洗礼

 オリオーネの洗礼式の当日、ウィゼルはいつもより少しだけ早く目を覚ましました。まだ眠っているミュリを起こさないよう静かに起き上がって外を覗くと、空はまだ白む前。でも、薄雲の上の月夜が淡い光を空一面に広げて、世界をぼんやりと照らしています。ウィゼルは落ち着かない自分の心を静めるようにその光を見つめていました。

 そのうち、裂けた雲間から一時月が顔を出しましたが、傷を埋めるように雲が伸びて再びその輪郭を霧散させていきます。

「不安?」

 気がつくとミュリが身体を起こしてウィゼルの横顔を見つめていました。

「うん、少し……ごめんね。起こしちゃった」

「オリィの支え、応援する」

「ミュリ……ありがとう。がんばるよ」

 机の上には洗礼式における助役の仕事を記した書物と、拙いながら懸命に書いたであろうその書の写しがありました。

 ウィゼルが立ち上がって窓を開けると、夜と朝の間に満ちる冷たい空気が緩やかに部屋の中へ流れ込みます。

「この式が終わったらオリィさまも立派な貴族として大人になっていくんだよね。私は……私にはこれから何ができるのかな……」

 ウィゼルは外のツンと冷えた空気を大きく吸い込んでため息をつきました。

「できることは目の前だけ。ウィゼルもオリィも私も」

 ミュリの達観したような言葉にウィゼルはぽかんとした顔で振り向きます。そこにあるミュリの顔はいつもの表情で、緊張した思考の海から日常の浜辺へとウィゼルを引き上げます。

「そっか、そうだよね。今、考えてもしょうがないか……ミュリは大人だね。私、焦ってばかりで……」

 ミュリは時折、悩みの核心を突くような言動を見せて度々ウィゼルを驚かせます。それはミュリ自身の言葉の拙さも手伝い、簡単な言葉であるからこそウィゼルの中にストンと落ちていくのでした。

「式が終わったらもう一度考えてみるね。今はオリィさまのためにも集中しなきゃ」

「うん。それがいい」



 夜が明ける頃、ワイザール城参詣門にウィゼルとオリオーネの姿がありました。そこにはケイトスをはじめ数十名の式典関係者が洗礼式を執り行うための準備に追われていました。

 マクアの霊泉を表す紋章の織り込まれた旗、柄の長い円筒状の鐘、式典護衛のための剣など、様々な道具がウィゼルの目に入ります。魔術師と騎士たちはそれぞれの装備を互いに確認していました。

 洗礼式は聖域の森の中にあるマクアの霊泉へ向けて参詣道を行進するところから始まります。そしてその出発点となるのがこの参詣門でした。

「似合っているじゃない」

「オリィさまもお似合いですよ」

 深緑色の外套を身に着けたウィゼルとオリオーネは互いの姿を見て笑みを漏らします。森に溶け込むような葉の形を模した独特な意匠の外套はウィゼルの式典用の黒い装束とオリオーネのまとった霊水の衣をすっぽりと覆っていました。

「霊水の衣、本当にきれいなのに隠してしまうんですね」

「行進の間はね。聖域の森を護る精霊は臆病だから自分以外が放つ光に驚いて逃げてしまうんだそうよ」

「まるで小鳥みたい」

「ええ、そうね」

 ふたりは互いの顔を見合わせてまた少しだけ笑いました。行進が始まると式が終わり再び森を出るまで喋ることはできません。ウィゼルとオリオーネは徐々に出来上がっていく行列の真ん中で小さくまとまって、自分たちの緊張をほぐそうと出発の間際まで言葉を交わしていました。


 準備が整いざわめきも収まると、凛と鳴らされた鐘の合図で行列は進み始めます。

 洗礼式に向かう式団はオリオーネを中心として、左右に三人ずつの騎士、前と後ろにはそれぞれ五人ほどの魔術師が配置され、ケイトスは祭司として列の先頭を行きます。参列者は皆一様にオリオーネたちと同じ緑の外套を被っていました。ウィゼルは儀式具の収められた箱を両手で抱えながらオリオーネの後ろにぴったりとついて歩いています。

 外套の隙間から朝の冷えた空気を感じて少し震えるオリオーネ。遅れないように懸命についていくウィゼル。今のふたりは会話をすることもなく行列を乱さないことだけを考えていました。


 参詣道は城の北側に広がる平原の中、点在する小さな丘の合間を縫うように通っていきます。いつもは強い風に吹きさらされ波打つ草原も今日は曇り空の下で凪いでいました。

 やがて一行の前に森を隠すようにそびえる壁のような土塁が現れます。土塁は参詣道の通る場所だけが切り通され、小さいながらも堅牢なつくりの門になっていました。門の脇には監視の兵が数人立っていて、式団が近づくと兵たちは道の端に並び敬礼をして迎えます。

 門を抜けると少し先から聖域の森が広がり、参詣道はその深い緑の壁の向こうに続いていました。

森の入り口までたどり着いた式団は行進を一旦止め、先頭集団の魔術師達が旗を掲げて一度だけ鐘を鳴らし、これから森へ入り洗礼へと向かうことを森の精霊へ報せます。

 鐘の音の余韻が過ぎると行列は再び参詣道を進み始めました。


 森へ入ると行列はなお静かに、足音と吐息だけを許して進んでいきます。そこはウィゼルの知るカドゥミナ側の森とはずいぶんと様子が異なっていました。太い幹からうねった枝が四方へ伸び、密集する濃い緑の葉が陽の光を余すところなく受け止め、太陽が昇ってなお、森の中は夜明け前の大気に沈んでいました。

 石畳の参詣道は大樹を避けるように曲がりくねって進みます。幸い起伏はさほど激しくない道でしたが、初めて訪れるウィゼルにとってそれは森と一緒に果てしなくどこまでも続いているかのように感じられました。


 ウィゼルは幼い頃、カドゥミナ付近の聖域の森の中で一夜を明かした事を思い出しました。今となっては理由もよく覚えていませんが、何かに誘われるように森へ迷い込み、帰る道もわからなくなって、落ち葉の積もる木の根元にうずくまって夜を過ごしました。それでも不思議と恐怖はなく、泣くこともなかったのは、怖れを知らない幼さ故でしょうか、それとも聖域の力が護っていたからでしょうか。その後、再会したときの両親の温もりが胸の内に蘇って、今のウィゼルの心を切なく刺激しました。

 変わらない景色と静謐な空気。聖域の森を無心で歩き続ける者は、そのうちに自らの生き様が回想され、己を見つめ直すことができると言われています。ウィゼルを含め式団の誰もが、後悔や心残りを胸の内に秘めながら進んでいました。



 太陽が森の真上に差し掛かっても、参詣道の石畳にはチラチラと小石ほどの光が落ちるだけでしたが、更にもう少し進んで行くと徐々に森の色が変わりはじめます。木々の隙間から陽光とは異なる色の光が洩れて、まるで夜の月明かりのように一行を淡く照らし出しました。奥へ進むに連れ光はいっそう満ち、やがて深緑の森をそっくりそのまま蒼い水底に沈めたかのような空間に入り込みます。

 息を切らして無心で歩き続けてきたウィゼルは本当に水の中へ潜っているような気持ちになって、疲れからばかりではない息苦しさを感じていました。その先には苔むした石造りの門がいくつも並び立ち、それらをくぐり抜ける度に辺りの色はどんどん深くなっていきました。


 ウィゼルはオリオーネのことが心配になって後ろから様子を気にかけていると、ひときわ大きな門をくぐったところで急に行列の歩みが止まり、ウィゼルは前につんのめって倒れそうになります。儀式具を落とさないようになんとかこらえて姿勢を直すと、森へ入る前に聞いた鐘が再び鳴らされました。その音は静寂が満ちていた蒼い森に波紋を描き、周りの木々にぶつかった波は細かく砕かれて散っていきました。洗礼式団一行はようやくマクアの霊泉にたどり着いたのです。

 先頭のケイトスは光あふれるマクアの霊泉を目の前に、祈りを捧げて腕を挙げます。すると、後ろに控えていた魔術師が旗を高く掲げました。それが洗礼式の準備に取りかかる合図でした。合図を受けて行列が散開したところでウィゼルは初めてマクアの霊泉の全容を見ました。

 深い森の中にぽっかりと空いたその空間は、夢の中、まるで知らない世界へ迷い込んだようです。泉はきれいな円形でウィゼルたちの暮らす使用人宿舎がそっくりそのまま入りそうなくらいの広さがありました。その水面は射し込む陽の光を反射して複雑に白く青く揺らめき光り、周囲の木々の枝葉に見たことのない色を投影していました。ウィゼルはこの泉が霊泉と呼ばれることにいたく得心しながら、水の中へ意識が沈みこむ感覚に心を泳がせました。


 一定の間隔で鳴らされ続ける鐘の音を背景に、皆無言を貫いたまま身振り手振りで確認を行いながら式の配置についていきます。

 オリオーネとウィゼルは少し離れた木陰で外套を脱いで衣装の着付けをはじめました。オリオーネの身にまとった純白の霊水の衣は霊泉の光を受け七色に光って見えます。ウィゼルはその美しさに目を見開きながらオリオーネの衣を着付けていきます。

 乱れを整えながらあちこちにある飾り帯をすべて結び直し、儀式具の箱の中からヴェールを取り出してオリオーネの頭に被せます。その時微笑んだオリオーネの表情にウィゼルの張り詰めた心が少し和らぎました。

 ウィゼルは事前に習ったことを思い出しながらもう一度入念に確認します。深く息を吐き、落ち着いてオリオーネの全身を見回すと、足首の飾り帯を間違えて別の場所へ結んでいたことに気がつきました。ウィゼルは慌ててそれを直して、改めて霊水の衣をまとったオリオーネを見つめます。

 ――きれい――

 うっとりとしたため息のように出てしまった自分の言葉に、ここで喋ってはいけないことを思い出し、はっとしてウィゼルは両手で口をおさえます。でも、確かに発したと思ったその言葉は目の前のオリオーネに伝わっている様子はありませんでした。

 ウィゼルは違和感を覚えて辺りに耳をそばだててみると、道中聞こえていたはずの鳥や虫たちの声が全く聞こえないことに気がつきました。自分たちの足音や鳥の羽ばたきは確かに耳に届くのにそれらから発せられる『声』だけはどうにも聞こえないようです。

 霊泉の光が満ちる場所では言葉というものが意味をなさないことをウィゼルはここで初めて知りました。そしてそれこそが、魔物を寄せ付けないというこの森の不可思議な力の証明であり、ウィゼルが感じていた息苦しさの原因でした。

 ウィゼルがオリオーネの肩をぽんぽんと軽く叩いて着付けが終わったことを伝えると、オリオーネは振り返ってウィゼルと目を合わせます。普段よりずっと大人びて見えたその顔は決意と期待に満ちていました。


 オリオーネとウィゼルが儀式を行う霊泉の畔へ姿を見せるとすでに式の準備は整っていました。

 霊泉の際には石彫の小さな祭壇があって、その脇に祭司のケイトスともう一人、額に何かの文様を刻んだ魔術師が立っています。他の魔術師たちは祭壇の左右で横一直線に霊泉の方を向いて並び、騎士たちは祭壇へ至る道の左右に整列して剣を掲げていました。その場の誰もが外套を身につけたまま、響き続ける鐘の音の中でじっと直立して洗礼式のはじまりを待っていました。

 七色に輝く衣をまとったオリオーネは祭壇へ至る石畳を一歩一歩意味をもたせるかのようにゆっくりと歩み出し、その後を真っ黒な衣装を着て儀式具を持ったウィゼルが俯きがちについていきます。

 オリオーネが祭壇の目前で足を止めひざまずくと最後の鐘が鳴らされます。その残響が消えるまで、時が止まったかのように動くものはありませんでした。音のかすかなしっぽまで霧散して完全な静寂が訪れると、ケイトスが一歩前へ出て顔を伏せているオリオーネの肩に手を置きます。オリオーネはゆっくりと立ち上がって後ろに控えるウィゼルから魔遷の器を受け取り、それを一度両手で高く掲げてから祭壇へそっと置きました。ケイトスはそれを見届けると霊泉の岸辺まで歩いていって祈りを捧げます。


 ここからは精霊に呼びかけるための演舞の時間。魔術師たちの祈祷の中、洗礼を受ける者が霊泉の中で舞いを捧げます。

 貴族以外には決して許されぬ場所へオリオーネが足を踏み入れると不思議な音が耳に響きます。足首まで浸かったオリオーネの足が水の中で動くたび――シャンシャン、さらさら――硝子を細かに砕いて川へ流しているような音がさざめきました。

 オリオーネは腕を伸ばし脚を伸ばしくるくると回りながら飛沫を上げて迷いなく舞います。霊泉の水に濡れた衣の七色は一層はっきりとオリオーネを彩り、ウィゼルは畔でひざまずいてその美しくも儚げな舞いを見守っていました。


 舞いも中程に差し掛かる頃、ケイトスは祭壇に置かれた魔遷の器を取り上げてウィゼルへ手渡します。そのひんやりとした感触に、ウィゼルは見ていた夢から引き戻されるようでした。いつまでも冷たい魔遷の器を大事に抱えながら、ウィゼルはそれをオリオーネへ渡すときを伺います。

 やがてオリオーネが岸辺へ近づいてくると、ウィゼルは霊泉の岸ぎりぎりに膝立ちになって両手で魔遷の器を掲げました。オリオーネは真剣な表情のまま一瞬ウィゼルと目を合わせて魔遷の器を受け取ると、踵を返して数歩進みます。その時ウィゼルは遠ざかるオリオーネに引き寄せられるように前へ倒れそうになって水際に手をつき、わずかに指先が霊泉に触れてしまいます。

 ――トクン――と懐かしい鼓動のような音が聞こえ、水面に映った自分と目が合いました。急に心が波立って自分の中から何かが流れ落ちそうになった気がして、ウィゼルは慌てて霊泉から身を離しました。

 オリオーネは魔遷の器の鞘の部分を左手で握りまっすぐ前へ腕を伸ばすと、一呼吸おいて右手で柄を握り剣を引き抜きました。その刃身は霊泉の光の中にあってなお暗く冷たい色を残しながらオリオーネの腕先で踊ります。右へ左へ、下へ上へ。黒い軌跡がひとしきり走ったあと、まるで弓を引くかのように、一直線に伸ばされた左腕から肩へかけて刃が滑ります。かつてはこの舞いの中で本物の血を捧げていたことがその動きからも想像できました。


 水面に踊り、青い光に溶け込むオリオーネの姿に見入るウィゼルたち。やがてその視界に小さな白い光が現れます。それはまるで止り木を探す鳥のような軌道で霊泉上空を旋回しながら高度を落としていき、とうとう霊泉の中央辺りへ着水すると水面全体から眩い光が放たれました。それは巨大な光の柱となって遠く森の外からでも見えるほどでした。

 大丈夫だとわかっていても、ウィゼルは目の前で光に飲み込まれたオリオーネのことがとても心配になりました。目を開けることもできないほどの明るさの中、速まる鼓動を感じながらウィゼルは息を飲んで光が収まるのを待ちます。

 ――なに情けない顔してるの。泣き虫ウィゼル――

 そう聞こえた気がして目を開けると、光の収まった霊泉の浅瀬にオリオーネが立っていました。まとった衣は先ほどまでの煌めく七色ではなく、深く水を湛えた湖の水面のような落ち着いた深い碧に変わっていました。

 息を上げながらも晴れやかな顔をしたオリオーネが岸に立つケイトスと目を合わせるとケイトスは頷き、洗礼が無事に成ったことを報せる鐘を鳴らしました。

 ウィゼルは安堵した表情でオリオーネを迎え、オリオーネは差し伸べられたその手をしっかりと握ります。ウィゼルに引かれて岸へと上がったオリオーネが濡れた衣を手で払うと、霊泉の水はきらきらとした雫となって辺りに散りました。


 こうしてオリオーネの洗礼式は成功し、一行は再び行列を形成してマクアの霊泉を後にします。蒼い世界から遠ざかるに連れ、ウィゼルはその場所がまるで自分の生まれ故郷であったかのような錯覚を覚え、名残惜しさすら感じていました。



 生い茂る枝の隙間からわずかに届く陽光がその角度を傾け始め、一行が間もなく蒼い森を抜けようというとき、行列の脇を固めていた騎士の一人が突然倒れました。森の中から突如現れた何者かの影が騎士を切りつけてあっという間に姿を消したのです。

 先頭を歩いていたケイトスはその異変を察知すると、振り返って手振りで指示を出します。ある程度の間隔を保っていた行列は一斉にその距離を縮め、騎士たちはオリオーネを隙間なく囲むように陣を組みながら倒れた騎士を陣の中に引き込みます。

 ウィゼルの目の前に横たわった騎士は脚から流血していました。儀礼用の軽装では刃を受け止められなかったのでしょう。オリオーネは負傷した騎士自身よりも悲壮な顔で何か叫んだようでしたが、聖域の中ではただ口が動くばかりでした。ウィゼルは手早く自分の外套を脱ぐと中に羽織っていた黒い装束を使って傷の手当をはじめました。

 鬱蒼とした木々に囲まれ、どこからまたあの影が現れるかわからない状況の下、騎士たちは身じろぎせず視線だけを周りに走らせます。ジリジリとした時間が過ぎ、やがて周囲から何者かの気配は消えました。ここに留まるのを危険だと判断したケイトスは進行を再開することを手振りで皆へ伝え、一行は負傷した騎士とオリオーネたちを庇いながら慎重に進み始めます。


 蒼い森が終わり、緑の参道へ。そこは朝通った時とは違う印象をウィゼルに抱かせます。枝葉の隙間から覗く空も暗く、ジメッとした嫌な空気が森に満ち始めていました。

 しばらく行くと森が風に揺られるようなざわざわとした音が背後から聞こえてきます。でもそれは風のように一行を追い越しては行きませんでした。ざわめきは徐々に近づき、やがて枝の折られる音と共にドス、ドスと大きな足音が響いてきました。

「魔獣だ!」

 しんがりにいた騎士が声を張り上げ一行が後ろを振り返ると、枝々の隙間から折れた大木の幹のようなものが斜めに天を突いて現れました。それは黒く巨大な獣の頭部から突き出した角でした。四本の脚の動きはゆっくりとして見えますが、その大きさは一歩踏み出す毎に大人を数人飛び越えて行くほどです。全身は黒い皮だか鱗のようなものに覆われ、あちらこちらでそれが剥がれ赤い肉が剥き出しになっていました。眼は小さく腐敗しかかったような灰色で、物が見えているのかも定かではありませんでした。

 生まれて初めて魔獣という存在を目にしたウィゼルはその大きさと禍々しさに竦んで、手にしていた儀式具を落としてしまいました。騎士たちは散開して一斉に魔獣へ立ち向かい、魔術師たちは各々の魔術具を手にしてやや離れたところから様子を伺います。ケイトスがその足元に杖を突き立てて何か唱えると杖から直上の空へ向かって一筋の赤い光が放たれました。

「オリオーネ様はウィゼルと一緒にこのまま進んで下さい。我々はこれを食い止めます」

「ケイトス先生……でも……」

 オリオーネがすぐに納得できずに迷っていると、ケイトスは一人のベテランの騎士へ声をかけました。

「オリオーネ様の護衛を頼みます。先程の襲撃者がどこかに潜んでいるかもしれませんので、十分に注意を」

「わかった」

 襲撃者のことを気にかけつつも目の前の魔獣に対する戦力を減らすわけにもいかず、ケイトスがオリオーネたちの護衛として選んだのは騎士一人でした。騎士は大きく頷いてウィゼルたちのもとへ歩いてきました。

「私が護衛します。行きましょう」

「先生!」

「我々の心配は無用です。それよりもウィゼルを。さあ早く」

 ケイトスはそう言って魔獣の方へ向かって歩き出しました。オリオーネが振り返るとウィゼルは迫る黒い獣を見つめ、息も荒く震えたまま動けないでいました。そんなウィゼルの顔を見たオリオーネは、今ここで自分たちにできることは何もないことをようやく察します。

「ウィゼル……しっかりなさい!」

 オリオーネが手首を握るとウィゼルはようやく気が付きます。

「オリィさま……あ、あれ……」

「ええ、あれが魔獣よ。私も本物は初めて見たわ。とにかく私たちは……逃げるの」

「は、はい」

 ウィゼルは蒼白な顔色でただ恐怖に耐えるので精一杯でした。悔しそうな顔のオリオーネは足元に落ちた儀式具の箱から魔遷の器を取り出して片手に握り、もう片方の手でウィゼルの手を引いて出発しました。護衛の騎士はその後に続きます。

 最後にもう一度振り返ったオリオーネ。でも、もうケイトスの姿は見えませんでした。魔獣の唸り、騎士たちの鬨の声、魔術の炸裂する音。それらに圧されるように陰る参詣道を足早に進み出します。

「みんな、無事に帰って……」



 あの黒い恐怖から逃れるため、半日かけて歩いて来た道をオリオーネたちは急ぎ戻ります。苦しくて足が痺れてきても、速度を緩めることなく歩きます。枝葉が掠めた手足の傷にも構わず進み続けます。

 戦いの音はもう聞こえないほど遠く、それでもなおウィゼルはおそろしい魔獣の姿が脳裏から離れませんでした。


「もうすぐ森を抜けます」

 オリオーネたちの後方を静かに歩いていた護衛の騎士が声を上げます。森の向こう側は相変わらず見通せませんが、参詣道の脇に立つ道標がそれを示していました。気力を絞り出し、限界の近づいた脚で息を切らせて進むとやがて夕焼けがかった光が見えてきました。

 ついに森を抜けられると思われたその時、光の中に何者かの人影が現れ、オリオーネたちの行く手を阻むように道の真ん中に立ちふさがりました。護衛の騎士が警戒しながら前に出て声をかけます。

「誰だ」

 影は何も応えません。騎士はふたりへ留まるように後ろ手で合図を送り、ジリジリと人影との距離を詰めていきます。その人影がどんな顔をしているのか、オリオーネたちからは逆光で見えません。

「今日は洗礼の日だ。部外者は参詣道に立ち入ってはいかんぞ」

 騎士はなおも人影に近づいていき、もう少しで剣の間合いに入ろうかという時、佇んでいた影から突然黒い刃のようなものが伸びて騎士の身体を貫きました。その瞬間、オリオーネは思わず目を瞑り、次に目を開いた時、騎士は地面に突っ伏して倒れていました。オリオーネはようやく恐怖から逃れた先に現れた絶望に思考が止まりそうになります。

「そんな……あの……あれは、魔術?」

 オリオーネの手から力が抜け、カランという金属音とともに魔遷の器が足元に転がりました。人影はゆっくりとオリオーネたちの方へ向かってゆらゆらと歩きはじめます。それが近づくに連れ、影の中にうっすらと姿が浮かびます。丈の長い外套で全身を覆い、顔全体をぼろ布に包んだ様はさながら埋葬される直前の死者を思わせました。

「オリィさま!」

 ウィゼルがオリオーネの手を取って森の奥へ引き返そうと踏み出したところ、もう一つの影がすぐ目の前に立っていて、ウィゼルは小さな悲鳴を上げて後退りました。

 こちらへ向かって来る影と同じ格好をしたそれは、ぼうっと立ったままウィゼルたちを見下ろしています。まとった布の一部は黒く変色し、焼け焦げたような異臭が鼻を突きました。ウィゼルにはぼろ布の隙間から覗く虚ろな目が何かを訴えているように見えましたが、その意味を考えている余裕などありませんでした。

 鬱蒼と茂る森の中、唯一まともに歩ける道の前後から挟まれる形となり、ウィゼルとオリオーネは背中合わせになってにじり寄る影から逃れる術を探します。ウィゼルはもう必死になってオリオーネの足元に落ちた魔遷の器を拾って剣を抜きました。

「ウィゼル!」

「オリィさま、私が……オリィさまは森の外へ!」

 剣の構え方も知らないウィゼルは両手で握った剣を正面に突き出すようにして目の前の影に相対しました。その声も、手も、怖れに震えていました。

 今、瞬きをした瞬間にもこの身体を刺し貫かれるかもしれない。胸のあたりから振動のような痺れが手足の先まで伝わっていきます。

「あなた達は、一体……」

 何を聞いても応えない影に刃を突き出すこともできず、今立っている場所を守るために虚勢を張るだけで精一杯でした。オリオーネの温もりはまだそこにあります。

「だめ。一緒でなければ……」

 オリオーネが自分の背中をウィゼルの背中と触れさせました。

「オリィさま……」

 ふたりは互いの呼吸を感じながら、のたうつ恐怖から染み出した覚悟や諦めが心に浸潤していくのを必死に食い止めていました。

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