城壁の中の娘
「ウィゼル!ウィゼルはいる?」
使用人宿舎に甲高い声が響きました。声の主はウィゼルと同じくらいの歳の少女。その少女は雑然とした使用人達の仕事場に似つかわしくない綺麗な格好で、期待に満ちた目を輝かせていました。
「オリオーネお嬢様。ウィゼルは城内の仕事に出ております」
偶然居合わせたラエアが呆れ気味に答えます。
「まあ、せっかく面白い本が手に入ったのに」
「たぶんもう少しで戻って来ると思いますよ。その後は少し時間があったはずです」
「ラエアは何もかも頭に入っているのね。じゃあここで待つことにするわ」
露骨に落胆していた少女はころりと機嫌を直し、近くの出窓に腰掛けて持っていた本を読み始めました。
「そんな場所に座られてはお召し物が汚れてしまいます」
「あら、平気よ。汚れたってここで洗ってもらえばいいじゃない」
少女は諌める声を意に介さず、足をぶらぶらとさせながら開いた本に視線を注いでいました。出入りする使用人たちは一度はその少女を目に留めますが、特段気にする様子もなく仕事を続けています。午後の陽射しが洗い場の水面に照り返し、天井に波を立てていました。
「ただいま戻りました」
ウィゼルとミュリが城内での仕事を終えて宿舎に戻ってきました。その声を聞いた少女はすぐさま本を閉じるとウィゼルのもとへ駆け寄っていきます。
「ウィゼル、見て!前から欲しかったフェイリーの詩集よ」
少女は丁寧に装丁された本の表紙を自慢げに見せつけました。
「オリオーネさま、申し訳ありません。まだ後片付けが残っておりまして、もう少し後でもよろしいでしょうか」
「オリィでよいと言ったでしょう。ま、いいわ。早くなさい」
オリオーネと呼ばれた少女はそう言って宿舎を出ると、陽のあたる芝生へ座り込んでまた本を読み始めました。
「オリオーネ様、急に子供に返ったようで生き生きしてらっしゃる」
近くで仕事をしていた使用人の一人が安心した様子で誰にともなく呟きました。
宿舎の脇の小さな納屋ではミュリが清掃具の整理を始めていました。そこへウィゼルが急ぎ足で追いつきます。
「ごめん、ミュリ。私もやるよ」
「あの人、待ってるよ」
「二人でやればすぐ終わるから」
ミュリは相変わらずフードを被っていましたが、ウィゼルの前では以前より少し顔を見せるようになっていました。二人で手早く整理を終えるとミュリは宿舎に戻ろうとしますが、ウィゼルがそれを呼び止めます。
「ねぇ、ミュリのこと紹介させて」
「え、う、うん」
ミュリは少し戸惑い、緊張した様子でした。
「大丈夫。身分は違うけど私とも普通に接してくださるし、なにより、ミュリには私以外にもいろんな人と話をしてみてほしいの」
「わかった」
二人は芝生の真ん中で本を読む少女の元へ歩いていきます。ミュリは被ったフードの端を手で押さえ、ウィゼルの後ろに隠れるようにしてゆっくりと進んでいきました。
「オリィさま、今日はこの子を紹介させてください」
「あら、あなた私以外にも友人がいたのね」
ウィゼルはミュリの背中をそっと押してオリオーネの前へ導きました。
「ミュリティリーハです」
ミュリはフードを被ったまま小さな声で名乗りました。
「みんなミュリって呼んでいます」
「オリオーネ・ベルクロイよ。オリィでいいわ。あなたずっとそれ被ってるの?」
そう問われ、ミュリは萎縮して何も言えなくなってしまいました。ウィゼルはミュリを庇うように一歩前へ出ます。
「その、少し驚かれるかもしれませんが、ミュリは海の向こうから来たそうなんです」
「え?そんなこと……本当なのかしら」
「ミュリ、ちょっといい?」
ウィゼルがミュリを安心させるように目を合わせるとミュリは自分の手でゆっくりとフードを降ろして顔を風にさらしました。
ミュリがこの島の人間ではないという証拠をオリオーネもはっきりと認識し、目を丸くしてミュリの顔を見つめました。
「私たちとまるで違う……これが、外の世界の……」
髪、肌、瞳、どれもがオリオーネの知らない色をしていました。真っ直ぐなオリオーネの視線にミュリは目を合わせることができません。それでも、オリオーネはミュリへ顔を寄せじっくりと凝視します。
「あの、オリィさま、あまり見つめられるとミュリも困ってしまいます」
「いいじゃない、興味があるんだもの。あなたはどんなところで生まれたの?どうやってここまで来たの?」
仕方ないと言ったふうにオリオーネは一歩下がりながらもミュリへ質問します。これまでミュリの過去について触れるのを避けていたウィゼルに対し、オリオーネは知りたいと思った事を素直に口にしました。ミュリは何か悲しむように目を伏せてわずかに首を振りました。
「覚えているの、小さな里、森、湖、原っぱ。そして、里が燃えて……その後は私、覚えていない。家族のこと、みんなのこと……私、気がついたら流れ着いて、町の人に助けられて、ここに連れて来られた」
ウィゼルは切なげに俯きながらミュリの言葉を聞いていました。三人の間を森からの少し冷たい風が吹き抜けていきます。
「……ありがとう、話してくれて」
「外の世界で何が起こっているんでしょう」
「何にせよ平和な話ではなさそうね。私達の世界にもいずれ……いえ、そんなはずないわ。ここは霊泉の力で護られているのだから」
オリオーネの言葉にウィゼルは妙な夢の事を思い出し鼓動が速まります。でも、ウィゼルは何も言い出せませんでした。
「それにしても記憶喪失の漂流者なんて、まるでお話の主人公のようではなくて?彼方の土地から蛇の海を超えて……まさに奇跡ね」
「でも、きっとミュリ以外の人もいたはずですよね。他の人は助からなかった、ということでしょうか」
「そうね……私聞いたの、最後に渡来人が現れたのは私の生まれるずっと前だって。でも、漂流による衰弱が激しく、すぐに亡くなったそうよ」
――
この海には大きな大きな蛇が住んでいる。
唸りに波は逆立って、背びれは船は引き裂いた。
海の彼方を目指しても、帰って来るのは骸だけ。
そしていつしか人々は海を渡る事を諦めた。
――
事実、そんな伝承が生まれるほどにこの島は外の世界と隔たれていました。
「そんな話を聞いて、あるいはここが世界のすべてなのかも……と思ったりもしたわ。でも目の前にそれを否定する証拠が現れるなんて、考えもしなかったわ」
オリオーネの言葉にミュリは何も言わず、波模様の雲の向こうの遠い空を見上げました。
「ごめんね。色々話しちゃったけど、今は無理に思い出さなくていいよ。それは、きっとつらいことだから」
「うん」
ミュリはウィゼルの方へ振り返り、わずかに微笑みます。地平の空は少しずつ夜の色を滲ませ始めていました。
「ふう、なんだか本を読むような雰囲気ではなくなってしまったわね。素敵な詩集なのだけど、また今度にしましょう」
「ごめん、そのこと」
ミュリは申し訳なさそうに俯きます。
「謝ることではないわ。私には本よりあなたの方がよほど興味深かったから。迎えが来てしまったようだし、私は行くわ」
気がつくと宿舎の入り口の脇に黒いきっちりとした服を着た男が背筋も真っ直ぐに立っていて、こちらをじっと見ています。オリオーネはそれを認めると目線を合わせて頷きました。
「オリィさま、またいつでも、お待ちしています」
「ええ、またすぐにでも来るから、その時はさっさと仕事を終わらせなさい」
そう言ってオリオーネは本を抱え、芝生を斜めに突っ切って城内へ続く渡り廊下へと歩いていきます。宿舎の脇にいた従者らしき男は表情ひとつ変えず、きびきびとした歩きでそれに付き添いました。
オリオーネを見送ったウィゼルは何故か少し不安そうな様子でミュリの方へ向き直りました。
「ミュリ、あのね、私も、ほんとはミュリのこと知りたかった」
「ん?」
「今まではね、ミュリの昔のこと触れないようにしてた。何か嫌なことを思い出させてしまう気がして……」
声を上ずらせながらウィゼルは続けます。
「でも、つらい過去を話すのは悪いことばかりじゃない。それでミュリともっと近づけたら、悲しみの重さも、少しは分け合えるんじゃないかな、って……何言ってるんだろう私……」
ウィゼルは言葉を詰まらせ、自分に呆れて首を振りました。ミュリはいつものように不思議そうな顔で首を傾げています。風を待つような沈黙の後、ミュリは口を開きました。
「知ってるよ」
「……え?」
「ウィゼル、大事にしてくれた、言葉もくれた。最初に会えたこと、幸せ」
ウィゼルはまぶたの裏に溜まる雫を抑えきれず手を添えると、それは頬から顎へ流れて足元の草影へ落ちていきました。
「なんでだろう、私、かっこ悪いね……ありがとう、ミュリ」
ウィゼルは手の甲で濡れた頬を拭いながら、子供っぽい嫉妬に駆られた自分がひどく情けなく思えていました。
「戻ろう」
「うん」
ふたりは夕食の時間に向けて慌ただしくなり始めた宿舎へ歩き出します。森の向こうから吹く風がふたりの背中を軽く押し、庭の草木をざわめかせました。
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