のこされたものたち

 時折通り抜ける風、荷車から顔を出した商人やフィンクに乗った騎士達。すれ違う誰もがふたりを振り返ります。でもそれは、ただ物珍しさから一瞬の興味を惹いたばかりで、商人はお金の勘定に、騎士たちはそれぞれの公務に、風は気ままな旅へとすぐに戻っていきました。フィンクを駆るにはまるで向かない身なりで少女たちが街道を往く、その遥か先に白い砂のような地平が見えはじめました。

「こっち、本当にあっている?」

「うん、間違いないよ」

 手綱を繰りながら問うミュリにウィゼルは寂しそうに答えます。それはかつて見た光景の逆戻し。ウィゼルの生まれ故郷であるカドゥミナ。今はもう乾いて砂埃にまみれてしまったその街に、ウィゼルたちは向かっていました。


 街へ近づくに連れ、ひび割れた地面から乾燥した土が埃のように舞い上がって、北から吹く風とともにウィゼルたちを襲います。フィンクが砂を嫌って鳴き声を上げながら暴れかかるとウィゼルは危うく振り落とされそうになりますが、ミュリがそれをなだめます。

「大丈夫。お願い」

 苦戦しているミュリを後ろから見ていたウィゼルはフィンクの様子をじっと観察していました。

「この子、砂が目に入ってしまうみたい。ちょっと待ってて」

 ウィゼルは羽織っていた外套をフィンクの頭にかぶせると、頭巾のように袖を結んで固定しました。横風からの砂埃が防がれ、視界が暗くなったことでフィンクは急に落ち着きを取り戻します。

「平気?……うん。道はミュリが伝えてあげて」

「わかった。ウィゼル、よく気がつく」

 再び走り始めても辺りを行き交うものはなく、街道を走っているというのにどこか未踏の地を旅しているようですらありました。



 罪人の娘として追われる身となったウィゼルは、魔力障を患う母親に父親の死と真実を報せるため、街外れの小さな家を目指します。

 ようやく風も弱まり辺りが見渡せるようになると、砂にまみれ朽ちかけた家々が点在する様子が二人の目に映ります。その光景にウィゼルの胸は締め付けられました。中央都での生活を知った今、この環境の過酷さが改めて身に染みます。それでも、ここは間違いなく両親と日々を過ごした自分の生まれ故郷なのだと、ウィゼルは満たされない心に言い聞かせていました。


 かつて家の周りに広がっていた畑は、ウィゼルのいた頃から更に荒廃が進み、今ではもう固く乾いた砂地に変わりつつありました。更にその先へ進むと、焦げたような臭いがウィゼルたちの鼻を突きました。

 嫌な予感はざらりとした感触となってウィゼルの中に流れ込みます。早まる鼓動に急かされながら、かつての畑を超えても、まだ遠くどこまでも荒野は広がっていました。

「だいぶ来たけど、こっちで合っているの?」

 フィンクを止めて問いかけたミュリにはそこがただの荒れ地にしか見えませんでした。でも、ウィゼルにとっては違いました。遠くの丘の稜線、道沿いの岩の形。そこは間違いなくウィゼルの日常があった場所です。しかし、今そこにウィゼルの生まれ育った家の影はなく、黒く燃え尽きた炭が転がっているだけでした。

「え……」

 震える吐息を感じたミュリは自らが降りた後、ウィゼルを支えてフィンクから降ろしました。ウィゼルは訳が分からず立ち尽くし、辺りをぐるぐると見回しながら焦点の定まらない目で母親の姿を探していました。

「かあさま……母さま!」

 少女の叫びは虚空に吸われ、答えるものは誰もいませんでした。

「どうして?母さま……誰が、こんな……」

 地に膝を付いて焼け跡の砂を掴むウィゼルの後ろ姿をミュリは少し離れたところからしばらく黙って見守っていました。



「街の方へ行ってみよう。なにか知っている人がいるかも知れないよ」

 うずくまったままもう随分と長い間動かないウィゼルへミュリは慎重に声をかけました。日も傾き始め、荒れ野の只中で夜を明かす訳にもいきません。でも、ウィゼルは膝と手のひらを地面につけた格好のまま何も答えませんでした。

「ウィゼル」

「ミュリ、ごめん。もういいの。ごめんなさい、巻き込んでしまって。あなただけでもお城に戻って、そうすればまた――」

「ダメだよ」

 怒気の混じった声色にウィゼルの身体はビクリと震えました。その背中にミュリはそっと身体を寄せます。

「ウィゼルと離れるの、もうイヤ。ここにいたら、干からびてしまう」

「ミュリ……ごめんね、私――」

 振り向いたウィゼルにミュリは微笑んでわずかに首を振ります。ひどく泣きはらし、土埃で汚れた頬をミュリの手が拭いました。

「誰かに聞いてみよう。宿も探さないと」

「うん」

 ようやく立ち上がったウィゼルの膝は荒れた土に擦れて血が滲んでいました。でも、そんなことは気にもかけず、また溢れそうになった涙を堪えながら手足についた砂を軽く払うと、ミュリと一緒に再びフィンクに乗ってカドゥミナの市街へ引き返していきました。



 カドゥミナに残る数少ない商店の近くで聞き込みをすると、幾人かの住民から話を聞くことができました。

 ウィゼルの母親ウィーネは数日前に亡くなっているのが発見され、街の人々は魔力障の伝染を恐れて家へ火を放ちました。眠るように横たわったその身体は、家族と過ごした家をそのまま棺として、空へ還っていったそうです。

 その話を聞いたウィゼルは涙をこぼすでもなく、ただ青ざめた顔で呼吸を荒げていました。夕陽が落とす長い影のように黒い傷跡が足元から広がって、やがて自分自身が飲み込まれていくような感覚にウィゼルは身震いしました。

 ――私は今まで一体何をしていたのだろう。父親を救うこともできず、母親を孤独のうちに死なせてしまった。ただ、ただ愚かしい。

 両親を立て続けに失った悲しみも、もはやウィゼルには自分の無力さが引き起こしたものとしか考えられなくなっていました。



「お嬢ちゃん達、泊まる場所がないんだって?」

 その日の宿を見つけられず、大通りの隅で途方にくれていたウィゼルたちは、急に明るく声をかけられて目を白黒させました。

「うちなら泊まれるよ。ほら、そこのフィンクも一緒で大丈夫さ。夜の街は危ないからね。さあ、早く行こうじゃないか」

 明らかな悪人といった風体でもない、平凡な町人と見える青年にまくし立てられ、憔悴していたウィゼルたちは疑うこともなく、青年に背中を押されて街外れの建物へと向かっていきました。

「本当にいいんですか?」

「ああ、ちょうど部屋が余っているんだ。自由に使ってくれて構わない。フィンクは外に繋いでおけるから」

 すっかり日も落ち、ただでさえ少ない人通りの絶えたカドゥミナの路地の奥、その青年の案内する先には辺りの民家より随分大きな石造りの建物がありました。


「今日はここでおとなしくしていてね」

 ミュリがフィンクにそう声をかけて外壁に縄を結ぶと、フィンクは自分の背中へ首を伸ばして毛づくろいをはじめます。その仕草はもう眠る準備を始めた証拠。ミュリとウィゼルは安心した顔でフィンクの首筋を撫でてから青年の待つ建物の入口へ向かいました。

 青年の先導で建物に足を踏み入れると、中は薄暗いがらんどうの倉庫のようで、一角に大きな木箱が乱雑に積み上げられていました。周囲には背の低い壁で仕切られただけの扉のない小部屋のような空間がいくつかあり、それぞれに簡素な寝床が置かれています。

「普段はほとんど倉庫として使っていてね、ちょっと味気ないけど一晩明かすには十分だろう。君たちはあっちの部屋。なに、他には誰もいないから気兼ねなく使ってくれ。僕は向こうの部屋にいるから。じゃ、後はご自由に」

 青年はそう言って右手の部屋へ向かっていきました。

「あの、ありがとうございます」

 ウィゼルの声は広間の静寂にかき消されて、遠ざかる青年に届いたのかはわかりませんでした。

 青年の指した先へ向かって少し歩くと、先ほど手前に見えていたのと同じ作りの部屋がふたつありました。部屋と言っても仕切られているのは腰くらいの高さまでで、視界は広い空間へ抜けており、ふたりともなんだか落ち着きませんでした。

「一緒に、寝てもいい?」

 ミュリが小声で呟くと部屋の様子を眺めていたウィゼルは少し疲れた顔で振り向きます。寝床がひとつずつ置かれた部屋は隣り合っていましたが、使用人宿舎でのふたりの寝床ほどの近さはありませんでした。

「……うん、落ちないように気をつけてね」

 寝床の幅は使用人宿舎のそれより大きく、大人の男性には十分なくらいの広さがあって、少女ふたりが並んで眠るにもなんとかなりそうでした。

「ありがとう。明日のことは明日考える。それがいいよ」

「うん、ミュリには何でもお見通しなんだね」

 ウィゼルはようやく少しだけミュリへ微笑みを返すことができました。ふたりは早速寝床に潜り込むと、毛布越しの温もりと暗い静寂に誘われてすぐに眠りに落ちていきました。


――――

 すん、すん、とすすり泣く音。ウィゼルの目の前には何故か幼い頃の自分が立っていました。

 ゆらゆらと歪み、ぼやけて判然としない空気から、それは夢らしいと気づくことができましたが、古い記憶と目の前にいる自分を照らすと、急に確からしさを帯びて見えてきます。

 幼いウィゼルはベッドに横たわる母親を見ながら泣いています。その母親の顔はもう血の通っていない、青く、白く、冷たい空のようでした。

 やがて家の扉から父親が入ってくると、泣きながらウィゼルを後ろから抱きしめます。ふたりはウィーネのことをいつまでも見送っていました。

 あんな年の頃、母親は魔力障を患いながらも懸命に生きていました。だからその光景はウィゼルにとっては嘘でしかありません。けれども、そんな可能性もあり得ただろうと、母親の最期に立ち会えなかったことを自分自身に責められているような気がしてなりませんでした。

 そのうち、目の前で泣き続ける幼いウィゼルの感覚が自分の中に流れ込み、濡れた頬と上気した吐息が顔の上でごちゃまぜにされたように感じました。

――――


 その時、ウィゼルは急に身体を持ち上げられて目を覚まします。太い腕に脇から荒々しく掴まれ、息が胸につかえたウィゼルは何が起きたのかを判断できるまで少し時間を要しました。ウィゼルの身体は大きな体の男に抱えられて、寝ていた部屋から運び出されようとしていました。

「ちっ、暴れるねえ」

 横ではもう一人の男がミュリを抱えていましたが、ミュリは手足を激しくばたつかせてその腕から抜け出そうと必死でした。わあと叫びながら振り回したミュリの手が男の顔面に当たると、男はたいそう癇に障った様子でミュリの顔を殴りつけました。

「やめて!」

 ウィゼルが叫ぶと、暗がりの中からウィゼルたちを案内した青年が姿を現します。

「おいおい、せっかく仕入れた商品に傷をつけるなよ。価値が下がるだろ」

 出会った時の親身な声とはまるで違う、低く湿った声色でした。

「お願い!離して」

 青年はウィゼルの叫びを無視して、後ろに控えていた別の男たちへ何か指示をすると、その男たちは縄でウィゼルとミュリの手足を縛りはじめました。ミュリは殴られた衝撃で気を失っているようです。ウィゼルの力では男たちにかなうはずもなく、ふたりは後ろ手に手首と足首をきつく縛られ、積まれた木箱の裏にまるで荷物を扱うようにぞんざいに放り出されました。

 ウィゼルは身体を打った痛みをこらえながら辺りの様子を窺うと、倉庫の中には更に数人の男たちがいるらしく、青年を交えて何か話している声が聞こえてきました。


「あの小娘二人、ファダルの家のことを何か探っていたようですが、いいんですか」

「あれがファダルの娘だと?」

「かも知れません」

「だとしても関係の無いことだ。もうあいつはいない。父娘共々、役に立ってくれたことには感謝したいところだが」

「本当にこれからもお咎めなしになるんですか?人一人差し出したところで」

「さあな。だが宮廷にも裏があるということだ。それが我々に知れた以上、一方的なことはできないだろう。それどころか、我々が何もしなくても、そのうち勝手に崩れていくのかもしれないな」

 そう言って青年は不敵に声を押し殺すように笑いました。


 そのやり取りを耳にしたウィゼルは呼吸が荒くなって、もはや冷静ではいられなくなっていました。やはり父親は組織に利用されたのだという事実に、父親の無実の証明を得たことよりも、父親を利用した人間達への怒りが熱となって頭を駆け巡りました。

 ――なんで、どうして、父さま、私どうすれば――

 息は乱れ、脈はまるでいつもの調子を失い、目眩のように視界が自分の元を離れていきます。四肢の中を、黒く、赤い何者かが這いずっていて、それがやがて身体の中を上り喉元まで差し掛かってくる。そんなおぞましい感触を覚えてウィゼルは本当に何かを吐き出しそうになりました。

 ウィゼルたちに手を出せないとわかった男たちはもうふたりのことは気にもかけず、後から来た仲間の一人をなじっては暴力を振るい、気に障る笑い声を上げていました。

 彼らがウィゼルたちを商品と呼んだ以上、ふたりがどういう扱いを受けることになるのか、想像もしたくない現実が目の前を包みます。ウィゼルはかつて聞いたミュリの過去を思い出し、物のように扱われるとはこういうことなのだと身に沁みて理解したとともに、そんな蛮行が自分の故郷で行われようとしていることにひどく悲しくなりました。

 気づけば顎が痛くなるほど奥歯をずっと噛み締めていたウィゼルは、未だ気を失ったままのミュリを見て、また己の無力さを感じます。足掻いたところで縄は解けず、気がつけば視界はぼやけ、涙を拭うこともできないまま、ただ絶望感に震えていました。



 そうして夜が更け、男たちの騒ぎも落ち着いた頃、ふたりの元に足音が近づいてきました。

「へ、傷つけなければ好きにしていいんだろ」

 そう呟きながら、酒に酔っているのかふらついた足取りで積まれた荷の裏へ回り込んで来た男は、少女たちを見つけるとなんとも気味の悪い笑いを浮かべてふたりを見下ろしました。それに気がついたウィゼルは小さな悲鳴を上げて息を飲み込み、全身が萎縮するように震えました。

「売る前に味見しとかねえとな」

 男はミュリの足を掴んで引っ張るとミュリは目を覚ましましたが、何が起きているのかわからずにすっかり怯えた様子で言葉にならない声を上げました。男をそれを気にもとめずミュリの服に手をかけます。

「やめて」

 ウィゼルがようやく絞り出したかすかな声に、男は手を止めてウィゼルを睨めつけます。

「やめて、ください……お願いです」

「ふん、じゃあこっちにしようか」

 男はウィゼルの首を掴んで上半身を起こさせると木箱に背をもたれさせ、ウィゼルの衣服を乱暴に引き剥がそうとします。ウィゼルは目を瞑って、ただ耐えようとしました。

 ――ミュリが助かるなら、私は――

 思いつくばかりの覚悟を決めたウィゼルでしたが、男は突然悲痛な声を上げて仰け反りました。ミュリが縛られた身体を器用に起こして男の脚に噛み付いたのです。

 それに激昂した男は腰から短剣を取り出すと、忌々しげな座った目でためらいなくそれをミュリへ向けて振りかぶりました。


――――――――


 その時発せられた少女の悲鳴は建物全体へ確かに響き渡りました。でも、それはまるで嵐の中の叫びのように誰の耳にも届きませんでした。そこにいた誰も、己の五感が少しの間途切れたことに気がつく者はいませんでした。

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