セイレン島の秘密

連星悠音

出会い

 ひとりの女の子が森の中を歩いています。女の子は病気の母親のため薬草を探して、もう長いこと森をさまよっていました。


『森の奥に入りすぎないで。魔物は森の向こうからやってくるから』


 女の子は母親の言葉を思い出しましたが、いつもの場所を歩き回っても今日は薬草が見つかりません。どうしても薬草を持ち帰りたい女の子はいつもより少しだけ森の奥へ入ってみることにしました。


 いつもの道を見失わないよう足元へ目印の石を置きながら進んでいくと、森の空気が少し変わった感じがしました。ふーっと、首元に吐息をかけられるような感覚を振り払い、女の子は懸命に薬草の葉の形を探していました。


「あっ」

 ようやく目当ての薬草を見つけた女の子。大事そうにそれを摘み取り懐へしまいます。ほっとして顔をあげた瞬間、女の子は驚いた声をあげて後ずさりました。

 木々が続いていたはずの視界の真ん中にぽっかりと子供一人が通れるほどの大きさの黒い穴が開いていたのです。

 女の子は自分を落ち着かせるように目を閉じ、ゆっくりと目を開けます。よく見るとその空間は苔むした石で組まれたほこらのようなものの入口でした。


 薬草探しに夢中になるあまり気が付かなかったのでしょうか。女の子はその周りをゆっくりと一周して確かめます。幅も奥行きも広くはなく、人が住むようなものではなさそうでした。

 試しに中をランプで照らして覗いてみても真っ暗で様子はわかりません。まるでどこまでも奥深く暗闇が続いているかのようです。

 でもなぜだかこの暗闇からは怖さを感じません。むしろ、中を確かめなければいけない使命のような気持ちが湧き起こった女の子はまるで吸い込まれるように暗闇へ入っていきました。


 左手にランプを持ち右手を壁に伝わせながらじりじりと歩くその距離は、ほこらの外観より明らかに長く感じられましたが、女の子は不思議に思いながらも引き返すことはしませんでした。息を殺しゆっくりゆっくり進むとやがて少し開けた空間が現れます。


 そこには不思議な光があふれていました。とても美しい光景でした。

 幾つもの玉のような青い光が、ぽつぽつと滴る雨だれを逆さまに見たかのように床から天井へ向かって昇っていきます。女の子はランプの灯りを隠し、まるで夜空の星を観察するようにその光を眺めました。

 やがて光の粒の向こう、部屋の中央の小高い場所に人らしき影を見つけた女の子。誰かいるのかと思い挨拶をしてみます。


「あの……こんにちは」


 少し待ってみても返事はありません。

 もう一歩近づいて目を凝らすと、その人はひざまずいた姿勢で何かを祈っているようでした。


「こんにちは」


 女の子はもう一度声をかけてみましたが、やはり反応はありません。

 思いきって台座の足元、光の立ち昇る際まで行ってしゃがみ込むと、淡い光にうっすらと照らされた顔が見えました。穏やかな、でもどこか悲しそうにも見える不思議な表情でした。

 身動きひとつしないその姿はまるで美しい彫像のようで、女の子はそのまましばらく黙って見入っていました。


 あまりに長い静寂。

 空気を揺らすのは女の子の息の音だけでした。


 ポチャン。

 突然どこからか聞こえた水音で我に帰った女の子は、これ以上邪魔をしてはいけない、とそっと立ち上がると、祈る姿に向かってひとつ礼をして、ゆっくりと音を立てぬようにほこらを後にしました。


 暗闇を抜けるとそこはよく知った森の道。驚いた女の子が振り返ると、そこにほこらはありませんでした。




「嬢ちゃん、フィンクは初めてかい」

 おとなしく立っているフィンクを興味深げに見つめる少女を見て御者が声をかけました。

「はい。こんなに近くで見るのは初めてです」

 少女はそう答えて人間の大人の背丈より高いフィンクの顔を見上げます。茶色い羽毛のフィンクは少女のことを気にする様子もなく、頭を上下させながら時折ぐーぐーと低い声で鳴いていました。


 ――大きな脚で大地を駆ける鳥フィンクはセイレン島住民の貴重な移動手段。少女もまたそれを利用して中央都を目指そうとしていました。


 故郷のカドゥミナからフィンクの引く車に揺られること半日、街道を東へ向かうに連れ緑が増えていきます。

「カドゥミナもな、昔はこのくらい豊かだったんだがね」

 流れる景色を見つめる少女に向かってか、御者が呟きました。

「なんとなく、覚えています。家の畑も周りも緑いっぱいで」

 がたがたと揺れる車内。乗客は少女の他にも数名いましたが、明るい顔の人はいませんでした。

「あっちではどう儲けようか躍起になっている連中ばかりさ。お嬢ちゃんもカモにされないよう気をつけなよ」

「はい」

 少女は少し悲しげな表情でフィンクの走る先を見つめながら返事をしました。

「よし、この先の水場で休憩するからね」

 御者がフィンクのお尻を軽く叩くと足並みが速まり、少女は倒れそうになりました。

「おっとごめんよ」


 休憩場所で御者はフィンクたちを離し水を飲ませます。初めてフィンクを間近で見る少女にとってそれはとても興味深い光景だったのでしょう。他の乗客が車に乗ったまま出発を待つ中、少女は外に出てフィンクたちのいる水場までゆっくり歩いていきます。

「あの、この子触ってみても大丈夫ですか」

 そんなことを言い出す乗客が珍しいのか御者は穏やかに目を細めました。御者は一頭のフィンクの脇までやってくると、水を飲み終えて落ち着いたらしい背中をひと撫でして横腹をポンと叩きました。

「目を見て、首から背中へゆっくりね。足の前後は危ないから立たないでな」

「はい」

 少女はフィンクの目線の下に立って瞳をじっと見つめると、少し背伸びをして首の付け根から背中の辺りをそっと撫でました。

「暖かい……」

 少女は満足げな顔で、御者がフィンクに餌をやる間もずっとその光景を見つめていました。


 その後もう少しの距離を進み夕暮れが訪れると、御者は街道沿いの野営地でフィンクたちを止めました。

「今日はここで夜明けを待ちます。そこの小屋で休めます。宿を取られるのならご自由に。それではまた明日、お休みなさい」

 カドゥミナと中央都の中間地点に当たるこの地区には旅人のための宿が何件かあり、その他にも風雨をしのぐためだけの簡素な小屋がいくつかありました。乗客達のうち数人は宿へ向かい、もう数人と御者は小屋を使うようです。

 誰でも入れる小屋で寝泊まりすることが憚られた少女は安い宿を選んで泊まることにしました。

 そうして入った小さな宿屋の小さな部屋はベッド一つだけの狭い空間でしたが、寝るだけであれば十分でした。初めての長距離移動に疲れたのか少女は日が落ちて間も無く眠りにつきました。


 その夜、少女は夢をみました。病気の母親のこと、帰ってこない父親のこと、家族が一緒だった頃のこと、そして、再び家族と暮らせる未来を。



 明くる朝、夜明けとともに出発したフィンク車は昼間のうちにワイザール城下町まで無事にたどり着きました。

 車を降りた少女の視界には生まれて初めて見るお城とその城下町。日差しの向こうに霞むその城は少女を圧倒しました。

 少女は御者とフィンクたちに別れを告げると、ひとり歩き出しました。

 街の外縁付近は人もまばらでしたが、中心部へ近づくとそこはかつてのカドゥミナよりもずっと多い人々でごった返していました。

 白い石造りの建物が建ち並び、色とりどりの天幕が張られた大通りには商売人たちの騒がしい声が渦巻いていました。

 行き交う人々を避けながら進む間、いろんな人から声をかけられた気がしましたが、少女は聞こえないフリをして足早に歩いていきました。



 それから数日間、少女は宿に滞在しながら父親のことを街中聞いて回ります。見知らぬ大人へ話しかけるのは勇気がいりましたが、同じ宿に泊まる旅人、市場の買い物客、暇そうに店の番をする商人、巡回中の兵士など、様々な人たちへ少女は聞き込みを続けました。

 しかし一向に手がかりはつかめず、なけなしの路銀は減る一方。なによりこの大きな街はまだ幼さの残る少女ひとりにとって危険な場所でもありました。


 少女はそれまで本能的に粗暴な人種の集まりそうな場所を避けていましたが、父親の手がかりを求めて夕暮れの中、意を決して騒がしい酒場街へ足を踏み入れます。

 鼻を突く臭気漂う通りを少女は顔を歪めながら歩き、手近な店から入っていきました。店員と幾人かの客に聞き込みをしては次の店へと繰り返し、三件目の店で少女は気になる噂を耳にします。

 ――困窮したカドゥミナの人間が中央都付近で略奪をしているらしい。

 近年になって緑の失われたカドゥミナへの都からの支援は十分とは言えず、その状況は少女も身を持って理解していました。でも、少女の知る優しい父親がそのような行為に加担するなどとても想像できませんでした。

 情報をもらった酒場の主人に礼を言って店を出ると、暗い通りには酒に酔った男たちがたむろしていました。


 見るからに野蛮そうなその男たちは下品な笑い声を上げ、少女の姿をジロジロと見ていました。宿へ帰るにはここを通り抜けなければいけません。

 少女は外套を目深に被って顔を隠すと早足で歩き始めます。すると、男の一人が行く手を阻むように近寄ってきました。

 少女はびくっと立ち止まり、それ以上動けなくなってしまいました。

「おいおい子供か?夜遊びするにはまーだ早いんじゃねえかな」

 少女は声を出せずに震えていました。

「悪い子にはお仕置きしなきゃあな?」

 後ろで座り込んでいた男たちが笑いながら立ち上がると、目の前の男が少女の外套に手を伸ばそうとします。

 その時、少女の後ろから静かな低い声が聞こえました。

「やめておけ」

 同時に、少女の肩越しに男たちへ向かって杖のような物が突き付けられました。

 伸ばされた男の手が止まり、少女の後ろにいる誰かを睨みつけますが、杖の先端が徐々に赤熱していくと、身の危険を感じたのか目の前の男は手を引きます。その熱は少女の顔にも伝わりました。

「こいつ、魔術師か!」

 男たちはどよめきながら後ずさりし、道が開けました。

「行きなさい」

 魔術師と呼ばれた男に背中を押されて少女は振り返らずに歩き出し、そのまま足を早めて裏通りを抜けるまで走っていきました。

 酒場街の出口で息を切らした少女が振り返ると、その場に似合わぬきっちりとした服装の男が杖を携えて歩いてきました。

「怪我は」

 先ほど少女を助けたのと同じ落ち着いた声でした。

「あ、大丈夫です。その、助けていただいて、ありがとうございます」

 少女は深く頭を下げました。

「父親を探しているのか」

「え、どうしてそれを」

「君のような子供が酒場をうろついて目立つなと言う方が無理だろう」

「あ……」

 少女は申し訳なさそうな顔で黙って俯きました。

「明日、ワイザール城のヴィンヤードという男を訪ねなさい」

 少女が顔を上げた時、すでに魔術師の男は背を向けて歩き出していました。

 痛い目に会ったばかりの少女でしたが、父親の捜索が手詰まりになっていたこともあり、その男の言葉を頼ることにしました。



 翌朝、少女は宿を朝一番に出てワイザール城へ向かいます。

 朝の冷たい空気を浴びながら歩く先はそびえる城壁。まだ人通りの少ない真っ直ぐな道をひたすら進み少女は城門前の広場にたどり着きました。

 円形の広場の中央には大きな噴水。広場の周囲には大きな柱が整然と並び、市街の喧騒とはかけ離れた静かな場所でした。

 少女は噴水のそばから城門の奥にそびえるお城を見上げ、少しの間ぼうっとしていました。

 そんな少女を怪しく思ったのか、城門前に立っていた衛兵が警戒する様子で近づいてきました。

「何用だ」

 衛兵の声に身体をびくつかせた少女は、萎縮しながら不安そうに答えます。

「あ、あの、えっと……ヴィンヤードという人はこちらにいますか?」

「何だと?」

 衛兵に怪訝そうに睨まれると少女はますます萎縮して声も震えはじめます。

「昨日の夜、魔術師さまに助けていただいて……その時、ワイザール城のヴィンヤードさんを尋ねるようにと……」

 それを聞いた衛兵は面倒くさそうにひとつため息をつきました。

「そこで待て」

 そう言って城門前にいるもう一人の衛兵の元へ走っていくとなにやら話し合いを始めました。

 やがて一人が城門脇の扉へ入っていき、残った衛兵が少女へ向かって大声を上げました。

「来い!」

 少女がおずおずと歩いて行くと扉の側で待つよう指示され、衛兵の近くで気まずい時間を過ごしました。衛兵は一歩も動かず、誰もいない広場を監視しながら時折少女をちらちらと確認していました。


 もう噴水を眺めるのも、柱の模様を観察するのにも飽きた頃、ようやく扉が開いて中から騎士らしい格好をした背の高い男が出てきました。

「君か。早かったね。ついて来て」

 その男は少女の顔を認めるなりそう言って踵を返します。その人物がヴィンヤードなのかもわからないまま、大きい歩幅に置いていかれないよう少女は早足でついていきました。

 城内を進む間、すれ違う兵士や使用人たちは少女を見て物珍しそうに振り返ります。

 庭を抜け、廊下を抜け、また別の庭を抜け、長い距離を歩く間に少女が目にしたものはどれも美しいものばかり。整えられた庭園、きらびやかな城内の装飾、階段の手摺りひとつとっても、すべてが一級の美術品のようです。

 でも、少女にはその美しさが何だかぼやけた霞に映った幻のように感じられていました。


 ようやく人気のない廊下に差し掛かると、それまで黙って歩いていた男は足を止め、少女の不安そうな顔に向き直りました。

「君はひとりなのか」

「カドゥミナに母親がいます。父親は……行方がわかりません」

「そうか、本当だったんだな」

「え?」

「いや、こっちの話だ。それより、君はその父親を探しにこの中央都へ来た、という訳か」

「はい」

 男はひとつ息をついて続けます。

「私も君の父親が無事であるとは思いたいが、状況を考えるとそれなりの大事に巻き込まれている可能性が高い。子供一人の力で探すには限界がある」

「でも、母は病気で、動けるのは私しかいなくて、頼れる人もいなくて……」

 俯いて語る少女を見て男は何か思いついたようでした。

「私が探ってみよう。仕事柄そういった情報は耳に入りやすいんだ」

「えっと、それはどういう……?」

「おっと申し遅れたね。私は宮廷騎士団に所属しているヴィンヤード・ベルクロイだ」

 少女はどこか知らない世界へ迷い込んだかのように呆気にとられていました。自分が今お城にいること、ましてや騎士と直接言葉を交わすなど、今まで想像したことのない状況でした。

「わ、私は、ウィゼル・アルマーダ、です。その、本当ですか?父のこと探していただけるって」

「ああ。普段は公務もあるから全力でとはいかないが、できる限りやってみよう。だからこれ以上危ない場所には行くんじゃないぞ」

「わかりました。でも、どうしてですか?私はただの田舎の貧乏人です。お城の騎士さまから直々に力を貸していただけるなんて……」

 少女はまだ信じられないといった様子で疑問を投げかけます。

「私には君と同じくらいの歳の妹がいるんだ。だから、なんだか放っておけなくてね。ああ、もしかして先生はそれをわかって……まったく、あの人には敵わないな」

「あの、ごめんなさい。やっぱりご迷惑ですよね」

「いや、すまない、違うんだ。……そうだな、君、このお城で働いてみないか?ちょうどこの前ベテランの使用人が引退してしまって人手が足りないらしいんだ。そうすれば君も父親が見つかるまで滞在場所に困らないし、どうだろう」

「え、えっと、私が、お城で?」

 思わぬ話の展開に少女は目を回しました。

「そうだよ。それなら君も引け目を感じる事はないだろう?働く対価として住むところと父親の情報を得る。当然のことさ」

 そう言った騎士はなぜか嬉しそうに目を輝かせていましたが、少女はまだ本当にこれで良いものかと視線があちこちへ飛んでいました。

 でも、結局いくら思案しても他にいい方法など思いつきませんでした。

「わかりました。そういうことでしたら、がんばって働きます」

「よし、決まりだね」

 騎士はその格好に似合わぬ人懐っこい笑顔を見せました。

「あの、父のこと、よろしくお願いします」

「ああ、わかった。そうとなれば早速、君をここのみんなに紹介しよう。ついてきて」

 騎士と少女は再び城内を歩き出します。


 美しいけれども代わり映えのない城の中をもうしばらく歩いた後、左右が開けた渡り廊下にたどり着きました。

 辺りは一面、陽が照らす緑の芝生。渡り廊下の突き当りには2階建てほどの高さのレンガづくりの建物が立っています。お城と比べると小さく見える建物ですが、城下の民家よりはずっと大きいものでした。

「あそこが使用人たちの宿舎だ。みんなここへ住み込みながら城内の雑事をこなしてくれている」

 荘厳な空気が張り詰めた城壁の中にあって、そこにだけは日常の匂いがありました。

 壁には様々な清掃用具が立て掛けられ、庭に長く張られたロープにはシーツや衣類の数々が風になびいています。

「ラエアさんはいるかい」

 奥の芝生で洗濯物を干していた使用人に騎士が遠くから声をかけます。

 使用人は何か答えたようでしたが、同時に強く吹いた風が白い幕を揺らし、その声をかき消しました。

 使用人は笑って宿舎の建物を指さすと騎士は頷き手を上げて応えました。

「中にいるみたいだ」

 宿舎の入口に近づくと開け放された扉の向こうからジャバジャバと水音が聞こえ、ちょうどそこから洗濯物を抱えて出てきた使用人が騎士とすれ違います。

「ラエアさんなら中ですよ」

「ありがとう。さあ、入ろう」

 身分の差など感じさせない自然なやり取りの後、騎士は勝手知ったる様子で建物に入っていきました。


 宿舎に入ってすぐの場所は洗濯場になっていました。左右の溝には水が貯められ数人の使用人たちが濯ぎ仕事をしています。

 洗濯場の奥は一段上がった木張りの床になっており、年季の入った机と椅子が並んでいました。

「ラエアさん」

 騎士が奥の部屋へ声をかけると使用人の女性が小走りで現れ、にやりと笑った顔を見せます。

「これはこれはベルクロイのお坊ちゃん。今日はどんな悪戯で?」

 ラエアと呼ばれたその人は騎士に対してまったく畏まることなく言いました。

「その呼び方はやめてくれって言っただろう?鍋に蛙を放り込んだことをまだ根に持っているのかい」

 周りで手を動かしている使用人たちがどっと笑いました。

「おっとそうでした。お許しを、ヴィンヤード様。で、そちらのお嬢さんは」

「そうそう、この娘をここで働かせてあげてくれないかな。人手が足りないって言っていただろう」

 騎士は一歩下がって少女の背中を軽く押すと、少女は一歩前に出て使用人の女性と向き合いました。

「ウィゼルと言います。カドゥミナから来ました。行方のわからなくなった父親を探しています」

「街で危ない目に会っているところを、ケイトス先生が助けたんだ」

「なるほど、それでヴィンヤード様に……なんともあの方らしい。ここで働くにしても父親探しの方はどうなさるんですか」

「それは私の方で動くつもりだ」

「わかりました」

 使用人の女性は少女と目を合わせます。その視線には厳しさと優しさが込められていました。

「働いてもらうからには子供扱いはしないからね」

「は、はい、がんばります」

「では私はこれから公務があるので、あとはよろしく頼みます」

 背中を向けて歩き出した騎士へ少女は精一杯の声を上げました。

「あの、ありがとうございます!」

 騎士は振り返ることなく返事の代わりに手を小さく振って、そのまま宿舎を出て行きました。

「まったく、子供相手に格好つけてどうするのかしら」

 呆れた様子で使用人が発したその言葉に少女は疑問を浮かべます。身分の高い宮廷騎士にそのような口の聞き方をするなど少女には考えられないことでした。

「あの、騎士さまにそんな事言って怒られないんですか」

「ああ、あの方は特別さ。頭の固いほかの貴族様たちと違ってね。それに、小さなやんちゃ坊主だった頃から知っているからね。近所の子供みたいなものさ」

「へぇ、そうなんですか」

 旅に出て以来、少女にまとわりついていた硬質な空気が少しずつとけ始めていました。


「私はラエア。一応ここの使用人たちのまとめ役みたいなことをやっている」

 宿舎の入り口では外で働いていたはずの使用人たちが集まって中の様子を伺っていました。

「ほらみんな!まだ仕事が残っているでしょう」

 たしなめられた使用人たちは悪びれる様子もなくおしゃべりをしながら散っていきました。

「さて、それじゃあ私もまだやることがあるから――ミュリ!」

 呼び止められて振り返った使用人は少女よりも少し小さいほどの背丈でした。

 中の服装こそ使用人のものですが、外套を目深に被り顔を隠したその姿はふらっと迷い込んだ旅人のようで、父親を探している少女自身と同じようにも見えました。

 ミュリと呼ばれた使用人は黙ったまま二人の側へやってきました。

「新入りのウィゼルだよ。あんたの仕事を教えながら一緒にやるんだ。できるかい?」

 小さな使用人は一瞬少女の方へわずかに首を動かした後コクリと頷きます。その表情はフードの影に隠れて伺い知ることはできませんでした。

「ミュリはちょっと言葉が不自由だけど、言うことはちゃんと伝わるから。よろしく頼んだよ」

 そう言ってラエアが宿舎の奥へ去ると、いつの間にか洗濯場にはふたりだけ、先ほどまで波立てられていた水の音とともにゆらゆらと残っていました。

 故郷にいた頃、家族以外と接することがほとんどなかった少女は、波のように次々と訪れる新たな出会いに溺れてしまいそうでした。

「えっと、よろしくお願いします。私今来たばかりで何もわからないですが、ご迷惑にならないようがんばりますね」

 少女は表情の見えない相手に対してどう接すればよいかわからず不自然に固い挨拶になりました。

 すると、小さな頭はまたコクリと動き、自ら被っているフードをわずかに後ろへずらしました。

「よろしく」

 露わになったその瞳は少女が見たこともない色をしていました。

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