和服で異世界に飛ばされました
伊見地 公模
紫陽花
足を止めたのは仕事帰り、地下街の一角。
目を奪われる、とかそういった程のことでもないのだが、生成り色に深い青色の紫陽花柄が気になって、近くで見てみようと思ったのだ。触れる布地は綿であろう、よく見れば薄い黄色の格子柄だった。柔らかな色味が気に入って、ハンガーラックから取り出してみると、黒っぽい赤の花も描かれている。最後に浴衣を着たのはいつだったか、あれはまだ高校生か、卒業していたか。いずれにせよ五年は過ぎた。つ、と指を滑らせる。綿の指ざわりが心地よく触れた。
「気に入ったものがあったら、合わせてみてくださいね」
声をかけてきた店員が身に着けているのは深い紺地に小さな水玉模様、7月の梅雨も開け切らぬ肌寒さからか、羽織姿だ。最初に目を惹いた紫陽花柄に、菊花柄をもう一枚選ぶと、姿見の前へと案内される。失礼しますね、と店員が腰紐を回す。着付けてもらう、ということは、どうしてこんなにも心地よく安心するものなのか。初対面の人間が胴に絡みつくようにしていて、普通なら嫌悪感さえ抱くようなことなのに、なぜだか落ち着く。それは多分、自分が出来ないことを出来る相手だと分かっているからだ。自分では着付けられないが、この店員は出来るのだから、それならば全部任せてしまえばいいと思うからだ。思い返せば母親が着付けてくれるときもそうだったように思う。母親に任せておけば、決して悪いようにはしてくれるまいーーーたとえ出来上がりが好みでなくとも、見栄えが悪くなるようなことにはならないだろうと、そう思っていたし今でも思っている。そんなようなことを、店員に対しても考える。出来る人に任せてしまえる安心感からやってくる心地よさと、少しの居心地の悪さを感じながら片山紫緒は姿見の中の自分を見つめていた。
和服で異世界に飛ばされました 伊見地 公模 @imijikumo
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