外界から来た少女

「こっち…ここの床、きれいに」

 ウィゼルとミュリは城の中央広間へ清掃用具を運んできました。

「広い…」

 城下の大通り程もあろうかという広さの空間は訪れる者を圧倒しますが、使用人にとってはただ気の遠くなる仕事場でしかありません。真っ平らに磨かれた白い石の床が、あちこちから来るランプの光を鈍く反射していました。

「壁、気をつけて」

 広間の壁には絵画、階段の脇には背の高い彫刻、その他にも大小様々な調度品が存在していました。使用人はそれらを傷つけないよう、細心の注意を払って清掃をしなければなりません。

「床、掃くだけ。広いから」

 ミュリはウィゼルに箒を差し出しながらこれ以上なく簡潔に説明を済ませます。

「はい。えっと……磨いたりとかは?」

 ミュリはゆっくり首を横に振って繰り返します。

「広いから」

 ウィゼルはなんだか拍子抜けしてしまい、ぽかんと口を開けたまま箒を受け取ります。

 ウィゼルに箒を渡したミュリはそそくさと広間の角まで歩いていき、被っていたフードを脱ぐと床を掃き始めます。見たこともない髪の色が遠くからも目立っていました。

 反対側の角から床掃除を始めたウィゼルはまだ少しだけ戸惑いを抱えながら、しばらくの間無言で集中しました。

 その間、身分の高そうな騎士や役人らしき人物が何人か広間を通って行きましたが、使用人たちを気に止める者はいませんでした。

 ウィゼルが宿の部屋を数十室分も合わせたほどの広さを掃ききってミュリと合流したとき、ミュリはその倍ほどの広さを終わらせていました。

「早かった」

 そう言ってミュリはすぐにまた顔を隠すようにフードを被ります。

「次、あっち」

「……はい」

 ウィゼルは何か言いたげな様子でしたが、返事だけして後をついていきます。


 ふたりは広間の裏手へ抜け、離宮へ続く長い廊下へやってきました。一直線な廊下の先には離宮の外柱が構えています。左の窓からは庭園を望み、その向こうには王宮の一部が見えていました。

「ここも広いね…」

「床、やって。私、窓をやる」

「うん、わかった」

 ミュリは先ほどと同じようにフードを外して顔を出すと、軽い身のこなしで窓の下の少しだけ突き出た部分に飛び乗り、窓枠の上の部分のホコリをはたきでパタパタと落としていきます。ウィゼルは思わずその横顔をじっと見つめていました。

「私、この島から来てない。だから、見た目違うの、気味悪い?」

 視線に気づいたミュリは狭いところに立ったままウィゼルを見下ろして言いました。

「ううん、ごめんなさい。そうじゃないの。外から来た人初めて見たから、つい……でも、そうだよね、私も人からジロジロ見られたら、いい気しないもの」

「うん」

 ミュリの表情と声色は怒るでも悲しむでもなく淡々としていて、ミュリが何を思っているのかウィゼルにはよくわかりませんでした。

 この廊下は大広間より人の往来が少ないせいか、さほど目立った汚れはありませんでした。既に清掃の要領を掴んだウィゼルは先ほどよりも手早く床を掃いていきます。

 ふたりはまたしばらく無言で清掃を続け、今度はミュリの窓掃除が終わるのとほぼ同時にウィゼルも担当した床面を掃き終えました。

「ふう……これ、いつも一人でやっているの?」

「先輩と二人はいつも。一人もある」

「そうなんだ」

 ウィゼルが窓ごしに空を見上げると、ちょうど太陽が真上に昇った頃。目の前の庭園には隅まで明るい陽が注いでいました。

「次、あっち」

「う、うん」


 その後ウィゼルたちは城内のあちこちにある賓客のための部屋を何箇所か整えました。

 どの部屋も天蓋付きの大きなベッドが置かれ内装も豪奢なものでしたが、それはウィゼルにとって落ち着ける空間ではなく、自分がここに寝泊まりしなくて済むことに意味もなく安堵していました。

 ミュリについてあちこちの部屋を巡ったおかげでウィゼルは城内のおおよその配置を覚えることができました。

「これで、今日は終わり」

 最後の部屋で集めた埃を窓から捨てて、ミュリが言いました。

「疲れた……あなたは平気なの?」

「慣れたから」

「そっか……あの、もう少しだけ、お話ししていい?」

 ウィゼルがそう提案するとミュリはフードを被ろうとしていた手を止め、何か不思議な物を見るようにウィゼルを見つめて首を傾げました。

「このあと夕食……でも、少しなら」

「よかった。それじゃ改めて、私はウィゼル。カドゥミナという街から来たの。あなたは?」

「ミュリティリーハ。みんな呼べないから、ミュリ。生まれた場所……よく覚えない。きっと、もうない」

「あ……ごめんなさい。辛いこと、訊いちゃった」

 ミュリは静かに首を振ります。

「ここで生きてる、から」

 後悔を顔ににじませ何も言えなくなっていたウィゼルの腕にミュリの手のひらが触れました。

「もう食事の頃、行こう?」

「うん……ありがとう」

 ミュリは何に礼を言われたのかわからない様子でまた首を傾げます。

 その後ふたりは清掃用具をまとめて宿舎へ戻っていきました。


 使用人たちは宿舎の一階にある食堂で食事を取ります。夕食は簡素なものでしたがウィゼルの疲れた身体には宿の食事よりよほど美味しく感じられました。

 ウィゼルと向かい合って座ったミュリは食事中もずっとフードを被ったままでした。

「ごちそうさまでした」

 ウィゼルたちが並んで食事を終える頃、窓の外では夕焼けが名残り惜しそうに地平へ張り付いていました。

「おつかれ。どうだい、仕事は覚えられたかい」

 いつの間にか食事に来ていたラエアがふたりへ声をかけながらミュリの隣へ座りました。

「はい。大変でしたけど、ミュリのおかげです」

「そうかい。それならよかったよ。ミュリ、今日からはウィゼルと二人部屋だよ。一番奥の部屋、わかるかい」

「え……わかる」

「もう荷物は移してウィゼルの服も用意してある。明日も早いから夜ふかしは厳禁だよ」

「ラエアさん、ありがとうございます」

「ああ、明日からもよろしく頼むよ」

 あっという間に食事を終えたラエアは再び宿舎を出ていきました。

「本当に忙しそう」

 ラエアの背中を見送ったミュリはそのままどこか遠くを見つめるようにぼうっとしていて、ウィゼルはそんなミュリの事が気になってフードに隠れた横顔をうかがっていました。

 木の葉が枝から地に落ちるほどの時間が過ぎ、ふと視線に気づいて振り向いたミュリの顔には、やはり不思議そうな表情が浮かんでいました。

 なぜだか目を合わせることがためらわれたウィゼルは少し視線を逸らして取り繕うように言いました。

「この後は何か仕事あるの?」

「ない。他、みんなはある」

「そうなんだ……私たちまだ子供だから、かな」

 もっと厳しい環境を覚悟していたウィゼルは拍子抜けするとともに安堵していました。周りの使用人たちも酷使されている様子はなく、忙しいながら楽しそうに働いていました。

「でも、朝にすこし早くある。片付けと部屋、行こう?」

「うん」

 ふたりは食器を持って流し台へ向かいます。

「水、いっぱい使えるんだね」

 食器を洗うために張られた水を見てウィゼルが誰へとなく言いました。ミュリは意味がよくわからなかったのか、それに対して何も応えませんでした。

 食器を片付け終えるとウィゼルは厨房の使用人に声をかけます。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」

「それはよかった。お疲れさま」

 老齢の使用人は微笑みを称えながらふたりへ労いの言葉をかけました。


 ミュリ達は食事をとる使用人たちで賑わい出した食堂を通り抜け、二本の柱の間から木の階段を登っていきます。階段の幅はすれ違うのがやっとなほどの狭さで、ウィゼルは手摺りに手を沿えながら慎重に足を運びました。

 踊り場で折り返してさらに登った先は使用人たちの寝泊まりする場所。レンガ造りの一階と異なり二階部分は全体が木造でした。

 薄暗い廊下の両側に扉が並び、その間隔からひとつひとつはかなり小さな部屋であることが伺えます。

 それぞれの扉には使用人の名前を書いた木の札が掛けられていました。

 廊下の一番奥左の扉にはふたりの名前。ミュリがその扉を開けると、ウィゼルは後ろから覗き込みます。

 そこはふたつのベッドが敷き詰められ、歩ける場所は中央にあるわずかばかりの隙間で、正面の窓の下には小さな机がひとつだけの空間でした。

 ミュリとウィゼルが中に入ると部屋はもういっぱいで、腰掛けられるところはベッドの上しかありません。

 左のベッドの上には小さな鞄。右のベッドには使用人の制服がたたんで置かれていました。

「これ、私の?」

 真新しい生地の感触は、思いがけないプレゼントを渡されたような気持ちをウィゼルに芽生えさせました。

「大きい、合う?」

「試してみるね」

 ウィゼルは旅に出てからずっと着たままの服を脱ごうとしました。しかし、ミュリの真っ直ぐな視線に気がついて手を止めました。

「えっと……ミュリ?あんまり見られていると……その、恥ずかしい……かな」

「……なぜ?」

 ミュリはいつものように首を傾げてミュリを見つめ続けました。

「なぜって……うう、もう」

 ウィゼルが服に手をかけたまま困っていると、ミュリは突然、汚れたテーブルクロスを剥ぎ取るかのように着ていた制服を一瞬で脱ぎ捨てました。

「ええっ」

 自分とは全く異なる色の肌が目の前にさらけ出され、ウィゼルは目を丸くして顔を赤らめます。

 同世代の子供とほとんど接してこなかったウィゼルにとって、同性同士でも肌をさらすことには未だ抵抗がありました。

「同じ。できる」

 ミュリは手本を見せたつもりになって、ウィゼルも同じようにすればいいのだと目で促しました。

「う……わかった」

 同じ部屋で寝泊まりする以上、着替えの度にいちいち恥ずかしがってはいられません。

 ミュリが普段隠しているものを自分に見せた意味を考え、ウィゼルはさらに顔を赤くしながらも、ようやく踏ん切りをつけて服を脱ぎました。

 ウィゼル自身、意外に平気なものだと思いつつも、落ち着かない感覚から逃げるように制服を確かめます。制服はシンプルな紺色のワンピースで、すんなり袖を通すことができました。

「これ、合ってる?」

 ウィゼルはふたつのベッドの間に立って制服を着た自分を見ながらくるくると回りました。

「ぴったり。すごい」

 ミュリは大きく頷いてウィゼルを上から下まで眺め回していました。

「なんだか、嬉しいかも。実はちょっとだけ、いいなって思ってたの」

「いい?」

「うん、同じ屋根の下でお揃いの服を着て……仲間って言うのかな。私、こういうの初めてで」

「なかま……」

 ミュリはウィゼルの言葉を繰り返して何となく微笑んだように見えました。

 お互いが言葉にできない何かを通じ合わせたような空気の中、ウィゼルはその相手がまだ服を脱いだままであることに気がつきます。

「ミュリも早く服を着て!」

「平気。寒い、じゃない」

「そういう意味じゃ……」

 ウィゼルが半ば呆れ顔で言うと、ミュリは渋々といった様子で部屋着を着て、脱いだ制服を不器用に畳みます。

 その間、ウィゼルは座ってまだ慣れない部屋を見回していました。年代を感じさせる擦れた木の床、部屋にひとつだけ下げられたランプの淡い灯り。それらはどこか、家族と過ごした故郷の小さな家を思い出させました。

 ふと、ウィゼルは小さな机の下に木箱が置いてあるのに気が付きます。

「あれはミュリのもの?」

 ようやく部屋着を着たミュリは不思議そうに首を傾げます。

「違う」

「前にこの部屋を使っていた人の忘れ物かな」

 ウィゼルはベッドに座ったまま机の方へ身体をずらして近づくと、足元から木箱を拾い上げて机の上に置きます。それは本が数冊入るくらいの大きさと厚さをした長方形の箱で、天板の何か彫られていたような跡は掠れて消えかかっており、ウィゼルにはそれが何なのかわかりませんでした。

 よく見ると木箱の正面側、擦れた木目の上にまだ新しいインクで何か書いてあります。


 ――新しい小さな先生と生徒へ――


 ウィゼルは少しの間考えてから木箱の蓋をそっと持ち上げると、中には紙の束と羽根ペン、そして黒いインクらしき物が入った小瓶が収められていました。

「何?」

 ミュリが興味深げに覗き込みます。

「これ……ラエアさんかな……私達に?」

 ウィゼルが小瓶のふたをそっと開けると、魔術で精製されたインクの独特な匂いが鼻を突きました。

 その匂いを確認したウィゼルは紙の束から一枚の紙を抜き出して机に置き、羽根ペンを取ってその先をインクに浸します。ウィゼルは何かを思い出そうとするように少しの時間、瓶の中の液体を見つめていました。

 やがて瓶から引き上げられたペンは弧を描いて紙の上へ着地し、ウィゼルの指は流れるようにペンを走らせます。ウィゼルの一連の動作を興味深げに覗いていたミュリは、紙の上に残った筆跡を読み解こうと難しい顔をしていました。

「これはね『ありがとう』」

 ウィゼルが書いた文字を指でなぞりながら発音すると、ミュリはそれを目で追っていきました。

「ありがとう……」

 その単純な感謝の言葉をミュリはつぶやき、目に焼き付けるように凝視していました。

「書いてみる?」

 ウィゼルはミュリにペンを差し出しながら紙をミュリの正面へ向けました。

「書いて……うん」

 おぼつかない手つきでペンを受け取ったミュリは見よう見まねでペン先にインクをつけ、ウィゼルの書いた文字の下に同じ文字をゆっくりと書いていきます。線はブレてインクはところどころ滲んでいましたが、なんとか読むことはできそうでした。

「初めて書いたの?」

 ミュリはこくりと頷きます。

「すごい!私が初めて母さまから教わったときはもっとぐちゃぐちゃだったのに」

 ミュリはその文字の感触を確かめるように空中にペンを走らせます。無意識に描いたその軌跡は何か別の文字のようでしたが、それが何だったのかミュリ自身にもわかりませんでした。

「ねえ、ラエアさんの部屋、どこか知ってる?」

「知ってる」

「行こう。お礼、伝えに」

 その提案にミュリが頷くとウィゼルは文字を書いた紙を持って立ち上がり、ふたり連れ立って小さな部屋を出ていきました。


 ラエアの部屋の入口は階段付近にありました。階下からは仕事を終えた使用人たちの談笑が聞こえてきます。試しにウィゼルは扉をノックしてみましたが反応はありません。

「やっぱり、まだお仕事中だよね……」

「紙、置いて?」

「うん。私もそう思ってた」

 ウィゼルは幼い子供が何かとっておきのいたずらを思いついたような顔でミュリと目を合わせました。あまり表情の動かないミュリも、つられて少し微笑んだように見えました。

 ウィゼルは持ってきた紙を小さく折りたたむと扉の取手付近の隙間に差し込みました。

 ふたりはまた顔を見合わせると、ふたり以外誰もいない廊下を意味もなく足音を忍ばせて自分たちの部屋へ戻っていきました。


 それから毎晩のようにウィゼルは自分の知る文字と言葉をミュリへ丁寧に少しずつ教えていきました。

 その習得は驚くほど早く、本を読み、誰とでも自然に話せるようになるまでそう長い時間はかかりませんでした。

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