それぞれの現実
宮廷騎士のヴィンヤードはその日、妹の洗礼式に参列することができませんでした。
本来であれば、一族の参列が優先されるものですが、今のベルクロイ家にそれは叶いません。父親の代から続く一部の貴族との確執により、ヴィンヤードは理不尽な公務を押し付けられる不遇な環境に置かれていました。今日もこうして、あえて妹の大切な日に命じられた罪人の移送を終え、ワイザール城への帰路についています。
妹は無事に洗礼を終えられたのか。洗礼の後に城内で行われる報告式には間に合うだろうか。
大切にしてきた妹が気がかりなヴィンヤードは急ぎフィンクを走らせていました。
一つ幸いなのは、洗礼式の祭司を務めるのがベルクロイ家と親交のある魔術師ケイトスであったこと。ヴィンヤード自身の師でもあったケイトスは、宮廷の派閥にとらわれることなく、ただひたむきに魔術と向き合う人間です。彼ならば妹の事を任せられると信じたヴィンヤードは将来のベルクロイ家のため、嫌がらせとも思える命令を顔色も変えずに遂行しました。
普段ならば街道沿いではなにがしかの事件があり、その解決のために騎士はよく足止めをされるものですが、今日は平穏そのもの。やがて遠くに霞む城が見え、このまま行けば妹が聖域の森から戻ってくる頃には帰り着けるだろうとヴィンヤードは見込んでいました。相棒であるフィンクの調子もよく、見通しの良い街道をひた走ります。
ヴィンヤードが城下の中央都に入ったところで異変が起こります。ワイザール城の北、聖域の森の中から赤い一筋の光が天空へ向けて一直線に伸びたのです。それは人々を脅かす魔なる獣が聖域を越えて現れた証。ヴィンヤードは背すじが凍る思いでした。
よりによって妹が森に入る洗礼の日に魔獣が現れるなどあってはならない、とヴィンヤードはフィンクを方向転換させ聖域の森へ向かいます。本来であれば城に常駐している騎士達が討伐隊を編成し魔獣の対処に向かうところですが、それを待っていられるほどヴィンヤードは愚鈍ではありませんでした。
赤い光は森の中でもマクアの霊泉のある方角から昇っています。洗礼式の日は一般人の参詣は行えないことから式団が魔獣と遭遇したのは確実です。
――オリィ、どうか無事で――
聖域の森の手前に広がるなだらかな丘と平原の道を、騎士の乗るフィンクが全速力で走ります。やがて見えてきた参詣内門はいつもと違う空気が漂っていました。いつもなら警備兵が立っているはずの門前にその姿が見当たりません。
門の脇でフィンクを降りたヴィンヤードは、よく走ったとフィンクの首元をわさわさと撫でました。フィンクはまだ行けるぞとばかりに頭を振りながら小さな翼をはためかせますが、ヴィンヤードがその場を離れると落ち着いて辺りの地面をついばみ始めました。
警戒しながら門をくぐった先の森はどこか異様な空気でした。緑の壁のように青々と茂っているはずの木々が、その周りだけ色を失っています。その不気味な様子にヴィンヤードは不吉な予感を抱きました。
聖域へ入ったヴィンヤードはすぐに一人の騎士が倒れているのを見つけます。倒れている騎士の元へ駆け寄るとその先に背の高い不気味な人影、さらにその向こうには背中合わせに立つ二人の少女が見えました。
少女の一人はヴィンヤードの妹オリオーネ、もう一人はワイザール城の使用人のウィゼルでした。魂の抜けた亡者のようなただならぬ様相の影は二人の少女にゆっくりと迫っています。その影の背を追ってヴィンヤードはすぐさま駆け出しました。
ただの野盗などではない。妹の危機を確信したヴィンヤードは迷いなく剣を抜きます。
「オリィ!」
ヴィンヤードが勢いに任せて背中を斬りつけると影は断末魔を上げることもなく、あっけなく崩れ落ちます。少女達を見ると、その向こうにもう一つ同じ影がありました。
「兄さま!気をつけて、そいつは魔術を使います!」
オリオーネの声にヴィンヤードが一歩引いて身構えると、影は傷口から黒い飛沫を噴き出して完全に動きを止めました。それを確かめたヴィンヤードは横たわる骸を避けて少女たちの元へ。二人を引き寄せて庇うようにもう一つの影に対峙します。
「斬るな」
ヴィンヤードが剣を構えた時、佇む影の後方、参道の奥から声が響きました。
「それに魔力はもう無い。尋問のため、取り押さえて連行しろ」
声の主は洗礼式に同行していた魔術師の一人でした。ヴィンヤードは影に向かって盾を構えて突進し、そのまま盾で押さえつけるように倒すと、素早く腕をとって両手を縛り上げます。影は抵抗する様子もなく、ただうめき声を漏らしました。
「魔獣は?」
「問題ない。援護が来れば決着するだろう。今はそれの護送を」
「こいつらは一体何者ですか。何が目的で……」
「さあな、それをこれから問いただすのだ」
「まともに喋ることができるようにも見えませんが」
ヴィンヤードはそう言って影の顔を包んでいた布を引き剥がし、身体を引き起こして立たせました。するとそれまでその様子を黙って見ていたウィゼルが何かに気がついて息を飲みます。露わになったその顔はあちこちの肌が変質して黒くひび割れていました。
「そんな……うそ……どうして……」
ウィゼルは手にしていた剣を落とし金属音が辺りに響きました。消え入りそうな声でつぶやくウィゼルにオリオーネは不思議そうに声をかけます。
「ウィゼル?」
「とう……さま?」
「え?」
ウィゼルはそれが変わり果てた父親の顔であるとわかりました。傷だらけでも、鼻立ちも口元も確かにそうであるとわかりました。でも、ウィゼルはそれをすぐに受け入れることはできませんでした。首を振りながらもその虚ろな顔から視線を外すことができません。
「とうさま、って……探していた父親のこと?」
「なんだって?しかしこの有様は一体……」
父と呼ばれたその影はウィゼルを見てわずかに口を動かしました。
「ウィゼル……」
そのしゃがれた声を聞いたウィゼルは勇気を振り絞って歩み寄りその縛られた手を取ります。それは確かに、幼いウィゼルを抱き上げ、頭を撫でた手でした。
「父さま……本当に父さまなのね」
涙をぼとぼとと落としながら腕にすがりつくウィゼルを父親はただ見下ろしていました。
「私はもう、父親などと……」
「そんなこと言わないで。やっと、生きて会えたの」
「ウィゼル、私は君の父親を連れていかねばならない。オリィを、洗礼式団を襲撃した事実の裏を調べる必要がある」
ヴィンヤードの言葉に先程までの恐怖心が蘇り、父親に会えた喜びとごちゃ混ぜになって濁った色の感情があふれ出すと、ウィゼルはどうすればいいのかわからなくなってその場にしゃがみこんでしまいます。
「私のことは、忘れなさい」
「そんな……今まで私、何のために……」
森の中を湿った風が駆け抜ける間、誰も口を開きませんでした。ウィゼルの嗚咽だけがさざめく緑に吸い込まれていきます。
「ヴィンヤード、もういいだろう」
魔術師がそう口を開くと、ヴィンヤードは悲しそうにしていた目を閉じて応えます。
「ああ……ウィゼル、君にも後で事情を聞くことなるだろう」
「兄様!ウィゼルは――」
「わかっているよ、オリィ。だが彼女が関係者であることは確かだ。だから、辛抱してくれ」
そう言い残してヴィンヤードはかろうじて歩けるだけのウィゼルの父親を連れて聖域の森を後にしました。
オリオーネはその後姿を見送るとしゃがんでウィゼルの震える背中をさすります。
「立てる?いつまでもここにいてはよくないわ」
「……はい、オリィさま」
ウィゼルはゆっくりと立ち上がって連行される父親の後を追おうとしますが、その距離を縮めたくても足は重く、遠くに揺れる背中を見つめながらトボトボと歩き出すことしかできませんでした。
歩きはじめたウィゼルを見てオリオーネは自分たちを護衛してくれた騎士の元へ跪いて祈ります。
「私達を守ってくれてありがとう。あなたの魂が霊泉の水底まで還りますように」
丘の向こう、ワイザール城から魔獣討伐部隊の一団が聖域の森へ向かってきます。彼らが来れば魔獣は討たれ、死者も弔われることでしょう。
ケイトス達の無事を祈りながら歩くオリオーネはやがて物々しく武装した騎士達とすれ違います。誰とも目を合わせることなく、うつむき加減に一団の脇を通り過ぎた後、一度だけ森の方を振り返りました。森の向こうからまた風が吹いてきて草原に波をたてると、オリオーネはウィゼルの背中を追いかけて再び歩き出しました。
ウィゼルは失踪してもう随分と経っていた父親のことを心の底では半ば諦めていました。母親ももしかしたら自分と同じであろうと思いながら、そんなことを口にも出せず、他人に任せきりで父親を探すふりをしていただけの自分が今となっては心底愚かだと悔やみました。
父親がこんな事になったのも、自分が愚かしかったからだと、だからこうして自分へ復讐しに来たのだと。でも、あのとき触った手は、忘れもしない、かつての日の父親そのものでした。
――父さま、ごめんなさい――
夕刻に予定されていた洗礼の報告式は延期となり、騎士団と魔術院は魔獣の出現と正体不明の何者かによる洗礼式団襲撃という、一連の事件の後始末に追われることになりました。
ウィゼルを宿舎まで送り届けたオリオーネは父親とあのような邂逅を果たしたウィゼルにかけるべき言葉が見つけられず、すぐにベルクロイ邸に帰ることにしました。その途中、城内を通りかかったオリオーネは報告式が行われるはずだった中央広間で足を止め、宮殿へと向かう大階段を見上げて佇んでいました。辺りには慌ただしく兵士や官吏達が行き交い、オリオーネを気に留める者は誰もいません。
――どうしてこんなことに――
答えの無いことを考え込みながら再び歩きはじめると、すれ違いざまに二人の魔術師の会話が耳に入ってきました。
「一体あれは何なんだ」
「私も初めてだ。何らかの過剰な魔力によって、肉体と精神が変質したのか」
あの影の姿、空気の臭い、貫かれた騎士の倒れる様。それらを思い出したオリオーネは自分の中に黒い何かが脈打ちはじめたように感じられて、そのぞわぞわとした嫌な感覚に胸を押さえながら足早に廊下を過ぎ去りました。
ウィゼルの父親ファダルは城の地下にある牢へ囚われて尋問を受けていました。しかし、ファダルは記憶が混濁し自我を失いかけており、時折、妻と娘の名をうわ言のように繰り返すばかりでした。それはまるで重度の魔力瘴患者のようだと、尋問に同行した魔術師は言いました。
ウィゼルは夕闇迫る部屋で一人、ベッドに腰掛けて窓の向こうを流されていく雲を見つめます。ごめんなさい、と呟いた声は外へ飛び出すこともなく部屋の隅の暗がりに吸い込まれました。
「ウィゼル、大丈夫?」
事件のことを耳にし、急いで仕事を終わらせて帰ってきたミュリが声をかけても、ウィゼルは振り返りません。
「ウィゼル!」
ミュリはもう一度名前を呼んでウィゼルの背中に縋るように身を寄せます。ようやく振り返ったウィゼルは、すっぽりと心が抜けてしまったかのようなぼうっとした表情で、ぼそぼそと返事をしました。
「ミュリ、おかえり」
「怪我をしていない?」
「うん、私は、だいじょうぶ」
「よかった……今日は休んで」
ミュリはウィゼルの身体の無事に安堵しながらも、その虚ろな様子が気にかかってなりませんでした。
――きっと疲れてお腹も減って参っている。しっかり食べてゆっくり休めば元気になるはずだ。そうすればまた一緒に働いて、言葉を教わって、そんな日常が戻ってくる――
ミュリはそう信じました。
「食べ物、持ってくる」
ミュリはそう言って部屋を出ていくと、すぐにスープとパンを持って戻ってきます。ウィゼルの目の前の小さな机にそれを差し出して、ミュリは隣に座ります。
「食べて」
「……ありがとう」
ウィゼルは拳ほどの大きさのパンを両手で持ち、嗚咽をこらえるように俯きました。
「家族に、見捨てられるって、どんな気持ちかな……」
「え……?」
「私は、父さまを探したいと思っていたはずなのに、諦めてしまった。まだ、生きていたのに、諦めてしまった。こんな私を、父さまは恨んでいるかな……」
ウィゼルの目からぼろぼろと涙がこぼれてパンを持つ手を濡らしました。
「私のせいで……私が、父さまを――」
結局ウィゼルはパンを口に入れることもできず、疲れて眠りに落ちるまで、時折すすり泣いては涙を枯らすことを繰り返していました。そんな姿をミュリはただ見守ることしかできませんでした。
翌朝、いつもなら朝日が部屋に射し込む頃、灰色の湿った空気が窓から部屋を満たしていました。ウィゼルが目覚めるとミュリはもういません。きっと仕事に出ていったのでしょう。本来ならウィゼルも朝の清掃に出ている時分ですが、昨夜は今日の予定を確認する余裕もありませんでした。
なにか仕事をしなければいけない気がして、ウィゼルは使用人服に着替えると部屋に淀んだ空気から逃げるようにドアを開けました。
廊下の中ほど、一階の洗濯場を見下ろすテラスに置かれた木箱の上にラエアが座っています。いつもの賑やかな空気は階下に置き去りにして、神妙な顔で静かに腕を組んでいました。
「おはよう」
「おはようございます……すみません、今日の仕事、確認できていなくて」
「あの状況じゃ仕方ないさ。それより、あんたに伝えなきゃいけないことがある」
「はい、何でしょう」
「ウィゼル、あんたはしばらくこの宿舎から出られないよ」
「えっ……どうしてですか」
「親父さんの件が不利に動いている。何せ情報が引き出せないらしくてね、娘であるあんたの疑いも晴れていない。それで、危うくあんたまで牢に放り込まれそうなところをケイトス殿が止めてくれたのよ。頭の固い議会の連中を説き伏せて、この宿舎から出ないことを条件にね」
「そう、ですか……私、父さまのこと……」
「まったく、気持ちの良くない話だよ。こっちとしては人手が奪われるっていうのに。誰が日々城を綺麗にしていると思っているんだろうね」
「ごめんなさい」
「あんたが謝ることじゃないでしょう。まあ、ミュリも頑張ってくれているし、大丈夫さ。牢の石床で寝るよりましだと思ってしばらく我慢しな」
「私、助けられてばかりです。ケイトス様にも、ラエアさんにも、ミュリにも……何もお返しできるものがなくて、申し訳ない、って思います」
「律儀だね。恩を返す、っていうのは当然だし大事だけど、何もかもがそうじゃない。自分のため、自分が信じる正しさのために動いた結果が誰かを助けることもあるんだよ。それに、物事には時機っていうものもあるからね。今は何もできなくても、いつかあんたが助ける側に回るときが来る。そういうもんさ」
「そう言われると、少し気が休まります。ありがとうございます」
「それはそれとして、あんた、本当に親父さんのことは何も?」
「はい……」
「そうかい。悪かったね。下にはあんたを見張るために兵士が来ているけど驚かないで。あんたが逃げなんてするはずないだろうけど、一応、形式上ね」
「わかりました。あの……私、元に戻れたら、また新しい仕事覚えたいです」
「ああ、待ってるよ」
そういってラエアは立ち上がると、いつもの足取りで階段を駆け下りていきました。
「ほらほら、そこにいると通れないよ」
見張りの兵士にかけたそのラエアの声には、せめて宿舎の空気はいつも通りに保とうという意思がにじんでいました。
事件から二日後の夜、ウィゼルは仕事を終えたミュリと一緒に本を読んでいました。しかしウィゼルは相変わらずどこか上の空で、本の内容もミュリとの会話も頭に入っていかない様子でした。少し落ち着いたとはいえ、まだまだ心の整理がつかないウィゼル。父親の身を案じ、後悔の念に苛まれる時間は続いていました。
廊下から聞き慣れない足音が近づいてきて薄いドアをノックする音が部屋に響くと、ミュリがいち早く反応して立ち上がります。
「ケイトスだ。夜分遅くにすまない」
ミュリが扉を開けて迎えても、ウィゼルは開いた本に目を落としたままの姿勢でぼうっとしていました。
「ウィゼル、ケイトスが来たよ」
ミュリが寂しそうな顔でウィゼルの肩を叩くとビクリと身体を震わせてようやく顔を上げます。
「ケイトス様……」
ケイトスは部屋に一歩だけ入って、ベッドの手前で狭そうに立ったままウィゼルへ言葉をかけます。
「ウィゼル、少し聞かせてもらいたい。君の父親、ファダル・アルマーダについて、知っていること、覚えていることを教えてほしい」
「私は、何も……」
「事件と関係のないことでもいい」
「ええと、すみません。本当に何も……」
心が抜けかかったようなウィゼルの様子に、ケイトスはひとつ息をついて、少し考え込んだあと、ゆっくりと口を開きました。
「ウィーネとは会っているか」
「はい……え、どうして、母さまの名前を」
「実は私もカドゥミナの生まれでね。君の両親、ファダルとウィーネのことは知っている。二人とも私の旧友だ。ウィーネの魔力瘴のことも聞いている。君は覚えていないだろうが、生まれたばかりの頃の君にも会ったことがある」
ウィゼルは虚ろだった目を大きく見開いてケイトスを見上げます。
「私も知りたいのだ。ファダルが何故、あのような姿になり、あのような行動に出たのか……状況に陥れたのは何者なのか」
「そうだったんですね……」
ミュリは話し始めた二人の邪魔をしないよう狭いベッドの上に座り、壁に背を預けて本の続きを読んでいます。
「ファダルが失踪したのはいつ頃だ?」
「正確にはもうわかりません……いなくなってから、二つは年を越したと思います」
「ファダルに最後に会った時、何か言っていたか?」
「特に変わったことは……出稼ぎに行く、とだけ言って出ていったきり、戻ってきませんでした」
「そうか……最近のウィーネの病状はどうだ?」
「私にはなんとも……私の前では元気そうに振る舞っていましたけど、あまり良くはなっていないと思います」
「わかった。あとは私の方で追ってみる。ファダルと会わせてやれなくて、すまない」
「謝らないでください。よくないのは私だったんですから」
少女のそんな言葉にケイトスは悔しさをにじませた険しい表情をしました。
「すべてを自分の中に抱え込まない方がいい。世の中には努力で拓ける道もあるが、覆しようのない運命の方がずっと多い。後悔の念に埋もれて未来を閉ざすのは意味の無いことだ」
「……はい。ありがとうございます」
ウィゼルは自らを縛る戒めから解き放たれたというよりも、自分のほかに父親を知っている存在がこの場所にいたという事実に救われた気持ちでした。
――私は何をしていたんだろう。私は何をすれば――
ウィゼルの凍った時間が少しずつ溶けはじめました。父親はまだ生きている。
「私、やっぱり父さまを助けたい。どうすれば、助けられますか」
「君にできることは何も、いや……そうだな」
ケイトスはなにやら眉をひそめて考え込みます。
「ケイトス様?」
「ああ、すまない。もしかするとファダルと会わせてやれるかもしれない、と思ってな」
「本当ですか?」
「今のファダルと会話できる可能性が残されているのは、もう君しかいない。それを理由にして……しかしそれには交渉が必要だな。ふむ、少し時間がかかりそうだ」
「はい、待っています。あの、オリィさまの洗礼式はどうなったのでしょう。私はもう、出られませんよね……」
「……そうだな。中止されていた報告式は明日行われる事になっている。オリオーネ様は君が式に出られないことを最後まで納得しなかったそうだ」
ケイトスは知る限りのオリオーネの様子をウィゼルへ語り始めました。
――――
「どういうこと?助役だって最後まで努めを果たすべきでしょう!」
ベルクロイ邸の小さな教室でオリオーネは目の前に立つ大柄な執事に向かって甲高い声を張り上げました。
「あの使用人が襲撃事件に関わっていた可能性があるのです。ベルクロイ家としてもこれ以上お嬢様と接触させるわけにはいきません」
「そんなわけないでしょう!あのウィゼルがそんな……そもそも、ウィゼルだって被害者なのよ?」
「襲撃者の実の娘が現場に居て、疑うなと言うのは無理があります」
「あの子は本気で震えていたもの。私を守るために剣を取って……ウィゼルがいなかったら、私も殺されていたかもしれない。ケイトス先生と話をさせて」
「これは宮廷議会の決定です。祭司であるケイトス氏にもそれは変えられません。洗礼の報告式は助役抜きで行われます」
「……もし、疑いが晴れなかったら、ウィゼルはどうなるの」
「それも……その時、議会が決めることです」
「議会、議会って、べテロ、あなたいつからそんなに体面ばかり――」
「気にしますとも。お嬢様、何故ヴィンヤード様がお嬢様の洗礼式の日にまで公務に出られていたのか、お忘れではありませんか」
「それは……」
オリオーネには年相応の青さと、貴族の一員として成熟しつつある心が同居しています。それは時として、まるで別人であるかのような印象を周囲に抱かせ、ふとしたきっかけで替わる心にオリオーネ自身も気づいていました。
どちらが本当の自分なのか、それとも、どちらも違うのか。心の在りように疑問を持ちながら、きっと大人になれば、この厭わしくも可笑しい悩みはきっと消えていくのだろうと、ずっと思っていたオリオーネは、この時初めて、それがひどく寂しいことのように感じました。
諦めてしまったら、もうウィゼルと会うこともできないかもしれない。でもそれは、ベルクロイ家の存続に尽力する兄を裏切ってしまうことになる。オリオーネは結局、傾き始めた流れに逆らうことはできませんでした。
「どうか、ご理解を」
「……わかったわ。でも一つだけ兄様に伝えて。ウィゼルは私の友だと」
「かしこまりました。では明日、お部屋までお迎えに上がります」
――――
ウィゼルはケイトスの話を悲しそうに、悔しそうに、目を伏せて聞いていました。
「洗礼式の助役をよく努めてくれた。最後までやり遂げてほしくもあるが、こうなってしまってはな。無理を言ってベルクロイ家に要らぬ嫌疑をかけさせるわけにはいかないんだ」
「はい、わかっています。私と父のことでオリオーネ様にはご迷惑を……明日の報告式、よろしくお願いします」
「ああ、待っていてくれ」
ケイトスは扉を静かに閉めて部屋を出ていきました。
両親について話をしたことでカドゥミナでの暮らしを思い出したウィゼル。もう戻れない過去に別れを告げるにはまだ時間がかかりそうでした。
ミュリはかすかに震えるウィゼルの両肩に手を置いて、慰めるでも励ますでもなく言いました。
「ウィゼルがここにいて、私もここにいる。だから触れる……暖かい」
そんなミュリの言葉と温もりに心揺らされ、また大粒の涙をひとつふたつと落としたウィゼル。弱くて脆くて、自分だけがひどく情けなくて、本当にいつか自分がみんなの役に立てる日が来るなどと信じることはできませんでした。
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