旦那、闇の中
一
野村の屋敷に着いた時は、まだ日が半分ほど顔を覗かせているだけだった。
朝焼けがきらきらともやを照らし、幻想的に辺りを漂う。
しかし、光の粒が邪魔をして、少し先でも見通せなかった。
それでも、すぐに粒子は霧散するだろう。
太陽に照らされ、暖かな日がまた始まる。
人々は起き出し、今日も泣いて笑って過ごしていく。
とはいえ、通りを歩いているのはまだ正太郎たちだけであった。
和泉と利吉は小野田家で待っており、ここに来たのは三人だけ。
「俺はここまでだ」
門の前に立ち、タカはそう告げる。
「ここから先は、旦那と千鶴さんだけさ。行ってきな」
「どうして名前を…」
驚いたようにタカを見つめる千鶴。
しかし、彼は薄く微笑むだけだ。
ほら、と無言の正太郎の背を押す。
正太郎は無抵抗のまま、よろりと前につんのめった。
「いやだねえ。旦那、しっかりしな」
鼻で笑われる。
そうからかわれても、正太郎の顔は、もやの中で見分けがつかなくなるほど白くなっていた。
甘く掠れた声は、「何してんだい」とドスをきかせる。
「さっさと行きな。潔く虎に食われてきなよ」
「…食われるもんか」
かろうじて正太郎も言い返す。
そんな二人を見て、千鶴が少し首を傾げている。
正太郎は彼女を一瞥すると、自らその足を門の内に向けた。
その後に千鶴が続く。
屋敷は小野田家同様、静まり返っていた。
しかし、小野田家とは違い、緊張した空気が流れている。
それを肌で感じ取り、正太郎は知らず知らずのうちに、刀に手をかけていた。
そんな彼をちらりと見て、俯く千鶴。
正太郎はおとないを入れることなく、庭の方へと向かった。
しかし、野村さま、と声を掛ける必要もなかった。
殺風景と言っていいほど簡素な庭の真ん中で、彼は正座をしていたからだ。
地面に直接白布を敷いただけの、簡素な舞台だ。
じりっと、足の下で土が鳴る。
それを聞いたのだろう、目を閉じていた野村がああ、と声を洩らした。
「来てくれたのだな」
彼は首だけをこちらに向ける。
その口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
「千鶴も」
「はい」
挑むように返事をする千鶴。
野村は小さく頷いた。
彼は単だけを着ていた。
容之進の時とは違い、袴は着けていない。
しかしその前には、脇差しが一本置いてある。
黒鞘に鎮座したままの脇差が。
それを確認し、正太郎は唇を引き結んだ。
「正太郎どの」
野村に呼ばれる。
はい、と掠れた返事をし、正太郎は彼に近付いた。
「遺書をしたためておいた。切腹した理由は適当にでっち上げたし、正太郎どのの名前も出してはいない。とある凄腕の浪人に介錯を頼んだ、とだけ書いておいた」
なんと返したらよいものか分からず、黙ったままにする。
野村は淡々と続けた。
「介錯が終わったら、着替えが俺の部屋にある。それに着替えて、血を浴びた着物は焼いて捨ててくれ。あとは家に帰って、知らんぷりをしているんだ。おぬしに迷惑を掛けるわけにはいかぬ」
正太郎は野村の話を聞きながら、無意識のうちに彼の斜め後ろに立った。
とりあえず、深呼吸を繰り返す。
この位置からは、野村の顔が見えなかった。
それが幸か不幸なのか、分からない。
ただ分かっているのは、彼の声音が落ち着いていること、そして、己が妙な懐かしさを感じていることだけだった。
千鶴は離れた場所で、こちらを見守るように立っている。
野村と正太郎、そして千鶴の間には、もやが漂っていた。
実態もないくせに、うっとうしいほどそれは三人の周りに取り巻いている。
しかし、今はそのうっとうしさがありがたかった。
己が今から為すことを、もやが隠してくれている。
それは、心底ありがたかった。
正太郎どの、と再び呼び掛けられる。
彼はその手を衿に掛けていた。
ああ、始まる。
正太郎はゆっくりと手を刀に掛ける。
腹はもう、決まっていた。
決まっているつもりなだけかもしれないが。
鯉口を切る。
「正太郎どの、どうか千鶴を責めないでやってほしい」
え、と聞き返す。
野村の手が、脇差しを掴んだ。
「千鶴を責めることだけは、やめてほしいんだ。あれとは約束をしている。俺の切腹が終わったら、すべてを話せと」
「すべてとは…」
「すべてだよ。全部。はじめから、終わりまで」
不意に、野村が振り向いた。
思わず一歩引いてしまう。
着物の前をはだけさせ、脇差しを握りながら、彼は微笑んでいた。
その顔は、獰猛な虎のそれではない。
ただの男の顔だった。
「みんな死ぬ」
彼は呟く。
「俺も死ぬ。そんなことは分かりきったことだ。だがな、不思議なことに、後悔が一つだけあるんだ」
「…何でしょう」
「あの人に出会ってしまったことだよ」
清乃と。
「しかし、それが誰かを幸せにすることは事実だ。あの人に出会ったことで、誰かが幸せになる」
彼の言うことは、よく分からなかった。
それでも、耳を傾けずにはいられない。
野村は最後に鋭い眼光を正太郎に向け、前を向いた。
ほぼ同時に、どすっと音が聞こえる。
こらえてこらえて、それでもなお、出てしまう。
そんな呻き声も耳に届く。
野村の首が、前に倒れた。
斬りやすいように、だろう。
刀を抜くのを忘れていた正太郎は、慌てて柄を握り締めた。
すらりと抜き、八相に構える。
その途端、くらりと目眩が襲った。
「お頼み申す」
声が聞こえる。
空耳か?
それとも目の前で苦しむこの男の声か?
正太郎は歯を食いしばった。
――ほら、また目の前で人が苦しんでるぜ。
楽にしてやんな、正太郎。
「…元からそのつもりだよ!」
そう叫んだ途端、刀が空を切り裂いた。
もやが、束の間二つに裂かれる。
その次には、血が正太郎の顔を染めた。
赤い?黒い?
なんだかよく分からない色をしている。
彼の刀は、皮一枚になるまで野村の首に深く食い込んだ。
前に彼が倒れる。
その音は、やけに重く正太郎の中で響いた。
――首尾は上々。
何やってんだい、さっさと引き揚げな。
無機質な声が、声だけが、頭の中を占領する。
何も考えられず、ただそこに突っ立って野村の遺体を見ていると、何かがぶつかってきた。
その反動で、刀が地面に落ちる。
「正ちゃん」
千鶴だった。
彼女は正太郎にしがみつき、ただ名を呼び続ける。
正ちゃん、正ちゃん、正ちゃん。
その声で、我に返った。
すると、途端に膝から力が抜けてしまう。
二人は一緒にへたり込んだ。
震える手が、千鶴の背に回る。
そして、正太郎は呻いた。
「死んじまった」
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