもたげ、けたたましく不快な鳴き声を発します。すると、空からさらに五、六羽の同じ姿の鳥たちが舞い降りてきて、群れは餌を取り囲んで騒がしく食事を始めます。
その音は、少女の知るどんな音よりおぞましいものでした。形を失くしていくふたりの姿に、少女は悲痛な叫びを上げます。
「やあぁぁ!」
突如、少女の視界が真っ白になりました。目を閉じてもまぶた越しに刺さるほどの眩しさに、少女は腕で顔を覆います。その閃光は一瞬であり、永劫でもありました。
少女がようやく目を開くと、凄惨な空間は塗り替えられ、そこには光があふれていました。目を細めながらその光の中心を覗うと、一羽の大きな鳥の姿がありました。それは先ほどまでの醜い鳥達ではありません。眩く光る羽毛に長くしなやかにたなびく尾羽。美しい曲線を描く首は空を仰ぎ、一声凛と透き通る声で鳴きました。
少女は事の次第が飲み込めず、しばらく茫然と立ち尽くしていました。信心深い大人たちが見たらそれはきっと『神』と呼ばれたことでしょう。不気味な森に降りた神々しい光は、その存在で辺りを浄化するかのように、静かにゆるやかに佇んでいました。
やがて光が落ち着くと少女は鳥の足元に両親の姿を探しますが、それはさも最初から存在しなかったかのように跡形もありませんでした。
――辛い思いをさせましたね――
突然、父の声とも母の声ともとれる不思議な声が耳に響き、少女は驚いて目の前の存在を見上げます。夏の木立の隙間から射し込むような優しい眩しさにまだ少し目を細めながらその声の主を確かめます。
――でも、これは必要なことでした――
「あなたは父さま?それとも母さまなの?」
――そのどちらでもあり、今はもう、どちらでもないと言えます――
その声の言う意味は少女にはよくわかりませんでしたが、それが自分に親しい存在であることを少女は無意識に感じとっていました。
「ごめんなさい。私、どうしても許せなかった。父さまを陥れた人たちも、母さまを独りにしてしまった私自身も。だから……だから私はこんなところに来てしまった。自分の力では何もできないのに、見かけは平気なふりをして、本当は誰かを憎んでばかりいた。ミュリだって私のせいで」
――あなたはここにいるべきではありません――
そのしなやかな声は少女の独白を受けとめてそっと包み込みます。少女の目の奥にはまだ生きる力が残っている。そのことを少女自身に気がつかせるように。
――今のあなたはもう、あなたのためだけの存在ではないのです――
「それは一体どういうこと?」
涙を浮かべた少女の問いかけに答えはありませんでした。
大きな鳥は足を折ってゆっくりと座り込むと、乗りなさい、とでも言うように翼を少しだけ広げながら身体全体を少女の方へ傾けました。
少女が瞬きをする度、光は瞼の裏に像を残します。駆け寄る少女を迎え入れる細い腕。頭を撫でる大きな手のひら。父と母の記憶が光の中から蘇ってきました。
少女は大切な思い出を抱きしめるようにそっと目を瞑ると、やがて何かを覚った様子で光る鳥の翼に触れてつぶやきました。
「忘れないよ」
少女が翼に掴まると少女は身体ごと持ち上げられ、転がるようにして鳥の背中にすっぽりと収まりました。
――しっかりと掴まって。それと、決して下を見てはいけません――
少女は返事の代わりに首元の羽毛をぎゅっと掴みました。滑らかでふわふわした不思議な感触でした。
少女を乗せた鳥が翼を大きく広げてゆっくりと羽ばたくと、まるで大気より軽くなったような感覚で身体が浮かび上がりました。
流星が空へ昇ってゆくかのように、森を超え、みるみる高度を上げていきます。経験したことのない浮遊感に少女は目を瞑り手をぎゅっと握って耐えていました。
やがてごうごうと言う風の音が聞こえなくなって、少女はまぶたを開きます。下を見ないように恐る恐る目線を上げると、無数の星達が少女の視界いっぱいに広がっていました。
「わぁ」
その光景に圧倒された少女は思わず声を漏らします。眼前の星ひとつひとつの緻密な光。その姿は地上からは見ることのできないものでした。
「父さま、母さま、私どうすれば」
――生きなさい。あなたならきっと、しるべになれる――
「しるべ?」
――思うままに、正しいと感じるように生きて。あなたが何を選んでも私は追いつける。あなたの見つめる先へ飛んで行ける――
不思議な言葉を残してすぐに鳥の背中が一層強く光り瞬くと、次の瞬間、少女の身体は星空へ向かって投げ出されました。鳥は空の見えない壁にぶつかったかのように光となって散り、周囲に鏡面を浮かび上がらせました。
その境界を突き抜けた少女は、見上げていた星空に吸い込まれるように落ちはじめます。音は無く、落下していく感覚だけが強くなり、少女は歯を食いしばります。
少女の身体はぐんぐん加速します。ずっと遠くにあるはずの星の光が少女のすぐ横を通り過ぎていきます。
どこまでも、どこまでも落ちていき、意識が闇へ飲まれそうになった頃、突然、少女は自分の重さから解放されました。
どこかへぶつかった訳でもなく、痛みもなく、ただ水の中を漂うような感覚でした。
目を開けると、そこには果てしない白。暗い星空の奥へ落ちたはずの少女は突然の眩しさに目を眩ませます。立ち上がろうにも地面がないので、手足を動かしてみても空を切るばかり。どちらが上でどちらが下なのかもわかりません。
自分の力ではどうすることもできずしばらく白い空間を見つめていると、少女自身の鼓動と同じ周期でわずかな振動が身体全体へ伝わってきます。
やがて、ちりちりと砂が積もるような音とともに目の前の空間にひびが入りました。少女は鼓動を早めながらその様子を見守ります。
ひびはあっという間に視界全体に広がって、真っ白な空を少しずつ剥がしていきます。剥がれたそれは小さな欠片となって雪のように少女の周りへ舞い降りていきます。
空が剥がれ落ちた跡の空間には、少女の記憶が次々と像を結んでいきました。懸命に働く父の姿、優しい母の仕草、笑う二人の顔。何度だって思い出してきた光景は、少女の心を強く揺さぶりました。
「父さま、母さま……私、行くね」
白一色だった空間は既に半分が崩れ、少女の身体は空間の外へ向かって流れはじめます。あの向こうには『自分』がいる。少女はそう感じて力に身を任せました。
空から落ちるよりはゆっくりな速度で外の世界へ近づくにつれ、様々な感覚が戻ってきます。色、感触、匂い、音。少女は星の海へ落ちてからこれまで、それらを失っていたことに今気がつきました。
白い空がすべて視界から消えて、辺りが真っ黒になった後、幾度か瞬きをした少女は腕に触れる木の皮の確かな感触に気がつきました。森の匂いと肌を撫でてゆく風が少女の意識を優しく起こします。
懐かしい森の空気。呼吸して、それを胸で感じる。
少女が塗れていた悲しさや寂しさはもう乾ききっていました。
「ウィゼル!」
今、一番聴きたかった声が耳に飛び込んできて、少女の目が大きく開きました。
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