離別

「兄様!なぜウィゼルの父親を……あそこまでする必要が本当にあったの?」

 オリオーネの悲痛な声がベルクロイ邸の広間へ響きました。

「オリィ、わかってくれ。議会の総意で決まったことなんだ」

「わからないわ!霊泉の件は証拠もなかったのでしょう?」

 ヴィンヤードは目を瞑り、重くため息をつくと、声を潜めて話し始めました。

「いいかい、オリィ、マクアの霊泉の輝きが失われた原因はまだわかっていない。あの日、洗礼式団の襲撃者がもしいなかったとしたらどうなる?」

「え……」

「その責を問われるのは最後に霊泉で洗礼を受けたオリィかもしれない」

「そんな……それじゃあ兄様は」

「今の私に議会の流れを変えるような強い発言権は無いよ。だが、騎士長をはじめ大勢は、式団の襲撃者を霊泉の力の簒奪者として罰せよ、という意見に傾いていた。私はそれでいいと思った。オリィが非難の的になる可能性が無くなるのならね」

「兄様……でもそんな不当な裁き、父上だったら許さなかったでしょう」

「ああ、きっとそうだね。でも私にとっては父上の理想よりオリィの将来が大事なんだ。だから、理解してほしい」

 ――まただ。また、私は流される。抗い方も立ち回り方もわからない。ただ、心配されるがまま。

 オリオーネはまた自分自身で心の入れ替わりを感じ取ります。

「それと、ウィゼルのことは忘れなさい……もう会うことはできなくなるから」

 ヴィンヤードは唇を噛み締め、視線を下へ逸らしながら低く途切れそうな声で伝えました。

 オリオーネは知っています。それは、何かを隠し、何かを背負って、自分の気持ちを抑え込んでいるときの兄の仕草だと。父親が亡くなったとき、兄のヴィンヤードが泣きたい自分を押し殺しながらその事実を伝えた様子をオリオーネはよく覚えていました。

 何かかけがえのないものを失ってしまう気がしたオリオーネは、傾いた心を引き戻し、失くしたくないのはどちらの結果なのか、どちらの自分なのか、いつもと違う重りを天秤に乗せはじめました。

「それはどういう意味ですか、兄様」

「そのままの意味だよ。すまない、私の力ではどうすることもできなかった」

「一体どうしようというの?ウィゼルに……あの子にこれ以上どんな悲しみも要らないでしょう!私は会えなくたっていい。だから、あの子のせめてもの平穏を奪うのはやめて!」

「オリィ……事はもう動き出している。今、我々は霊泉の力を取り戻すことに全力を傾けるべき時なんだ」

「どうして兄様は……私、そんな兄様知らない!優しい兄様を返して!」

 オリオーネは悲壮な顔でそう言ってヴィンヤードへ背を向け駆け出すと屋敷を飛び出して行きました。

 ヴィンヤードはそれを止める素振りも見せず、ただ泣きそうな顔で立ち尽くしていました。

「オリィ、私は――」


 ――兄様にはもう頼らない。私の力で――

 夕焼けに染まる園庭を走る少女。内城郭の向こう側の使用人宿舎は一息に走り抜けるには遠く、それでも少女は息を切らせながら足を前へ出し続けました。

 少女が宿舎にたどり着くと、建物の影が夕景に黒い穴を空け、辺りを不気味な静けさが包んでいました。普段から使用人が行き交い、生活の音にあふれていたその場所はまるで時が止まってしまったかのようです。

 ――ウィゼル――建物の外からその名を呼ぼうとして、自らの声で静寂を切り裂くことに理由のない恐怖を覚えた少女は思いとどまり、人の気配のない宿舎へ黙って近づいていきました。

 きい、と木の扉が鳴り中へ入ると、そこは少女のよく知る景色。でも今は洗濯場の水面を波立てるものはなく、奥の食堂からの賑やかな声もありません。自分の吐息と足音だけが支配する空間。少女はゆっくりと奥へ進み、小さな段を上って食堂へ上がりました。


「誰かと思えば、オリオーネ様でしたか」

 二階へ上がる階段の脇によく知る者の姿がありました。しかしオリオーネはその様子がいつもと違うことにすぐに気が付きました。

「ラエア……今日は随分静かなのね」

「ええ、城内の方が少し忙しいのですよ。それより、オリオーネ様はどうしてこちらへ?」

「ウィゼルとミュリに会いにきたの」

 ラエアは組んでいた腕をほどくと、階段を塞ぐように前に出ましたが、少女の方へ向き直ることはなく、少し先の床を表情のない目で見つめていました。

「残念ですが、それは叶いません。オリオーネ様」

 その横顔は、オリオーネの知るラエアとは全くの別人のようでした。

「あなた、本当にラエアなの?」

 ラエアはひとつ深く呼吸しました。

「そうです……そう在りたいと思っていました」

 まるで死地に赴く兵士のように覚悟の滲んだ手には一振りの刃が握られていました。見たことのない歪曲したその剣身は夕陽の色を鈍く反射しています。

「まさかあなた」

「でもどうして……どうしてこんな事になったんでしょう」

「誰の命令なの」

「……オリオーネ様はここにいてください。お見せするものではありませんから」

「言いなさい!誰があなたに命じたの」

「お願いです。じっとしていてください。私にこれ以上――」

 その時、宿舎の入り口の両開きの扉がドタンと音を立てて閉められました。すぐさま反応したラエアはオリオーネの脇を素通りして扉の方へ走って行きます。

 何が起きたのかわからず、動けずにいたオリオーネでしたが、目の前の狭い階段を今なら上がる事ができそうだと気が付きました。


 ラエアの向かった洗濯場にはどこからか木の焼けるような音と匂いが立ち込めていました。それでもラエアは迷うことなく扉へ向かって体当たりしましたが扉はびくとも動きません。

「く、この程度」

 ラエアは両開きの扉の隙間に刃を滑り込ませるように真っ直ぐ剣を振り下ろしました。しかし、金属音に阻まれて剣は弾かれ、空中で回転して洗濯場の地面に突き刺さりました。

「これは」


 オリオーネは心を決めると早足で、でも静かに階段を上っていきます。ウィゼルたちの部屋は一番奥。二階に上がったウィゼルは狭い廊下の突き当り目指して、抑えきれずに駆け出しました。

「ウィゼル!」

 ついにそう叫んでウィゼルの部屋の扉を開けようとしますが、何かがつかえていて開きません。そうしている内に階段を上り、廊下を走る足音が近づいてきます。

「オリオーネ様、下がってください!」

 ラエアはオリオーネを押しのけるようにして扉の前に入り込みます。ラエアが手にした剣を振るうと、薄い木の扉は簡単に破られました。その瞬間、オリオーネはラエアの脇をすり抜けて部屋の中へ転がり込みます。

 オリオーネは自分の身を呈してでもウィゼルを守るつもりでした。でも、そこには誰の姿もありませんでした。

 開け放された小さな窓から少女の声とフィンクの足音が聞こえてきて、オリオーネは窓辺へ駆け寄り上半身を窓から乗り出します。窓の下にはフィンクにしがみつくようにして乗る二人の少女。

「ウィゼル!ミュリ!」

 叫んだオリオーネを見上げた少女は目を丸くして応えます。

「オリィさま!……ごめんなさい、私――」

「いきなさい!」

 ウィゼルの言葉を遮るようにオリオーネは声を張り上げました。その顔は悲しそうで、泣きそうで、嬉しそうで、どこか遠い慈愛の海の夕暮れに浮かんだ真っ白な希望のようでした。

 ウィゼルはその儚げな美しさにかけるべき言葉が見つからず、ただ頷くしかありませんでした。

「ウィゼル、掴まって!」

 ウィゼルはまだ何か迷いながら、フィンクの首元に座ったミュリの腰に手を回します。ミュリが手綱を引くとフィンクは庭園の奥へ向けて駆け出しました。それからは二人の少女は振り落とされないよう必死で、振り返る余裕もありませんでした。

 オリオーネは長く伸びたフィンクと少女達の影が遠ざかるのをずっと見つめていました。



 城の西門には兵士達の乗るフィンクを世話する厩舎がありました。外から帰ってくる部隊を迎え入れるため、警備の兵士が門を開けて待っていると、城内の方からフィンクの軽快な足音が聞こえてきて、数人の兵士達は驚いて振り返ります。

「なんだ?ありゃ、使用人の娘じゃねえか」

「おい、どうする」

 ――お願い、通して――ウィゼルは祈るように前方を見つめます。

「何も聞いてないぞ」

「ラエアに目玉でも食らったか」

「ほっとけほっとけ、俺たちには関係ないさ」

 面倒事に巻き込まれるのを嫌った兵士達は門の前から散り、フィンクの進路を開けました。

「ありがとう!」

 兵士達の横を通り過ぎざまにウィゼルが声をあげると、のんきな顔をした兵士が答えました。

「あまり遅くなるんじゃねえぞ」

 先程まで命を狙われていたウィゼルにとって、その言葉は何だかおかしいほどちぐはぐで、心がくすぐられるような感じがしました。

 城門を抜けたところでミュリが器用に手綱を繰りながらウィゼルへ話しかけます。

「あの人、私達の心配していたの?」

「うん。私のこと、やっぱりまだ全員には伝わってないみたい」


 どっどこどっどこ、フィンクは走ります。丘の向こうの街道へ向けて。

 どっどこどっどこ、少女二人の心を乗せて。


「ごめんね。私のせいで」

「今、すごく楽しい。ウィゼルと一緒に旅に出たんだ」

「ミュリ……ありがとう」


――――


 使用人たちは城内での仕事を終えて宿舎へ帰って来たところで異様な光景を目にします。昼間はいつもと変わらなかった宿舎の扉の下半分が、土でも盛られたかのように金属の塊で覆われていたのです。それはところどころ剣やら兜やらの形を残していて、それらがまとめて溶かされたように見えました。すぐに数人の兵士がやってきて状況を調べ始めます。

「これは一体、どういうことだ。何の目的で」

「こんなこと、魔術にしかできないだろう」

 そんな驚きの声を上げながら兵士たちは扉の復旧をはじめました。静寂に包まれていた宿舎周辺が騒がしくなっていきます。



「結局、飛び立ったのはあの子たちだったわね……ラエア、あなたはウィゼルたちを追うつもりなのかしら」

 オリオーネが振り返ると、ラエアは剣を手にしたまま目を閉じて佇んでいました。そして、再び開いた瞳にはよく知るいつものラエアが少し戻ってきたように見えました。

「オリオーネ様に助けられる事になるとは思いませんでした」

「私が、ラエアを?」

「ええ。それで、私は私の心に従う事にしたのです。たった今」

 オリオーネを見つめ返したその顔は晴れやかで、いつも裏に隠していたラエア自身の思いも、その時ばかりは言葉に溶け出していました。

「オリオーネ様、ありがとうございます」

 そう言って微笑むラエアはオリオーネの目の前までやってきて、オリオーネの左肩にそっと触れます。先程ラエアの刃に触れてできた一筋の切り傷が衣服に血を滲ませていました。

「あ……」

「今、手当しますから。ここでお待ちください」

 ラエアが床に剣をそっと置いて部屋を出ていくと、オリオーネは気が抜けてウィゼルの使っていたベッドに自然と腰を落としました。

 ――ラエア、あなたはいったい――

 ウィゼルの命を奪おうとした誰かの意思。ラエアの裏の顔。自分の知らなかった宮廷の姿に考えを巡らそうとしたオリオーネですが、今はウィゼルが無事逃げ出せたことに何よりも安堵していて、それ以上の思考が進みませんでした。



 戻ってきたラエアがオリオーネの腕に布を巻き傷の手当を終えた時、外から人のざわめく声が聞こえてきました。オリオーネはベッドから立ち上がって窓から顔を出すと、数人の使用人と兵士が宿舎の様子を見回っていました。

「オリオーネ様!」

 二階の窓のオリオーネに気づいた使用人が声を上げると皆一斉にそちらを見上げます。

「他に誰かいらっしゃいますか」

 大柄な兵士がよく通る声で呼びかける声が聞こえると、ラエアは少し緊張した様子で後ろからオリオーネを見つめました。

「ラエアがいるわ。他にはいないはずよ」

「わかりました。もう少しご辛抱ください。扉を開けるのに手こずっておりまして」

「ええ、こっちは大丈夫」

 そう言ってオリオーネは日が落ちてすっかり暗くなった部屋へ引っ込むと、ウィゼルたちがいた部屋の隅の方を喪失感のこもった目で見つめます。

「今日は、ここに泊まってもいいかしら」

「オリオーネ様、しかし……」

「どうせ家に戻っても一人だもの。お願い」

 ラエアが珍しく黙り込んで悩んでいると、オリオーネは続けます。

「そうだ、みんなが帰ってくるまでに私達でお夕食を作らない?いつもならもう準備をしている時間でしょう」

「……もっと、拒絶されるものかと思いました。よいのですか」

「そう、ね……もしウィゼルが無事じゃなかったら、なんて考えたくもないわ。でも、結果そうではないし、あなたもいつものラエアに戻ってくれたみたいだから、事情はあなたが話す気になった時に話してくれればそれでいいわ。それに今は、私も何か違うことをしたい気分なの」

 それを聞いたラエアはようやく微笑みました。

「わかりました。では、ここにある限られた食材をオリオーネ様と私、どちらがより美味しく料理できるか、腕比べといきましょう」

「ええ?一緒に作ってくれるのではないの?そんなのラエアが勝つに決まっているじゃない」

「おや、よろしいのですか。始まる前から諦めてしまって」

「む、諦めてなどいないわ。私にだってスープのひとつくらい……あ、でも火の着け方だけは教えなさいよ」

「はい、かしこまりました。それでは、参りましょうか」

 そう言いながら大げさに礼をしたラエアは扉を失くした部屋を出て、廊下と階段のランプを灯しながら階下の調理場へ向かいます。暗い通路に次々と明かりが灯っていくその様子は、かつて見た聖域の森の精霊が進むべき道を示しているかのようだと、オリオーネは密かに思いました。

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