夢と祈りと
その日は一日中雨が降っていて、ウィゼルは露に濡れながら外仕事をこなしました。
翌日になってようやく雨は上がりましたが、空の色はまだ雲に遮られていました。
朝方、ウィゼルは少し寒気を感じながら湿った空気に満ちた庭を見回ります。庭園内の彫像やランプ達がおおよそ昨日の雨で洗い流されているのを確認したウィゼルは、屋根のある場所を清掃しようと庭園の一角にあるテラスへ向かいます。
その途中、ウィゼルは急に頭が痛くなって視界が狭まるような感覚に陥りました。目を閉じるといくつかの不思議な形をした光の残像があちらこちらへ流れていきます。まるで意識が世界からも自分の身体からも距離を置かれたようでした。
このままではいけないと思ってもどうすればよいかもわからず、何も考えられなくなって、ただ倒れないように前へ向かって足を運び続けます。
芝を踏むたびに露が跳ねて足首を濡らすその冷たさにかろうじて意識を保っていたウィゼルは、とうとう転がるようにテラスの側で倒れ込みました。
その時、どこかから少女の悲鳴が聴こえました。
「ちょっとあなた!しっかりなさい!」
甲高い声を聞きながら、ウィゼルの意識は闇に落ちていきました。
真っ黒な世界。静寂。
時折、遠景が音もなく真っ白に反転し明滅を繰り返します。それは初め、瞬きのような速さと頻度で、この意識の主へ何かを訴えかけているようでした。
そのうちに段々と明滅は速さを増していき、やがて辺りは完全な白に塗り替えられました。
ウィゼルを包んだ白い膜は夢となって意識の中に流れ落ちてきます。それは幼い頃の情景と幻想の境目をより曖昧に溶かし、ゆっくりとまどろみの中へ混ざっていきました。
――森の中を少女が歩いていました。真っ直ぐ伸びた木々の隙間を縫い、踏み出す足を柔らかな枯れ葉が受け止めます。葉の天幕が揺れ木漏れ日が地面を走ると、少女は何かに導かれる様に森の奥とも手前ともつかぬ何処かへ向かって行きました。
やがて森の中にぽっかりとひらけた空間が現れました。そこは背の高い森の木に遮られることなく陽光が差し込み、一面に草花が生い茂る緑の園でした。
ぼんやりと暖かそうな緑の波間に白、橙、紫、様々な色形の花々がその空間を分け合い、慎ましくもしたたかに咲いています。注ぐ太陽の眩しさと薄靄に霞む夢の中の夢のような光景を少女は木陰に立ち止まって眺めていました。
ふと、少女の視界の端で何かが動きました。少女が目で追うと花園の奥、緑の中にぽつりと浮かんだ大きな岩の上に一瞬、鳥のような影が映りました。
しかし、少女がそれを直視しようとすると陽光を反射させたかの様な眩しさに阻まれます。少女が目を逸らし手で光を遮ると、光源は遠ざかり、やがて奥の森へと消えていきました。
少女は歩きだし、花を踏まぬようにその光の後を追います。花園には雲の影が落ち、頭上から感じていた熱はすっとどこかへ抜けていきました。
草をかきわけ、影の見えた岩を越え、花園が終わり再び森のはじまるところまでやって来た少女は何かに気づき、足を止めて呆然と森の奥を見つめます。明るみから木陰に目を凝らす視線の先には石造りの小さな建物が静かに佇んでいました。
それは、少女が幼い頃、不思議な光を見たほこら。あのとき再び訪れようとしても見つけることのできなかったほこら。でも今、少女の目の前にある深く苔むした石壁は記憶の中のそれよりずっと古びていて、ほこらだけが悠久の時を超えてきたかのようでした。
大人からすればほんのちょっと前、少女にとっては遠い昔の記憶をひとつひとつ確かめながら、少女はほこらの前までやってきました。少女は小さな入口の壁に手を触れてその記憶に確信を得ると、恐れることなく暗闇へ入っていきました。
真っ暗な通路の先、光の昇る空間、そして祈る誰かの姿。色褪せていた記憶を頼りに暗闇を進む少女は昔より通路が長くなっているように感じていました。それでもゆっくりと確実に壁を伝って進んでいくと、奥にぼんやりとした光が見えてきます。少女は記憶の色を取り戻しながら、光の立ち昇る幻想的な空間へ再び足を踏み入れました。
美しくも儚げな光に目をやりながらその中心部へ近づくと、かつての祈る姿が変わらぬ影形でそこにありました。
「こんにちは」
あの時と同じように屈み込んで少女が挨拶してみてもやはり反応はありません。
「ごめんなさい。また来てしまいました」
驚かさないよう、少女はゆっくりと静かに言葉を発していきます。今はもっとその人のことを知るべきだと感じた少女はさらに続けます。
「あなたはずっとここに?」
問いかけた声の残響が消える頃、暗闇に染み入るようにどこか遠くからかすかな声が響いてきました。
――我らの子達を守り給え。絶望をこの身で燃やし、その炎をしるべとせん――
その声は耳では聞き取れないものでしたが、少女の頭にははっきりと伝わっていました。
――死者の影は死者の塚へ。呪怨の鎖を断ち、生命の螺旋へ導き給え――
言葉の真意は少女には理解できないものでしたが、願いの強さは少女の心を揺り動かします。祈りの言葉は幾度となく繰り返され、打ち鳴らされた大鐘の残響のごとく重なり、波打ち、光に触れた少女を包み込みました。
――とうとう来るのですね、尽きる時が。できることなら子達に背負わせたくはなかった。あなたのような幼子には重すぎる……しかし、これも運命でしょうか――
祈りを繰り返していた声は子を慈しむ母親のように語りかけはじめます。しかし今ここにいる少女は幼子と呼ばれるような年齢ではなく、その言葉はどこか別の誰かへ向けたものであると少女は感じていました。
――祈りが枯れ、呪いがあふれぬように、どうか絶望の淵に堕ちないで……私達の血の行方はあなた達の手に――
呪い。絶望。その不穏な言葉に少女は言いようのない怖れを覚えて自分の肩を抱えました。
「呪いって一体何のこと?北から来る魔物のことですか?でもそれは……」
少女の言葉に答えは返ってきません。声の主の思いだけがそこに漂っていました。
少女はこの出来事は夢で、漠然とした不安を自分自身で膨らませた果ての夢想、ただそれだけなのだという考えを、何か嫌な予感にざわつく胸の内へ収めることができずにいました。
――私はただ、悲しい運命を先延ばしにしただけなのかも知れません。祈りを継ぐことが本当に正しいのか、それすら、今の私にはもう……永遠など叶わないと、わかっていたのに――
次々に聞こえてくる言葉の意味を推し量っていた少女は、ふと何かに気づき、目の前の存在を確かめるようにおそるおそる手を伸ばします。その指先が祈る姿の頬に触れた瞬間、少女は息を飲んで目を見開きました。
少女の脳裏に見たことのない景色が焼き付くように流れ込んできました。赤茶けた大地。暗い空。おぞましい魔獣。戦い、傷ついた人々。
少女の目からは涙があふれてきます。出会って間もないはずのその人のことが、まるで自分のことのように感じられて、ただその思いを受け止めるので精一杯でした。
流れていく感情がその人のものなのか、自分自身のものなのかもうわからなくなって、少女はほこらを飛び出しました。
木の根本にうずくまった少女は、時折首を振りながら嗚咽をもらします。枝葉の揺れる音と鳥の声に包まれて、少女の涙は森の秘密になりました。
空の模様も変わるほどの時間の後、少女がようやく落ち着いて顔を上げると、ほこらはまるで最初から存在していなかったかのように姿を消し、そこにはただ赤茶けた落ち葉が溜まっているばかりでした。
手のひらに、冷たい感触だけが残っていました。
「ウィゼル……」
不意に手のひらに感触があり、ウィゼルは目を覚ましました。
「何か、痛い?」
ウィゼルの目尻からは幾筋かの雫が流れ出していました。昼下がりの気だるげな空気と光が満ちたいつもの部屋。いつもの寝床。ミュリは心配そうな顔でウィゼルの手を柔らかく握っていました。
「あ……ミュリ……」
突っ張る肌の感覚に自分が涙を流していたことに気がつき、ウィゼルは乾き始めの瞼を拭いました。
起き上がろうとしても、頭が締め付けられるように痛み、身体は動くことに抵抗するので、手をついて上半身を起こすのがやっとでした。
「あれ?私……」
上がった息とぼやけた視界の中にミュリの存在だけがはっきりと感じられます。
「熱、まだ重い。これ飲んで」
ミュリは机に置いてあったスープ皿を手に取るとスプーンをウィゼルの口元へ運びました。
「ん……う、苦い……」
人肌ほどに冷まされたスープの苦さは舌の上にしつこく残り、ウィゼルはその味に顔を歪ませました。
「薬草、熱解くから」
「ありがとう。う……」
ミュリは再びスープをウィゼルの口へ流し込み、ウィゼルは苦手なその味を我慢しながら飲み込みます。それはまるで乳離れしたばかりの赤子にものを食べさせているかのような光景でしたが、熱からくる倦怠感のせいか、ウィゼルは恥ずかしがる様子もなく与えられるがまま口にしていきました。
何回かスープを飲んだ後、ウィゼルは倒れる前のことを思い出してつぶやきます。
「そういえば私、仕事中だったんだ。どうしよう……」
「大丈夫。他の人に頼まれた」
「そっか。ありがとう……みんなに迷惑かけちゃったな」
「ウィゼル、おかしかった。昨日から。無理は悪い」
「うん、ごめんね。こんなの初めてだった」
その時、ノックの音が部屋に鈍く響きました。ミュリが返事をすると扉が開いてラエアが顔を見せます。
「お目覚めだね。意識ははっきりしているかい?」
ラエアは部屋に踏み入ることなく顔だけを覗かせてウィゼルたちの様子を伺いました。
「まだ、少しぼうっとします……あの、ごめんなさい、皆さんにご迷惑を」
「新入り一人抜けたくらいでどうこうなるものじゃないさ。それより、今は自分の身体を治すのが仕事だよ」
「……はい」
ウィゼルは落ち込んだ様子で小さく返事をしました。
「ウィゼルが寝てる間に一応魔術師に診てもらったら、たぶん魔力にあてられたんだろう、だとさ。症状が続くと魔力障という病のおそれもあるそうだけど、ひとまず大丈夫みたいだね。まあでも、用心するに越したことはないから、こじらせないようゆっくり休みなさい。ミュリは後で続きお願いね」
「わかった」
ミュリの返事を聞いたラエアは扉を締め、いつもの早歩きな足音を立てながら遠ざかって行きました。
「魔力障か……母さま……」
ラエアが階段を降りると、使用人宿舎にはまるで似つかわしくないきれいな身なりをした少女がそわそわと自分の髪をいじりながら待っていました。
「お嬢様、来てらしたんですね。ウィゼルの事、わざわざお報せ下さりありがとうございました」
「本を読んでいた私の前で急に倒れるんですもの、放って置くわけにいかないでしょう?」
「おかげさまでだいぶ落ち着いたようです。お嬢様に助けていただいた事は後でウィゼルに伝えておきますからね」
「ウィゼル……あの娘はウィゼルというのね」
「はい。この前ここに入ったばかりの者です。なんでもカドゥミナから父親を捜しに来たとか」
「そう、父親を……」
そう言って階段の上を見つめる少女はどこか悲しげな様子でした。
「最近は何の縁か、変わった素性の者が立て続けに二人入りました。どちらもお嬢様とそう変わらない歳の頃だと思います」
少女はラエアの話を聞きながら手近な椅子に腰掛けると、年季の入った木製のテーブルを手のひらでさすり、息をついて懐かしそうに辺りを見回しました。
「変わらないわね、ここは」
「お茶でも飲んで行かれますか?」
「いいえ、やめておくわ。もうすぐ授業があるの」
「そうですか。またいつでもいらしてください。かつてのヴィンヤード様のように、そこら中走り回って遊んだっていいんです。粗相があればきっちりお叱りいたしますから」
「私はもうそんな歳ではないわラエア。でも、いいのかしら……またあの頃のように、ここへ来ても」
「ええ、もちろん。ここは城壁の中にあっても宮殿の外ですから、無為な諍いに心を労することはありませんし、私がさせません」
「ありがとう。なんだか気を遣わせてしまったかしら」
「とんでもございません。ただ、手をかけて育てていたフィンクが何処かへ行ってしまって、その羽毛の手触りがちょっと恋しくなっただけでございます」
「くくっ、ラエアも変わっていないわね」
「それはお褒めの言葉でしょうか?私も何かに変われるのなら変わってみたいものですが」
「あなたはいいのよ、そのままで。過去に戻りたいとは思わないけど、変わらないものは……きっと大切なものなんだわ」
「承知しました。そう努めます」
気だるげに窓の向こうを眺めていた少女が振り返ると、ラエアはにやりとした表情を浮かべながら少女を観察していました。
「何よ」
「いえ、帰って来たフィンクの成長ぶりに感銘を受けていた次第です。ですが、少々無理に背伸びをしているのでは、とも思えました。例え強く育ったとしても一羽だけでは寂しいばかり。きっと今のフィンクのままでしょう。でも、苦楽を分かち合う仲間がいたら、そのうち空を飛ぶことだってできるようになるかも知れない、などと想像しておりました」
「フィンクが空を……なかなか面白い話ね。いつか本当にそのフィンクが忘れてしまった飛び方を思い出す日は来るのかしら?」
「私の妄想はここまでです。それより先どうなるかは私の頭の中には収まらないでしょうから」
「そう……さて、そろそろ行くわ」
少女が立ち上がってラエアへ向き直ると、ラエアは微笑みを返して少女を送りました。
「はい、行ってらっしゃいませ」
少女がゆっくりとした足取りで宿舎を出ると、園庭を吹き抜ける風が少女の長い髪を踊らせました。
ウィゼルはミュリの用意したスープを飲み終えたあと再び横になって、熱に浮かされた意識を揺らす波の様子をうかがっていました。
「ねえ……ミュリは聖域の森のことを知ってる?」
「森、近づかないは、ラエア言った」
「うん。あの森は魔物から私達を守ってくれている。ずっと昔から。それが、ある日突然無くなってしまうなんてこと……あるのかな」
ウィゼルは、妙な夢で示されたことが現実になることなどないのだ、と安心したい思いでしたが、それは叶いませんでした。
「永遠のこと、どこにもない。そう思う」
「そう……だよね」
故郷を失っているであろうミュリの言葉はその淡々とした声色に乗ってウィゼルの中に滴り落ち、小さな波紋を立てます。
「ウィゼル、心配?」
「ううん、ごめん、何でもないの。ちょっと変な夢を見てた……それだけ」
ウィゼルはじんわりとかく汗と胸のざわめきを鎮めるようにゆっくりと目を閉じました。
――セイレン島には東西に長く大きな森が広がり、魔物が棲むと言われる北部と人の住まう南部を分断しています。その森は不可思議な力で魔物を寄せ付けないことから『聖域』と呼ばれていました。
北から来る魔物は聖域の森に阻まれ、人里へ降りて来ることはめったにありません。稀に森を抜けてくる魔物も騎士団や魔術師団によって討伐され、その均衡は永きにわたり保たれてきました。
人々は聖域の森とその力の源とされるマクアの霊泉を崇め、古くから大切にしていました。でも人々はその不思議な力の正体を未だに知りませんでした。
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