第19話

 底辺層からジオに迫る無法地帯化の闇が、すべての人々にとって脅威の対象というわけではなかった。

 例えばこの世界に住む人々にも生活があるわけだし、事情があって管理された上層階から下層のスラム世界に移り住む人々の姿もある。

 生まれがスラムで、死ぬまでスラムという人々もいる。

 スラムからドラッグでのし上がり麻薬王となって、上のゾーンにドラッグを密輸して財を成し移住するもの、市場と縄張りを上に持つことをもくろむ者もいる。学者になって上層階に引っ越す者もいる。

 マザーに管理されたゾーンワンからスリーの一部において、ゾーン間の往来はひどく規制されていた。だが、すでにうち捨てられたゾーンとゾーンの境界はむしろ消費文化が活発で、上の管理ゾーンでは取り扱われていない商品を、下層ゾーンの商人が上層ゾーンの住人に売ることもあった。逆に金に困った上層ゾーンの住人が、下層ゾーンの売人に人や物を売ることもある。

 ジオ地下世界に住む人々は、管理された地下世界と、管理されていない地下世界の両方を堪能していた。

 そして管理されていない下層が、管理されている上層を下から圧迫しているという形だ。

 ハヤミも、今ではスラム層の出身ということになっていたが、ゾーンスリーも元々は管理社会側だった。今ではゾーンスリーの約半分が、無法地帯化している。

 過激な新興宗教、賄賂を要求してくる警察、本能をさらけ出した小役人、人身売買も公のもの。快楽と時間、命はすべて等価値で、世界の真理も、理想も、欲望も暴力も、金さえあれば何でも買えた。市場にはそれ専用の信用できる商店も存在し、組合もあった。

 経済に限って言えば、ハーレム層の方が完全管理層よりも優位だった。


 ハヤミは、まだ自分の住んでいるゾーンスリーの商店の並ぶスラムに入ったことがない。もちろんカズマもまだ無い。

 二人は地下行きの、基地のあるゾーンスリー中部から同層下部に向かうエレベータに乗っていた。

 軌道エレベーターの窓の外には、ゾーンスリーの闇、暗い深淵が広がっている。二人は窓辺にたち、暗いガラスの外をのぞいた。

「懐かしいな」

「そうだな」

 まったく懐かしくなかった。

 なにせ基地のすぐ外がハーレムだからだ。だがカズマが言っているのは、自分たちの生まれ故郷に戻ってきたという意味だ。ハヤミもそれを知っていて、黙った。


 ハヤミ達の乗るエレベーターが区画乗降場に停止し、ドアが開く。

 足下に紫色のガスが広がり、カズマは無言でコートの前を止めてフードを立てた。ハヤミもそれに習ってコートを羽織る。

 乗降場はかなり簡易的な場所で、人影もなく、建物と建物の間にある小さな路地裏の片隅にひっそりとある公衆電話ボックスのような、そんなつくりだった。

 架設の雨受けがあり、地下都市ゾーンスリーに広がる暗い影と、しとしとと降り続ける雨が地面を濡らしている。臭気の正体は、雨水が地面に捨てられた生ゴミと、地面にうずくまる浮浪者たちの髪が溶けた臭いだった。

 高度な地上文明の残り香、高層ビル群、往来に立つ標識の跡、略奪され燃え残った庁舎跡地。

 力を持つ者は雨水をしのげる地下の中の地下にも入れるが、力を持たざる者は、こうやって雨ざらしの地面に捨てられて雨にさらされ、溶けてなくなるまで堪えて忍ぶしか方法はない。

 路地裏のどこからか、気が狂った浮浪者の笑い声が聞こえた。

 雨はいつでも小雨。地下に降る強酸性の雨は止まない。

 地下世界には、むせるほど濃い紫の霧が広がっていた。


 かるいどんちゃん騒ぎの残る地下歓楽街の一角を通り抜け、表通りを過ぎて、誰もいなくなった商用ビルと雑居ビルの建ち並ぶ裏の小道にカズマのあてはあったようだった。

 乱雑に積み上げられたパトカー、燃やされてゴミクズになった商用車たちの残骸をちらりと見て、カズマが首だけでドアの一つを示す。

 地面より一つ下、扇状になった階段を下り半地下一階になったところにぽつんと一つだけドアがある。暗い窓からはカクテルバー特有の、赤白緑色のけばけばしい電光表記板の輝きが覗いて見えた。

 だがそれ以外には何もなく、黙って先を歩くカズマについていくと、やっぱりここは飲み屋なのだろうかと疑問に思った。

 ドアを開けると、店内は暗かった。ただ窓辺に、ビール瓶の形をした電飾灯、ウェルカムの文字にかたどられ切れかけの蛍光灯のようなになって輝いている。それ以外は闇だ。

 たばこの臭いがした。

 ドア脇に立ってハヤミが店に入ったのを確認したカズマが、静かにドアを閉める。すると店内は電飾ケーブルの、やけに目障りな赤白緑の光点だけになり静かになった。

 部屋中を漂うタバコの煙が、窓辺に飾られた電飾灯の輝きをぼかして、店の中は不思議なほどに灰色の、闇と光の境界線がぼやけた過度に曖昧な空間となった。

 そこで、店の壁一角に白い光点が浮かび上がる。

 最初それはただの光点の一つに過ぎなかったが、次第に数が増え、宙を泳ぎ、大群となって、煙の海を泳ぐ小魚の群れのようになってハヤミたちを覆った。

「おやっさん、連れてきたぜ」

 締め切られた店内に光が満ちると、煙の揺れるカウンターバーの向こう側に小さな光点がふたつ、ぬっと現れてハヤミの前に近づいた。

 カウンターに立つバーテンダー用のロボットがハヤミの顔を認識し、店の奥にある席を無言で勧める。勧められた席の隣には、巨漢が座っていた。

 部屋中に満たされた小魚の群れは縦横無尽に店内を踊り、タバコの煙が海のようにうねり、音もなく、店の中に底の知れない大海を創り出す。

 闇の中でゆっくりとタバコを吸い続ける巨漢は、ハヤミにも見覚えがある顔だった。

「久しぶりだな、ハヤミ」

「オヤジ?  またどうしてここに」

「おまえに用があってな」

 大男がタバコをゆっくりくゆらせ、目の前に座るハヤミを目線だけで追った。

 男の顔は見えない。だがそれは昔からだった。

 男はハヤミに何かある度に、目の前に現れ、何かしらの援助をして立ち去った。最初にハヤミが彼と最初に会ったのは、クローンの再調整工場を途中で抜け出しハーレムの町中で飢えて死にそうなときだった。

 ハヤミは彼を、オヤジと呼んでいた。それだけの恩も義理もあったからだが、ハヤミは彼の実情を知らないし、顔も分からない。彼がハヤミの前に姿を現すのは、いつもホログラフィを用いていた。

 男はタバコを口にくわえ、ぷかぷかと煙を吐き続けた。

 バーテンロボットが、ハヤミの注文を聞かないまま何かのコップを差し出す。中身は……水だった。

 カズマはハヤミのすぐ隣に座って何か勝手に注文をし始めた。バーテンのロボットはうなずくこともせずに奥に消える。

「オヤジ、用ってなんだよ。言われればこんな所に来なくたっていいのに」

「今日は生還祝いだ。それに、これからお前は酒も飲めなくなるだろう」

「飲めなくなる? 何言ってるんだ、オレはいつだって酒は飲めるぜ」

 男はハヤミの言葉に応えず、黙ってタバコをくゆらせていた。

 男の存在はいつも曖昧だし、闇の中に浮かび上がるホログラフィはその存在が、本当に目の前に存在しているのかいつも不安にさせる。

 しかし目の前で揺れるタバコの煙は実在するし、息が苦しくなるほど部屋中に充満しているこの息苦しさは本物だ。

 淡い光点の群れは幻想世界の海を思わせたが、この苦しさ、煙たさは本物と言える。

 輪郭の曖昧な中で確かに存在しているのが、暗闇と、光の群れと、渦巻く灰色の世界。


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