Chapter 52. 幼馴染・萩原沙耶佳
十分ほど歩いたところに、目的の総合病院がそびえ立っていた。
エレベーターに乗って八階まで上がり、通路を行く。その途中、山吹はすれ違った看護師と会釈を交わした。挨拶から滲む気安さは顔見知りに会ったときのそれだ。さっきのフラワーショップでのことといい、彼はもう何度もこうして面会に訪れているのかもしれなかった。
病室の前で、和泉は扉の脇に目をやった。ネームプレートには「
――女の人?
もしや山吹の恋人だろうか。
しかし、和泉が何事かを問うより先に、山吹は遠慮なく扉を開けてしまった。無言のままベッドへと近づいていく。
和泉はやむなく続いた。足を踏み入れる前に口を開き、
「失礼します」
せめて一声かけようと思ったのだ。
が、返ってきたのは山吹の温度の低い声だけだった。
「いらねえよ。誰も聞いてやしねえ」
「え? でも――」
「入って来てみりゃわかる」
買ったばかりのアレンジメントをベッド横の窓際に飾った山吹が、首だけでこちらを向いて顎をしゃくる。
和泉は戸惑いながらも彼の言葉に従って、
「あ……」
――そういうことか。
まず、清潔なシーツの敷かれた長方形のベッドがある。
女性が横たわっている。
傍らのスタンドに吊り下げられた点滴ボトルからチューブが伸びて、腕へと栄養を送り込んでいる。医療機器が絶えず心拍を記録していて、波が規則正しく跳ねるたびに「ピッ」という電子音を鳴らし続けている。
その音がなければ、時間が止まっていると錯覚していたかもしれない。
女性は柔らかく目を閉じて動かず、和泉はもちろん山吹の来訪にすら反応することはなかった。
「この方は?」
「萩原沙耶佳。俺の……いわゆる幼馴染ってやつだな」
幼馴染という単語を捻り出すまでに、山吹は一瞬の間を要した。
「こいつは四年前、コルドラーの立川襲撃に巻き込まれた。体の傷は治ったが、未だに意識が戻らねえままだ」
言いつつ、山吹は壁に立てかけられていた折りたたみ式のパイプ椅子の群れへと歩み寄った。二人分を取って広げ、その片方にどかりと腰を下ろす。
「座れよ。どっから説明したもんかイマイチ自信がねえから、最初から話すぜ」
和泉は黙って従った。
ひと呼吸の後、山吹の口から記憶が語られはじめた。
◇ ◇ ◇
――俺と沙耶佳は、北陸じゃ有数の工業都市で育った。町自体はそんなにデカくもなかったが、かなり名の知れた重機メーカーのお膝元だからなんだろうな、ちょっとぶらつくとどこかしらの工場にぶち当たるようなとこだった。
ただ、町にはもう一つ、別の顔もあってな。
空自の基地があったんだ。
俺がいた頃は毎年のように航空祭が開かれてたし、今でもイベントのたびに日本じゅうからマニアが押し寄せてる。俺が戦闘機パイロットを目指したのだって展示飛行を見たのがきっかけだ。何歳のときだったかはもう憶えてねえけどな。
今のガキはどうだか知らねえが、少なくとも俺の頃は、パイロットに憧れる子供はあの町じゃ珍しくなかった。――ああ、もちろん男ならだぞ。なんだかんだ言ったって圧倒的に男の趣味で男の世界だしな。そういう意味じゃ桐島とかよくついてくるよな。おまえが来るまではあいつが二号機に乗ってたんだぜ、感心するよ。
……っと、話が逸れたか。
まあとにかく、俺を含めて、空に憧れるガキがぎょうさんいたのは確かだ。
――あ? じゃあ町出身のパイロットが多いのかって?
んなわけねえだろ。皆が皆、憧れを持ち続けていられるわけじゃねえ。中学に上がるくらいの歳にもなりゃそれなりにいろんなことが見えてくるしな、だいたいの奴はパイロットになろうなんざ真剣には考えなくなる。そこを乗り越えたとしても今度は大人たちの反対さ。なまじ基地が身近なぶん、危険な仕事だってことがリアルに想像できちまうんだろうよ。
けど、俺にとってパイロットは夢じゃなく、現実の目標だった。
命がかかると知っても、ちょっと前まで一緒になって飛行機の図鑑を読んでたような同い年の奴らにドン引きされても、親父やおふくろや先公がスクラム組んで止めてきても、俺は最後まで諦めずにいられた。
それだけ意志が固かったから?
さぁ……どうだかな。
周りに合わせたほうが楽だってことには俺も気づいてた。「やっぱ俺がバカだったわ」とか笑って言えばクラスの男子連中の輪にも戻れたろうし、自分で体験したわけでもねえ現実とやらを訳知り顔で聞かせてくる大人もいなくなったはずだ。意地張るのをやめるだけでいい。簡単なもんさ。
でも、俺にはできなかった。
そういうのはみっともないことだと思ってた。
みっともないところを他の誰かに見せるくらいなら死んだほうがマシだ、くらいの気持ちでいたな。おまえも男だし何となくわかるだろ?
……俺の隣にはいつも沙耶佳がいた。
俺も沙耶佳も何かを示し合わせたり、ましてや俺が将来パイロットになることを約束したりはしなかった。なりてえとは言ったけどな。沙耶佳の反応は「そっか」ってなもんで、俺たちが普段つるんでたことには、昔からそうしてたからっていう単純な理由しかなかったと思う。
そして、繰り返しになっちまうが、俺はみっともないところを絶対見せたくなかった。誰にもだ。
◇ ◇ ◇
「――実家が隣同士でよ。俺たちが同い年ってこともあって、ガキの頃は家でも学校でも顔を突き合わせてた。さすがに中学とか高校にもなるとお互い別々の
「家族ぐるみの付き合いだったんですか?」
おう、と山吹。
「しょっちゅう一緒に旅行したり遊びに行ったりしてたぞ。進路相談のときまで二家族総出だったのは何かのギャグかと思った。ぜんぜん笑えなかったが」
「よくパイロットになりましたね。大丈夫だったんですか、その……ご両親とか、ご近所との色々とか」
今までの話からすると、山吹の親は息子が空自に進むことを快く思っていなかったはずである。隣家をも巻き込むほど強硬な反対を押し切ったとなれば、事と次第によっては敷居を跨げなくなってもおかしくないのではなかろうか。
しかし、山吹は首を振った。
「そりゃ当時はギクシャクしたさ。でも今は全然だ。沙耶佳の親はもともと『本人たちが納得してるならそれで』ってスタンスだったしな」
「あ、そうなんですか。よかった」
「うちの親のほうが面倒臭かったな。俺に店を継がせたいって考えてたせいもあって後を引いちまってよ、結局は妹が婿を連れてきてようやく解決した。以来、親父もおふくろもすっかり丸くなって親子仲も元どおりさ。現金なもんだよ」
山吹の口角が吊り上がる。言葉こそ憎たらしげだが、その表情はどう見ても、確執を抱える相手について語る顔ではない。
「――ま、そんないざこざがありつつも、俺は晴れて航空学生になったわけだ。
そこで山吹はこちらに視線を投げ、
「おまえにも想像つくよな?」
「……だいたいは」
生易しいものではない、と言うに留めておく。
自分の場合はまさしくそういう環境を望んでいたわけだが、憧れからパイロットを志した山吹にしてみれば、監獄に繋がれているのと大差なかったかもしれない。
「防府にいた頃は沙耶佳ともほとんど連絡を取らなかった。たまにケータイに飛んできたメールにはずいぶんと助けられてたから、悪い気もしちゃいたんだが……」
「私物のスマホ触れる時間なんて日に十五分あるかどうかでしょう。仕方ないんじゃないですか?」
「そうなんだが、それがわかるのは俺らだからだろ。沙耶佳は普通の大学生だった。今思えばよく縁を切らずにいてくれたよ」
こんこんと眠り続ける萩原沙耶佳の面差しを見つめながら、その細い手を山吹はそっと握る。
和泉は当惑を隠せない。眼前の男が他人に対してこうも穏やかな目を向けることがあるなどとは、想像さえしたことがなかった。
再び、山吹が口を開いた。
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