第8話

 ……

 ……

 気づけばハヤミは、冷たい水たまりの中に頭部を浸からせていた。

 半分開いた口の中に水が入ってきている。腕の感覚はない。足にも痛みを感じる。刺すように痛い。寒かった。

 ボロ雑巾のように立ち上がり、ふらふらと前へ歩く。だがその先がどこなのか、自分はいったいどこに向かっているのか見当が付かなかった。

 今見ていたのは、遙か昔の記憶だ。

 運命とやらがあるのならと、ハヤミは自分を奮い立たせるためにわざと汚いののしり言葉を考える。

 もしも運命があるのなら、今すぐオレを温かい飯とシャワーの浴びれる場所に連れて行ってくれ。

 だがもしも、運命というものがないのなら。

 冷たい風から体を守るために、服を掴み両腕で体を守る。凍えるほどの風と、雨と闇と、たった一人、荒野に取り残された孤独。

 やはり、間違っていたんじゃないかという思いが心の中に沸いてくる。あのまま、アークエンジェルの元に留まっていた方が良かったんじゃないかと。 

 少しでも風の弱い場所を選んで身をかがめ、近くにあった突起物に倒れるように身を寄せる。しばらく動きを止めて息を整えると、ハヤミはふたたび歩き出すため気合いを入れた。

 ……自分が隠れていた突起が、妙に揺れているのに気がついた。

 声も出ないほどハヤミは疲れ切っていたが、目の前で揺れているそれは、一本の木だった。ガラスの大地に深く根をさし、小さな枝葉を闇夜の中に広げて、小雨と風の中に耐えている。

 闇に目を向けてみると、揺れている木は一本ではなかった。それに奇妙な石が等間隔でいくつも並んでいる。

 そしてまた、闇の向こう側に小さな光が灯って見えた。

「あれは……」

 闇の中に、消えそうなほど小さな光。そして光はすぐ消えて見えなくなるが、ハヤミの中には大きな希望となってその光は残った。

 風に揺られて、小さな木たちが一斉に揺れる。

 静かだった暗闇に音が広がる。

 ここはどこなのだろう?

 ハヤミは、光の見えた方へと歩いた。

 風に揺れる木立の数が増えていく。等間隔に並んでいた墓石のような石たちは消え、いつの間にか様々な残骸がガラス面に突き出す、何かの墜落現場に近づいていった。

 そうして歩いているうちにハヤミは、目の前に妙な暗闇がずっと高くそびえている場所に行き当たる。すぐ目の前に、何か巨大な物があるのだろう。暗すぎて全貌は見えないが、そうとう大きそうだ。嵐の風がいちだんと強くなる。

 ここは嵐の中心だ。いつか空の上から見ていた景色を思い出し嵐を見上げる。

 地上に墜ちた、巨大飛行空母の残骸だった。

 隙間から中に潜り込と、内部は思っていたよりもずっと温かかった。

 遠くから響く震動音と、水滴が水たまりに落ちる音。あとは風の音すらしない。

 しばらく手さぐりで外周沿いに歩いていくと、砕けた荷物棚の向こう側に螺旋階段があった。

 散乱した荷棚の残骸を踏み抜かないよう気をつけて進み、螺旋階段の手すりに手を掛ける。階段はぼろぼろで、今にも底が抜けそうだった。

 ここで止まろうか。そう思うと上階の方で何かが光って、また消える。

「……ここに、誰かいるのか?」

 ハヤミは上を気をつけながら、ゆっくりと階段の上に足を置いた。

 予想していた以上に階段の劣化は激しく、鉄板は錆びて数段飛びに昇っていかないと途中で落ちてしまいそうだ。

 だから足に力を入れ一気に昇ろうとしたのだが、その瞬間階段全体が大きくきしみ横にずれた。

 手すりに置いていた手のひらに痛みを感じる。何かが刺さったようだ。

「あっ、あたた……クソッどこまでおんぼろなんだこの階段」

 一息つくと、ハヤミは階段の端に足を置いて一気にかけ出した。

「う、うおおおおお! うおッ!?」

 踏み抜いた桁と鉄板を乗り越えさらに上の段の桁に足を置き、いくつも階段を踏み抜きながら勢いよく階上を目指す。

 ハヤミの駆け足で朽ちた螺旋階段は中心材のどこかにひびが入ったらしく、ハヤミが上へ昇るとそのたびに大きな音が鳴ってどこかのボルトが外れていく。

 傾斜も変わる。最後にハヤミがフロア上へたどり着いたときには、螺旋階段と床面は最後のボルト一本だけで留められている状態だった。それもハヤミの前でゆっくりと抜け落ちていき、階段は今きた階下の闇の中へと倒れていく。

 衝撃で空間全体が揺れる。するとどこかで、また音がした。

 もうもうと立ちこめる埃の中で、ハヤミは手で口を覆いながら上を見た。

「やっぱり誰かいる」

 物音がした上階フロアの廊下の一画から光が見えて、またすぐに見えなくなる。ハヤミはアークエンジェルから持ってきた護身用の拳銃を構えると、安全装置を外しゆっくり廊下を進んだ。


 艦内のよごれや破損状況は酷いものだったが、この船が戦後ずっと放置されていたのを思えば、保全状態は奇跡的とも思えるものだった。

 あるいは住人か誰かが定期的に修繕しているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 曲がり角につく度にハヤミは拳銃を構えて角の様子をうかがい、暗い廊下の向こうに目を向ける。

 曲がりくねった廊下。沈んで傾度の増した階段。ハヤミが進むと、必ずどこかしらから光が漏れて見えてくる。

 しばらく真っ暗闇の中を光の方角を頼りにして進んでいくと丁字路に当たった。

 曲がった先には半開した隔壁ドアがあり、その向こう側に光源がある。

「……もしも誰かがいるとするなら、敵、だよな……」

 ハヤミは息を整え、拳銃を光の方へむけつつゆっくりと歩く。

 隔壁ドアは人が一人やっと通れる程度の隙間をつくっており、通路から中をのぞき込むと、どうやらこの船のブリッジのようだった。

 暖かな風と、なにかいい匂いがする。

 しかしいくらドアの隙間から奥を覗いても、明るい光源があるのが分かるだけでそれ以上は何もない。ランプか何かがあるのだろうか。

 それにこの匂い。

「こ、これは」

 テーブルの上に皿が載っていた。しかも皿からは小さな湯気がでている。

 ハヤミは耳に集中し部屋の中の様子をうかがった。しかし物音はしない。

 部屋の様子を、目をこらしてよく見てみる。特に誰も目に入らない。

 目の前の隔壁ドアには隙間がある。

 少し腹を凹ませれば、室内には入れそうだ。ハヤミは音を立てないようにして、慎重に隔壁ドアの中に体を入れてみた。

 ドアの隙間は、ぎりぎり、ハヤミの体を通した。

 部屋の中は思っていた以上に、人間らしいというか、少女趣味らしい、ファンシーな飾りのあふれる場所だった。

 壁一面には大量の女の子向けのかわいらしい人形や、絵、たから箱、男の子向けのおもちゃやおもちゃの箱、作りかけの模型や、でたらめに組まれたブロックなどが綺麗に並べられている。

 全体的に子どもじみた飾りつけではあったが、それに見合わない生活臭もたぶんに感じられる。

 ハヤミは慎重に周囲を見回し銃を向けたが、住人の姿はどこにも見あたらない。

 そのうちさっきまで外にいた時の疲労と空腹から、腹が勝手に音を鳴らし部屋中に空腹の音を響かせた。

「う。ハラ、ヘッタ……。くっそ、さっきからいい匂いだなこりゃあ……おかゆか? スープみたいだな」

 それで、机の上に並んでいる皿に目がいった。

「んー、なかなか……なかなかどれもうまそうだな」

 小さな丸い机の上には白いテーブルシートが敷いてあって、その上には缶詰や湯気のたつ皿が並んでいる。

 一つはよくある即席の、肉を煮込んだ何かの缶詰。表面に書いてある文字はジオの言葉ではないし、特徴的な、かなり古そうな軍製品だ。

 皿には透き通った白色の液体。湯気がでており温かさを感じるが、具というものは見られない。装飾つきのかなり使い古されたスプーンが置いてあったのでためしにすくってみると、とろっとした感触があった。

「う、うまそうだな。いや、これ食って、いいんだよな?」

 どうぞ召し上がれといった感じで皿や缶詰が並んでいるしスプーンまである。イスも用意されているが住人がいない。

 ハヤミは周りを見回してみた。

「いない、よな?」

 ためしにイスに腰掛け、銃を左手に持ち替えスプーンを右に持つ。

 イスは、ものすごく小さい。あとテーブルもかなり背が低い。

 目の前に白いスープ入りの皿と温かい缶詰があって、まず一つ目に皿の中のスープにスプーンを入れてみる。

 窓辺にはランタン。荒野の夕暮れ。スープはとろみがあって、薄い塩で味付けしてあって、さらりと舌の上で溶けていって喉に流れていく。味はかなり淡泊だ。

 溶けた何かの具がわずかに舌の上に残るが、ほとんど形は残っていない。

「う、うめえ! なんだこれ?」

 ハヤミは舌に残った具を飲み込み、ふたたび食べたくなった衝動をぐっと抑えてスプーンをテーブルに戻した。

「も、もう一口だけ」

 で、もう一度スプーンを持ち上げそっと皿の中に入れる。

 表面だけそろりとなぞるようにしてすくい、急いで口に入れる。

「もう少しだけ」

 腹の虫が鳴り、ハヤミはスプーンを皿の中にいれる。もうほとんど残っていなかった。

 料理の味をしめたハヤミは次に缶詰の方を見た。こちらも、謎の肉等が缶の中に入っている。ミネストローネとかくず野菜とケチャップの煮込みみたいな見た目だったが、つまんで食べてみると先ほどの淡泊なスープにくらべて非常に刺激的な、酸味とほのかな甘さがいっぺんに口に広がった。

「う、うめえ」

 一口つまんでは小さな葉野菜をかみしめて、もう一口つまんでは肉のブロックを奥歯で潰す。そうやっているうちに缶詰の方も中身がなくなり、缶の底に少し残ったスープも飲み込んで空にした。

 ハヤミは罪悪感にうちひしがれながら、皿に残っていた最後の白スープを指でなぞって舐めとった。

「どうしよう。ここの人間に殺される」

 テーブルの上の皿に残った最後の汁を指ですくい取り口元に運びながら、ハヤミはもういちど部屋の様子を見回した。

 飛行空母ブリッジは、戦争当時は使っていたであろう重要な機械は一切がなくなっており、中央には通路、先と周囲は展望台のような配置になっており艦長室と通信室、下のフロアへ続く階段がそれぞれ一つずつある。

 ハヤミは窓辺に置いてあるランタンを取ると、艦長室を覗いてみた。

 艦長室には壁沿いに本棚がいくつも並んでいて、棚には大量の絵本、写真の入っていない写真たて、食器、ぼろぼろのトロフィー、綺麗なガラクタ、宝物のようなものが丁寧に並べられている。

 部屋の隅には中抜きされた本棚がベッドのように横たわり、中には大量の鳥の羽が敷き詰められている。

 部屋は全体的に暖かく、適度な狭さを保つ艦長室と羽毛ベッドはハヤミを充分に眠りへと誘う要素を含んでいた。

「うーん……眠い、ぞ」

 ハヤミはランタンを棚に置くと、ふわふわの羽毛にそっと腰掛けた。

 寝たらきっと、すぐにここの住人に何かされてしまうだろう。殺されるかもしれない。だがハヤミは、とても眠かった。

 寝てはいけないと思ったが、強い疲労と度重なる事故の衝撃で受けた傷が、温かい食べ物を体に入れたのを契機にしてハヤミに休むことを要求してくる。

「少しだけ、少しだけ目をつぶって……すぐ起きれば」

 そう自分に言い聞かせて、ハヤミは試しに、この不思議な羽毛ベッドに横たわった。

 ここはどこなのだろう。そう思いながら目をつぶる。

 その漠然とした最後の問いにハヤミは答えられず、ハヤミの意識は急速に遠のいていった。

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