泣き虫たちの絆
休暇の許可が出ると、ウィゼルはワイザール城下で母親のために衣服などを買い揃え、カドゥミナへ向かいました。まだ見つけられない父親のこと。久しぶりに母親と顔を合わせられること。会いたくもあり、会いづらくもある複雑な心持ちで、フィンクの車に揺られながら変わる景色を眺めていました。
急速に荒れ地と化したカドゥミナは相変わらず貧しく埃っぽい街でしたが、ウィゼルにとっては紛れもない故郷の風景でした。
「ただいま」
母親のウィーネは言葉を発するより前に、無事に帰ってきた娘を強く抱きしめます。甘えるということを永らく忘れていたウィゼルもウィーネの背中に手を回して、しばらくの間そうしていました。
「おかえり」
母親の病状は芳しくありませんでしたが、まだなんとか一人でも生活を送れる様子でした。父親の行方はまだわからないこと、騎士が助力してくれていることを伝えると、ウィーネはウィゼルを愛おしそうに見つめました。
「今はあなたがこうして会いに来てくれるだけで、もう十分に思えるわ」
「母さま……約束したんだから、私はまだ諦めてないよ。だから、もうちょっと待ってて」
「ああ、そうだね。ごめんよ、ありがとう」
「母さま、私、今の仕事続けようと思う。母さまの助けになるし、お仕事も楽しくなってきて、その……友達もできたし」
「そうかい。ウィゼルは本当に強くなったね。私達なんかよりずっと」
短い休暇を終えてワイザールへ戻って来た翌日、もう随分と慣れた仕事をいつも通りにこなしていたウィゼルは、ラエアから呼び出されて使用人宿舎の二階にあるラエアの部屋へやってきました。
「悪いね仕事中に」
「すみません。私、何か……」
申し訳なさそうにしているウィゼルを見て、自分が険しい顔をしていたのに気がついたラエアは努めて明るい声を発します。
「違うんだ、そういう事で呼び出したんじゃないよ。実は今度、オリオーネ様の洗礼式が行われるんだけど、その助役としてウィゼルに声がかかってね」
「え、私にですか?」
「そう、本来であれば式に参列する貴族関係者の中で一番歳の近い同性の者が務めるのが慣例なんだけど……その方、ベルクロイ家とあまり関係が良くなくてね。オリオーネ様はどうしてもあなたがいいと駄々をこねているそうよ」
「私はただの使用人ですし、そんな……」
「あくまで慣例であって、過去に例外がなかったわけじゃないんだ。頭の固い貴族方からは何か言われるかもしれないけど、オリオーネ様はそういうこと気にされないし、何より、仲の良い友達に大事な場面を近くで見ていてもらいたいんじゃないかな」
ラエアは片目をつむって少しニヤリと笑いました。
「え、えっと、そうなんですか……」
ウィゼルはなんだか気恥ずかしくなって目を泳がせて自分の服をギュッと握りました。
「あの、そもそも、洗礼式って何でしょう?助役って何をすればいいんでしょうか」
「洗礼式は貴族がマクアの霊泉の加護を受けるための儀式だよ。宮廷ではこれを経て初めて貴族の大人と認められる。助役の仕事は式前のお召し物の着付けの手伝い、それと、式の進行に沿って儀式具のお渡しやお預かりをする役、だそうよ」
「えっと……それって、順番を覚えてその通りに動かないといけないやつですよね」
「ええ、そうね」
「絶対、失敗できないやつですよね」
「たぶんね」
「ああ……無理です。私、お城の方と言葉を交わすのもまだ慣れないのに、そんな大事な式のお手伝いなんて」
ウィゼルは自分の腕を抱え込み、俯いて首を振ります。貧しい家で育った彼女にとって、仕事で城内を巡ることには慣れても、さらに宮中の儀式に関わるなど考えも及びませんでした。
「珍しく動揺してるね。いつもの仕事はちゃんとこなせているし、きっと大丈夫だと思うけど」
「お仕事はそんなに人に見られることないですし、ミュリも一緒なので……あ、ミュリと一緒じゃダメですか?」
「残念だけどそれは難しいね。外の世界から来たミュリが城内にいるのをよく思わない貴族方もいて、特に洗礼式の場では厳しい目を向ける人も多いし、後からいざこざの原因になりかねない。そうなったらミュリ自身もつらいでしょう。オリオーネ様もそれは理解されているから、あなたを選んだのだろうね。それに、二人とも抜けられてしまうと、こっちの仕事も大変だしね」
「そう、ですよね……でもやっぱり私には……」
「あなたが受けてくれないとなるとオリオーネ様はたいそう悲しまれるでしょうね」
ラエアは残念そうに演技じみたため息をついて少しばかりの沈黙が流れた後、不意に扉がノックされました。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
ウィゼルが振り返ると扉から入ってきたのはミュリでした。驚いたウィゼルは正面から一歩横にずれてラエアとミュリを交互に見ながら気まずそうにしていました。しかしミュリはラエアではなくウィゼルを見つめて言います。
「ウィゼル、出てあげて」
「あんた、聞いていたのかい」
「ごめんなさい。気になって」
呆れるラエアにミュリは悪びれる様子もなく謝るとウィゼルににじり寄りました。
「お願い。ウィゼルなら大丈夫」
「ミュリ……」
未だ返事に迷うウィゼルを見てラエアは立ち上がると、ウィゼルたちに背を向けて窓から外に見える庭園を眺め下ろします。
「オリオーネ様は周りに歳の近い子供がいなくてね。小さい頃は年の離れた兄のヴィンヤード様が随分と可愛がっていたけど、騎士として公務につくようになってからはオリオーネ様に関わる時間も減っていった。貴族の一員として教育される間は城の外に出ることも許されなくて、つまらなそうに園庭を散歩している姿をその頃はよく見たものさ。さらに最近、お父上に不幸があって、ますます寂しくなって本当にいたわしい様子だった。でも、あんたたちと出会ってお嬢様は本当に元気になったんだ。私から見ても瞳の輝きが増したのがわかるくらいだよ」
ラエアの語る昔のオリオーネの姿がウィゼルの中にぼんやりと像を結びました。環境は違えどオリオーネが自分と同じような境遇と知ったウィゼルは、オリオーネの自分に対する今までの接し方に得心しました。
「……なんだ、私と一緒ですね」
ウィゼルはミュリに向き合うと、その瞳はもう揺らいでいませんでした。
「ありがとうミュリ。私、忘れちゃうところだった」
ミュリは満足げな表情でコクリと頷きます。
「ラエアさん、私やります。自信はないですけど、オリィさまの近くにいてあげたいです」
「よかったよ。それじゃあ私から返事はしておくから。ウィゼルが式の準備でいない間、ミュリはちょっと大変だと思うけど、頼むね」
「はい。大丈夫」
ミュリは任せなさいと言わんばかりに力強く頷きました。
それから数日後、ワイザール城敷地内にあるベルクロイ家邸宅で洗礼式の練習が行われることになりました。城内の大広間や客室をもう見慣れたウィゼルにとって、初めて訪れたベルクロイ邸の外観も内装も驚くものではありませんでした。でも、普段の暮らしをそこで送ることなどまるで想像が及びません。
「ウィゼル・アルマーダ様ですね、どうぞこちらへ。オリオーネお嬢様がお待ちです」
扉を開けて出てきた執事は大きな体格に似合わぬ柔らかい口調でウィゼルを招き入れます。使用人宿舎へオリオーネを迎えに来たその姿をウィゼルは何度か見かけていましたが、言葉を交わすのは初めてでした。
「あの、私は使用人ですから、そんなに丁寧に扱っていただかなくて大丈夫です」
「しかしながら、今はお嬢様の大切なお客人でございますので。さ、こちらでございます」
ベルクロイ家は騎士の邸宅らしく、広い玄関には剣や鎧など武具の数々が飾られています。それらは兵士の用いる無骨なものではなく、それぞれに繊細な装飾が施されており、甲冑を縁取る輝きや盾に刻まれた文様など、いずれも城内の調度品に劣らぬ美しさでした。
陽光が射し込む石張りの廊下をウィゼルと執事がコツコツと足音を立てて歩いていきます。廊下の中ほどで執事は足を止めて左手に見える扉をノックしました。
「失礼いたします。お客様がお見えなりました」
執事がその言葉を言い終わらないうちに中から扉が勢いよく開かれました。
「ウィゼル!よく来たわ」
オリオーネの声が廊下に響き、ウィゼルとオリオーネの目が合います。
「オリィさま。ごきげんよう」
ウィゼルは慣れない言葉遣いと仕草で邸宅に訪れる客人としての振る舞いに努めます。オリオーネはそれを見て、幼い頃から教え込まれたであろう上品な挨拶を恭しくやってみせました。
「ごきげん麗しくあそばせ、ウィゼルお嬢様。ようこそおいで下さいました」
オリオーネはスカートの裾をつまんだ姿勢のまま片目をつむりおどけた表情を見せると、ウィゼルと同時に笑い出しました。そのやり取りは気まぐれに思いついたごっこ遊びのようなもので、お互いの緊張をほぐすには十分でした。その様子を扉の外から目を細めて見ていた執事が一礼して下がろうとしたところにウィゼルが振り返って声をかけます。
「ありがとうございます」
執事はウィゼルを見やりわずかに会釈すると静かに扉を締めました。
ウィゼルの入った部屋は講堂のようなつくりをしていました。深い泉のような青い絨毯の上に左右三列ずつの机と椅子が中央の教壇に向かって並んでいました。最前列の端の椅子には大人が一人斜めに座っており、その顔をよく見ると夜の街でウィゼルを助けた魔術師の男でした。あっ、と驚きの声を上げたウィゼルと魔術師の男の視線が交わると、オリオーネは機敏にそれを察知します。
「もしかして、ケイトス先生を知っているの?」
「夜の街で危ないところを助けていただきました。その時、ヴィンヤード様を紹介していただいて、ここで働けることになったんです。あの時はありがとうございました」
魔術師は黙ったまま軽く頷いただけでウィゼルの言葉を受け取ります。
「まあ、そうだったのね。兄様にお任せいただいて良かったわ。私からもお礼申し上げます」
「彼ならどうするか想像はついていましたから。オリオーネ様と出会って、ここまで打ち解けられるとは思いませんでしたが」
「何せウィゼルったら、初めて会っていきなり私の目の前で倒れてしまったのよ。どれほど驚いたことか」
「あの時は本当にご迷惑を……感謝しています」
「その後も仕事場に居合わせると、私の読んでいる本が気になって仕方ない様子だったものね」
「確かにオリィさまがおひとりで読書されているのは気になっていましたけど……私、お邪魔になっていませんでしたか?」
「いいえ。一人で本を読むのにも飽きていたところだったの。やはり何をするにも対等な相手は必要だと気がつきましたわ」
「オリオーネ様は成長されましたね。お父上もさぞ喜ばれるでしょう」
「……だといいのですが」
それまで饒舌だったオリオーネは父親の話が出た途端、夜露に濡れた花のようにしおらしくなりました。ウィゼルはその様子を見て、理由を聞いてよいものか逡巡しているとオリオーネが先に口を開きました。
「ウィゼルの家の事情ばかり知っているのも居心地が悪いから、私のことも話しておくわ。私のお父様は1年ほど前に亡くなったの。騎士として罪人を追っていたお父様は、森に逃げ込んだ罪人が運悪く魔物に襲われていたのを庇って……」
「罪人といえど一人の人間。ウォルス様は正しいことをされた」
ケイトスはオリオーネを支えるように意見を述べます。ウィゼルは何も言えず息を飲み、ただ辛そうな目を足元へ向けていました。
「でも宮廷の応えは違った……守るものを間違えた愚かな騎士、などと愚弄され、既に騎士となっていたお兄様は将たちから疎まれるようになりました。お父様とお兄様、親子でこの城に仕え、支えてきたはずですのに、私悔しくて……」
オリオーネの目は潤み、今にも声を上げて泣き出しそうな表情でした。それはオリオーネと親交を深めつつあったウィゼルも今まで見たことのない顔でした。
「申し訳ありません。私が余計なことを」
「いいんです。いずれウィゼルには話そうと思っていましたから」
「オリィさま……」
部屋を彩る美しい調度品の数々が色彩を失ったように曇って見えたウィゼルはオリオーネの背中にそっと手を差し伸べます。溢れそうになっていたオリオーネの感情は、その手の感触に熱が逃げていくかのように抜けていきました。
「私のような平民はお側にいることしかできませんが、隔てなく接していただけること、嬉しく思っています」
「情けないところを見せてしまいましたわね。民を守る騎士の一族に連なる者として、これでは……」
オリオーネは手で顔を覆ったまま首を振ると、しばらくの沈黙が訪れます。やがてケイトスはそれを丁寧にほぐすように低い声で語り始めました。
「想いをさらけ出せる相手がいるなら、それは強さでもある。誰にも弱みを見せないことが立派なのではありません。大人になると、ただそれができなくなっていくんです」
結局、オリオーネの頬には涙が一筋流れ、ぽとりぽとりといくつかの雫がなめらかな木の机へ落ちました。
「ふふ、先生にしては珍しいですわね」
掠れた声でオリオーネは続けます。
「でも、ありがとうございます」
「少し外へ出てきます。戻って来たら洗礼式の演習を始めましょう」
そう言ってケイトスは立ち上がるとゆっくりとした足取りで部屋を出ていきました。
「ウィゼルもありがとう。もう、大丈夫よ」
安堵した様子で微笑みを浮かべたウィゼルは、オリオーネへ別の話題を持ちかけます。
「ケイトスさまはオリィさまの先生なんですか」
「ええ、当家ではお兄様の代から魔術学の教師として来て頂いているの。私のお父様とも少なからず親交があったそうよ」
「さぞ力のある魔術師様なのだと、助けていただいたときに感じました。そういえば、ケイトスさまは普段どちらにいらっしゃるのですか。城内でお見かけした事はありませんでしたが」
「教師としてここへ来る以外はほとんど研究棟に籠もっているらしいわ。外へ出るにも魔術師たちは正門ではなく裏門を使っているそうだから、確かにウィゼルの仕事場を通ることはないかもしれないわね」
「そうだったんですね。あの、魔術って難しいんですか?」
「難しいと言うより、深いと言った方が適切かしらね。入口を覗く程度は誰でもできるけど、その奥、本当の深みは真っ暗闇。先生はこんなふうに言っていたわ」
――我々が知っているのは地上から灯りで照らし出された深淵のほんの一部。本当の姿を知るためには暗黒の只中にその身を投じる他ない――
ウィゼルは冷たい暗闇に一人取り残されるのを想像して身震いしました。
「なんだか怖い話ですね」
「ものの例えではあるでしょうけど、それほど未知の部分が多いということね。私はまだ先人の遺した灯火を頼りに進み始めたばかり。本当のところはまだ何もわからないわ」
「オリオーネ様はヴィンヤード様よりずっと理解が早いので助かっていますよ」
いつの間にか戻っていたケイトスが気を遣うこともなく師としての率直な所感を口にしました。
「あら、本当ですか?確かにお兄様は座学は苦手だったかもしれませんが……」
オリオーネは喜んでいいのかわからない複雑な表情で座ったままケイトスを見上げました。
「はい。オリオーネ様ならば将来も魔術に関わっていただけるのでは、と私は期待しております」
「あの、それは魔術師として魔物と戦う、ということですか?」
ウィゼルはオリオーネのことが心配になって尋ねると、ケイトスは教壇へ向かって歩きながらいかにも教師らしい語り口で話し始めます。
「いえ、魔物を討つことだけが魔術ではありません。例えば、私たちの生活に欠かせないフィンクはかつて空を飛び海を渡ってやって来た鳥でした。先人はそれを長年かけて魔術で改良し今の姿に変えていったのです。他にも書物に用いるインクや明かりを灯すランプなど、生活に役立つものを生み出す研究も魔術の内です」
「へえ……知りませんでした。私てっきり魔術師様も騎士様と一緒に魔物と戦うばかりなのかと」
「もちろん魔物の脅威から土地と民を守るの最優先ですが、騎士団にも町の治安維持の役目を持つ側面があります。騎士団と魔術師団は互いの特徴を活かし人々を支えているのです」
「何だか授業みたいになってきたわ。先生、そういうところありますわよね」
茶化すオリオーネにケイトスは自ら呆れた様子で苦笑し本題を切り出しました。
「失礼、今日は違いましたな。洗礼式についてウィゼルは知らないでしょうから、まずはその主旨から説明します」
「お願いします」
ウィゼルは座る姿勢を整えると真剣な表情でケイトスへ向き合います。
「洗礼は宮廷に古くから伝わる重要な儀礼のひとつです。この城の敷地で生まれ育ったいわゆる貴族と呼ばれる家系の者は、ある程度の年齢になると皆必ず聖域の森の中にあるマクアの霊泉で洗礼式を行い、民を統べ守るためその身に霊泉の加護を纏います。その加護には魔物から身を守る力があると言われており、加護を受けて初めて成人の貴族として認められるのです」
ウィゼルは自分の知る森に想いを馳せ、まだ見ぬマクアの霊泉がどんなところなのか、興味深げに想像を膨らませはじめます。
「今回の主役はオリオーネ様、そして脇に控える助役はオリオーネ様の希望でワイザール城の使用人ウィゼルが選ばれたという訳です」
頷くウィゼルを見てオリオーネはどことなく嬉しそうな表情で頬杖をついています。
「そして洗礼に用いる儀式具がこちらです」
ケイトスが教壇の上に置かれていた木箱を開けて取り出したのは、まるで揺らめく水面に映る太陽のようにきらきらと輝いて見える純白の衣。
「この衣は霊水の衣。オリオーネ様の当日のお召し物です」
続けて木箱から取り出されたのは鞘に美しい細工の施された細身の剣。
「そしてこれは魔遷の器」
そう言ってケイトスは剣をウィゼル達の目線の高さへ掲げました。それは、騎士の扱う剣よりは短く、短剣と呼ぶにはやや長いものでした。白地に金色と青色が織り混ざった波のような模様が鞘の口から先端まで続いていました。
「きれい……剣のように見えますけど、それが器なんですか」
「形状としては確かに剣ですが、本質は血を捧げ霊泉と交わるための器であると言われています」
「血を捧げるって……身体を傷つけるんですか?」
ウィゼルが慌てて立ち上がると、その問いにケイトスは静かに首を振りました。
「昔はそういうことも行っていたようですが、今は違います。あくまで儀礼として形式的に行うだけです」
「そうなんですか。よかった……」
心底ほっとした様子で座り直したウィゼルをオリオーネはニヤけた顔で見ていました。
「オリオーネ様も聞いていらっしゃいますか。ここまではご存知のことと思いますが、式の流れはきっちりと覚えねばなりませんよ」
「もちろん、わかっていますわ。これを終われないと正しい大人になれないんですから」
オリオーネは急にまた真面目な顔になって、決意のこもった目で儀式具を見つめました。オリオーネの言う正しさがどういうものなのか、考えてみても今のウィゼルに答えは見つかりませんでした。
その後ふたりは日が暮れるまで式中の段取りや所作を覚え込むことに集中しました。ケイトスからは細かい指導がなされ、式を完璧に仕上げようとするその意思にふたりも応えていきます。
「今日はこんなところでしょうか。演舞の覚えは良いですが本番では霊水の衣を纏い足は泉に浸かった状態だということをお忘れなく。それと段取りの方はまだ迷いがあります。次までに式の次第をしっかりと頭に入れておいて下さい」
そう言ってケイトスは紙の束を机に置き、その脇で机にへばりつくように伏せたオリオーネは大きくため息をつきました。
「お兄様のときもこんなに大変だったのかしら」
「ヴィンヤード様は結局演舞の振り付けが覚えられずに洗礼式も略式で行いました。ですが今回それはなりません。今のベルクロイ家は宮廷からの信頼を失いかけていますから、略式で済ませるとなると更に印象を悪くさせます。オリオーネ様の将来のためにも完全な式を行い伝統を重んじる姿勢を見せねばなりません」
「そうはっきり聞かされるとやはり苦しいですわ。でもそう、先生の仰るとおりですから、私やってみせます」
オリオーネは身を起こしてケイトスを見つめ返します。その瞳にはどこか清々しさすらありましたが、ウィゼルの表情は対象的でした。
「あの、そんな大事な式の助役、本当に私で大丈夫なんでしょうか」
「ちょっと何を言っているのよ!今さら他の誰かなんて認めないわ。それに、大事だからこそ、大事な……ってもう、わかるでしょう?」
「あ……ごめんなさい、オリィさま。私、すぐに不安になってしまって」
「あなたが失敗したって、私がうまくやれればそれでいいのよ。だから、安心なさい」
オリオーネの力強い言葉を聞いたウィゼルは自分がひどく情けなく思えて、泣き出しそうな顔を隠すように俯きました。
「オリィさま……ありがとう。私、精一杯やるね」
「あなたお仕事の時はあんなにしっかりしているのに、意外と泣き虫なのね」
「オリィさまだってさっきは泣いていたじゃないですか」
そんなことすっかり忘れていたというふうにオリオーネはころころと笑い出しました。
「そういえばそうね。じゃあ、あなたと私は泣き虫同盟だわ」
「なんですか、それ」
その言葉のおかしな響きにウィゼルはオリオーネと一緒になって笑い合いました。少女たちの笑い声は窓を抜け、庭園を抜けて夕暮れの空にどこまでも吸い込まれていきました。
「それでは私はこれで。また明後日お伺いします」
「ありがとうございます、先生」
すっかり日が落ちてランプの灯りに照らされた邸宅の玄関前。ケイトスはオリオーネ達と挨拶を交わしてベルクロイ邸を後にしました。
「ねえ、ウィゼル。今日は、その……泊まっていったら?」
ケイトスを見送ったオリオーネからの突然の申し出にウィゼルは目を丸くしましたが、すぐにミュリのことが頭をよぎります。
「申し訳ありません、オリィさま。とても嬉しいのですが、今日はミュリに私の分の仕事までお願いしてしまっているので、戻らないと……」
「ああ、そう……そうよね。あなたには使用人としての仕事が……」
オリオーネは心底残念そうな表情でどこへとなく視線を彷徨わせます。
「お仕事があってもオリィさまの足を引っ張らないよう、頑張りますから」
「ええ……よろしく頼むわね」
「それでは失礼します」
どこか噛み合わないやりとりの後、ウィゼルは最後に使用人の立場へ戻って一礼をして、宵闇に沈む園庭へ向けて短い階段を降りていきました。オリオーネは近くの柱に身を寄せてウィゼルの姿をずっと見送ります。遠ざかっていくその影は園庭に配された魔力ランプの光を近くから遠くへぱちぱちと瞬かせていきました。
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