第20話

 男の正体は誰にも分からなかった。

 背中は大きく、神出鬼没で、威厳というか近寄りがたい雰囲気というものがあったが、いつの間にか消えて無くなりそうなほどの、一抹の儚さをどこかに含んでいた。

 ハヤミが最初に彼と会ったのは、ハーレムの一角をハヤミがさまよっていたとき。それは、ハヤミが再教育施設を抜け出したった一人で生き抜こうと決意して、数ヶ月後のことだ。

 突然降ってわいた災難とチャイルドマフィアの抗争に巻き込まれて深手を負い、小雨の降る中、ぼろぞうきんを被ってまさに酸性雨によって脳髄ごと溶けてしまいそうな時だった。

 まだハヤミは小さかった。男はハヤミに、屋根と、食事と、生きる上で必要なキャッシュを渡してくれた。

 なぜこんな施しをしてくれるのかとハヤミは男に尋ねたが、男はいつも黙ったまま、ただついてこいと言った。

 ハヤミは少年をやめて、青年になった。かつてチャイルドマフィアだった悪友は全員死に、生き残ったハヤミはヤク漬けの奴隷ブローカーに買い取られて賭博チューブレースのレーサーになっていた。

 そこでハヤミはあらゆる奴隷たちと熱いデッドヒートを繰り返し、気力と精神力のすべてをドラッグで消耗して、チューブから脱落し半死半生の傷を負った。そこでまたハヤミの前に現れたのが、この男だった。

 男は軍の何かなのかとも思ったが違ったようだ。

 ハヤミが自主的に軍に入隊しパイロットになると、男はふたたび姿を消した。

 それが、今。あのとき、あの場所で会ったときと、まったく同じ姿と格好でハヤミの前にいる。

「ずいぶん大きくなったじゃないか」

「オヤジが変わってないだけだ」

 ホログラフィだと分かっていて、男の存在感はまるで本当にそこに男がいるかのように感じた。

 男はまだタバコを吸っている。バーテンダーのロボットが出した酒も飲んでいない。

「軍用だな。かなり古い」

「この世界じゃ軍用も民間用も、人間もクローンも同じ扱いだ」

「みんな等しく、何かが壊れている感じのところだな」

 ハヤミは少しおどけた調子で言って、目の前に勝手に出されたグラスの中身に口をつけた。

 グラスの中身は、あまりにも度が強すぎるのか口をつけた瞬間に舌の先がしびれた感覚になる。

 ロボットはハヤミの様子を見ても、一切の感情表現をしなかった。ただ淡々と、カズマの注文を聞き、グラスを磨き続けている。

「今日は、お前に一つ言いたいことがあってここに呼んだ。いつかこの日が来るとは分かっていたこが、実際この日が来ると、話すのは難しい」

 大男のホログラフィはタバコを大きく吸い込むと、二重あごをうごかし、ゆっくりと息を吐いた。

「話し?」

「フォックスを追うのをやめろ」

「もうフォックスは追っていないよ」

「いいや。ハヤミ、お前はもうすぐ選択を迫られる」

 男は何度もタバコを大きく吸っては、息を吐き、タバコの灰を灰皿の上にとんとんと落とした。

「お前は選択を迫られる。その時に、お前はおそらくフォックスを追いかけるだろう。そういう運命だ。だがそれでも、私はお前にフォックスを追って欲しくないと願っている」

「運命? 選択? マザーのクソッタレのあれか?」

 男は深く大きくタバコの煙を吸うと、しばらく息を止め、深く息を吐いた。

「そうだ」

 巨漢は言うと、ふうと息をつき、またゆっくりとタバコを吸い続けた。

 ハヤミはしばらく疑いの目を男に向けて、ゆっくりと首を横に振った。

「フォックスを追うことはないよ。オレはもうフォックスには追いつけねえ。それに、フォックスはもういない。フォックスはいないんだ。そうだろう?」

「お前、外でフォックスを見たな。バイザー越しの、ダミーではない本物のフォックスだが」

 言われてハヤミは、何か頭に引っかかるものがあってはっとした。

 だがその正体が分からない。その周辺の記憶が、ハヤミは頭の中から抜け落ちていた。

「知らないな。そうだとしても、なんでオヤジがそれを知ってるんだ?」

「わかるさ。今だから言うが、私はフォックスのダミーだ。とある使命で、お前たちの前に来ている」

 男は言うと、タバコを持つ手をゆっくりと口元に持っていき、影と煙でよく見えない輪郭の前で勢いよく煙を吸って吐き出した。

「悪いことは言わない。奴を追っても無駄なだけだ。お前にフォックスは追えない」

「それは知ってる。けど待ってくれよ。なんだよその使命って」

「フォックスを追うよう、お前の体は遺伝子のレベルから調整されている。だが私は、それを阻止するために存在している」

「矛盾しているぞ。おおかたマザーのご意志とかなんとかだろう」

「お前の自発的な意思を尊重しているんだ。私はお前に強制はしないし、誘導もしない」

「けどなにかの道筋は既にできあがってるんだろ。この体のつくりも……」

 唐突に首筋の後ろに大きな痛みを感じて、ハヤミは手を当てる。

「この痛みも、オレの意思を決める何かになってるんだろう」

「私は感知しない。マザーの思考も一枚岩ではないんだ」

 ハヤミは昔を思い出し、墜落して傷ついた肩をゆっくり回す。

「痛みは体の方が覚えてる」

「外で何を見た?」

 まるで禅問答だった。

 男はかまわずタバコを吸って吐き続けるが、煙はそこら中からもくもくと沸き立って部屋中に蔓延していく。煙いどこか、空気が足りずにおぼれてしまいそうだ。

「マザーの意思も一枚岩ではない。それに加えて、お前は壁の外でも誰かと接触している。誰と会い、何を言われた?」

 壁に描かれた淡い電子の光が波のようにうねって、壁中をかけぬける。

 ハヤミは黙って、徐々に大きくなってくる頭痛に眉間を寄せて耐えた。

「何も覚えてねえよ。そんなことは、オレは知らねえ」

「そのうち思い出すだろう。だが、おそらくもう一度外に出て答えを探すことになるだろう。その時、お前は自分の選んだ道を進むんだ。フォックスの後追いをしてはいけない」

「どういう、意味だよ」

 男の虚像は黙ったまま、まだタバコをふかしていた。

「オヤジ。オレはアンタに恩がある。今まで育ててくれたことには義理も感じてる。けど、どういう目的があってオレをこんなところまで連れてきた?」 

 ハヤミは目の前に置いてあるカップを掴むと、中身も見ずに勢いよく液体を飲み込んだ。

 胸の中がカッと熱くなり、舌の上がしびれ喉の奥が燃えるように熱くなったが、ハヤミはそれらをグッと飲み込んで隣に座る巨漢の顔をにらみつける。

 隣に座って、今までずっと黙ってハヤミを見ていたカズマが、ちょっとだけ顔を動かし身構えた。

 ホログラフィの大男は、小さく息を吐いて体を揺すった。

「何も。導いたり、誘導などしていない。私はお前に選択肢を選ばせているだけだ」

「そんなの答えになってない」

 ハヤミは低くくぐもった声で、男の答えに応じた。

「オヤジ。アンタ、何を企んでいる」

「企んではいないよ」

「本当か? これだけ世話になった人を、疑うのは好きじゃないんだが」

「お前は昔から同じ事を聞いているじゃないか。答えはいつも、お前が自分で決めてきている。私はなにもしていない」

「うーむ」

「だが今回ばかりは別だ。フォックスを追いかけるようなことをしてはいけない」

「フォックスは、アンタにとって何者なんだ。オリジナル以上の存在か何かなのか?」

「そもそも私がフォックスのダミーだと言っても、驚かないのは不思議だが。まあいい」

 男はハヤミの言葉に、興味なさそうに静かにうつむいた。

「昔、おまえにとてもよく似た男がいた」

 男は語り出し、短くなったタバコを一端大きく吸って、ふうと吐き出す。

「奴もおまえと同じように、フォックスを追っていた。お前と同じように、戦闘機に乗っていた。この話しはもうしたかな」

「いいや」

 昔語りはいつもよく聞く。だがそのたびに、男は新しいことをハヤミに言った。

「わたしと奴は親友だった。もっとも、年の差はあったがそれがお互いの距離を離すことにはならなかった。奴が小さかった頃から、わたしは彼を手助けした。ちょうどお前が軍に入ってフォックスを追いはじめたように、彼もまたフォックスに夢中になった」

「ふふんまるでオレだな」

「そうだな。奴はフォックスを追っている途中で死んだ。事故死だ。不幸が重なったと聞いている」

 男はいったん腕をカウンターバーの上に置くと、しばらく黙り込んだ。

「不幸な事故だった」

「その男の話と」

 ハヤミはカップの端をつまんで中身の液体を偏らせながら、カウンターの端を睨んで男の言葉を遮り眉をひそめる。

「オレの話しに、関係が?」

「別の話をしよう。今度の男はフォックスを追わなかった。わたしは彼にフォックスを教えなかった。別の道を進むよう男には勧め、男も軍には入らずまた別の道を歩んだ。だが途中で、偶然にもフォックスのことを知り追いかけはじめた」

「その男はどうなった?」

「死んだ。これも、事故だ」

 男は呟くように言うと、またタバコを吸った。

「もう一人も似たようなもんだ。奴はまあ、フォックスを追わなかったな」

「それで」

 ハヤミは、何か非常に気持ち悪い何かを感じつつ男に聞いた。

「どうなった」

「死んだよ。だからハヤミ、お前はフォックスを追わない方がいい」

「オレとその男たちは別人だろう。オレには関係無い」

「いいや、ある。彼らはフォックスの子供だ。正確には、クローンだ。お前と同じようにな」

「ふん。ジオには、もうクローンじゃない人間なんてほとんどいないじゃないか」

 男は答えなかった。

 妙に、答えのかみ合わない禅問答めいた言葉の連続でハヤミの頭はちりちりと燃え上がるように熱を帯びていたが、同時に、頭が破裂しそうなほど痛くなり、何かが心のどこかに引っかかって気持ち悪い。

「ちょっと待ってくれ」

「おまえ、自分自身の、クローンとしての父親を知っているか?」

「待てって言ってるんだ! クソ! なんだこれ……いったい、何がどうなってやがるんだ?」

「お前の母、遺伝子上の母はお前には存在しない。お前の母はマザーの人工胚だ。だがお前の父は」

「どういうことだよ!」

「お前の父が、フォックスなんだ」

「オレは」

 ハヤミはカップの淵に残った黒い液体を眺めながら、ゆっくりとカップをスタンドに置いた。

 頭がくらくらした。部屋中の煙や、光点が、渦となってハヤミの精神を侵食する。

「オレが、何だって?」

「彼を、お前が追いかけるのは定められた何かと言ってもいいかもしれん。だが、ダミーとして忠告するが、お前は彼を追ってはいけない。この意味が分かるか」

「わかんねえよ!」

 ハヤミは乱暴に立ち上がると、男の胸ぐらを掴もうと腕を伸ばした。

 だが腕は、煙の中で自分の掴むべき物を掴みきれず虚空を舞う。煙がゆっくりと舞い、電子の光たちは自由自在に部屋を泳いだ。

 姿は見える。男もまた、この世界では虚像。

 あるいは自分の記憶も。この感情も。何もかもが嘘のような。

 形のない物。でっち上げられた記憶。

 あるはずのないものが、あるように見せられる幻想。

「おい、大丈夫かハヤミ?」

 カズマがハヤミの肩を掴み、立ち上がったハヤミを現実に引き戻した。

 あれだけ煙たかった店内はごく普通の濃度の煙が渦を巻いているだけで、暗かった店内も特に特徴のない小さなバーの一室のような、気の抜けた手抜きのバーのようなたたずまいだった。

 光輝く小魚の群れなどはすでになく、オヤジの姿も、ない。

 目の前に立っているのはポンコツロボットだし、客もハヤミとカズマ以外誰もいない。

「オヤジと、いったい何を話してたんだ?」

 水を勧めてくれるカズマに押されるがままに自分のイスに座り直し、ハヤミは脂汗を袖で拭いて一呼吸置く。

「わかんねえ」

 ハヤミはぼやける記憶の中で、忘れてはいけない何かを思いだしかけているような、なんとなくもやもやとしたものがこみ上げていた。

 なにか、覚えていない何かを思い出そうとしている。

「オレは、外でいったい何があったんだろう」

「はあ?」

 ハヤミの言葉に、カズマが間の抜けたような顔と声を出した。

「お前が知らないことを、俺が知ってるわけないだろ」

「そう、だな。でも何かが」

「何言ってんだおまえ」

「うーん」

 ハヤミはその場で倒れると、頭を抱えて、消えていなくなった男の言葉を反芻した。

 声はもう聞こえなかったが、まるでまだハヤミに何かを言い続けているように、頭の中で男の言葉がぐるぐると回る。

 その言っている言葉の意味はまったく分からなかったが。

 何か、引っかかるもの、言葉にできない何かがある気がするのだ。

 後に残されたのは、暗い部屋にたたずむ古品の陸戦ロボットと、ハヤミと、しかめっ面でまずそうに酒を飲んでいるカズマと、徐々に消えていく光の点画の群れだけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る